柚のかくし味 by 柚


2004-02-01 チリに到着

まる2日間の空の旅を終え、サンチァゴの街に着いた。こちらは完璧な夏。冬の真っ只中から一挙に夏へ。まったく、不思議な感覚である。空の旅はただ長かっただけなので省いて、チリのことを書いていきたい。サンチァゴの街は、緯度的には和歌山ぐらい。ただほとんど雨が降らず、乾燥しているので、それほど暑さは感じない。窓を開けると、さわやかな風が吹き込んできて、本当に涼しい。空は抜けるように青く、街路樹が長い緑の帯のように続いている。

着替えて近くのマーケットへ。アジアで見たマーケットとそっくり。野菜や果物、豆類、そして日常的な衣類など、ずらりと両側に並ぶ。おいしそうな果物がいっぱいでそれだけで幸せな気分になる。マンゴー、アプリコット、ネクタリン、ブドウ、いちぢくなど。珍しいのは、サボテン。少し種が多いけど、甘くておいしい。

ここには、親戚が住んでいる。というよりは農園経営のため、移住してきたのだ。これから、彼の経営する農場まで出かける。明日からは少し北の町へ旅に出るので、今日は農場を見に行き、そこでバーベキューをするとか。朝着いたままなので少し眠い。でも、すべてが楽しみ。

旅に出ると、いつもとは違った何かが起こりそうでわくわくする。


2004-02-02 HOLA!!オラとはやあ、どうものこと

HOLA!!

ランチを済ませてTさんの所有する農場へ。車で1時間半、高速道路で行ったけれど、途中は果樹園あり、砂漠のように灌木がぽつぽつ生えているだけの荒地あり、ロッククライミングを楽しむ人を見かける切り立った崖ありと変化に富んでいる。夏は雨が降らないので、赤茶けた草原だが、逆に冬は少しだけど雨が、降るので青々とした緑の草原に変わるのだという。

さて、Tさんの農園の主要果樹は、アプリコットと最近植樹したばかりの胡桃の二種類。アプリコットはすでに収穫できる木もあり、今回追加で植樹したアプリコットと胡桃は、3、4年もすると、収穫できるようになる。そうなると14万ヘクタールの果樹園がすべて、収穫可能になり、すごい裕福な農場主になれそうと、夢は膨らむ。

今日は日曜日で農園は休みだったにもかかわらず、みんな集まって歓迎のバーベキューをしてくれた。田舎の空気と田舎の食事は、すっかり私たちを元気にしてくれた。

食べたのは

  • ディスコ 鶏肉とジャガイモ、たまねぎを白ワインで煮たもの
  • サラダチレノ トマトとたまねぎだけのチリの代表的なサラダ
  • パパマジョ ゆでたジャガイモとマヨネーズのサラダ
  • チョリパン ロンガニサつまりそーセージをパンにはさんだホットドッグのようなパン

それに飲み物はワイン、ビール、コーラ、それにホテという赤ワインとコカコーラのカクテル。安いワインでもこうするとおいしく飲めるらしい。ほかにファンタオレンジとビールのカクテルというのもあるらしい。

どれも、貧しい人が楽しむ飲み物だというが、これって生活の知恵かも知れない。

さあ、明日はまた、北への旅に出る。 


2004-02-05 北の町、ラ・セレナへ

長い長い一日の始まりだった。今日の目的はラ・セレナ。ひたすら北へのドライブである。サンチアゴの街から450キロもある。福岡から鹿児島まで300キロだから、その1.5倍もあるのだから、けっこうな長旅である。

さて、これが北半球だと、当然、寒いほうに向かうことになるのだが、南半球は逆。ここでは、北へ向かうとは、暑いほうに向かうことを指す。こんな地球の裏側にくるということは、心の持ちようも切り替えろということだろう。そう思うと、少しぐらいのことは気にせず、どっしりと構えればいいのだ。何しろ、450キロは遠い。

