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アメリカをさるく

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アーサー・ミラー (Arthur Miller) ③

 物語は題名が示す通りの結末を迎えるが、リンダ夫人が墓地でウィリーに語りかける言葉が印象的だ。”I made the last payment on the house today. Today, dear. And there’ll be nobody home. We’re free and clear. We’re free. We’re free…We’re free…” (私は今日、家のローンの最後の支払いをしてきたわ。そうよ。今日よ、あなた。でも、誰も住む者もいないわ。私たちは完璧に解放されたというのに。私たちは自由なのよ。自由、自由なのよ)
 ウィリーはそしてリンダ夫人は一体、何から「解放」され「自由」になったのであろうか。現代のアメリカの人々は、そして日本に住む我々は「自由」になっているのだろうか。
 再びモシャー教授。「もちろん、ローンの支払い、そうした苦闘からの解放を意味しているのだと思います。ミラーは大恐慌時代に育ったのです。お金は彼にとって大事なものだったのです。金銭に貪欲だったと言っているのではありません。彼の生きた時代はそういう時代だったのです。20セントがものを言う時代だったんです」
 この戯曲が半世紀以上にわたって世界各国で上演されているのはよく理解できる。ブロードウェイでも来年1月に公演される予定であり、モシャー教授は「若い人々の反応が楽しみ」と語っていた。
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 そのニューヨークでは今、若者を中心にウォール街のビッグビジネスや政治に物申すデモンストレーションが日ごとに盛り上がりを見せている。”Occupy Wall Street” (ウォール街を占拠せよ)と呼ばれる活動だが、特定のリーダーがいるわけではなく、現在の経済状況に不満を抱く若者の緩やかな集まりのようだ。今では労組もこの運動の「潜在力」に注目し、「合体」を目指す動きも見られ始めている。
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 私はニューヨークに着いた直後の先月中旬に彼らが公園で集っているシーンに出くわしたが、その時はまだ、数十人程度の小さな集まりだった。昨日(6日)は首都ワシントンにも波及したようだ。ニューヨークタイムズ紙は本日(7日)の紙面で来年の大統領で再選を目指すも、支持率低下に悩むオバマ大統領にとっては、”In Protest, Opportunity and Threat for Obama” (この抗議活動はオバマ大統領にとって諸刃の剣)と報じていた。
 余談だが、この作品で二人の息子が父親を呼ぶ時の呼びかけの表現がいろいろあるのも印象に残った。今なら、通常はDadとか Fatherだろうが、息子たちはPopとかDad と呼びかけていた。だが、ビフがウィリーとの口論の果てに激怒した時は、Willy! とファーストネームだった。日本では父親を罵る言葉はここであえて表現しないが、厳として存在するので、ファーストネームで呼ぶことで「怒り」を表現する必要もない。私の父親は怖い親父だった。ファーストネームで呼ぶなど考えもしないが、悪態でもつこうものなら、げんこつの一つや二つが必ず坊主頭に飛んできていた。今ではそれさえ懐かしい。
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 (写真は上から、先月中旬にウォール街近くで遭遇した若者のデモ。「アメリカでは最富裕の400人が全人口の60%以上の富を独占」と非難していた。ニューヨークタイムズ紙でも連日、若者の動きを大きく報じている)

