化粧女王を探す長い旅 by 大王 |
串崎ケープホテルの特徴は、ホテルの正面に、円形に広がった造形があることです。
ここは、レストランと思われていたのですが、実は、展望浴場でした。正面玄関の上が浴場だったのです。
キツギさんの背後で、自慢の展望浴場だった建築物の構造は、ゆるやかに風化を進行させていました。
すでに外壁の大部分は脱落しています。また下部は、正面玄関のエントラスにもなっていて、豪華な感じを演出していたその部分は、コンクリートが剥げ落ちて、荒んだ廃虚の様相を一段と増しています。
もう、カエロウヨ。
そういう言葉が口をついて出るのですが、もちろんキツギさんに届きません。ホテルを見上げるプールの外縁を歩き回り、やがて、脱衣所の残骸の施設に入りました。
常緑樹の植え込みや、海に向かって配置されたシュロの植え込みは、今も、手入れをされないのに、元気に育っています。緑は生き残り、コンクリートは、崩落と風化を加速しているのです。
昭和四十年代は、豪華なホテルであっても、水まわりは簡素な構造になっていました。
脱衣所の設計は、当時の小学校プールのそれと同じように、平凡なコンクリート作りで、鏡も当たり前の安物です。
キツギさんが覗き込むまで、この鏡は、30年もの間、人間を写したこともなく、日々暮れ行く日没と、闇を写していただけの孤独を繰り返していたことでしょう。
キツギさんは、かなり長い間、鏡の中の自分と相対していました。
あの30年前、僕は家族とこの脱衣所にいたはずでした。このあたりの海岸は波が荒く、泳ぐには適していません。海をみながら、海ではなくプールに入る点も、当時としては、とてもオシャレなことだったと思います。
プールサイドから脱衣所に入り、そこからホテルに通じる通路に出ました。
風の音がしますが、小さな日だまりができていて、そこに、モーターが転がっていました。
誰かが、ホテルの施設を物色して、まだ使えそうなモーターを取り外したものの、持ち去りあぐねて、そのまま転がしていったのでしょうか。
モーターを見ていると、しんだ魚の内臓をながめているようで、はかない気持ちになってきます。
『キツギさん』
『キツギさん。30年前に、僕はこのホテルで両親と宿泊し、この脱衣所の前にいました』
僕は、かまわず話を続けました。どうして、この串崎ケープホテルなのか、ここにこなければならなかったのか。確かめたいことがあったからです。
30年前に、僕は両親と、ここで写真を撮影していたのです。どうして、こんな場所で、ホテルの客室でもなく、ロビーでも、海が見える前庭でもなく、この裏庭のような場所。そこで撮影した写真が、自宅のアルバムにあることをようやく思い出しました。
モーターの前から、キツギんが崩壊が迫るホテルの付属施設の前に立っていると、30年前と同じ情景を思い出します。
ホテル本体に付属する建築物の大部分は、木造モルタルでできていたようです。風雨にさらされて、本体のホテルよりも激しく破損していたのも、その理由からです。
キツギさんが、こうして立っていると、まるで30年前にここに立って父から撮影されていた母親のようではありませんか。
だんだん、思い出すことがありました。 まだ、このホテルができたばかりの頃、自家用車で来るしかない、この岬のホテルには、多数の常緑樹が植えられていて、手入れをする職人の数もかなりいました。
展望浴場からは、海と、夏の山の緑が、強烈な光線をあびて輝いていました。
展望浴場からの眺望と、プールサイドからの海への視界。現実の光景は、今は廃虚になっていますが、あの時の風景を今でも思い出します。
僕は、あの夏。体調を壊して長期に学校を休んでいました。その休みの最後の方で、家族は、長期間入院していた僕の気分転換のために、退院からほどなく、復学を前にして、このホテルを訪ねたのでした。
そうして、僕は、もうひとつ思い出していました。いままで考えてもみなかったことを。 ホテル本体に付属する建築物の大部分は、木造モルタルでできていたようです。風雨にさらされて、本体のホテルよりも激しく破損していたのも、その理由からです。
キツギさんの顔をみているうちに、正確にいうと、こうして、ここに導かれて廃虚のホテルに立っているうちに、今迄完全に忘れていたことを思い出したのです。
