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アメリカをさるく

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ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ⑤

 ボールドウィンは生涯の多くの時間をヨーロッパで過ごす。エッセイの中で次にように記している。I left America because I doubted my ability to survive the fury of the color problem here. (Sometimes I still do.) I wanted to prevent myself from becoming merely a Negro; or, even, merely a Negro writer. I wanted to find out in what way the specialness of my experience could be made to connect me with other people instead of dividing me from them.(私がアメリカを去った理由は、私にはアメリカで肌の色の問題がもたらす憤激を乗り切ることができないのではと思ったからだ。〈今も時々そう思うことがある〉。私は自分が単に一人の黒人と色分けされることが嫌だったのだ。いや、黒人の作家として遇されることもだ。私は私が経験してきた私独特のことがどのようにしたなら他の人々の共感を得ることができるものか知りたかった。私と彼らを隔絶することなく)
 自分が今で言うゲイであることを含めて、「一個の人格」として世界の人々からどう思われるのか突き詰めてみたいということであろうか。それがある意味、アメリカ以上に多人種が「交錯」するヨーロッパなら可能だったのだろう。
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 ボールドウィンはヨーロッパの魅力を大意次のようにも述べている。ヨーロッパは一人の男が例えばウエイターであっても、その仕事に誇りを持てる社会であり、被害妄想的な階層意識に縛られていない。アメリカ人作家はだからヨーロッパに来て初めて誰とでも何の気兼ねもなく話をすることができると。何となく分かるような気がしないでもない。
私が “Go Tell It on the Mountain” で気に入ったパラグラフがある。ジョン・スタインベックの “The Grapes of Wrath” でも似たような一節があったかと思う。ジョンの父親の姉、つまりジョンにとっては伯母に当たるフローレンスがジョンの母親のエリザベスに向かって語りかける場面だ。エリザベスはこの時まだ、やがて自分の夫となるフローレンスの弟に出会っておらず、自殺した恋人でジョンの実父を失った悲しみを友人のフローレンスに初めて吐露する。フローレンスはエリザベスを次のように励ます。
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 “Yes,” said Florence, moving to the window, “the menfolk, they die, all right. And it’s us women who walk around, like the Bible says, and mourn. The menfolk, they die, and it’s over for them, but we women, we have to keep on living and try to forget what they have done to us. Yes, Lord—“(「そうね」とフローレンスは窓の方に近づきながら言った。「男連中はそうやって死んでいくのよ。構やしない。聖書に書いてあるように、その後に残って悲しみに暮れるのはあたしたち女。男連中は死に、それで終わり。でも、あたしたち女はそうはいかないのよ。あたしたちはずっと生き続けなくてはならない。男たちがあたしたちにしたことを忘れるようもがきながらね。ああ、神様」)
 (写真は、NYのビジネス街にある「アフリカ人墓地」の国史跡。重労働などで死去した多くの黒人奴隷が人知れず埋まっているのが判明したのは連邦ビル建設工事中の1991年のこと。黒人の人々の運動が実り、国史跡となった。地元高校生は屈託なく記念撮影)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ④