月曜日とあって、道路はどこも同じで混んでいる。高速道路に乗ってからは、快調に進む。たくさんの車が、車の屋根の上に家財道具一式と見紛うほどのトランクや荷物を載せている。1月、2月は長い夏休み休暇で、バカンスを過ごすための大移動をする車が多いのだ。最初に寄ったのは、通称セーター村。セーターやショール、マフラーなど、ウールやアルパカ、カシミヤなどで編んだり織ったりした製品だけを売る村があるのだ。ここは、『地球の歩き方』にも載っていない。でも、チリでは有名。たしかに、セーターだけを売る店がこれだけそろったところはほかにないかも。観光バスもやってくる。ここのぶらぶら歩きをして、あったかそうなストールを買う。5000ペソだから、830円ぐらい。実はこれが後の旅で重宝するのだ。何しろ、昼は30度まで上がるのに夜は冷え込む。セーターのようなものがないと寒くて外も歩けないほどだから。

高速道路で出会ったのは・・・

さて、高速道路に戻ってランチのためのレストラン探しをするのだが、チリの高速道路はわき道がたくさんあって、途中からどんどん外れる事ができるし、ユーターンも出来る。自転車の人もれば、なんとひっきりなしにヒッチハイカーがいるのだ。ヒッチハイクはどこででも見かけるけど、まさか、高速道路にまでいるなんて。車は最高速度120キロまでオーケーで、車はビュンビュン飛ばしているというのに。ヒッチハイクをしているのは、バックパッカーが多いが、若いカップルあり、若い女の子、親子連れなどさまざま。この国では、日常的な光景。子供のころから皆んなやるので慣れているのだそうだ。

もっと面白いというか、意外というかだったのは、物売りの多いこと。阿蘇にドライブに行くと、とうもろこし売りが道路沿いにいるけれど、ここは、高速道路なのだ。野菜、果物は言うに及ばず、パン売りも多い。彼らは手にかごを持ち、遠くからでもわかるように、白旗をまさに千切れるように振っている。それでも、アッと思ったときは通り過ぎている。何しろ車は早いのだ。

果物はメロンか、ブドウ、パパイヤなど。こちらは、手にかごを持ち、かごに入った果物を高く手で持ち上げて、アピールしている。それから魚。大きな川を過ぎたときだった。手に何か提げた人がしきりに手を振っている。よく見るとこれが魚の干物なのだ。

次はヤギ一匹。これがなんともすごい。両手を大きく広げて開いた肉をこれみよがしに掲げている。あまりにも面白そうだったので、車を止めてよく見てみたら、たぶん子ヤギをまるごと開いたものだった。一匹8000ペソ、日本円で1300円ぐらいだという。きっと、キャンプに行く車などに買ってもらうのが目当てなのだろう。

それにしても、豪快である。このあたりはヤギや羊、牛、馬が放牧されているから、誰かが思いついたのだろう。あ、そういえばヤギ乳で作ったチーズも売っていたので買ってみた。少しクセがあるけれど、あっさりした味でおいしい。


2004-02-06 ハンパじゃないチリ人の食欲

さて、やっとレストランに到着。海辺に近いレストランだったので、メインはシーフード。料理メニューは・ ピルカマロネス・アル・ピル・ピル 小エビのオイル漬け・ エビのマヨネーズ和え・ シーフード鍋・ 魚のビッグフライ・ シーフードスープ・ サラダ、パン

いつものことだが、食べきれないほどの料理が出る。チリ人の食欲にはほんとうに驚かされる。食事の前にまず、山盛りのパンが出てくるので、待っている間につい食べてしまう。だが、なんといっても一人の食べる量が多い。ゆったりと食事する習慣は見習うべきだとは思うがこんなに食べても大丈夫なのだろうかとつい気になって聞いてみると、チリ滞在一年のYくんの説明はこうだ。「チリ人には、ダイエットとか、太りすぎはかっこ悪いとかの意識はまったくない。子供のときからたくさん食べさせるので、ちょっと大きくなるとすぐ一人前の料理が食べられるようになる。食事を楽しんでいるというか、そもそも食べられるということが幸せなんだから」なんだそうだ。飲み物も同じ。コーラとスプライトの大瓶を注文する。まあ、何もかもハンパじゃない。

