化粧女王を探す長い旅 by 大王 |
私の顔も、これで見納めですね。
バッテンサンガ笑顔で言うので、そのときは、本当にそうなるとは全然思いませんでした。
ちょっと座ってください。話しておきたいことがあります。
ここから出られるようになるのはいいのですが、私とはもう会う事はできません。これからは一人で歩いてゆくのですよ。
なんて快活な笑顔なのでしょう。一人でゆくなんて、そんな孤独な旅になるのは、まったくいやです。
テノタビとはそういう旅なのです。
テノタビと発音するときの声が裏返りました。なんで、こんなところで裏返りするんだろう。そんなに緊張する場面でもなさそうなのに。
手を机の上に置いて、バッテンさんは、再び沈黙の世界に戻りました。まるで、自分の手と見納めであるというかのように。
バッテンさんの姿がだんだん薄くなってきました。どんどん姿が遠くにかすんでゆきます。ここがどこのビルの屋上だったのか、背後に映るデザインで分かりました。
このビルの屋上は、かつてビヤガーデンだったはずです。
何か覚えておきたいことがありますか?
それがバッテンさんの最後の質問だったように思います。記憶を失う魔術でも使うかのような言葉ですが、今でも、この言葉を覚えているくらいなので、バッテンさんは、どういう意味で、こんな言葉を最後の言葉にしたのか。いまとなっては、わからないのです。
バッテンさんはいっしょに出てゆかないのですか?
私はいっしょに行きたいけど、いまは行きません。
永遠に出てゆけなくなるかもしれませんよ。どこにもいけなくなってしまったら、どうするんですか。ここで孤独に年齢を重ねるとでもいうのですか。
そんなおおげさなことをいって、一人で行きたくないから、そんな脅しても無駄ですよ。
そうですか。わかりました。ここから一人で出てゆくことにします。
こうして、手の旅が始まりました。いっしょに出てゆけなかったけれど、バッテンさんの思い出に、手の姿を思い浮かべる事にしました。
バッテンさんは、いないけれども、バッテンさんの手はいつも、いっしょにいる。
そう思えば一人の旅もまた楽しいものです。
楽しいものですよね。
バッテンさんの手に向かって語りかけると、ばってんさんの手は、金属のカップを握り締めて何も語りませんでした。手には口がないので言葉が出せないのですが、何かを語ろうとするときは、すぐに分かるのです。でも、このときは何も語りませんでした。
バッテンさんはいなくなったわけではありませんでした。
バッテンさん。
語りかけても何も答えてくれません。でも、返事がないけれども、手を見ていられる。手は何も答えないけれど、いつも隣にいるのです。
手の旅。。。バッテンさんは、どこにいったのかわからないけれど、これはナカナカいいぞ。とってもイイ。
アイスカフェモカを握り締めた手は、カップを横にしても中の液体がこぼれないし、強く握っても軽く握っても、言葉こそないものの、いろいろなことを語りかけてくれます。
アイスカフェモカはおいしいですか。バッテンさん。
このときまでは、手だけが見えるのではなく、手の周囲に写っているいろいろな風景が、店の風景であるとか、街の風景であるとか、手のほかに、いろいろなところもいっしょに見えていました。
それは、あたかも、ほんとうはバッテンさんの全身が、そこにあるのに、私が意図的に手だけに視線を集中しているようでした。
実際には、バッテンさんは、私の隣にずっといたに違いないのです。
しかし、見たことはありませんでした。消えてなくなってしまったバッテンさんを、隣に実在していたかもしれないバッテンさんのことを、思いながら、手しか見てはならないので、手としてのバッテンさんと対話していたのでしょうか。
別に淡々としたものです。ところできょうはどこに行きましょう。
まだ、手だけを見つめていることに、緊張していたので、トコロデ、ドコニ行きましょう。言われたときには、いったいどうしたらいいのか、頭が混乱してしまいました。
手しか視界に入らなくなり、言葉がなくなったバッテンさんですが、手を通じて様々なことを、語り掛けてきました。
例えばこういうことがありました。
体調が悪いときは、手に血管が浮き出てくるというので、ケッカンが浮き上がってくるのをじっと待っています。
どうですか。浮き上がってきましたか。
浮き上がってきたけど、浮き上がりかたが満足ゆかないのです。こんな風ではなくて、もっともっと派手に浮き上がらない事には。
体調の悪化を願うようなことを言わなくてもよいではありませんか。浮き上がらないのならそれにこしたことはないし。
どうして、浮き上がらないんだろう。浮き上がってほしくないときには浮き上がっているのに。
バッテンさんはとても残念そうでした。あきらめきれないように、血管が浮き出ている右手を、いつまでもいつまでも壁に貼り付けているのでした。
また、こんなこともありました。
イシノウエニ手を置くと、ひんやりして気持ちがいいですよ。
石ノ上ですね。石が冷たいからでしょうか。
石は冷たいのだけど、手は暖かいから、ひんやり感がすごくあるのです。こころのなかまで染み入るひんやり感です。そんな感じってわかりますか。
