化粧女王を探す長い旅 by 大王 |
県庁がこの場所からなくなって何十年もたつというのに、いまだに県庁跡地っていうと、ああ、そうだね、アクロスがあるところだよね。
福岡市の人々は、今でもそういう理解の仕方をしているのです。
ほんとうに県庁があった時代を知らない世代までも、何十年もたってから、この場所に立つときに、ここには本当は、県庁があったって、自覚しながら訪れいていて。
ケンチョウアトチにいって山に登りましょう。木目さんが、いつもと同じように唐突に提案したとき、僕はもう、3年の間に1度くらいのぼれたら、それでじゅうぶんですので、1年前に上っているし。もうけっこうです。そういって断る道もたしかにありました。
僕の悪い癖は、なにごとも「運命」と思ってしまうことでしょうか。他人の無責任な思いつき出会っても、提案されれば断れない。なぜなら、ここで断っても、それは運命なので逃れることができないのだ。
そう、考えて受け入れてしまうので、いろいろととんでもないことになってもいる。
ところで、木目さん。僕は話しかけようとしましたが、いつものように木目さんは、自分自身の世界にはいってしまい、僕の存在を失念したかのように、どんどん山に登ってゆきます。
しかも、山に登る速度を一定にしてほしいのですが、途中でたちどまって、胸のところについた何かをはらったり、突然たちどまったり、空をみあげたり、さっぱり一定ではないのです。
そこは、福岡市の人々にとっては、その山のことをなんと呼んでいるか知っていますか。
ケンチョウアトチに建ったアクロス山。
人々はこう呼んでいます。アクロスという、その建築物の正式名称は、ケンチョウアトチに建った、という修飾語がないと、出てこないのです。
木目さんは、なんども胸に手をやりながら、独り言のようにいったことを僕は聞き逃しませんでした。
ワタシ、昆虫が嫌いなのよね。
コンチュウガキライナンデスカ。ではなぜ山に。
木目さんに質問しましたが黙殺されました。
アクロス山は昆虫だらけだといえます。昆虫がぶんぶんしています。蚊もいるでしょうし、ヒメマルカツオブシムシもうようよいます。
タガメもいるでしょうし、蟷螂にくらいつかれて悶絶して死んでゆく甲虫だっているかもしれない。芋虫は、ほかの虫によってどんどん汁を吸われていますよ。
ちょっと物思いにふけりたいので、ワタシに話しかけないでください。特に気持ちが悪い昆虫の話題は絶対に禁止します。
昆虫っぽい、そのシャツも脱いでもらえませんか。
きっぱりといわれたので、僕はお気に入りの茶色の縞々が横に入っている、Tシャツを脱いで、だらしがないお腹がぶよぶよしているわが身をさらしながら、木目さんの後をついていった。
この日は、曇りでちょっと冷える。このままでは風邪をひいてしまうかもしれません。
木目さん。僕は寒いのですが。シャツをきてもいいですか。
だめ。山に登っているうちに暖かくなりますから。我慢してください。
風も出てきました。この日、通行人も実のところ、たくさんいたのです。すれ違うたびに、木目さんの後を上半身裸でついてゆく僕は、人々から冷たい視線や、軽蔑の視線。そればかりではない。視線を浴びるのはまだずっといいほうでした。
すれ違う人々の中には、木目さんがやってくるのを、うっとりと眺めていて、背後にワタシが、上半身ぶよぶよの肉体をさらしているのをみたとたん、ワタシが透明になったように、まるでどこにもいないかのように、視線を合わせないですれ違う人まで出てきました。
木目さん、このままでは、僕はアクロス山の登山者から警察に通報されてしまいます。そんなにさっさと歩かないでくださいよ。
僕がまるで、木目さんを追いかけているようにおもわれるぢゃないですか。通報されたら、僕はどうすればいいのですか。
せめて、手でもひぱっていてくださいよ。そうしたら、木目さんは、別に僕を怖がってはいないということを周囲にアピールできるので、通報される危険度はぐっとへります。
さぶいぼや、鳥肌がにょきにょき出ています。お腹も冷たくなってしまい。このままだと確実に風邪を引いてしまいます。
昆虫のようなシャツを着てきた僕は確かに悪かったです。以後、昆虫柄のシャツは着ません。
福岡市民でもあまり知っている人はいないのですが、ケンチョウアトチノアクロス山の頂上から、土曜日の午後6時から30分おきにバスが出ています。
頂上に行けるのは、土曜日だけですし、このバスはアクロス山を始発にはしているものの、次の停留所からは一般的な停留所に停車してゆき、博多駅に向かうので、なにもここからわざわざ乗る必要もない。
木目さんは、苦労して頂上にたどり着き、そこから始発のバスに乗って、下に急降下するように降りてゆくことが、たまらなく好きだというのです。