途中の景色はどんどん南国という感じになってくる。荒れた地にサボテンが転々と続くかと思えば、灌木の間を家畜がゆったりと枯れ草を食べている。こんな荒地で何を食べているのだろうと、つい、思ってしまう。

果樹地帯もある。アボカド園も多い。ここに来てから毎日食べるアボカドは本当においしいけれど、実がなっているのをはじめて見た。広大なアボカド園の経営はかなりの資産家しかできない。植樹してから収穫できるようなるまでに4年はかかるのだから。彼らは広大な農園の中に広大な敷地を持った大邸宅を構えている。ブドウ栽培も同じ。ブドウは生食用とワイン用とがあって、栽培の方法が違うらしい。やはりオーナーは、大邸宅を構えている。収穫時はたくさんの人が働くから、その従業員宿舎も必要なのだ。

いずれにしても、一日車で走っても景色はそれほど変わらない。荒地が続くかと思えば、果樹園がというように交互に現れる。いい加減そんな風景に見飽きたかなと思ったとき、突然降って沸いたように海岸の町が出現。わたしは行ったことがないけれど、南ヨーロッパの光景はきっとこうなのだろう、と思わず想像。

ラ・セレナ、素敵な響きの町である。


2004-02-07 明るい陽光の町「ラ・セレナ」

海沿いの町「ラ・セレナLa Serena」は、二人のスペイン人が上陸、植民地の一歩を踏み出した地として、知られる町。古くて落ち着いた町並みとは対照的に海岸は夏のリゾート地として、たくさんの観光客でにぎわっていた。サンチアゴからバスだと7時間かかるのだから、やはり遠い。宿泊は海辺のリゾートホテルにたまたま空き室があった。朝食つきで一人3000円。午後の7時はまだまだ明るく、暮れるまでには時間があるので、町まで出かける。人でいっぱい。この町は、インカ文明の影響を受けていて、ディアギータ族の人が作った民芸品も多い。顔立ちも民芸品もどこか私たち日本人に面影が似ている。

夕食はシーフードレストランへ

今回もせっかくだからと、シーフードの食べられるレストランへ行く。ランチとはまた違ったメニューを楽しんだ。・ ロコス・マヨ 貝のマヨネーズ和え・ エリソス 生ウニの料理2種類・ パイラ・マリーナ 海の幸のスープ・ コンソメ・デ・カマロン エビのコンソメスープ・ パステル・デ・ハイバス カニのグラタンといった具合。シーフードづくしだ。特に生ウニは楽しみにしていた料理だった。うーん、でも食べてみた感想は、日本のウニのほうがおいしい。あっさりした感じで日本のウニのようなとろける甘さはない。でもこんなにたくさんの生ウニなんて、簡単に食べられないからいい、としよう。今回みたいに5人ぐらいの旅だと、それぞれ別のメニューを頼んで試せるのがいいなあ。

これで朝食つき

ホテル代が安いので、朝食はきっとたいしたことないだろうなあと思っていたら、バイキングで熱々のパンにフルーツ、ハム、ヨーグルトなど、充実していた。ここで覚えたのが紅茶のおいしい飲み方。こちらは紅茶はお湯の入ったカップとティーカップが来るだけだが、ミルク入り紅茶を頼むと熱い牛乳の入ったカップとティーカップを持ってきてくれる。これだとたっぷり、熱々のミルクティが飲めるのだ。これで覚えて、その後は、いつもそれを頼むことにした。


2004-02-08 詩人ガブリエラ・ミストラルゆかりの地へ

ガブリエラの詩はいつも悲しみに満ちている。チリに出かけることになったとき、まず一番に思ったのは、女性詩人「ガブリエラ・ミストラル」ゆかりの地を訪ねること。ガブリエラは、南米ではじめてノーベル賞を受賞した人。彼女の生地であり、記念館もある「ビクーニャ」の町はラ・セレナから車で一時間ほどの所にある。

ガブリエラは15歳ぐらいから詩作をはじめ、新聞などに発表していた。やがて24歳の時に悲劇が襲う。恋人に自殺されてしまうのだ。以来、おそらく68歳で世を去るまでその呪縛から逃れることはなかったのだ。代表作は「死のソネット」という詩集。記念館は静かで雰囲気のある施設、瀟洒で、いかにもガブリエラをしのぶにふさわしい建物だった。


2004-02-09 まもなく、サンチアゴを出発

チリ便りを書き終わらないうちに、帰国の日がきてしまった。またまた、長い飛行機の旅が始まる。この記録のつづきは、帰国後に。では、みなさん、チャオ!!


