『前線』
犬養楓
四六判、並製、144ページ
定価:本体1500円+税
ISBN978-4-86385-448-2 C0092 2刷
咽頭をぐいと拭った綿棒に百万人の死の炎(ほむら)見ゆ
救命救急医が新型コロナウイルス禍の現場から歌を届ける。
この閉塞状況の中、すべての医療従事者とすべての名もなき人々のために。
緊急事態宣言が連発され、本来の非日常が日常化していく中で、言葉が持つ力が次第に弱まっていくことを危惧している。しかし映像では伝わらない出来事や、声にならない声を言葉にすることが、現在の第三波まで続く不連続な局面を打開する希望になると信じている。
そしてまた、その不確実さや不連続な状況にもまれながら、医療従事者が目の前の出来事に、どう向き合ってきたかをこの禍が過ぎ去ったあとにも残しておきたいと思い、歌を詠み続けている。(著者あとがきより)
2021年2月全国書店にて発売。
★NHK関西にて、著者の犬養楓さんがご出演しました。視聴はこちら
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【収録歌より】
マスクでも感謝でもなくお金でもないただ普通の日常が欲し
世の中の風当たりにも耐えるよう防護ガウンを今日も着込んで
昼が来て夜が来てまた昼が来て看護師はこれを一日と呼ぶ
一日はかくも長きか口と皮膚覆われ今は肩で息する
感染者最多でなければニュースでは天気予報のような扱い
病棟に展開したる前線の向こう側へと常に降る雨
この波を越えたら出そうと退職の書類が三度眠る引き出し
モニターの音は消されて午前二時冷えたガラスを叩く五月雨
必要に迫られ買った歯ブラシの悲しみに似た深く濃い青
逝きて後PCRの結果出て今年の冬に人は二度死ぬ
呼吸器を外せばすなわちこの世とは一つの大きな肺胞である
少しずつ枕詞を変えながら「我慢の連休」「勝負の三週」
口元が露わになれば恥ずかしくいつの間にやらマスクは下着
【著者プロフィール】
犬養楓(いぬかい・かえで)
1986年愛知県生まれ。
18歳より短歌を始める。
現在、救急科専門医として救命救急センターに勤務。
2019年「令和万葉集」をインターネット上で発表。
cakesクリエイターコンテスト2020佳作。
第63回短歌研究新人賞候補。
note:tanka2020
twitter:@tanka2020
掲載情報
中日新聞(1月26日)、東京新聞(1月30日)
《冒頭の歌は、自身が感じる世間の偏見を表現した一首。医療従事者として、今回の事態に向き合わなくてはならないが、外出する人の減らない理不尽さや、緊張の続く過酷さに逃げ出したくなることもある。そうした思いを短歌にすると、生身のコミュニケーションでは言いにくい内容も「踏み込んで表現できる」と感じている》 全文はこちら
毎日新聞(2月10日)
《20年9月にコロナによる世界の死者数が100万人を超え、その3カ月半後には200万人を突破した。先の見えない闘いが続く中、「一人一人が行動を変えない限り、感染者の悲しみや医療者の負担は募っていく」と危惧する。「声にならない現場の声を言葉にすることが、今の不連続な局面を打開する希望になるはず。言葉には人を動かす力がある」。そう信じている》 全文はこちら
産経新聞(3月7日)
《「コロナ禍は、百年に一度の出来事。その時に起きたこと、感じたことを言葉として残しておかなければ、また同じような悲しみが生まれる可能性がある。ワクチン接種のことや第4波のことなど、これからも引き続き詠んでいきたい」》全文はこちら
日本海新聞(3月11日) 評者=大井学さん
《医療は命に対する応援だ。いつかは死ぬ人間を「今は」死なせないことが医療の本質だとすれば、敗北を前提にしながら、けれどその重みを患者に感じさせまいとするのが、医療。炎や「聞こえない」心音は、医療者にとっての慚愧だろうか》
毎日新聞(3月31日)
《日常の一瞬を切り取る短歌は、コロナ禍のような大きな出来事も身近な視点から記録できる。(…)「医療従事者が目の前の出来事に、どう向き合ってきたかを残しておきたい」。過酷な勤務の中、歌を作り続ける》
朝日新聞(4月21日)
《「もちろん責任感をもって診療にあたっていますが、使命感だけで乗り切るのは難しい。自分の場合は普通なら心に秘めて過ごす思いをオブラートに包まずに短歌で表現したことで、翌日からまた少しすっきりした気持ちで診療を続けることができた」と振り返る。(…)『前線』というタイトルは、救急医療の現場の前線で働くという自身の状況に加え、「感染」「清潔」、「救える」「救えない」といった二つの異なる概念がせめぎ合う境界線上でもまれているコロナ禍の現状も表している。「いまは極めて厳しい状況だが、ここで感染を抑え込めたら、ワクチンという希望もあり、未来はあると思っている。短歌を通してあともう一踏ん張り、一緒に頑張ろうというメッセージを送りたい」》
北海道新聞(5月15日)
《一人の医師にできることは限られても、歌人としてできることはまだあると力を込めた。「歌で共感を得て人々の行動を変えることにつなげられたら、と思っています」》
「未来」第七十一巻 第五号 評者=盛田志保子さん
《現役の救急科専門医である歌人が新型コロナウイルス感染者治療の最前線を詠む。葛藤や辛さを抱えながら日々命がけで職場へ向かう医療従事者の声は、歌という形を持つとき、ニュースで知るのとはまた違う湿度や温度で胸に響く。(…)振り回されながら今を生きるしかない人類。そして今という現実は過去と未来をわける「前線」なのだと思った》