アーサー・ミラー (Arthur Miller) ②

 作品は父親のウィリーと長男のビフの確執を中心に展開する。ビフは父親のことをfakeとかphonyと呼んでその「偽善性」を非難するようになっていく。ある意味、父親と息子の葛藤の物語とも言える。
 タイトル名となっているセールスマンという仕事。この戯曲が発表され、公演が行われた当時、豊かな暮らしを求めた消費拡大のアメリカ社会を象徴する仕事だったようだ。自分の父親との関係など過去のいきさつにこだわりのないボスのハワードから解雇を通告される直前、ウィリーは彼にすがるように語る。”Selling was the greatest career a man could want.”(セールスは人が望みうる最上の仕事だった)と。しかし、それはバイアーに商品を好きなように売りつけることができれば言えることであり、友人から借金を重ねるようになっている「今」のウィリーにとっては過去の栄華に過ぎない。
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 終幕近くの場面で、ビフが父親に冷たく言い放つ。”Pop! I’m a dime a dozen, and so are you!”(父さん、俺は一山いくらの人間なんだよ。父さんも同じだよ!)。自分の人生を否定されたに等しいこの言葉に激しくあらがう父親に対し、息子はさらに二の矢を放つ。”You were never anything but a hard-working drummer who landed in the ash can like all the rest of them!.....Pop, I’m nothing! I’m nothing, Pop. Can’t you understand that? There’s no spite in it any more. I’m just what I am, that’s all.”(父さんは必死に働いてきたセールスマン以外の何物でもないんだよ。他の連中と同様、ぼろぼろになるまで働いて。父さん、俺は何の価値もない男だよ。何の価値もない。分からないのかい? もう俺は恨みなんかないよ。俺はただこれだけの男だ。言いたいことはそれだけさ)
 この作品が今なお輝きを放つ理由をコロンビア大学でアートを教え、数々の戯曲のディレクターとしてトニー賞を2回受賞したグレゴリー・モシャー教授に話を聞いた。
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 モシャー教授はアメリカ文学における ”Death of a Salesman” は音楽の世界で言えば、ベートーベンの「交響曲第5番・運命」のような金字塔であり、多くの作家、作品に影響を及ぼしてきたと語った。その上で、1940年代末のアメリカは世界大不況を克服し、第二次大戦にも勝利し、いわば「わが世の春」を謳歌していた。その最中に、ミラーはこの作品で次のように「警告」したのではないかと。 “Wait a second, wait a second. This is not so quite rosy as everybody have a spree. There is a strain of darkness inside the American dream. It causes people to kill themselves.”(ちょっと待って。世の中、皆が皆浮かれ騒ぐほど希望に満ちたものではない。アメリカンドリームには闇の傾向も備わっている。人々をして自殺に追い込むこともあるよ)
 そのような「警告」は当時のアメリカではショッキングな指摘だったのだろう。
 (写真は上が、モシャー教授。晩年のミラーと親交があり、「背が高くとてもハンサムな人だった」と語った。青空のコロンビア大学キャンパス。インタビューを終えた後、10年前の9・11の時もこの日のような青空が広がっていたと教授は空を見上げた)

アーサー・ミラー (Arthur Miller) ①

 ニューヨークはこのところ曇り空が続き、朝夕は肌寒ささえ感じるようになっていた。秋を通り越して一気に初冬の冷え込みが到来したようだなと思っていたら、今日水曜日は朝から気持ちよく晴れ渡り、気持ちのいい一日となった。
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 ニューヨークはさすが、ここをゆかりとする作家が多い。アーサー・ミラーもその一人だ。1915年にニューヨークで生まれ、2005年に没している。年譜が示す通り、20世紀を生き尽くした作家である。二人目の妻はあのマリリン・モンロー。
 代表作の一つが1949年に発表した戯曲 ”Death of a Salesman”(邦訳『セールスマンの死』)。
 登場するのは、ニューヨークに住むローマン一家。父親のウィリーは米北東部のニューイングランド地方を車で回り、物品を販売するセールスマン。かつては週に170ドル以上を稼ぎ出す敏腕を誇っていたが、時代が移り、彼が親しかったバイアー(仕入れ係)が第一線から身を引くにつれ、稼ぎが悪くなり、保険の支払いや車、冷蔵庫の修理など日常生活のやりくりにも苦労する日々である。そして、63歳となった「今」、40年近く勤勉に働いてきたにもかかわらず、自分が名付け親となったセールス会社の先代のボスの息子、ハワードから解雇を言い渡される。
 ウィリーには息子が二人。長男のビフは高校時代フットボールのスター選手で、将来どの職業に就いても成功が確実視されるような若者だった。二男の朗らかなハッピーともども、父親にとって自慢の種の子供たちだった。しかし、二人が三十代の青年となった「今」は一家の実情はあまり芳しくない。34歳になったビフはテキサスの牧場で働いてはいるが、将来への展望はない。2歳年下のハッピーも仕事には就いているが、始終女の子の尻を追いかけ回しているような生活だった。
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 ウィリーにはビフの人生が根無し草の放浪の日々を送っているとしか思えず、”Biff Loman is lost. In the greatest country in the world a young man with such—personal attractiveness, gets lost.” (息子は自分が進むべき道を見失っている。世界で最も偉大なるこの国で、あれだけの魅力を秘めている若い男がさ迷っているのだ)と嘆く。瓦解しそうな一家を辛うじて支えているのは母親のリンダ夫人。ウィリーを心から愛しており、父親を頭がおかしいと非難した子供たちを次のように言って諭す。
 “Willy Loman never made a lot of money. His name was never in the paper. He’s not the finest character that ever made lived. But he’s a human being, and a terrible thing is happening to him.” (夫は大金を稼いだことはないわ。新聞に名前が出ることもなかった。これまでに生きてきた人間の中で、最上の人格を有しているわけではないわ。でも、彼は一人の人間よ。その彼にとんでもないことが起きているのよ)
 (写真は上が、青空が広がり、気持ちのいい一日となったニューヨーク。ユニオンスクエア近くで。下が、通りの露店の中には、捨て猫の引き取り手を求めたお店もあった)