2004-02-13 チリから戻って

サンチアゴを出て、二日半の旅、飛行機で二泊して、やっとのご帰還である。ふう、疲れた。途中、ロスアンゼルスで1日観光のおまけつき。いろいろあったけど、まずは、チリ報告のつづきを。

天国のごとき谷、ヴァルパライソ。

 1536年にスペイン人が上陸し、このチリを征服したのだ。征服のあとは、いたるところに見られる。南米のほとんどがスペイン語だと言うことからもわかる。さて、坂の多い港町ヴァルパライソはどこか長崎の町を思わせる。長崎では、その昔荷物の運搬は馬だったが、ここでは、アセンソールという木製のロープウエー。あっちにもこっちにもそれが設置されていて、しかもこれが100年も前のものというから驚く。港町は港町というだけでその雰囲気が好きだ。潮の匂いとなんともいえないほどの猥雑さ。見晴らしもすばらしく、夕暮れていくときの色も素敵。

この町にはもう一人のノーベル賞受賞詩人「パブロ・ネルーダ」の自宅が公開されている。この一帯は青空美術館と呼ばれている。家々の外壁などに壁画が描かれていて、著名な芸術家の作品もある。実は、ここだけでなくわたしがみたチリの町は落書きの多い町である。下手な落書きをされるよりは、モダンな絵を描いてもらった方がましとばかりに、わざわざ描いてくれとお願いすることもあるとか。

さて、パブロは、抵抗の詩人で、ファシズムに詩で抵抗した人。

抵抗の詩人の家で

美しい詩の中に織り込まれているのは、怒りと絶望。彼は抵抗の末に獄死している。チリは何度も政変を経験している国。どんな時代にも、痛みを分かち合い、自分を犠牲にしてでも自由を守ろうとするのはふつうの人々。穏やかな海辺の岡の上に建つ詩人の住まいの窓辺に立って、そんなことを考えた。


2004-02-14 チリという国

穏やかで平和に思える国チリは、実はわずか15年ぐらい前までは、とても今のような平安な国ではなかった。社会主義国として出発した1970年からわずか3年後にはクーデターによって軍事政権へと移った。1978年からの10年間は暗黒の時代である。殺害されたり行方不明になった人々は数知れず、国連でも人権侵害問題が論議された。

もちろん、チリという国は、その前のスペイン人と原住民の長い戦争の時代も含めると、他の南米諸国と同様、受難の時代は長く続いた国であることにかわりがない。わずかな滞在期間だったけど、チリという国のそんな歴史的な事実について、たくさんの人々と出会い、考えさせられた。人口は約1500万人、日系人は2000人ほどしかいない。やはりチリは遠い。地球の反対側なのだから。

二人の歌手

チリで二枚のCDを買った。山口智子の『手紙の行方』にあったので気になっていた二人の歌手だが、チリの人に代表的な音楽をと聞いたら、一様にみなこの二人をあげた。歌の引用はこの本から。1967年にピストルによって自ら命を絶った「ヴィオレッタ・パラ」と軍事政権によって虐殺された「ヴィクトル・ハラ」。二人の歌は久々に心に響く音楽という気がする。ラテン音楽は何十年も前から好きだったはずなのに、このような心を揺さぶられる歌があったことを長い間忘れていたなんて。ヴィオレッタの有名な歌「人生よありがとう」つまり「Gracias a la Vida」はこんな風に始まる。

