化粧女王を探す長い旅 by 大王

2003-12-31

完全に落伍する

快速な二人

 途中で数人の高齢者とすれちがいました。

『どちらからですか?』『飯盛山です』

『どちらまで?』『往復しています』

ええええー。同じ質問をしたけど、かえってくる答えは、俺がひーこら、へばっている登山道を往復していたりします。

 俺なんかさあ。もーばてばてで、こうして、すれ違う高齢者にひとり残らず話し掛けるのも、話し掛けていたら、休めるぢゃない。

 だいじょーぶですかあ。はるか前方から、ふたりの声がしますが、歩くだけでやっとだ。

福岡市側をのぞむ

 そんな、さもしい根性で話し掛けていたのです、これだと、遅れても言い訳できますから。

 でも、平たんや下りはまだよいのですが、のぼりがずっしりと足に答えます。ほとんど、自力で登れてないのではないか、気力だけでのぼっています。

15年で足が極度に劣化

はるかに叶ケ岳

 一日四十キロくらい歩いていた15年以前の気持ちだけは、今も連続しているので、よけいに始末が悪いです。

 遠くに、福岡市側の平野がみえます。かつては、どこまでみても、田園が続いていたのに、叶ケ岳側の山裾には、大型住宅地がはいあがっていて、ほとんど頂上に到達するひも近いのではないか。

 振り向くと、はるかに叶ケ岳が見えます。もう、こんなに歩いて来たんだ。意外に近かったようなきもします。

登山道の分岐点

 いよいよ、飯盛山に向かう山道に入ります。山頂目指して、最後のがんばりです。中学時代から夢にみていた、縦走ルートをいきているうちに、ふむことができることがわかっていたら、高校生の時に、『度ぼらや突進隊』が作った山頂にかかげる旗を探してもってくるんだった。

山頂に立つ

山頂の石碑 高校生のころ、はじめて飯盛山にのぼった時、山頂には雑草がおおい茂り何も風景がみえなかった。

 夏草の間に、倒れた石碑があり、文字を読むと、ここに飯盛神社の上宮があったことが記録してあった。お宮の残骸もあったとおもう。

 今は、きちんと石碑が建てられていて、周囲の下草も刈り込んでありました。

杉林

 度ぼらや!俺は縦走をなしとげたぜ。中学時代からの夢を達成して、うれしくなったものの、度ぼらやは、いきてはいるでしょうが、ずっと音信不通なので、このページに偶然たどりついて、当時を思い出してほしいぜ。

 帰りは、山頂から金武側に下山します。

急峻な下り道

林の切れ目から下界を

 ここでも、高齢登山者にあったのですが、みんな急激なのぼりを一歩一歩踏み締め、しかも俺に挨拶するゆとりさえあります。

 でも、俺は下りなのに、そんな余裕さえありません。

 かつて、最後の急斜面だけが、やたらにきつくて、あとは、なだらかだったと感じていた登山道の全部が、とても厳しい勾配に感じられているのでした。

飯盛神社

 最後は枯れ枝を杖にして、はうように下り、ようやく二人に追い付くことができました。とても体力を消耗して、ついでに体力への自信まで喪失した。

 子供の頃から、自転車でよく遊びに来ていた飯盛神社にたどりつきました。

知恵の泉を守る地蔵

知恵の泉を守る地蔵

 知恵の泉を守る地蔵たちも健在です。僕はよく自転車でひとりで、ここに来ては、誰もいない泉の前で、地蔵たちと視線をあわせていたのですが、今は水をくみにくるひとたちが、次々にあらわれて、地蔵たちも孤独ではありませんでした。

柿の木

 ここだけは、何もかも昔のままでした。柿ノ木に熟した渋柿が実っていますが、今はカラスも食べないのか、実ったまま熟してゆくばかりです。

 飯盛山。僕が日本でいちばん好きな山です。小さいころから、家の窓から見えていた、独特の山容は、とてもみじかな山でもありました。

 荒江にいたときのマンションからも、その特有な山容がみえていたのですが、今も同じ姿でたたずんでいるのです。


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侃侃諤諤