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アメリカをさるく

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中濱万次郎のこと

 ニューベッドフォードから川をはさんでフェアヘイブンという町があり、ここは日本とのゆかりが深い。あの中濱万次郎が最初に住んだ地だ。ジョン万次郎といった方が分かりが早いか。かねてから話は少し聞いていたので、足を運ぶつもりではいた。
 ニューベッドフォードの捕鯨博物館を最初に訪れた時のこと。広報担当のモッタ氏は私が日本人と知ると、開口一番、館内にある万次郎ゆかりの展示物に私を案内した。「実は来週(30日)日本から多くの人たちがこの博物館にやってきます。ドクター・ヒノハラという人をご存知ですか。彼が、フェアヘイブンのマンジロウのホームを保存するのに多大な貢献をされており、マンジロウ・フェスティバルで来られるのですが、ドクターは近々100歳の誕生日を迎えられるので、その誕生祝いもあると聞いています」と語る。
 フェアヘイブンにあるという万次郎が住んでいた家を訪ねてみた。万次郎は江戸時代の1841年、現在の土佐清水市から漁に出ていて、船が嵐に遭い、無人島に漂流。当時14歳の少年だった万次郎を含む漁師5人を救ったのが、ニューベッドフォード出港の捕鯨船であり、その船長のウイリアム・ホイットフィールド氏が最年少の万次郎だけを伴い、2年後の1843年に帰港し、自分が住んでいたフェアヘイブンの家に彼を住まわせる。アメリカ本土に住んだ初の日本人が万次郎ということになる。船長は彼をここで学校に通わせ、万次郎は英語だけでなく測量やナビゲーションも学んだ。彼が帰国後、鎖国から明治維新へかけて日本の近代化に貢献したことは歴史に刻まれている。
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 彼が住まわせてもらった船長の家はWhitfield-Manjiro Friendship Houseと名付けられていた。フェアヘイブンにあるホイットフィールド・万次郎フレンドシップソサエティーの理事長、ジェラルド・ルーニーさんに案内してもらった。このフレンドシップハウスがオープンしたのは2009年5月のこと。家が売りに出されていることを知った万次郎ファンの聖路加病院理事長の日野原重明氏が孤軍奮闘し、記念館として残す保存運動に尽力された経緯をジェラルドさんは縷々(るる)説明してくれた。
 10月1日に13回目になるマンジロウ・フェスティバルが催されることもあり、土佐清水市の人々と一緒に日野原氏が来訪する運びになっているという。「博士の100歳の誕生日は10月4日ですが、100歳の誕生日を迎えるに当たっては、我々のところに来ると前々から約束されていたのです。それでフェスティバルの前日の30日に皆でお祝いをする計画です」とジェラルドさんは語った。
 万次郎の子孫の中濱家の人たちとホイットフィールド家の人たちは今も親密な交流を続けていることも知った。少年万次郎は無学に近い身で一人アメリカに連れてこられ、家族や故郷から遠く離れ、手探りで英語をそしてアメリカという国、社会を学んでいったのだろう。その辛苦は私たちや今の若い世代が留学して味わう苦労とは比較することさえはばかられる。
 (写真は、マンジロウの記念館でマンジロウゆかりの品を説明するジェラルドさん)