正面玄関に張り出した展望浴場の跡は、もっとも風化が進行している部分でした。
二階部分に巨大な浴槽を配置し、しかもその配管まわりを玄関の天井に配置しなければならない。
設計者がもっとも苦心を要した部分が、ここだったはずです。ホテルの特徴的な外観は、皮肉なことに廃虚になった今、もっとも壮絶な崩落を示しているのですが、当時は、設計者も経営者も、ほこりにしていた、うっとりとするほどの自慢するべき部分だったはすなのです。
しかし、無惨なほどに外壁が崩落して、窓も破れ、このホテルの廃虚感をひときわ無気味に彩っている、この部分の設計には、基本的に無理があったと思われます。
浴そうからの排水を考えると、直下が玄関のアプローチなために真下に流下することができない大きな制約を負いました。
排水管は、1階の天井部分を迂回して外壁のどこかに落とさねばならず、それは基本設計に無理を生じ、建築物の耐久性にも問題を残しました。
巨大な浴そう構造物を支えるには、1階部分の支柱はあきらかに強度不足です。
その証拠に長い年月の間に、浴そう部分の崩落が急激に始まり、やがて浴そうを支える二階部分であり、1階正面玄関の屋根でもある構造物全体が崩壊するのは、時間の問題のようでした。
廃虚をいっそう凄絶に彩るものは、キツギ看護婦の白衣にほかなりませんでした。
白い色は、廃虚のどこにもないからです。完成当時に美しく塗装された白い壁があったとしても、今は風雨にさらされて、どこにも白はありません。風雨にさらされたホテルのどこにも存在しない色が白なのです。
その、廃虚となったホテルが失ってしまった白を、キツギさんの白衣だけが唯一もっている。ある意味、なんと残酷な色なのでしょう。
廃虚を全部否定する色があるとするなら、間違いなく、それは白でした。
そうして、30年前、このホテルに家族で滞在したときに、着ていた母親の服も白いスーツだったことに、思い当たったのも、この時でした。
雨まじりの風雨がたたきつけるような時間もありましたが、いつしか、雨はやみ、海は雲に切れ目が生じていました。
『キツギさん。やはり、ここに宿泊したことがあります。間違いありません。この串崎ケープホテルです』
『そうですね。そう言ってましたね』
やはりそうでした。このホテルに間違いありません。そうして、僕は、展望浴場に入り、部屋に戻った時、頭の中で浮かんでいた光景がありました。
『写真も家にあります。でも、その写真を見た時に、僕はいつも自分の記憶と違うものを感じていました。ものすごい違和感です』
『それはどんな違和感なのでしょう』
ホテルは新築間もないころで、周辺でも評判のおしゃれなリゾートホテルとして知られていたのは、何度も話しました。
でも、僕には、あのとき父親が撮影した写真は、ずっとほんとうにあったできごとではないと思っていた。
『実際に泊まったのにですか』
そうです。ほんとうに泊まったけれども、そのときに写真をとったけれども、その写真を今も家にもっているけれども、その写真は現実ではなく、いま、たったいま、このときにキツギさんの背後にある廃虚のホテルが、残骸みたいになった無気味な風景が。
『つまり、この廃虚が僕にはみえていたのです』
ですから、僕の記憶にあるのは、母親の記念写真ではあるけれども、僕のあのときの記憶にもっとも現実であるのは、きょう、たったいままで、キツギさんが歩いていたその姿、廃虚の中を歩くキツギさんこそが、あのときに見ていた、自分の体験のような気がするのです。
実際、撮影場所の廃虚ホテルが、最初に見えた時、上空に暗雲がたちこめていて、まるで、相当なお化け屋敷状態でしたので、びびれあがって、逃げようかと思いました。
笑顔を撮影するつもりもなかったんですけど、そんな異常な恐怖感からか、キツギさんは終始とっても緊張していました。
空に晴れ間が出て来た後半から、少しだけ慣れて来たので、ヒラタタンクの前で記念写真を撮影する余裕もでてきたのでした。
ところで、最近、アクセスが集中して、このページがしょっちゅう落ちてしまいます。廃虚と看護婦、というキーワードがそんなに需要があるとは思えないけど、まあ、みなさん、アクセスありがとうございます。