再びNYに

 ニュージャージー州のクランベリーを出て、再びニューヨークに戻った。いい骨休めとなった。もっといたかったのだが、ホストのバタワース先生夫妻がこの日からトルコ旅行に出かけることになっていて、この日朝、一緒に家を出て、NYのペンステーションで握手をして別れた。
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 先生とは学生時代から懇意にさせてもらったが、そこは学生と先生との関係。やはり一定の「距離」がある。学生時代には私は他の教授同様、「バタワース先生」と「先生」を名字の後に付けて呼んでいた。先生は私のことを「ミスターナス」と他の学生同様、「ミスター」の敬称を名字の前に付けて呼んでいた。今回久しぶりに再会して旧交を温めるに際し、「バタワース先生」と始終呼ぶのも何だかだなあと思っていた。本来なら彼のファーストネームである「ガイ」が一番自然な呼び方である。
 でも、さすがにこれはできなかった。今回の旅で初めて出会うアメリカの人々とは結構最初から、お互いにファーストネームで呼び合っている。それでこちらの頼みごともすんなり話が通じ、ミスターやミズ(ミス)という敬称なしの方が気軽でいいと思うことがしばしばだ。
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 「窮余の一策」で先生のことは「バタさん」と呼び続けた。彼が宮崎大学で同僚の先生たちからそう呼ばれていたことを思い出したからだ。うん、これなら、堅苦しい感じが抜けるし、礼を欠くこともない。「バタさん」は私のことを「ショーイチ」と呼んだ。学生時代は「ミスターナス」だったから、最初はくすぐったい感じがしたが、慣れると何でもない。奥さんとは今年3月に宮崎で一度会っているが、ほとんど初対面に近いから、「ケイティ」「ショーイチ」と呼び合うことに何の違和感もなかった。
 いや、それにしても、歓待していただいた。2日目の夜は近くの、といっても、車で30分ぐらいはドライブしたような感じだが、日本食レストランに連れていってもらった。この店は酒類を置けない店のため、酒の持ち込みが自由。バタさんが持参したビールと日本酒を、枝豆や揚げ豆腐などを肴においしくいただいた。本当はお礼の意味を込め、支払いぐらいはさせてもらいたかったのだが、敢然と拒否され、滞在中、何から何までお世話になった。2階のベッドの寝心地も良く、申し分のない4日間だった。
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 そして再びNY。ここでまだ調べたいと思っていることがある。会って話をうかがいたい人もいる。ブロードウェイの劇場街での観劇はまだ一度だけ。もう少しは足を運びたい。ヤンキースはプレーオフに残っており、メジャーの聖地、ヤンキースタジアムにも行ってみたい。そしてできればゲームを観戦したい。やりたいことだらけで、肝心の文学紀行の筆は進みそうにない。
 (写真は上から、クランベリーの近くにある名門プリンストン大学。古城を思わせる雰囲気ある建物の多いキャンパスだった。英国との独立戦争の激しい戦闘の舞台となったプリンストンの丘。ペンステーションに向かう電車内で夫妻と一緒に記念撮影)