ハーマン・メルビル (Herman Melville) ③

 ニューベッドフォードの人々はメルビルに対してどういう思いを抱いているのだろうか。捕鯨博物館の広報担当、アーサー・モッタ氏に尋ねた。
 「この町は今も漁業が盛んです。特にホタテガイ(scallop)で知られています。捕鯨は姿を消しましたが、漁業全体の漁獲高では今なお全米一です。多くの人がこの町の名を高めたメルビルに畏敬の念を抱いています。今も高校で“Moby-Dick” を読むことは必須となっています。私も高校時代にその難解さに苦労しました。読破はできませんでしたが」
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 作家に敬意を表し、博物館では15年前から毎年1月に、“Moby-Dick” を25時間で音読してしまうマラソン・リーディングを催している。今では1月の恒例の行事として定着、世界中からメルビルファンが集う場となっている。「でもご承知のように、この作品は音読も難解。あれだけの長編だからどの部分に自分が当たるか予測も困難。でも、多くの愛好家が集っています」とモッタ氏は語る。
 メルビルは自信満々で“Moby-Dick” を発表したが、評判は散々。彼は結局NYで税関に勤め、糊口を凌ぐが、家庭的にも幸福な家族とは言えなかったようだ。1891年に死亡した時、NYタイムズ紙に、「メルビルはとっくに死んでいるものと思っていた」という死亡記事が掲載されたという。彼の作品が再評価されるのは死後20年後のことだった。
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 メルビルの不幸は “Moby-Dick” で訴えようとしたことが、当時の社会には理解できなかったことだ。私の手元にある米文学案内本には、メルビルが描いた捕鯨は人間が知識を追求する a grand metaphor (壮大な隠喩)であると解説されている。エイハブ船長に率いられた船は白鯨に砕かれ、イシュメールただ一人を除き、藻屑となることが象徴するように、いくら自然科学の知識を身に付け、機械化が進んでも、人間(文明)が白鯨(自然)を凌駕することはないとのメッセージが読み取れると。
 捕鯨活動が世界中から疎まれる今日では想像しにくいが、鯨油を求めた捕鯨業は石油が見つかるまでは大事な産業であり、漁港に恵まれたニューベッドフォードのあるニューイングランド地方では都市の発展の原動力となった主力産業だった。その意味ではメルビルが描いている世界は当時はかなりの「普遍性」がある物語だったのだろう。
 手元の文学案内はこうも述べている。「小説のエピローグ(結末)は悲劇性を和らげている。メルビルは作品を通し、友情の大切さ、異文化との交流の大切さを強調している。捕鯨船が破壊され、イシュメールが助かるのは彼の友人となった人食い人種で銛打ちのクイークェグが作った棺桶が海面に浮かんでいたからだ。Ismael is rescued from death by an object of death. From death life emerges, in the end. (イシュメールは死の淵から死にまつわる物体により救われる。死から最終的に生命が生まれる)」。メルビルは人間の無限の可能性を最後まで信じていたのかもしれない。
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 (写真は上から、ニューベッドフォードで遭遇した海の幸を味わうイベント。名産のホタテを揚げているところ。これはグリルしたホタテで一皿7ドル。うまかった)

ハーマン・メルビル (Herman Melville) ②

 ニューベッドフォードに来たら、ここに行こうと決めていた。ダウンタウンにある捕鯨博物館だ。一階の受付で訪問の意図を告げると、入場料を免除してくれた。クジラについて色々と学んだ。leviathan (リバイアサン、海獣)とも称される地球上で最大の動物のクジラが大きいことは承知していたが、巨大なクジラになると、人間2500人分、ゾウの40頭分に当たる200トンの重さになるという。
 目指すは『白鯨』のコーナー。作家のメルビルは1819年に生まれ、1891年に没している。彼が生きた時代はニューベッドフォードが先に書いたように世界の捕鯨業の中心地として栄えた時代とぴったり重なる。NY生まれの彼は生活苦から1940年にニューベッドフォードに来て、小説の語り手イシュメールのように捕鯨船の船員となる。
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 「メルビルがここに来た時は21歳の背の高い、十分な教育を受けていない男でした。彼の船は1941年1月に出港し、彼は途中で航海の厳しさから船から逃げ出すなど苦労を重ね、3年後の44年に帰港。船中で手に入るあらゆる本を読みふけり、帰港後も歴史から宗教、自然科学など幅広く勉強して、作家として独り立ちしました」「小説は二人の男の探求の物語です。自分の左足を食いちぎった白鯨を執念で追うエイハブ船長と、神秘に満ちたクジラと人生の真理を追うイシュメールの物語です」などと紹介されていた。
 再び図書館。小説をめくっていて、思い出した。私がこの小説を読破できたのは7、8年前のことだが、以下のようなクジラを食する国民として興味深い章に出くわして、この章がもっと早く出てきていたなら、もっと早い時期に読破できていたのではと思ったことを。「料理としてのクジラ」(The Whale as a Dish)というタイトルの第65章だ。
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 It is upon record, that three centuries ago the tongue of the Right Whale was esteemed a great delicacy in France, and commanded large prices there. (300年ほど昔、フランスではセミクジラの舌は大いなる美味として珍重され、高価な値がつけられたことが記録として残っている)The fact is, that among his hunters at least, the whale would by all hands be considered a noble dish, were there not so much of him; but when you come to sit down before a meat-pie nearly one hundred feet long, it takes away your appetite. (実は、捕鯨に携わる者の間では少なくとも、誰に聞いても、クジラが立派な料理であると認めることだろう。あれだけの量でないとしたらの話だが。30メートルも長さのあるミートパイを前にしたら、誰でも食欲が失せるというものだ)
 正直、私は欧米諸国が捕鯨に精を出したのは、クジラの肉を求めてのことだとずっと思っていた。だから、灯油あるいは潤滑油としての鯨油が目当てだったとこの小説で初めて知った。だから、第65章を読み終えた時は、思わず、「そうだろ。日本とノルウェーの捕鯨を少しは理解して欲しいよな」と心の内でつぶやいたものだ。
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(写真は上から、小説ではWhaleman’s Chapel と記されているSeamen’s Bethel教会。説教壇が船の舳先のようだ。メルビルが実際に座った信者席だという表示もあった)