人生は私にくれた たくさんのものを

あなたがくれたふたつの瞳ではっきり見分ける

星の光の奥底や 白と黒を

群衆に埋もれる愛するひとを

ヴィクトルの「ピメントの木」すなわち「El Pimiento」の始まりはこうだ。

パンパのど真中 生きているピメントの木

命を支えるのは 太陽と風

チリの風土を感じさせる歌だ。歌詞よりなにより、二人の歌がいい。その伸びやかな響きが。その歌に秘められた哀しく激しい抵抗の。


2004-02-15 必要に迫られて

チリ便りのほうはちょっと閑話休題。

だれにでも、必要に迫られてしかやらないことがある。私にもそんなことがいくつかある。いや、もっとたくさんあるのだけれど、特徴的なことは

自転車のりを覚えたのは35歳のとき

それまでは必要がなかった。息子が通う幼稚園が遠くて、毎日歩いて送り迎えをするのは大変だったので、一念発起、自転車に乗れるようになった。後ろに乗っている息子は気が気でないらしく、「おかあさん、落ちる、落ちる」を連呼していたけれど・・・。それでもやがて、うまく乗れるようになった。

車の運転を再開

車の免許は20代の前半でとっていたけれど、ほとんど乗らずにペーパードライバー歴17年だったのが、これもある理由で矢部村まで始終通うことに。車がなければあんな遠いところまで行くのは大変。そこで自動車試験場で2時間講習を受けただけで、いきなり路上に出た。今でも乗り始めの頃の怖さを思い出すとぞっとする。でも、おかげでドライブが大好きに。今では、どこまででも車でいける。

英語がしゃべれた

これが一番苦労した。30代の始め頃、カナダに2年間住んだ。英語なんて、まったく。だけど二人の子供を連れ出すには言葉が通じなければどうにもならない。そこで決めたのは、家族以外と日本語をしゃべらないこと。そして日本語を読まないということ。日本語の本など、読みたくても読めなかったけど。それで、英語のやさしい恋愛小説を片端から読んだ。「ハーレクイン・ロマンス」とか、ほとんどのペーパーバックスの古本が1ドル以下で買えた。恋愛小説は会話が多いので、会話の練習にはうってつけだったのだ。それでも最初は相手が何を言っているかわからず、ほんとうに恥もかいたし、苦労もした。でも、慣れとは恐ろしいもので、これもやがて、どうやら英語らしきものがしゃべれるようになっていた。

会社を作ってしまった

出版の仕事を始めたら、法人でなければといわれ、会社を作ることにした。40代の始めだった。『小さな有限会社の作り方』とかいう本を買ってきて、そのとおりにした。法務局に行き、類似称号を調べ、会社名と目的を決め、公証人役場に行き、法務局に設立の届けを出して会社はできた。考えたら、何でも自分でした。会社は自分で作るものだと思い込んでいたし・・・。

それが始まりだった。そうして今があるのだ。


2004-02-17 万華鏡の世界

「たまには少し、ほっと息抜きしたほうがいいわよ」という言葉とともに友人のKさんから「万華鏡」をプレゼントされた。正直、言葉は知っていても、実際に見たのははじめて。ああ、これだったのかと不思議な感覚を味わった。

仕掛けはかんたんである。筒の中をのぞくときらきらと流れるような光の粒がきらめいては消えていく。

「万華鏡」には、ちょっとした思い入れがある。学生時代に読んだ本レイ・ブラッドベリの『万華鏡』が今でも忘れられないのだ。いかにもブラッドベリらしいSFの世界だが。宇宙を旅する宇宙船が何かのトラブルで故障、決して地球には戻れないとわかった。宇宙飛行士たちは、始めのうちはお互いに交信しながら宇宙をさまよっているのだが、やがてお互いの声が遠ざかっていき、ついには聞こえなくなる。そして、まったくの静寂が訪れる。孤独と戦いながら、かれらは落ちていく。落ちていくしかないといったほうがいいかも知れない。緩慢な死に向かって。短い短編だが、なんとも切なく、しんとした小説だった。孤独の意味を考えさせたりして・・・。

Kさんの万華鏡はそんな懐かしいことを思い出させてくれた。


2004-02-19 憲法改正議論の行方は

社内打ち合わせ会議の終了間際、今進めている雑誌企画にぜったい政治がいるよね、という話になった。そして、「私たち若い者はみんな、憲法改正とはどういうことかをきちんと知らなければ」というのである。