落下してゆく感じがあるでしょ。あれが好きなんです。
好きなんです、って言われても、そんな。ジェットコースターにでものれば、落下感覚なんて、くらくらするほど体験できますよ。
しかし、落下感覚で地上に出てしまうと、その後は、あたりまえの路線バスになってしまうので、もう、あの感じは体験できません。しかし、あそこから来たんだ。誰も知らないだろうけど。
せっせと山に登って、そして頂上のバス停から始発バスに乗って、地上に降りてきて、博多駅についたんだ。
そういう実感のようなものは、誰よりも強いのです。
木目さんはそうかもしれませんが、わざわざアクロス山に登山して、そこからバスに乗る、酔狂なことは僕には理解できません。始発をあそこにしたバスr路線があること自体、理解できませんけどね。
僕は、そういって同感でないことを伝えようとするのですが、木目さんはきっぱりと、こういうのです。
「あなただって楽しんだでしょう。頂上から始発バスに乗れることが、きっとあなたにとっても、うれしかったはずです。正直に生きましょうよ!」
通路は不思議なところでした。歩いている人がほとんどいないのです。人がいないのに、こんな広い通路が地下にあるなんて、無意味ではないのか。僕はそう思っていると、木目さんは、僕の心の動きを見抜いたかのように、こういいました。
無駄ではありませんよ。私たちがここを今歩いているではないですか。無駄ではない証拠ですよ。
無駄に歩いているのは私たちではないでしょうか。根源的な指摘をしたのですが、木目さんは答えてくれません。
やがて。歩き回る木目さんは、地下通路をどんどん先に行くと、途中で地上への階段をみつけて、あがると、そこは建物の内部になっていました。木目さんは自分の部屋のように、そばにある椅子に座りました。
ここに、こうやってくつろいでいると、きょうの最初の出発点のことを思い出すでしょう。
出発点ですか。
そうですよ。県庁跡地のアクロス山に登り始める直前の自分自身です。それを思い出しませんか。
思い出すも何も、ほんの1時間も前のできごとですよ。まだ忘れてもいません。
バスに乗っていた時間を思い出してみましょう。鮮明に思い出すことができます。
だって40分もたっていないから、思いでもなにも現実のできごとですよ。
40分も前になったんですよ。過ぎた時間は決して戻ってきません。アクロス山に登って頂上からバスに乗ったことが夢のように懐かしく思い出されることはありませんか。
思い出すまで、瞑想してください。
思い出したいけど、まだ忘れていません。
思い出すのです。
木目さんの言葉を聞いているうちに、ほんとうに思い出すようになってきました。そうだった、アクロス山にのぼる途中で、木目さんに気持ちが悪いといわれたシャツを脱いで、上半身裸のままで、木目さんの後についていったんだった。
そんなことまで思い出します。
思い出していると、現実よりもうっとりとしてくるでしょう。たったさっき過ぎたばかりのできごとなのに、今ではすっかりと過去のことになってしまいますよね。
過去はすべてが美しいではないですか。上半身裸で、お腹を出していたあなたも、思い出の中では、それなりに尊い記憶としてよみがえります。
博多駅の地下通路が、どのように広がっていて、どうなっているのか。実際のところ、意外に複雑だということを知ったのは、木目さんが歩く後から、ついているうちに、そう気がついたのです。
階段を下りたり、あがったりしながら、誰も知らないような通路があちこちにあって、かなりの距離を、地上にでないまま行くことができるのです。
いつのまに、こんなに発達した通路が縦横に建設されていたんだろう。
迷ったら出れませんよ。木目さんは、笑顔で言いながら早足でどんどんいってしまいます。
そんなに早足で歩かないでください。階段を登るときは特にお願いしますよ。僕は方向音痴なんですよ。こんなところではぐれたら、どうにもなりません。
正直、上り下りを繰り返すうちに、ここが何階なのかさえ、よくわからなくなってきた。
ここは何階なんでしょうか。ずいぶん長い時間を歩きました。周囲には誰もいません。
こんなところを良く知っていますね。
天神地下街よりも長大な地下通路が博多駅周辺にあることは、ほとんど知られていません。必要があってできたものなのかどうかもわかりません。
ここから先は、どこかの建物の中に入るのですが、地上からこの建物のこの場所にたどりついたことがないのです。
いつもこのルートでしかたどりつけないし。
どこなんでしょうね。こんな困難な順路でたどり着いた場所には、何があるんですか。
椅子が置いてあります。
椅子ですか?