ハーマン・メルビル (Herman Melville) ①

 “Call me Ishmael.” という書き出しで始まる小説 “Moby-Dick” (『白鯨』)は1851年に書かれた。私は大学1年生の米文学の講義でこの作品に遭遇。いや、難しすぎて、正直に告白すると、最後まで読み通せなかった。それでもレポートは提出した。いや、何を書いたかろくに覚えてもいないから、惨憺たる内容だったことは間違いない。それでも、単位はもらえた。この旅に立つ直前、何十年ぶりに再会した先生にそのことを問うたところ、「いや、君は確かきちんと講義には出席していたと思う」と温かい言葉をかけてもらった。
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 “Moby-Dick” を読破していないことがずっと気になっていた。それで社会人になってからも改めて原書を買い求め、何度となく読み通そうとして、ことごとく「討死」した。文章が難解なのはもちろんだが、捕鯨のテクニカルなことが記述されていて、途中で投げ出したくなり、事実、投げ出したのだ。今回の旅で出会った読書好きの人々にも、あなたは“Moby-Dick” を読んだことがありますかと尋ねた。多くの人が、いや、途中で読むのをやめたと言った。私だけではない。ネイティブの人でも苦労するのだ。少し気が晴れた。
 ニューベッドフォードに着いて、図書館で改めて“Moby-Dick” を借り出してぱらぱらとページをめくってみる。以下のような文章に出会うと、思わず、ほほが緩むというものだ。
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 So, wherever you go, Ishmael, said I to myself, as I stood in the middle of a dreary street shouldering my bag, and comparing the gloom towards the north with the darkness towards the south—wherever in your wisdom you may conclude to lodge for the night, my dear Ishmael, be sure to inquire the price, and don’t be too particular.
 (お前さんがどこに行こうと、イシュメールよ、と僕はバッグを肩にして憂鬱な通りに立ち、北の陰気さと南の暗さを比較しながら、自分に向かって言ったんだ。お前さんが知恵を働かせて今宵の宿を決める際には、親愛なるイシュメールよ、必ず、値段を確認することだ、細部にこだわってはならないよと)

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 今の私と全く同じだ。私はイシュメールのように、葬式の列に出合うと最後尾について歩きたくなったり、また表に飛び出すと歩いている人たちの帽子を次々にはたき落としたくなったりして、そういう気分の時に無性に海を目指したくなる性分ではない。だが、今回の旅に出て以来、ほぼ連日、ホテルやホテル斡旋業者にメールや電話で一番安い値段を聞いている。ホテルの予約はネットでするのが一番安い。直接電話ですると、割高になる。だが、所詮アナログ人間の私はこれが苦手で、しょっちゅう「ネットがどうもうまくいかない。お願いだから、ネットと同じ値段でこの電話で予約させていただけないか」と泣き付く。2回に1回はこの手が通じる。とここまで書いて、作品の話とは全然関係ないことにふと気づく。この作品は難解だから、私にはあまり書けることはない。
 (写真は上から、次回に書く捕鯨博物館。クジラの骨組みが天井から吊るされていた。展示物の一つで、日本の難波漁船から見つかった江戸時代(1791年)の日本地図。「日向」の上の方に「米良」の地名が逆さに記してある。私の出身地の旧地名で正直驚いた)