憲法が改正になると、戦前のように徴兵制が復活するかも知れないのだ。そうすると、戦争に行かされるのは若い男性なのだからというのだが・・・。

いや、もしかしたら、女性だって、わからない。米国では既に女性がイラク戦争に参加しているし、他のアジアの国々でも、女性の戦争参加がある。男女共同参画社会という言葉の裏にそんな落とし穴があるかも知れないではないか。

この話を始めたYは、「マスコミはもっと、今後起こるかも知れない戦争参加のことや憲法改正のことをわかりやすく、伝えて欲しい」という。イラクは遠い国だし、自衛隊は戦争をしに行ったわけではない。なんて論理は、テレビに映し出される映像を見ている限り、「ほんとうだろうか」とつい、疑ってしまう。

確かにイラクへの自衛隊派遣という事実は、やがて、憲法さえ改正すれば、いつでも、自衛隊を戦争している国に派遣できるという大儀名分をひねり出すためのステップにさせられるのではないか。そんな伏線があるに違いないということをどれだけの人が認識しているだろうか。つぎに待っているのは徴兵制だなんてことにならなければいいのだが。

「羊」か、「羊飼い」か

雑誌を読んでいたら、ある人がおもしろいことを書いている。ビジネスのワンポイント思考法というタイトルで、「羊」になるか「羊飼い」になるかというのである。要は従順で言われるがままの羊か、知恵をめぐらせて、相手を繰る羊飼いの犬になるかということだが。彼は米国が「羊飼いの犬」で、日本は「羊」ではないかというのだ。もちろん、ビジネスの話だと断っているが。経済制裁やダンピング疑惑などで、いつもやられているのは日本。さて、今回の米国からの牛肉輸入で、日本は米国と立場が逆転して、「羊」ではなく「羊飼いの犬」に昇格できるのだろうか。


2004-02-21 今日から中国へ

お昼頃の飛行機で中国に出かける。といっても観光旅行などではなく、ちょっとかかわりのあった中国人女子留学生が昨年交通事故で亡くなり、その事件が解決したので、弁護士さんと一緒に家族に報告に行くのだ。事件のことはきちんとどこかで書いておきたいと思っているけれど、何しろ、もうこの世にはいない人なので・・・。家族に会うのは辛い。特に同じ親として、ご両親と話すのは・・・。


2004-02-24 中国に墓参り

今回の訪問地は山東省招遠市。金の生産と豊富な温泉、そして春雨が有名な街。青島市から車で2時間はかかる。人口57万人の小都市だが、全国一の金の産地だけあって、市自体はとても裕福。GNPは20%以上の伸びだというから、確かに裕福なはずだ。

Rさんという中国人女子留学生がある日突然、トラックによる交通事故で亡くなった。即死だった。それからの長い時間のことは今でも忘れられない。両親は突然の悲報を信じることができず、また、ショックのあまり寝込んでしまい、遺体引き取りにはお兄さん夫婦が訪れた。その事件が解決し、報告と墓参りにと、そのときとは打って変わった遠い冬の地に向かった。留学生の死ということで、マスコミも取り上げ、それぞれがつらく長い日々を送ったのだった。でも、何よりつらいのはご両親。重い心を抱いて訪れた地で、私達は暖かく迎えられた。しかし、私の顔を見たとたん、お母さんは泣き崩れる。言葉も通じず、慰めの言葉もなく、ただ、抱きしめるばかり。お墓を訪れたときもまだ土盛りだけの墓に取り付いて号泣。花を供え、日本から持って行った、彼女の好きだった森山直太郎の「さくら」のCDをかけ、あの世に持たせるお金を焼く煙があたりに漂った。前日の夜、着いたときは雪が降りしきっていたのだが、翌日は晴れ上がり、墓に行く間、早春の淡く煙る田園地帯は、とても穏やかな情景に包まれていた。

交通事故について、少し書いておきたい。彼女は大学に入学したばかり、バイト先に自転車で向かう途中の事故だった。悪い偶然が重なったのではないかと思う。たぶん、彼女は急いでいた。トラック運転手はいつもの道がとても込んでいるとの無線を受け、急遽別の道を選んだため、この道には不案内であった。いつもは通らない道だったとか。こうして事件は起きた。私は中国では人と自転車が優先だと言う習慣のことを考えた。自転車も人もどこからでも湧き出てくる。車の運転手は実に巧みにその間を縫って運転していく。だが、日本では、車優先。彼女に幾分の油断はなかっただろうか。そんなことを考えても事故が起った前に時間を戻すことは出来ない。泣き崩れる母親の姿が亡くなったRさんの姿に重なった。

合掌。


2004-02-27 利用者の勝利?