恩師訪問

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 ボストンを出て、ニューヨーク経由でニュージャージー州のクランベリーという町に来ている。大学時代の恩師が住む町だ。彼にはニューヨークに着いて以来、メールで連絡を取り合い、いろいろ貴重な助言を頂いている。
 宮崎大学の英語科で学んだ学生には忘れられないであろうガイ・バタワース先生。私は1970年代にお世話になった。ジョージア州に1年間留学した後、宮大に復学したら、バタワース先生が赴任されていた。先生の研究室に挨拶に行って、”I want to study English conversation.” と告げたら、先生から英会話はstudy するものではなく、”I want to learn English conversation.” と表現すべきだと指摘されたことを覚えている、などといった思い出話は前のブログ「アフリカをさるく」の中の「バタワース先生」の項で既に書いた。
 先生は長く宮大で英語を教えた後、2001年にアメリカに帰国され、故郷のニュージャージー州で奥様のケイティと一緒に住まわれている。今回の旅で機会があれば、ご自宅にうかがいたいと思っていた。その旨伝えると、いつでもいらっしゃいとのことで、昨木曜夜から3泊4日でお世話になっている次第。
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 ニューイングランドも悪くなかったが、ここクランベリーもいいところだ。ボストンを立つ時は生憎雨模様で陰鬱とも表現できるぐらいの天候だった。クランベリーに着き、一夜明けた金曜の今は気持ちのいい天気となっている。先生の家の2階バルコニーに出て、このブログをアップしているところだが、テーブルの温度計は摂氏24度、湿度55%。溜息をつきたくなるほどのどかだ。事実、今一つ溜息をついてしまった。そばで物音がしたので、視線を走らせると、リスがバルコニーまで階段を上がってきて、急いで逃げて行った。
 裏手は高い木が茂った林になっており、その奥は公園だという。車の音もあまりせず、何だか避暑地の別荘に来たような感覚だ。今日は朝、近くのレストランで3人で朝食を食べ、帰り道、先生に通りに面している家々や建物の歴史など話してもらった。
 クランベリーはニュージャージー州の中でも古い町のようで、ガイドブックによると、1680年ごろにはイングランドやフランス、ドイツなどの入植者が暮らしていたという。通りに面した家々にはその家が何年に築造されたかがプレートで示されているが、1800年代中ごろの築造が多かった印象だ。中には1700代の建築物もあり、この国の建物がいかに大事にされているかを改めて感じた。日本と同じ木造の家々でこうだ。日本なら、100年以上経過した木造の家は珍しいのではなかろうか。いや、私はこの方面にも疎いから、間違っていたなら、ご容赦を。
 ニューイングランドを駆け足で回ってきたので、少し疲れている。という理由でこのブログをアップしたら、このバルコニーで心地よい風に吹かれて、ゆったり、本でも読もうと考えている。すぐに眠るかもしれないが。まことにありがたい。
 (写真は上から、カフェの前で、バタワース先生とケイティ。クランベリーの落ち着いた街並み)

デッドソックス(Dead Sox)

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 ボストン・レッドソックスのプレーオフ進出はならなかった。それにしても劇的な終幕となった。28日夜のナイトゲーム。レッドソックスは東地区最下位のボルティモア・オリオールズと対戦し、3対2で1点リード。9回裏、抑えのエースが気迫の連続三振を奪い、2死までこぎつけていた。同率で並び、ワイルドカード争いをしているタンパベイ・レイズは既にプレーオフ進出を決めている東地区1位のニューヨーク・ヤンキースと対戦、8回表まで7対0で苦戦を強いられていた。ニューイングランドの人々は誰もが、レッドソックスのプレーオフ進出を確信していただろう。
 ところがである。抑えのエースがここから手痛い3連打を浴び、あっという間に逆転を許し、屈辱的さよなら負けを喫したのである。しかも、最後はレフト前のライナーをレフトの選手が一旦グラブに収めながら、ボールをこぼすという拙いプレーが命取りとなった。このレフトを守る選手は高額のトレードで入団したベテランだが、それに見合う活躍をしたとは言えず、ゲーム終了後、ファンや地元メディアから非難の矢面に立たされていた。
 これに比べ、タンパベイは8回裏から奇跡的な大逆転を演じた。8回裏に6点を返して、最終回にツーアウトからホームランで同点として、12回裏に再びホームランが出てさよなら勝ちを収めた。さよならホームランはレッドソックスがさよなら負けした直後に飛び出した。野球大好きで大リーグファンの私にはこたえられない一夜となった。
 私はボストンのダウンタウンのバーにいて、最初の数イニングを見て、タンパベイが大量失点をしていることもあり、レッドソックスが勝てば良し、負けても29日にワイルドカードの決定戦に出る権利だけは確保するだろうと思いながら、郊外の宿に帰るため、地下鉄の駅に急いだ。バーのお客もこの夜だけはヤンキースに声援を送り、上機嫌だった。ホテルに戻ってテレビをつけてみると、上記の展開となっていた次第だ。
 前兆はあった。レッドソックスは1点リードした後も再三好機を迎えていたが、拙い走塁やワンアウトの3塁ランナーを返せないなどの詰めの甘さで、あれ大丈夫かな、このチームは、と何度か思っていたからだ。少なくとも、プロ野球がお手本とするような好プレー続出のゲームではなかった。レッドソックスは負けるべくして負けたと言えるだろう。
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 当然のことながら、一夜明けた木曜日のこの日、地元メディアでは「大リーグ創設以来の歴史的メルトダウン」だの「壮大なる崩壊」などと、地元チームの惨敗を憂い嘆く大合唱となった。特にレッドソックスに代わりワイルドカードを手にしたタンパベイのプレーヤーの報酬がレッドソックスに比べ格段に低いことも彼らの怒りに火をつけたようだ。
 大リーグは162試合の長丁場ながら、28日に全30チームが全ゲームをきれいにそろって終了した。この辺りはプロ野球には真似のできない芸当だ。
 (写真は、レッドソックスの敗退を報じる29日付けのボストングローブ紙の一面とスポーツ面。チーム名にひっかけて、Red Sox ならぬ Dead Sox とうたっている。立ち寄った同じニューイングランドのコネティカット州ハートフォードの新聞も同じ論調だった)