モービー・ディックの町へ

 NYを出て、ニューイングランドと呼ばれる北東部に来ている。今いるところはニューベッドフォード。ハーマン・メルビルの名作『モービー・ディック』(Moby-Dick)の舞台となった町だ。
 長距離バスでこの町の停車場に降り立った時は、うら寂しい町に来たなという印象を抱いた。それでも、この町は人口10万人近いマサチューセッツ州南部の中心都市だという。
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 街を歩く。石畳があり、いかにも歴史を感じさせる。通りには町の歴利を説明した案内表示があり、それを読むと、この町が19世紀から20世紀初めにかけ、捕鯨(whaling)で栄えたことが分かる。観光案内所のような事務所を訪れると、町の歴史を20分間のビデオにまとめたものを見せてくれた。タイトルは “The City That Lit the World”(世界を照らした町)。かつて世界の捕鯨の中心地だった誇りがビデオから伝わってきた。
 “Lit” という表現が使われているのは、かつては、クジラの脂肪油である鯨油が灯油として、またロウソクの原料として活用され、世界の夜を照らしたからだ。特にマッコウクジラ(sperm whale)の頭部から採取された sperm oil と呼ばれる潤滑油が重宝された。だが、それも石油の発見で需要が激減し、ここでは1925年を最後に捕鯨船は姿を消す。
 タクシーに乗って、郊外の安ホテルに向かう。ダウンタウンに宿泊したいのだが、ここでも手が出ない。運転手さんが言う。ダウンタウンにいる時はバッグに気をつけて。ドラッグでいかれている連中が多いからとのこと。ここでも図書館をのぞく。いや、ここも無料で私のような者にも本を読ませてくれるし、ラップトップも使わせてくれる。いや、第一、私が地元の住民か旅行者かどうかもほとんど気にしていないようだ。このあたりの懐の深さがさすがアメリカ――。
 図書館受付のわきにパソコンが置いてあって、顔写真付きで名前、住所、人種、髪の毛の色、身長、体重などが付記された画面が次々に変わっていく。何だろうと思ってのぞきこむと、”This individual is not wanted by the police.” (この人は警察が行方を追っている人ではありません) と画面の一番上に書かれている。画面の下には主に幼児・少年・女性に対する性的暴行事件の犯罪歴が記されている。そばに立っていた中年男性が「驚いたかい?ここにはこういう恥ずべき連中が300人ぐらいいると聞いているよ」と声をかけてきた。こうした「告知」が図書館のような公的施設でなされるのもアメリカの現実か。
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 ニューベッドフォードに着いてから、毎朝、朝食を食べに足を運んでいたダウンタウンのレストランがある。パソコンも使えるし、居心地がいい。なぜか夕方は6時で店仕舞い。もったいない。お店の若者に夜もやれば繁盛するのにと言うと、「前は夜8時までやっていたけど、最近は誰も夜はこの辺りは歩いていないので、6時で店仕舞いにした」と語る。
 (写真は上が、ニューベッドフォードのダウンタウン。観光客を対象にしたツアーガイドに何度も遭遇した。下が、図書館前に立つ捕鯨の歴史を象徴するアート)

J.D.サリンジャー(J.D. Salinger)④

 私はこの小説を読んだのは50歳代になってからだが、爽やかな読後感とともに、時代背景も国も異なるが、不思議とイメージが重なる小説を思い浮かべた。19世紀のロシアの作家、ドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』だ。
 小説の大団円でカラマーゾフ家の三男アレクセイ(アリョーシャ)が少年たちを集めて激励する場面がある。彼らの友人が夭折したことを受け、その少年の死を無駄にしないよう長く記憶にとどめておくことを訴える感動的シーンだ。彼は自分たちが将来どのような人生を送ることになろうと、今共にしている少年時代は純真な心を持ち合わせていたことを忘れることのないよう力説する。友情で結ばれた少年たちも熱烈に応える。
 私はホールデンが妹のフィービーに対し、「将来は小さな子供たちを危険から守る」仕事をしたいという主旨の希望を語る場面に接して、なぜか、アレクセイの姿が頭に浮かんだ。
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 サリンジャー研究で知られる気鋭の大学教授に話を聞く機会を手にしたので、この先生に尋ねてみた。NYから電車で2時間近い距離にあるニューヘイブンという地にある名門エール大学で文学を教えるエイミー・ハンガーフォード教授だ。
 「私はこの小説を読んで、『カラマーゾフの兄弟』を想起しました。私には青春賛歌に感じました。アメリカの読者はどういう印象を抱いているのでしょうか」
 「アメリカでもそういう風に読み取る向きは昔からあります。ただ、作品自体は当時の社会階級の問題が人間関係に及ぼす緊張、確執が色濃く反映されています。スーツケースの質の違いがルームメートにもたらした微妙な感情(注)についてホールデンが語る場面を覚えていますか。あれなど象徴的な場面です」
 「サリンジャーはこの作品で名声を得て、その後、1960年代以降は世間から隔絶した生活を2010年に死去するまで続けますが、何がそういう隠遁生活を選ばせたのでしょうか。第二次大戦で米軍の情報将校として働き、ナチスの収容所など人間の愚かさについて強烈な経験をしたことが一因していると言われていますが」
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 「そういうこともあるかとは思います。ただ、彼の他の作品を合わせ読むと良く分かるのですが、サリンジャーは彼自身の家族に向けて言葉を発する、つまり、作品を書き続けたのだと思います。彼には名声など迷惑な話だったのです。だから、ずっと、親しい家族にだけ顔を向けて、言葉を発し続けることを選択したのでしょう」
 「他の著名の作家のように、将来、サリンジャー記念館のようなものができる可能性はあるのでしょうか。あるいは、あっと驚くような自伝が出てくるような可能性は」
「私の知る限り、ないかと思います。彼はプライバシーをどこまでも頑なに守る作家でした。作品一切に対し、あらゆる法的な縛りをかけています。当面は彼に関する驚くような新たな書が刊行される可能性は皆無に近いと思います」
 (写真は上が、ハンガーフォード教授。下が、彼女が教える大学のキャンパス。ブッシュ前大統領が先輩だねと学生に声をかけると、あまりありがたくない顔付きをされた)