 “Native Sons” を著したマーゴリーズ氏をニューヨークに自宅に訪ね、話を聞いていたところ、彼も1925年生まれの同世代で、しかも、ボストンで育った氏はマルコムXがボストンのナイトクラブや街頭で靴磨きや存在しないスポーツイベントのチケットを売りさばいていた十代のころのマルコムXを覚えていることを知った。
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 「もちろん当時はまだマルコムXとまだ名乗ってはいませんでした。(肌の色から)ビッグレッドと呼ばれていました」とマーゴリーズ氏は振り返った。ボールドウィン氏とも面識があるが、彼がゲイであることは話題とはならず、むしろ、彼の反ユダヤ感情が物議をかもしていたという。ハーレムでは当時、不動産はユダヤ人が所有し、黒人から容赦なく家賃を取り立てるユダヤ人は時として黒人住民の反感を買っていた。
 マルコムXは同じ公民権運動でも非暴力で知られたキング牧師とは対極にある存在のように見られがちだが、彼が帰依したイスラム教の理解を深めるにつれ、白人=悪の図式から脱却し、レイシスト(人種差別主義者)の白人だけが敵であると見なすに至っている。
 アレックス・ヘイリーがマルコムXとのインタビューに基づき執筆した「伝記」によると、次のように表現されている。“I don’t speak against the sincere, well-meaning, good white people. I have learned that there are some.I have learned that not all white people are racists. I am speaking and my fight is against the white racists. I firmly believe that Negroes have the right to fight against these racists, by any means that are necessary.”(私は真摯で善意のある善良な白人に反対するものではない。私はそういう白人の人々が少なからずいることを知った。私は白人のレイシストに反対するものであり、白人のレイシストに対して戦うのだ。私は彼らのようなレイシストには必要なあらゆる手段を講じて戦う権利があると固く信じている)
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 マルコムXは1965年、イスラム教の教団のかつての仲間の凶弾に倒れた。まだ、39歳の若さだった。ハーレムに来て以来、私の中には素朴な疑問があった。ボールドウィンとマルコムXの人生は交差したことがあったのだろうか。”Baldwin’s Harlem” という伝記を2008年に書いた作家のハーブ・ボイド氏に運よく出会うことができた。
 「二人は黒人解放をテーマにしたラジオ番組などで対談しています。目指すところは同じでも方法論で異なりますから、時として微妙な関係にあったようですが、マルコムXが暗殺される前のころは二人の間には深い理解が生まれていたと思います。マルコムXの暗殺後、ボールドウィンはハリウッドからマルコムXの生涯を描いた映画制作の仕事を引き受けますが、政治色を薄めようとする制作側の意図に嫌気がさし、マルコムXの『セカンド・アサシネーション』に加担などまっぴらと言って手を引きます」とボイド氏は語った。
 (写真は上が、自分の著書を手にしたマーゴリーズ氏。本の写真は氏の若い時のポートレート。この12月で86歳になる。下が、ハーレムで会ったハーブ・ボイド氏。ハーレムに関する著書も多く、インタビュー後、大学で講義があると忙しそうに立ち去った)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ③

 この国では奴隷制度の廃止か否かが対立の一つの要因となり、南北戦争(1861-65年)が戦われ、南部の農園などで隷属的立場にあった黒人は自由人となった。しかし、その後も黒人に対する人種差別は続き、彼らが晴れて白人と同様の権利を獲得するには1950年代から60年代にかけての公民権運動が成就するまで待たなければならなかった。
 だからこそ、race riot と呼ばれる人種暴動の「火種」は全米各地でくすぶり続けてきたし、ある意味、今もそうかもしれない。多様な人種で構成されるアメリカで今も黒人が社会の最下層にあることは多くの統計資料が示している。
 それはさておき、南北戦争後、さらには第1次大戦後、多くの黒人が「豊かな暮らし」を夢見て、南部諸州から北部諸州にやって来る。ボールドウィンの父親(実際には育ての親であり養父)も南部ルイジアナ州ニューオーリンズからニューヨークにやって来た一人だった。だが、北部の暮らしが心地よいものだったとは言えないようだ。
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 アメリカの黒人作家のことを紹介した作品に “Native Sons” (邦訳『アメリカの息子たち』)という本がある。ニューヨークの大学教授のエドワード・マーゴリーズ氏が1969年に著した本で、ボールドウィンの項で次のように書いている。
 In the South, at least, a Negro knew where he stood, however barren and bitter his place. Above all, there existed in the South a pattern of interpersonal relationships among whites and Negroes—rooted, to be sure, in racial preconceptions, but for all that occasionally warm and recognizable—so closely interwoven had been the lives of both races over the centuries. But the white Northerner, when he was not downright hostile, treated Negroes with cold and faceless indifference. If he granted them greater self-expression, he seemed at the same time to be saying, “You may amuse me from time to time with your quaint and primitive antics, but in all significant areas of my life please keep away.” For the Southern Negro migrant, the emotional stresses must have been intolerable.(南部では黒人は少なくとも自分がどういう場所にいるか心得ていた。たとえ、それがどんなに殺風景で辛いところであったとしても。南部ではとりわけ、白人と黒人の間に個人的な関係が存在していた。確かに人種的な偏見に根差したものではあったが、それでも時として温かく、肌で感じることができるものであった。何世紀にもわたって彼らの暮らしは絡み合ってきたのだから。しかし、北部の白人は頭から敵意があるというわけではなかったが、黒人を冷たく、無表情の無関心さで扱った。仮に黒人に自己表現の機会をより多く与えたとしても同時に次のように言っているような感じだった。「お前さんは時々、そのお前さんの奇妙かつ原始的な芸当で私を楽しませてもよかろう。だが、私の人生の大切な分野では私の前からお引き取り願えるかな」。南部から仕事を求めてやって来た黒人の精神的なストレスは耐えられないものであったろう)
 (写真は、ハーレムのレストラン。週末ともなれば観光客でかなりの混みようだ)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ②