謎の看護婦キツギさんは、後半、浜辺に行きます。今度はほかのひともいるんで、廃虚とは別の意味で緊張はするのですが、天候も回復したし、海岸と謎の看護婦の姿を、お楽しみください。
ちょっと休憩して、次回は週明けからやってみようと思っています。廃虚から奪われる負のエネルギーがすごすぎたので、疲労回復して、次に行こうと思います。
海から力をもらう展開だから、失ったものは、次で取りかえしましょう。みなさんも、廃虚パワーに力を奪われていたら、次の海シリーズをながめて回復してくださいね。
海岸に看護婦が出現したら、人々はどのような行動に出るのか。実験してみました。まずは、ナースキャップをかぶって実験開始です。
場所は唐津市の海岸で、折から観光バスが到着しました。わざと距離をとります。
観光客はバスガイドの説明により、対岸の島にある『宝当神社』の説明などに、ききいってます。距離200メーターで看護婦出現。
アマチュアカメラマンの写欲をそそるために、被写体になりやすいポーズをつけて、挑発してみます。
目標は、一眼レフカメラを手にした方です。あの方に撮影していただけたら、本望というものです。
先方は明らかに発見しているはずなのに、関心がないかのように遠くを撮影しています。ビデオをまわしているおじさん以外は、こちらにやってきません。 やはり風景写真に命をかけているのでしょうか。
カメラおじさんは、結局、かなりの関心を持ちながら、僕らに話しかけるでもなく、望遠つきのズームで、海岸の看護婦さんをちらちら撮影しました。
別に声をかけたり不審に思って、質問されたら、答えてもいいのになあとおもいましたが、声をかけてくることはありませんでした。
背後に見える島は、最近、急激に脚光をあびている宝当神社のある島です。島には船で渡るのですが、最近は、わざわざ参詣を組み込んだ旅行の企画もあるみたいです。
潮が急速に満ちてきました。油断していると足元まで海水が押し寄せてきます。
風が強くなりました。廃墟にいたときは、憂鬱な暗雲に覆われていたのですが、ここでは、邪悪なものはなにひとつなく、強い幸運に支配されているようです。
観光客は時間が来たせいでしょう。バスの方に引き上げてゆきました。最後まで撮影を続けていた、カメラ旅行者のおじさんも、最後まで海岸の看護婦にカメラのレンズを向けていましたが、そのまま松林の中に消えて行きました。
たとえば、この松と語りましょう。キツギさんは、ひとつの松の前に立ち、瞑想しながら何かを語りかけました。
口をはさんではいけないような気がして、だまって近くにたっているのですが、僕には、キツギさんが松を何を話しているのかわかりません。
キツギさん。何を話しているのですか。松は饒舌なのでしょうか。
キツギさんは、寡黙な松ですが、言葉を開くのをじっとマツことにします。
それって、おやじギャグですか?
日没まで時間がないので、真剣でいてください。
はい。
海岸に多くの仲間と暮らしている松です。ひとりではないので、周囲の松のささやきとか、凝視を感じるのですが、松は温和な植物なので。あたたかい視線を受け続けているだけです。
もうじき日没ですね。 そんな時間ですか。
マツが日没を私たちにプレゼントしてくれるそうです。
えー。太陽をですか。そうです。有り難いことです。
日はまさに暮れようとしていました。松林の中を斜に貫いていた太陽は、最後の光線をマツたちのすきまから、このマツに照射してきます。
写真をあとで、みて、不思議な写真だなと思ったのが、これです。撮影しているときは、普通だったのに。デジカメでパソコンに転送してみると、マツがプレゼントしてくれた夕日がうつっていました。
キツギさんの手に夕日が載っていました。
ほんとうだったでしょう。
でも、僕にはそのときは何のことかわからず、家に戻ってから『ほんとうだったんだ』と気がつきました。
それで、キツギさんは、マツを何を話したのでしょう。
教えて下さい。
簡単なことですよ。こうして、マツに手をあてていると、マツの気持ちが伝わって来ます。
私もしてもいいですか。
いいですよ。マツは誰も拒みません。なんて優しい樹木なんでしょう。