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ところで図書館が素晴らしい

 アメリカの旅をスタートして、早くも3か月が過ぎた。あと半分だ。何だかアフリカからずっとこの旅を続けている感じがする時もある。
 ブログを更新しながらの旅だが、さすが、アメリカ、泊まるホテルはほぼ無線ランを装備している。ここ最近NYで泊まっていたYMCAは部屋を替わった途端、ネットの調子が悪くなった。一階のロビーに降りると、同じ悩みを抱えた宿泊客がひざに置いたラップトップに向かっている。だが、私のパソコンはここでも無線ランが通じない。隣のイスに座っていたドイツ人の少女に相談すると、彼女は自分のも最初調子が悪かった、揺さぶっていたら直った、みたいなことを言う。本当かな、と思いながら、ロビーに立ってパソコンを揺すってみたが、何の効果もない。赤ちゃんでもあるまいし。
 フロントの黒人のお兄さんに相談してみる。「私のパソコン、昨日まではネットが使えたのに、今日は全然通じない。どうしたんだろう。Wimaxがオフになっているという表示が出るんだけど、私には何のことやら分からない。ヘルプミー、プリーズ」。この男性は黙って聞いていた。らちが明かないので、パソコンのキーをあちこち触っていたら、突然、インターネットのアクセスが再びできるようになった。
 どうやらパソコンの左側面にこのWimaxとかいうもののスイッチがあり、私は何かの拍子でこれを触り、勝手にオフにしていたらしい。ただ、それだけのことだった。だいたい、そんなスイッチがあることさえ知らなかった。くだんの男性スタッフに「直った」と言うと、「そうだろう。今、そのことを指摘しようと思っていたんだ」とのたまうではないか。
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 NYでは特にそうだが、行く先々でカメラを手にした観光客がにぎやかに楽しんでいる光景はほっとする。写真を撮り放題だ。アフリカでもこうだったら写真を撮るのが楽だったのにと思わざるを得ない。
 NYではNYPL (New York Public Library) と呼ばれる図書館で調べものやパソコンに向かうことが多かった。私のような観光客にも期間限定のメンバー証を即座に作ってくれるから、本は自由に館内貸し出しが可能になる。閲覧申し込みを書くと、5分後には手元にその本が来た。持ち込みのラップトップを使用するための広い部屋があり、ネットも使い放題。何よりもすべて無料。館外に出ても図書館が立つ公園内なら無線ランでネットにアクセスできた。私の知る限りこのような図書館は初めて。さすがだ。
 さらに驚いたのは、パソコンに向かって、これから訪れる地のホテル探しや列車、バスの便を探っているそばを、カメラを手にした観光客の人々がひっきりなしに通り、書棚の本やパソコンに向かっている私たちの写真を撮りまくっているのだ。写真を撮りたい気持ちは分からないでもないが、こんな写真は撮っても意味ないだろうになあ・・・。
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 (その意味のない写真が上、これだけのスペースがあれば、いつ足を運んでも、空いているスペースがあった。そのありがたいNYPL図書館の外観)  

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