朝日新聞で読んだのだが、総務省が二年先ぐらいには、携帯電話の番号を変えずに他の携帯会社に変更できるようになることを発表したという。正確には、電話番号ポータビリティー(持ち運び)制という。この制度にもっとも反対だったドコモが仕方なく承諾したのは、利用者のアンケートで3割もの人が希望しているとわかり、それに従わざるを得なかったということのようだ。消費者の声が届いたわけだ。

九州経済白書が発表されたが、興味深いのは、「食の安全」について。9割以上の人が食の安全性について関心があると答えているのだが、その1/3は、何もしていないという。みんな気にはしているけれど、食の安全について、どれぐらい信頼できるだろうか。お店で買う食材も、レストランで食べる食事も、安全かどうかを考えすぎると何も食べられなくなる。 

どちらの話題も消費者はもっと賢く、欲しい物は欲しいというべきなのだ。「安全な食品が欲しい」と、もっと声をあげなければ。


2004-02-29 『蛇にピアス』を読んだ

蛇にピアス(金原 ひとみ) どうしようと思っていたけれど、やはり買ってしまった。たくさんの話題を振り撒いている金原ひとみの、けっこう衝撃的なストーリーに圧倒されて、一気に読んだ。若さはもちろんだが、蛇の舌のように自分の舌にピアスをつけ、その穴を徐々に広げていき、最後に二つに分けてしまうという。そのプロセスの中で男と出会い、その伏線になる事件が起こる。プロットの作り方は完璧で、表現も滑らかだし、手法自体はそれほど奇抜ではないのに、内容が奇抜なせいで、思わず引き込まれてしまう。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』や山田詠美の『ベッドタイムアイズ』をすぐに思い浮かべた。

さて、蛇にピアスだが、まずタイトルがいい。蛇にどうやってピアスなんかするんだろうなんて、馬鹿なことを考えたけど。実はそうではない。蛇の舌にするためにピアスをするのだ。こんな小説を読むと、完全に時代のずっと先を行っていると思う。金原はすでに、小説の読み始めに読者をひきつけてしまう方法をすでに心得ている。

「スプリットタンって知ってる?」で始まる一行目がすでにこの小説の面白さを暗示している。それは、そのまま、分かれた舌を持つ男との出会いへとつづくのだけれど・・・。

きっと、こんなカップルもこんなストーリーもこの日本のどこかにすでに存在しているのだろう。不思議な後味を残す小説だった。


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侃侃諤諤

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韓国で料理を食べて思った

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戦後60年の節目に

2005-03-22
地震のこと、続報

2005-03-20
地震な一日

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きみに読む物語

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懐かしい写真

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成人残念会

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ライターでなく、もの書き

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日のあたる道

2004-12-11
『象と耳鳴り』

2004-12-07
「蒼い記憶」

2004-11-23
さいぼう会に参加して

2004-11-18
若竹酒造場にて

2004-10-21
台風とロウソク

2004-10-16
江口章子のふるさと

2004-10-15
運命の足音

2004-09-24
夜からの声

2004-09-13
父は今日も元気

2004-09-03
日韓詩人交流

2004-08-15
お盆の最終日

2004-08-10
原爆が落ちた日に

2. 軽々と生きる

2004-08-08
被爆の街としての長崎

2. 赤の広場で歌うポール

2004-07-23
久々の小倉駅

2004-07-18
自分のなかの核

2004-07-16
田舎の夏が懐かしい

2004-06-30
「永久就職」というまやかし

2004-06-13
リバーサイドは健在なり