椅子です
エレベータを登る木目さんは、突然無口になりました。
もう、そういう木目さんの突然の変貌にも慣れていたころでしたので、別に気にはなりませんでしたが、「部屋」につくなり、ほんとうに中央にひとつの椅子があったのにはびっくりしました。
着きましたよ。
木目さんが口を開いていました。でも、僕のことは、また眼中にもないようなありさまです。
木目さんはすっかりくつろいでいます。
木目さん。椅子は誰のために置いてあるんでしょう。僕らだって、ここに来るのは、最初で最後かもしれないでしょう。
まあ、ゆっくりしましょう。
僕は、地下何階なのかわからないけれど、そこに部屋があるだけでも不可解なのに、そこでくつろぐ木目さんが、ますます分からない存在になりました。
ここにいると、とっても気持ちが落ち着くんです。
僕は落ち着きませんよ。誰も知らないこの部屋で、そのまま餓死したらどうするんですか。このまま誰にも知られないで、くつろいだまま死んだらどうなるんですか。
全然落ち着けません。
コートを脱いだ木目さんは、いよいよくつろいでいます。
そんなことを言っていないで、思い出を楽しみましょう。木目さんは、僕に、再び思い出を強要しはじめました。
とても思い出を楽しむ気になりません。さっきは、なったけど、今度はなれませんよ。
なぜですか。
だって、ここがどこなのか、地上に戻れるのか、不安でたまりません。こんなところに部屋があるだけでも不審なのに、椅子が2つおいてあるって不自然じゃないですか。
ところで木目さん。僕は自分の不安に気をとられて、気がつきませんでしたが、木目さんはリラックスしていないようにみえますけど。
そうですか。
リラックスしていない証拠があります。今はいえませんけど。
そんなはずはないですよ。私はリラックスしています。とても落ち着いていますよ。
木目さんは自分の言葉とは裏腹に、とても落ち着かない視線で、あちこちの壁を見ていた。
そうして椅子からついに立ち上がった。
どうしましたか。
壁の高さが気になったものですから。どのくらいの高さがあるのか図ってみたくなりました。
壁の高さを測るために、どうぞ立ち上がってください。僕は別に、木目さんが落ち着かない気持ちでいるからって、ほらみたことですか。なんて責めるつもりもないですよ。高さだけではなく、壁の厚みも確認してください。
木目さんは、壁の厚みも点検しはじめた壁によりかかって、十分な厚さがあり、仮の板とかではないことを確かめた。
どうですか、厚みは十分ですか。それより、外に出られるんですか。僕は心配でなりません。
そうですね。そろそろ出ましょうか。
木目さんがやっとここを後にする気になったので、僕も、これで外に戻れるとほっとしたときだった。
木目さんは出口が分からなくなったのか、部屋の中の階段のどこを降りてゆくのか、登ってゆくのか、失念してしまっているようなのだ。
どこから降りてゆきましょうか。
ええー。木目さん。方向音痴の私に聞かないでください。
たぶん降りるとおもうのですが、ちょっと確信がなくなりました。困りました。迷ってもよければ、どっちかに決めてそこを進むだけです。 消化設備もあるし、どこに出ても迷うこともないでしょう。とにかくここを離れましょう。
脱出しようと、思い切って階段を下りることにした。登ると早く出れそうだが、それはわなかもしれないし。
木目さんは下を選んだ。
見覚えのある金色の柱に囲まれた空間を通過した。ここだった。ここを通ってきたのだ。
やがてぬか喜びだったとは知らずに、僕も木目さんも大喜びした。
駐車場に出た。どこかのビルの地下駐車場だ。少なくとも、ここから地上には、確実に出れる。車の出口をたどればいいので。
ほっとした安心感が油断だった。
出口と書かれた出口をたどってゆくと、元いた場所にもどってくる。車ではないので大変な距離を歩いてもとの場所に戻ると大変な徒労感がある。
確信に満ちていた木目さんが、はじめて不安を口にする。これはいよいよ、ほんとうに迷ったんだ。さっきの場所に戻って最初からやりなおしたほうがいいのだろうか。
駐車場を延々と歩いていると、少し違う場所に出る。この際、人間がいそうな場所であれば、どこでもかまわない。
バスを待つ楽しみを知りませんか。バス停でずっとバスを待つんです。待っても待ってもバスは来ない。
いやですよ。バス停に来るか来ないかもしれないバスを待つ時間ほど耐えられない時間はありません。楽しみなんてとんでもない。携帯電話でバスの接近を知るサービスがはじまったとき、やっと不愉快なバス待ち時間が解消される。どんなに喜んだかわかりません。
バスが大好きな私たちにとって、バスに乗るだけでなく、バスをこうして待っている。その時間も楽しみのひとつですよね。バスはちっとも来ない。でも、来るかもしれない。その楽しみを奪うのが、あなたがいま発言したバス接近システムです。許せません。
ワタシタチ、と言いましたけど、私は含まないでくださいね。私はそれほどバスが好きではありません。バスを待つ時間がとてもイヤだというのはほんとうですし。
木目さんは、少し失望した表情をした。
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