柚のかくし味 by 柚 |
あれは40歳を過ぎたころだったろう。その思いはある日突然やってきた。わたしは「ある日突然」という言葉が好きだ。実はどんな事だってある日突然やってくるのだが、そのときのある日突然は、人生の半分を過ぎた、という実感としてやってきた。わたしは考えた。「すでに人生の半分は過ぎたのだから、やりたいことをやってみたい。会いたい人に会い、行きたいところに行く。少々の無茶も、誰かに迷惑をかけることも、あっていいではないか」と。
こうして、わたしの、ある意味では、残り半分の人生がスタートしたのだった。しかし、実際は、会社や、子どものことなどで、たいしたことは何もできなかった。ふと気づいたら、人生、どんどん短くなっている。残りを数えるほうが早くなったのは確かだ。だからもう一度、考えた。今まで以上にわがままになろう。勝手なことをしよう。清く正しくなんて人生、誰も喜ばない。いや、誰よりも自分自身が楽しくないことはごめんだ。
昨日、久々にハローワークに行き、求人申込をした。いまどきの役所はまだまだ遅れている。今は求人はネットで探す時代。それなのに登録の申込も求人内容も用紙に鉛筆で書いて持っていく。番号順に呼ばれるのを待って担当者がその場で確認、パソコンに打ち込まれる間待たされる。こんなことなら、ホームページに登録欄があって、それに打ち込み、送信しておいてハローワークに出かける。そこではもう登録書が届いていて修正があればその場で出来る。そんなことが出来ていいのに。まどろっこしいこと、この上なしだ。
まあ、そういうことで求人申込をした。で、わたしは初めて自分が出版社に就職アタックしたときのことを思い出した。30年も前のこと。もちろん、インターネットなどなかった。せっかく就職した県庁農政部の仕事を2年で辞めて、福岡へ。新聞広告や知り合いのつてを頼ってある出版社に行き着いた。採る気はないといわれたのに最低限の給料でいいからと試用を認めてもらった。
そんな話をしたら、フリーライターのYさんも、会社づとめをしながら、出版関係を探し、やっと就職できたとのこと。そのままでは編集長は会ってくれないので、読者のふりをして面談がかない、まずは、アルバイトから。雑用のアルバイトをしながら、毎日、原稿書かせてくださいと編集長にメモを残して、とうとう正社員にしてもらったという。ああ、こんな人もいるのだ。いまどきの人は出版に興味はないのかと思っていたけど・・・。
35年前の今日、1月17日は東大闘争に終止符が打たれ、安田講堂が焼け落ちた日。警察権力が大学に入ったのだ。わたしはこのときちょうど東京にいた。東京の街は騒然としていたなあ。ふっと今回の自衛隊がイラクに派遣されると決まって、こんなとき、あの35年前だっら、こんなに静かだっただろうかと思い出したのだ。毎日忙しく過ごしていながら、こんなちょっと心に引っかかることを考えるのはいいことだろう。ただ、流されるだけの暮らしをしていてはいけない。そんな気持ちはまだ持ちつづけていたい。
芥川賞の受賞者が19歳と20歳ですって。小説は読んでないけど、同世代のことを書いてあるというから、読みたい気分にはならない。村上龍は、完璧だったって、いってたけれど。少し前までは、苦節十年という言葉もあったのに、今回の受賞はそんな言葉からはほど遠い。長年ずっと小説を書きつづけて、ただ、ひたすらノミネートされるのを待っていた知り合いがいたが、かれはもう小説を書いていないのだろうか。
『なぜか「忙しい」「時間がない」が口ぐせの人へ』と言う本をほんとうに衝動的に買ってしまった。自分では、それほど忙しいと言って回っているわけではないが、「いつも忙しそうだもんね」と思われている。そういうのって、便利なこともある。行きたくないときは「忙しい」を理由に断れるからだ。そういえば、人生の折り返し点に来たと思ったときに「義理の付き合いは極力しない」も考えた。そう思ったら、なんだか気分がすっと楽になったなあ。さて、この本だが、けっこう面白い。目次だけ挙げてみると、
まあ、まだいっぱいあるんだけど、ちょっと自分を振り返るつてにはなる。