松の幹に手をあてると、松が考えていることが、心の中にひろがってくるのがわかります。
松はなんといっているでしょう。キツギさんは、そうたずねてきましたが、僕は松の言葉を聞くことに集中していたので、だまっていました。
松は、おぼつかない僕のために、ゆっくりと語ってくれました。
きょうは、海がきれいだったろう。きれいだったろう。
はい。きれいでした。
よい日に、ここに来たな。
ありがとうございます。松はいつも、ここで何をしているんですか。
することはいろいろある。おまえの昔の記憶を幹の内側に刻むこともおれたちの仕事なのだ。
ええー。なんですかそれは。
キツギさんは、松に代わり、僕に伝えてくれました。
日没なので、松はもう、私たちに続きを語ることはできないけれど、いいたいことはわかります。
きょうという一日を過ごした、私たちが、心の中で体験したさまざまなできごとと、よみがえった記憶の すべてを、松たちは、自分の記憶として封印してくれるのです。
せっかく思い出した廃墟の記憶も、松に吸い取られて消えてしまうというわけなんですか。
思い出しただけでも、幸運だったというべきでしょう。
キツギさんは、松林を抜けると、再び海岸に出ました。日没していたものの、太陽の残照は、海岸に残っていて、不思議な光とともに、海の色を濃い色にしています。
風も出てきました。
きょう一日、何をしたのか、どうして、この海岸にいるのか、僕にはもう、何も思い出すことができませんでした。
中学時代に、やり残した夢がありました。
その夢は、当時の友人の緊迫した電話の声とともに覚えているので、今でも鮮明に記憶しているのです。
『だめばい。きのうの台風で山が崩れたげな。窓からみてんやい。あちこちで山がくずれとろうが』
友人である度ぼらや隊長の電話の声をきき、あわてて二階にかけあがって飯盛山の方角を見ると、なるほど、地肌がむきだしになって、崖ができたところが、大変な数あります。
こりゃあ、山にのぼれんばい。
われわれは、当時、中学校で『探検隊ごっこ』を流行させていました。流行していたかどうかは、よく覚えていないのですが、近場の山々をまるで前人未到の山であるかのように想定し、かってに探検や、山頂の制服などを行って、休日明けに学級で自慢する、という他愛もない挑戦を繰り返していたのです。
そうして、当時最大の夢は『学級の誰もしたことがない、叶ケ獄から飯盛山に抜ける縦走ルートを探検することでした。
まだ、だれも成功した級友はいませんでした。三グループからなる探検隊が、飯盛山から、あるいは叶ケ獄から挑んでいたのですが、当時の山道は、ほとんと消失寸前だったせいもあり、道なき道を歩くありさまで、途中で迷ったり、こわくなったりで全隊引き返して挫折したいのです。
私たち『度ぼやら食堂突進隊』という、意味不明の名称を持つ、隊員三名は、飯盛山側から三度もアタックしたのに、山頂に立つ道すら見つけることもできずに、失敗し、四度目は、叶ケ獄側から登頂することを決めていたのでした。
決行日は、10月の日曜日。早朝からとしていたのですが、前日の台風襲来で、山はいたるところで崖崩れや鉄砲水の被害を受けて尾根伝いの山道も数カ所で不通となり、通行自体が禁止になったというのです。
それきり、探検ブームも下火になってしまい、ついに中学時代に叶ケ獄から飯盛山に抜ける縦走ルート制覇の夢はかなわないままにはるかに時間が経過したというわけです。
最初に、旧糸島郡の今宿青木村側の登山道から、かのうがたけをめざすことにしました。
入り口に奉納してある杖があったけど、そんなん、むかああし、高校生時代にほいほいのぼっていた山なので、杖とかいらねえぜ。
登山始める前から、楽勝ムードだったのは、中学とか高校時代に何度ものぼっている、たかだか300メートル級のやまで、まず、かのうがたけを楽勝でのぼり、途中、きついとこもあるかもしれないけど、あああ、ちょろいもんだぜ。
憧れの飯盛山登山道も整備されてるってことだし、案外楽勝で制服できるはずである。
そんな生半可な覚悟で山をのぼりはじめたのが、間違いでした。中学、高校時代って、俺にとって、どのくらい前だと思っているんだよう。
すっかり忘れてたぜ、自分がぢぢいになっていることを!
