柚のかくし味 by 柚


2004-03-01 ミステリーの書き方

幻冬舎のPR冊子「ポンツーン」に面白い文章があった。「タイトル」は「ミステリーの書き方」。乙一という作家が非常に明快な理論を展開している。

彼によると、「おもしろい小説を書くのに必要なのは、技術であり理論だ」という。つまり誰でも勉強さえすればおもしろい小説が書けるし、才能があるかどうかは執筆に無関係だと。何と大胆な発想だろう。そんなことを聞くと、わたしだって、時間さえあれば、小説が書けるということになるではないか。

そして、続きを読むと、それを確信できそうな気がしてくるのだ。今のわたしには、まったく時間なんてない。でも、いつか書いてみたい。小説を書くのは若い人の特権なんかではない。

でも、『蛇にピアス』は誰にも書けない。彼女だけにしか。


2004-03-02 今度は韓国へ

このところ、外国づいてるわたし。今度は韓国。金海市。歴史的な古い町だけど、観光的には知られていない。詳しいことは戻ってから。


2004-03-16 抗生物質にご用心

長い眠りから覚めた気分である。冬の韓国、釜山は雪が降りしきり、別の町のようだった。いままでほとんど雪など降ったことはないらしい。しかし、である。戻った翌日から熱が出た。39度を越え、体がだるく、とても不安で、月曜日に病院に駆け込んだ。それからがたいへん。3日目で、熱は下がり、咳が止まった。溶連菌感染を始め、いくつかの病名ととにかく休養をといわれた。その頃から、頭は朦朧、どうしても起きられなくなり、食欲も落ちた。薬の効きすぎでは、と、今回も気付いた時には、もう手遅れ。わたしのからだは、抗生物質を始めとする薬が効きすぎると悲惨なことになる。気力も体力も落ち、ただ、じっと薬が切れるのを待つだけ。ほんとうに変なんだけど、これに3日はかかるのだ。

抗生物質は細菌には効いてもウイルスには効かないので、たいていの風邪に対して効き目はないらしい。それよりは栄養を取って寝るほうがまし。抗生物質を続けて取っていると耐性菌ができ、同じ薬は効かなくなる。私がそういう事実を知ったのは、20代のころ。子供の頃、ペニシリン注射のし過ぎで、アレルギーが出て以来、簡単には、抗生物質がつかえなくなったからだ。熱が高い、それだけで田舎の医者は毎日ペニシリン注射をうった。今ではとても考えられないことだけれど、20代でアレルギー反応が出たとき、別の医者から自分に安全な抗生物質を見つけておかないと、大病したら助からないといわれた。薬の過剰摂取には、とても気をつけているけれど、どんなに気をつけていてもあまりにもつらいと薬に頼り、ひどい目にあう。今回も薬を止めて3日たって、正常に近くなってきた。長いトンネルからどうやらやっと抜けた気分なのだ。変な病気ではなかったので、ほっとしているのだけれど。

ある記事にこうあった。特に子供の風邪に抗生物質は要らない。医者が処方したら、理由を聞いてみよう。二次感染や他の感染症を疑う場合もあるから。そして、大人も子供も風邪で熱が27度5分以下で普通に食欲があるなら、少し様子を見てもいいと。


2004-03-18 『半落ち』を読んで考えた

半落ち(横山 秀夫) 寝込んだおかげで、テレビを見たり本を読んだりという日を過ごした。『半落ち』はちょっと気になっていたので、はじめに読んだ。何人かの人から心底感動したと聞かされていたから。ミステリーファンのわたしとしては、正直、意外性に欠けているという気がした。一つは、妻殺しという犯罪部分よりも最後まで隠し通そうとした空白の二日間に意識を集中させるという、うまい手法にちょっと騙されたかなあという感が強い。確かにアルツハイマーの妻を殺すということには何の疑念も示されない。空白の二日間については、50歳というキーワードがあるので、わたしは早い時期にそのからくりに気付いたが、その伏線に気付かなければ、最後まで謎に引きづられることになるのだろう。二日間の謎が解けたとき、主人公梶が生きようとした理由がわかる仕掛けになっている。

殺されていい理由はあるのか?

この本の成り立ちはやはり男の論理、男の美学である。妻を殺すことの不合理ではなく、自分が生き延びるための意味づけのほうに思いが集中する。人は何故生きるのか、何のために生きるのかといったことを突きつけている。そう見える。しかし、そうだろうか。人は生きなければならないから生きるのであって、相手がたとえアルツハイマーであったとしても、子供が死んだという事実を認識できなくなったからといっても、殺していい、あるいは、殺されていいという理由にはならないのではないか。

なんか、すっきりしない。後味の悪い読後感であった。


2004-03-19 便利さと引き換えに失ったものは・・・

コンビニの弁当やおにぎりはめったに食べない。たまに買おうかなと思うこともあるけれど、添加物の多さに恐ろしくて、買う気になれず、棚に戻してしまう。だから、どんなに疲れていても、夜、家で食事できる限り、ご飯ぐらい炊く。自分の中の歯止めは自分で決めようと、考えている。

そんな自分の感覚を信じていいのだという文章を見つけた。西日本新聞の今朝の記事「゛食卓の向こう側」の「中食 ラベルを見ていますか」は衝撃的な記事だった。無料ですむからと売れ残りの「中食」(なかしょくと読み、弁当、惣菜のことらしい)をずっと食べさせていた母豚の異常なお産の原因が中食に含まれる添加物のせいではないかと気付いたというのである。死産や奇形などが相次ぎ、汚れた羊水にショックを受けた畜産農家のオーナーが、普通の餌に戻したら、異常出産がなくなったという。