昨日は夜中の12時からご飯を炊き始めて、食べ終わったのは1時をとっくに過ぎていた。こんな生活は確かによくないわよねえ。でも、ご飯を食べないと落ち着かない。夜に麺やパンはどうも。今日は9時には戻って食事の用意をした。カブ大根の煮付け、ゴウヤとキュウリと柿のかんたん酢の物、それに味噌汁と漬物。食べ終わってやっと落ち着いた気がするけど。
朝、まだ誰も出勤してこない時間が好きだ。コーヒーを沸かし、新聞をゆっくり読む。今日の西日本新聞文化面の記事はよかった。作家の白石文郎っていい顔してるなあと思いながら眺めた。お父さんの白石一郎には、直木賞をもらってすぐの頃に会ったことがあって、すごい骨太のいかにも文士って感じの人だった。写真で見る限り、文郎さんは全然タイプがちがう。文郎さんも双子でふたりとも文学に進んだとは。父親が有名人で、しかも双子の兄弟で小説を書いていると、つねに目立つ存在だから、話題にのぼる。聞いたわけではないけど、いろいろあっただろうなと思う。双子の存在というのは、本人でなければぜったいわからないことがある。自意識過剰になるし・・・。
鷲田清一が、「聴く」ということについて、書いている。彼にはたしか、『「聴く」ことの力』という著書があった。「語る」と「聴く」ということの関係、言葉を届けるという意味、など、読むほうも、考え始める。うまいしかけだ。白石のインタビューは新作の紹介だが、これの見出しが「愛と性、若者にメッセージ」その下の島村奈津は「夢の力」について書いているし、今日の紙面は全体が呼応しあっていておもしろかった。
雪が降ったり、やんだり。大寒らしくていい。今朝、激しく降っていたときに歩いた。傘をさして。福岡に出てきて始めての冬、雪に傘をさしているのにびっくり。それまでは、雪に傘をさすことなどなかったから。しかし、福岡に長く住むと、雪が湿り気を帯びていて、髪も洋服もぬれるということがわかった。だから、雪の降り具合を見て、わたしも傘をさすようになった。いつのまにか、福岡の人になりつつあるようだ。
今日も寒い一日。こんな日は、出かけないに限る。といいながら、ランチは近くの「ゆず」へ出かけた。柚っていう名前がいいだけでなく、食事も雰囲気も好き。先客が一人いて、少しばかり古い話になった。ふるさとの話に。大分県には軽便鉄道が2本走っていた。国東線と耶馬溪線。わたしはその国東線で高校に通っていた。山間部とあだ名されるような片田舎の町に育ったので、歩いて通える高校はひとつもなく、汽車(電車と呼ばれるようになったのは、電化されてからだったと思う)通学か自転車通学か。
で、わたしは汽車と軽便鉄道を乗り継いで行くしかなかったのだが、本数が少ないし、2時間に1本しかない時間帯もあった。朝6時25分に間に合わなければ2時間後しかなくて、寝坊したときはやむなく?休んだし、今日のように雪が降ると学校に行けなかったこともあった。
その軽便鉄道も高1のとき、集中豪雨によって、安岐町で、線路が落ちた。ちょうど別大国道の仏崎でがけ崩れが起こり、路面電車の線路が埋まったのと同じときのこと。クラスの男の子がこの集中豪雨で孤児になるという哀しい出来事があったし、それ以来復旧できず、鉄道は廃止され、バスにとって変わった。こういう古いことは、すっかり記憶の外かと思ったけど、思い出はふいに向こうからやってくるもののようだ。
もうひとつの軽便鉄道は耶馬溪鉄道。こちらのほうは、もうしばらくは動いていた。廃止されたのはいつだったか。耶馬溪方面に行くことは少なかったし、耶馬溪にも数えるほどしか行かなかったので、はっきりとしたことはわからない。
わたしの家の二階からは鉄橋が見え、そこをガタンガタンと渡っていく汽車が見えた。あれはわたしが10歳のころだつたか、最終列車が過ぎてから鉄橋を渡って帰ろうとしたらしい井戸掘り人が落ちて死んだという事件があった。どういうわけか、その死体はその日一日そこに置かれたままで、怖いもの見たさに見に行ったりした。
二階の窓から汽車を見送る習慣は私がふるさとを出るまで続いた。特に寝台列車で東京に受験に行く友人は毎日のようにここを通った。今でも、手を振る友人の姿が夢に現れたりする。夜汽車の汽笛とともに。