ボストンへ

 ニューベッドフォードを出て、マサチューセッツ州を代表する都市のボストン周辺に来ている。「ボストン周辺」と表現しないといけないところがつらい。
 歴史の香り漂うボストンのダウンタウンの中心部のホテルはとても高くて手が出ない。それで私でも泊まれる安価な宿を探すと、例によって、郊外の列車で30分ぐらいの距離にある町まで離れなくてはならない。とてもボストンに「滞在」しているとは言えない。
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 私はずいぶん最近まで、ボストンはニューヨークの南にあると思っていた。だからニューイングランドと言えば、ニューヨークも含まれると思っていた。そうではなかった。ニューヨークはニューイングランドには含まれない。ニューイングランドはボストンのあるマサチューセッツ、メーン、ニューハンプシャー、ロード・アイランド、コネティカット、バーモントの6州を指す総称で、ニューヨークは該当しない。
 ボストンとニューヨークの関係は私は良くは分からない。ただ、大リーグに関する限りはそれぞれの地元チームの応援で、まるで「親の仇」のように激しい敵対心をお互いに抱いているようだ。ボストン・レッドソックスとニューヨーク・ヤンキース。ニューベッドフォードに着いて以来、携帯ラジオでボストンから発せられるFMのスポーツラジオ局を聴いているが、いや、レッドソックスファンの「かわいさ余って・・・」か、最近不振の主力選手に対する批判の声がすさまじい。
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 というのも、今、レッドソックスが歴史的な窮地に立たされているのだ。大リーグはアメリカンとナショナルの2リーグでまずチャンピオンを決めるが、リーグチャンピオンはそれぞれのリーグの3地区の1位に、最も好成績の2位のチームを加えた4チームによるプレーオフで決定される。プレーオフに進める2位のチームはワイルドカードと呼ばれる。
 レッドソックスは9月初めの時点ではライバルのヤンキースと東地区の首位を争っており、ワイルドカードの権利で言えば、同じ東地区のタンパベイ・レイズに9ゲームの大差をつけ、少なくとも10月のプレーオフ進出は確実視されていた。それが9月に入って大ブレーキがかかり、ついに今月26日にタンパベイに並ばれ、現時点でともに90勝71敗。今このブログを書いている28日夜、異なる対戦相手と公式戦162試合目の最終戦が行われようとしている。仮に両チームともこの最終戦でともに勝つか負けるかして同率の場合、29日に両チームによるワイルドカードの決定戦が行われる運びだ。
 ボストンの代表的地元紙、ボストングローブのコラムニストは28日付紙面のコラムで「ニューイングランドに住む人々は代々、質実さで知られてきた。また、大いなる困難を克服することでも知られてきた。他の人々や我々自身が無理だと見なしたことさえやり遂げてきた」と述べ、レッドソックスが死力を尽くし、10月のプレーオフまで勝ち残るよう叱咤激励していた。
 (写真は上が、ボストンのダウンタウン。アメリカの建国の歴史に触れる観光客で賑わっていた。下が、アメリカ建国の父の一人、政治家サミュエル・アダムズの銅像)

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