実は二合目あたりでやはくも先頭を行くふたりに比べて極端に落伍しているではないかあ。どんなに急いでも気があせぶばかりで、のぼることが難儀なのである。
きつうううううい。途中でもう人間やめて、四足歩行に逆戻りしてでも、この石段をはってのぼりたいぜえええ。そんな情けない状況になったのです。
なにが、探検隊だあああ。それにしても同行二人はすいすいゆくなあ。俺はなんでまた、こんなに後方を一人でのぼってるんだろ。
縦走ルートは、実際は300から400メートル級の高いともいえない山々なのですが、なにしろ中学生時代からあこがれていた山道なので、実際に、こんな道だったのかあ、とても感動しました。
ここが、飯盛山に向かう分岐点です。現在は、山道が整備されているので、比較的わかりやすく道をたどることができます。
途中で数人の高齢者とすれちがいました。
『どちらからですか?』『飯盛山です』
『どちらまで?』『往復しています』
ええええー。同じ質問をしたけど、かえってくる答えは、俺がひーこら、へばっている登山道を往復していたりします。
俺なんかさあ。もーばてばてで、こうして、すれ違う高齢者にひとり残らず話し掛けるのも、話し掛けていたら、休めるぢゃない。
だいじょーぶですかあ。はるか前方から、ふたりの声がしますが、歩くだけでやっとだ。
そんな、さもしい根性で話し掛けていたのです、これだと、遅れても言い訳できますから。
でも、平たんや下りはまだよいのですが、のぼりがずっしりと足に答えます。ほとんど、自力で登れてないのではないか、気力だけでのぼっています。
一日四十キロくらい歩いていた15年以前の気持ちだけは、今も連続しているので、よけいに始末が悪いです。
遠くに、福岡市側の平野がみえます。かつては、どこまでみても、田園が続いていたのに、叶ケ岳側の山裾には、大型住宅地がはいあがっていて、ほとんど頂上に到達するひも近いのではないか。
振り向くと、はるかに叶ケ岳が見えます。もう、こんなに歩いて来たんだ。意外に近かったようなきもします。
いよいよ、飯盛山に向かう山道に入ります。山頂目指して、最後のがんばりです。中学時代から夢にみていた、縦走ルートをいきているうちに、ふむことができることがわかっていたら、高校生の時に、『度ぼらや突進隊』が作った山頂にかかげる旗を探してもってくるんだった。
高校生のころ、はじめて飯盛山にのぼった時、山頂には雑草がおおい茂り何も風景がみえなかった。
夏草の間に、倒れた石碑があり、文字を読むと、ここに飯盛神社の上宮があったことが記録してあった。お宮の残骸もあったとおもう。
今は、きちんと石碑が建てられていて、周囲の下草も刈り込んでありました。
度ぼらや!俺は縦走をなしとげたぜ。中学時代からの夢を達成して、うれしくなったものの、度ぼらやは、いきてはいるでしょうが、ずっと音信不通なので、このページに偶然たどりついて、当時を思い出してほしいぜ。
帰りは、山頂から金武側に下山します。
ここでも、高齢登山者にあったのですが、みんな急激なのぼりを一歩一歩踏み締め、しかも俺に挨拶するゆとりさえあります。
でも、俺は下りなのに、そんな余裕さえありません。
かつて、最後の急斜面だけが、やたらにきつくて、あとは、なだらかだったと感じていた登山道の全部が、とても厳しい勾配に感じられているのでした。
最後は枯れ枝を杖にして、はうように下り、ようやく二人に追い付くことができました。とても体力を消耗して、ついでに体力への自信まで喪失した。
子供の頃から、自転車でよく遊びに来ていた飯盛神社にたどりつきました。
知恵の泉を守る地蔵たちも健在です。僕はよく自転車でひとりで、ここに来ては、誰もいない泉の前で、地蔵たちと視線をあわせていたのですが、今は水をくみにくるひとたちが、次々にあらわれて、地蔵たちも孤独ではありませんでした。
ここだけは、何もかも昔のままでした。柿ノ木に熟した渋柿が実っていますが、今はカラスも食べないのか、実ったまま熟してゆくばかりです。
飯盛山。僕が日本でいちばん好きな山です。小さいころから、家の窓から見えていた、独特の山容は、とてもみじかな山でもありました。
荒江にいたときのマンションからも、その特有な山容がみえていたのですが、今も同じ姿でたたずんでいるのです。
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