朝から雪が舞っていたので、完全武装をしてお堀端を歩いた。水鳥がはねを休める水面を氷が覆って、その上に雪が舞い落ちている。なんて美しい光景だろう。何年も福岡に住んでいて、こんな冬の光景に出会ったことがなかった。
さて、高校時代、汽車通学をしたおかげで鍛えられたことがある。
最初の2つは、よいことかどうかはわからない。でも、6時25分の汽車に乗るには、少なくとも6時15〜20分には、家を飛び出さなければならない。たぶん、駅まで走れば3分ぐらいの距離だったから、毎日大急ぎで駅まで小走りで行く。重いかばんを持っているので、全速力で走るというわけにはいかない。それに襞のついたセーラー服のスカートでは、足がもつれてそんなに早くは走れないし。だから、朝起きてから、いかに早く支度をして家を出るかだ。朝起きたときには洋服を着ているから、顔を洗って朝食を食べるのに10分。弁当をかばんに詰めて玄関を出る時は15分から20分というわけだ。これを3年間、毎日続ければだれだって、早くなれる。
つぎの2つは汽車に乗っている間や、駅で汽車を待っている間に時間つぶしにしたこと。時には駅で2時間近く次の汽車を待つこともあったから、宿題をしたり、本を読んだり。そして、ノートに何となく文章を書きつけた。読んだ本の感想を書いたり、アメリカのペンフレンドや中学時代の同級生に手紙を書いたり・・・。今になって考えるとわたしがいま興味を持っていることは、高校時代にそのすべて始まっている。
最後の「乗り物酔い」は、とても苦しんだ。乗り物どころか、揺れるものすべてがだめ。これって本当につらい。ブランコも遊動円木もだめだなんて、子供のわたしには、みんなが遊んでいることができない後ろめたさがあったなあ。
今日も雪の舞うお濠端を歩いたけど、ウソのように水面の氷は溶けてなくなっていた。すでに幻になってしまった氷面は、もう見られないのだろうなあ。昨日あれを見ることができたのは、ほんとうにラッキーだった。
そういえば、今朝、出かける前になんということもなく、テレビをつけたら、「真剣10代しゃべり場」の放送があっていた。提案者は18歳の高校生。女子生徒会長だ。「女のリーダーは嫌われるの?」というのだが、強力な男子生徒が「女はリーダーになんかなるべきではない」という論争を繰り返していた。提案者は自分こそ、リーダーに相応しい。夢は社長になることだっていっていた。「女子のくせに」といわれるのがいちばん、いやだと。聞いていて、変わらないなあと思った。男と女の論争は50年の間、少しも変わっていない。こんな若い子たちが、男がリーダーで女はサブでいいと平気な顔でいうのだ。いまだに。それが男の子だけでなくて、女の子も言う。この構図も同じ。いまはまだ学校という閉鎖的な空間での話だが、ここには、家庭での状況も反映されているにちがいない。彼らの家庭での会話が見えるような気がする。
土曜日だというのに遅くまで仕事をした。映画の紹介を12本も書いた。書いているうちに映画を見たくなった。どれもけっこう面白そうなのだ。「かげろう」や「アドルフの画集」「ひめごと」「悪霊喰」「赤い月」など、2月公開の映画ばかり。一段落したら、ぜったいに映画見に行こう。
カワカミさんの一言で、ちょっと思い出したことがある。これも高校時代のこと。高校の普通科を受験したのだが、幸い入試が終わって合格の通知が届いた。その中に女子のみ、学校に来るようにと一言が添えられていた。呼ばれたら行くしかない。その日、なんともう一度試験があったのだ。英語と数学。クラス分けの試験との説明があった。試験が終わって今度は保護者が学校に呼ばれた。母の言うには、女子クラスと進学クラスのどちらを希望するか、聞かれたという。わたしは思った。そんなの親に聞くのではなく、本人に聞いて欲しい。
母は、「どうせ短大に行かせる予定なので、女子クラスでもいいのではないか」と答えたらしい。しかし、そのとき先生がこういったという。「そうですか。でもまあ、この成績でしたら、そう決め付けなくてもいいでしょう。一応、進学クラスにしませんか」と。こうして、わたしは進学3クラスに入った。確かにそれからの3年間は厳しかった。しかし、わたしはどうしても、なんでわざわ女子クラスを作る必要があったのか、どうして、女子生徒だけ、クラス分けの試験を受けなければならなかったのかって。