きょうは、疲れています。聞きたいことがあるなら、できるだけあすにしてください。
いきなりそんなに牽制されると、何も聞けませんよ。
少しなら聞いてもいいですよ。
少しってどのくらいですか。
そんなことを言っているから、バッテンさんは、このあと、とんでもない目にあってしまうのですが、このときは、もちろん予測もできませんでした。
バッテンさんの手は、だんだん透明になってゆくような気がします。
そんなのは初耳です。
こうして、両方の手で、ゆっくりとツボを押してください。鉄骨の筋に沿って、こう、ゆっくり強くならないように。
こうですか。
そうぢゃありませんよ。こうです。
まあ、いいでしょう。
鉄骨のつぼを押してなにがどうなるというのですか。
弟子はつべこべいわずに私がやったとおりにしてください。
いつのまに弟子になったのだろうか。弟子になった覚えはなくとも、こうしてつぼ押しを学んでいると自動的に弟子入りしてしまったようなのです。
つぼを押すタイプのマッサージは、もみごわりという反作用が出てくるのが難点です。
モミゴワリですか。
そっと触れるタイプは、こちらになります。
指先で触っているだけのようですが、ほんとうに効くんですか。
効くんですね。これが。
よいですか。力を入れる必要はありません。ここです、この指先にある鉄板のくぼみ、ここがつぼです、ここを指先でそおっとつついてください。力を入れているかいないか、ぎりぎりのところです。
ここですか?私にはよくわかりません。バッテンさん。
師匠と呼んでください。これをしているときは私は師匠です。
ハイ。敬礼もしてしまいました。そうして、あのできごとがやってきました。予期していなかったので、まったく驚いているのです。
え?
ほら、あそこを脱出した後に話していたことがあるでしょう。手が筋張る事があるって。
ええ。思い出しました。あのときは筋張らない、筋張りが不十分だといっていたことですね。
だんだん筋張ってきました。すこしづつ、こうして血管が浮き上がってくるのがわかります。
私にはよくわかりませんが。
そんなものですか。
そんな悠長な答えでどうするんですか。筋張っている私の身にもなってください。
痛いんですか。
痛くはないけど、筋張る気持ちというのが、どんなものなのか、話すことができないのがもどかしい。
花にかざすと、筋張ってくるのがみえるかもしれませんね。この花に手をいれてみましょうか。
はい。見えるようになればいいですね。どうですか。
だんだん誰の目にも筋張りがあきらかになりつつあります。
ああ!そういえば見えてきました。
ねえ。見えてきたでしょう。これです。これなんですよ。
黄色の花と対比すると、筋張ったところがはっきりみえます。
バッテンさんは、とても満足そうでした。あれほど、見せたかった筋張る手の姿が、現実に進行しているのが、とても充実しているようなのです。
満足ですか。
いいえ、まだまだ、こんなものではないのです。もっともっと筋張ります。こんなものは、まだまだです。
サイコウチョウって、いったいどんな筋張りなのでしょう。
これまでの筋張りなんか、ものの数にも入らないような、とんでもない筋張りが出現するはずです。
しばらく黄色の花をはさんで、じっとしていますが、筋張りは、目立ってきたのは瞬間的なものだけで、やがて、次第に平穏になってきます。
ああ、イケマン。だんだん、筋張りが消えてゆきます。どうしましょう。もっと最高の筋張りをお見せしたいと思っていたのに。みせることができなくなります。
いいですよ。また筋張りが出てきたときに続きをみることにしましょう。
黄色い花にからんだような手は、こころなしか寂しそうです。
黄色の花に、筋張りを吸い取られたのかもしれません。
バッテンさんは、そう寂しそうに話しました。
筋張った手は、次第に穏やかになってきたので、池をみにゆきました。
手の旅もいよいよ、新しい段階に進むのですね。
ゆったりとして、返事もありません。
手は木につかまったまま、すましています。さっきまで、多少の筋張りが残っていましたが、今はその痕跡さえありません。
どうですか。
バッテンさんは、しばらく木にとまっていましたが、その後、コマイヌの足にとまりました。
コマイヌの足はどうですか?
こうして手の旅は、順調に進んでいるようですが、バッテンさんにお願いして、手だけではなく、バッテンさん本体に戻って欲しいと熱心に頼みました。
熱心に頼むとものごとは開けるということです。
気が向いたらね。気が向いたら元に戻るけど。気が向かなかったら、手のままでいたいです。
テノタビヲはじめてから、誰にも会わない日が続くようになりました。
誰にも会わないで、すぎてゆく時間というのは、長いようでもあり、永遠のようでもあります。別に誰と口を聞かなくてもかまわないのだけど、社会性というのですか。
社会性がかけてしまったら、手のたびが終わったときにどうなってしまうんだろう。
寂しくもありますが、いつかは手のたびも終わってしまうし、社会に戻ることも考えたら、こんないつまでもぼんやりしているわけにもゆきません。
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