以前、ドキュメンタリー番組で、コンビニやほか弁のご飯やおにぎりの製造現場を見たことがある。ご飯にたくさんの添加物を振りかけていたのだ。炊き上がりがつやつやと光って見えるとか、美味しくなるとか、もちろん、腐敗を防ぐとか、理由はいろいろあったけれど。

わたしたちはいつから、おにぎりを店で買うようになったのだろう。おにぎりだけでなく、コンビニやほか弁で暖かいご飯が買えるようになって便利になったように錯覚しているだけではないのか。買ったおにぎりは、「おむすび」というぬくもりのある言葉からはるかに遠い存在になった。

便利さと引き換えに失うものの多さについて、時には本気で考えるべきだろう。ペットボトルや缶入りのお茶を買うようになって、急須や湯のみが消えた家庭もあるし。第一、お茶のいれ方を知らない若い人が増えている。ご飯だって自分で炊いたことのない人がいるし・・・。

便利さと引き換えに失ったもののことを考えてみようと改めて思った。目に見えないことも含めて。


2004-03-22 映画「ドッグヴィル」

久々に映画をみた。「ドッグヴィル」、ちょっとハードな後味の映画だった。設定自体もすごく変わっていて、舞台劇を映画で見るという趣向。監督:ラース・フォン・トリアでニコール・キッドマンが主役を演じる。ドアもなく、床に白線が引かれただけの舞台ですべてが描かれていく。住人わずか23人の小さな閉鎖された村、人々はお互いを知り尽くしている。そこでは、自分達だけの合議制ですべてが決められ、緊迫した時間の中で人々の揺れ動く心が浮き彫りにされていく。

これを見ながら古い日本映画、今村監督の「楢山節考」を思い出した。あれも雪深い小さな寒村での物語。自衛的法律に沿って生活が営まれ、その論理によって暮らしが成り立っていた。貧しさゆえの悲劇も慰めもあった。冬中食べるために貯蔵されていた少ない野菜を盗んだ子沢山の家族がみんなの合議によって一晩で消され、その事実は秘匿される。ある意味での自治、生きていくために誰かを犠牲にするしかなく、他に選択はないという極限の世界だったが・・・。

このドッグヴィルもまた、閉塞的な村で起こる人間の悲劇だが。同じ人間の中で、悪意も善意も自在に生まれ、死ぬことができる感情だと、この映画は伝えている。いま上映中の映画なのでエンディングは書けないけど。

極限の世界に置かれたとき、人は自分の心の声だけに耳を傾けることなどできないと、突きつけられてくる。怖い映画だった。


2004-03-24 白石文郎さんの本『風街』

白石文郎さんの『風街』を読んだ。現代の男女間の問題である「セックスレス」や「ED」「不感症」「スワッピング」「援交」「テレクラ」「風俗」「出会い系サイト」など、それこそ何でもありの小説である。そんな風に書くと、エロティックな小説かと思われるかも知れないけど、ぜんぜん、そうではなく、とてもまじめに、性というか、性愛の本質について考える小説なのである。

白石兄弟の小説を読んでみようと思ってそれぞれ一冊ずつ買ってみたうちのまず一冊目がこれ。弟さんのほうである。双子の兄の白石一文さんのほうはこれから。実は一文さんは、次のアドレスのページを読むと読者からの疑問、質問にとても真摯に答えていて、こちらも興味深かった。興味のある人は読んでみて。

http://book.asahi.com/authors/index.php?key=21

さて、「風街」だけど、彼が小説の中で書いている男女の関係性は、性的なつながりが二人の関係を決定づけているから、それがうまくいかなくなると、二人の心はつながらなくなり、自分自身のアイデンティティも失われる。男女の関係において、相手は自分自身でもあるというか、自分を映す鏡だと思えばわかりやすいだろうか。そんなことを彼はいいたいのだろう。きっと。

風街(白石 文郎)


2004-03-26 花冷えの街で

花冷えで毎日、なんだか寒い。風邪の治りは徐々にといったところ。それにしても今年の桜の咲き方はいつもとちがう。山桜系は確かに早い。こちらは葉がいっしょに出るので、ちょっと野性的な味わい。でも花だけがぱっと開く桜は幽玄の美を思わせ、心が少し震える。どちらが好きかはそのときの気分次第といったところ。でも、桜の季節になると毎年、季節のほうがどんどん先にいってしまうようで心もとない。

ときどき会う出版関係の人と久しぶりに会って、久々に思いっきり出版の話をした。そのなかで二人で本当にそうよねえ、と一致したことがあった。本の企画をするとき、「どう考えてもこの企画は売れそうにないよなあ」と思ったときはやっぱり売れない。本を出したいと思う人は、「自分の本はぜったいに売れる」と思っている。思っているだけでなく思い込みが激しい人が多いので、そこのところがいちばん苦労する。だけど、「うーん、どうだろう。売れるか売れないかどっちかなあ」と思ったときは、たまに売れる本になることがある。この分かれ目がわからない。だから本づくりがやめられないということでもあるのだ。

本づくりは、ああだ、こうだと企画している時がいちばん楽しい

福岡から見た昭和史(山本 巌)

今まで100冊以上の本の編集をしてきたけれど、長い間受身だった。はじめて心底本づくりを楽しんだのは、『山本巖ブックレット』のシリーズ6冊。このときから自分の出版社で自分が作りたい本を作ろうという気になったのだから、やはり、あれはありがたかった。本づくりが趣味ですなんて言ってみたい気分になれたのも、この本の編集のおかげだろう。

いま、いくつか企画をあたためているので、今年は自分らしい本をたとえ一冊でもいいから作っておきたい。


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韓国で料理を食べて思った

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戦後60年の節目に

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地震のこと、続報

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2. 軽々と生きる

2004-08-08
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2. 赤の広場で歌うポール

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