そのことはずっと気になっていた。このことを同窓会の席で話したことがある。驚いたことに誰も覚えていなかった。でも、恩師は認めた。「そうだった。あの頃はそんなことをしていたなあ。それはしばらく続いて終わった」と。そう、みんなはそんなことを気にもしていなかった。
SARSのつぎは、鳥インフルエンザ。その前にコイヘルペス、狂牛病、豚の黄帝疫がつづいた。そのおそれが去った訳ではない。何とも不気味だ。感染力が強いのが特徴とか。安全な食肉なんて、あるのだろうか。では、魚は安全かというと、そうともいえない。魚の多くは養殖、つまりは薬漬けである。わたし達はいったいいつ、安全な食を奪われたのだろうか。
はるか昔、生活改良普及員という職業に就いていたことがある。わずか2年間だったが、多くの疑問を持った。米作りの途中で農薬散布の多かったこと。その匂いに田圃の脇を通ることが出来なかった。防除暦には農薬の種類と散布の時期がびっしりと書かれていたのだ。今考えるとぞっとするが、そんな時代が30年も続けば、畑も田んぼもおかしくなる。いったい、わたし達は何を食べて生きていくのだろうか。なんだか最近、そんなことが気になってしかたがない。
前から読もうと思っていた本『不良品』を読んだ。俳優宇梶剛士の自分告発の本といえばいいか。色んなことをぜんぶ人のせいにしてきたけど、実はそうではなく、悪かったのは自分自身ということに気づいたとき、ぱっと視界が開けたという。素直な文章は好感がもてる。自分を見失った若い人に読ませたい。読んでいて、納得出来る内容だったから。
コンドオさんが書いてくれたように基礎的な食品であるお米、味噌、醤油、酢、塩、砂糖などといったものは、毎日からだのなかに入れるもの。ずっと前には、添加物のない、自然食品がどこに行けば買えるのかなんてわからなかった。だから、生協に頼った。でも今は、どこででも買える。インターネットででも。だからもう、買う人の意識の問題なのだ。スーパーの安売りに走る人が悪いと言っているわけではない。少しでも家計を切り詰めたいという思いもわかる。でも、私たちは健康を買っているのだ。病気になれば医者に行ったりしてお金がかかるのだから。
ずっと前に『豊かさの栄養学』という本を読んだ。そこには、調味料についても詳しく書かれている。良かったら、読んでほしい。白砂糖などは空の食品だって書いてあった。塩も砂糖も手間ひまかけて、大切な天然の栄養素を抜いてしまい、空にしているのだ。どんなに安いからといって、そんなものを買うのはばかげていないだろうか。
塩は最近、自然のものがたくさん出ているから、意識のある人はそれを買う。砂糖は販売されているほとんどのものが空のものだ。黒砂糖は、天然のミネラルが大量に含まれている。これがいかにいいかは、『ブックスダイエット』に書かれている。しかし、そこにも書かれていないことがある。市販の黒砂糖には、ザラメや水あめが混ぜられているものがけっこうあること。せっかく自然が与えてくれた調味料に混ぜ物を入れてどうするのだろう。わたしはこういうことを知るととても腹が立つ。見かけや歯ざわりを良くしたほうが消費者が買うからだという理屈が必ず出るから。
実は明日からチリに出かける。この降ってわいたような話にすっかりいい気分でいる。また、不思議な偶然にも出会った。先日何の気なしにテレビの「週間ブックレビュー」を見ていたら、山口智子の『手紙の行方』が紹介されていた。表紙がとても素敵だったので、他の本を買うついでにアマゾンで買った。届いてみてびっくり。それは山口智子が何年もかけて通いつめたチリへの本だったのである。これを読みながら行くことにしよう。なにしろ延べ30時間も飛行機に乗るらしいので、こんな厚い本もが読めるだろうと思うのだ。
ほんとうは、チリのノーベル賞詩人「ガブリエラ・ミストラル」の詩集が欲しかったのだけれど、ネットではもう取り扱い不可能になっていた。せっかくなので、少し遠そうだが、彼女の生地にある博物館に行ってみるつもり。
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