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 先に、アメリカという国で黒人に生まれるということがどういうことを意味するのか、と書いた。ボールドウィンが書いたエッセイに次のような一節がある。
 第二次大戦中のことだ。作家はニューヨークの南にあるニュージャージー州の工場で働き始める。工場の同僚は米南部出身の人々であり、ハーレムで育ったボールドウィンにとっては南部の人々と接する初めての体験だった。次のように振り返っている。
 I learned in New Jersey that to be a Negro meant, precisely, that one was never looked at but was simply at the mercy of the reflexes the color of one’s skin caused in other people.(私はニュージャージーで黒人であることはまさに一顧だに値せず、肌の色が他の人々にもたらす反射神経のなすがままにあるということを身を持って学んだ)
 ボールドウィンにとっては辛い体験だった。ナイトクラブ、ボーリング場、レストラン、どこに行っても、相手にしてもらえず、黙って立ち去ることを求められるようになる。そのうちに彼は町中で目立つ存在となる。
 I very shortly became notorious and children giggled behind me when I passed and their elders whispered or shouted—they really believed that I was mad.(私はほどなく悪名をはせ、私がそばを通り過ぎると、子供たちはくくっと笑い、大人はささやき合うか私の背後から罵声を浴びせた。彼らは私が気が狂っていると本気で信じていた)
 誰でもこのような経験をすれば、トラウマに陥ることだろう。
 There is not a Negro alive who does not have this rage in his blood—one has the choice, merely, of living with it consciously or surrendering to it. As for me, this fever has recurred in me, and does, and will until the day I die.(生きている黒人でこうした激しい怒りがその血管の中に流れていない者はいない。それを意識しながら生きていくか、それに身を委ねるかしか選択の余地はない。私はこの怒りの熱病にその後も何度もとらわれ、今もそうだ。私が死ぬ日までこれから解放されることはないだろう)
 私は強烈な人種差別的経験はない。強いて言えば、まだ、アパルトヘイト(人種隔離制度)のあった南アフリカで黒人の取材対象者とレストランで食事していたら、周囲の白人客から憎悪に満ちた視線を浴びたことぐらいだ。食欲が失せるぐらいの敵意を感じた。アメリカの黒人の人々は公民権運動が実り、人種差別的な制度がなくなる1960年代までこうした視線を常に感じながら暮らしてきたのだろう。
 ボールドウィンは “Go Tell It on the Mountain” でデビューし、その後もアメリカ文学に足跡を残す作品を発表していく。その後に続いた黒人の若者たちに「黒人であっても作家になりうる」ことを示した功績は大と言えるだろう。彼はまた同性愛者であることも隠さず、続く作品の中で露骨な性描写も厭わなかった。
 (写真は、ハーレムにある観光名所のアポロシアター。毎週水曜日夜は今も「アマチュアナイト」と称して、明日のスターを目指す若者が歌やダンスなどの技量を競っている)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ①

 ハーレムに来て、最初に足を運んだのは、ショーンバーグ黒人文化センター(Schomburg Center for Research in Black Culture) 。マルコムXアベニューに面している。
 通りの名が示すようにハーレムは白人社会に反旗を翻した黒人公民権運動活動家マルコムXが華々しく活躍した地である。センターではマルコムXの展示が催されていた。
 随分昔にマルコムXの伝記を読んだことがある。アレックス・ヘイリーが彼とのインタビューを基にまとめ、マルコムXが凶弾に倒れた1965年に刊行された本だ。展示ではその本からの引用文も多数紹介されていた。
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 図書室をのぞいてみた。たまたま、手にした本をめくっていて、思わず手をとめた。アフリカとアメリカの著名人や主要な出来事の年表が掲載されている。1924年ジェイムズ・ボールドウィン誕生、その側に1925年マルコムX誕生と記されている。この二人は同世代だったのか。さらにその前には1918年ネルソン・マンデラ誕生、1929年マーティン・ルーサー・キング誕生という文字が見える。マンデラ氏(南アフリカ元大統領)はあの二人より先に生まれているのか、キング牧師も二人とほぼ同世代でないか。
 ボールドウィンは1924年に生まれ、1987年に没している。私は彼の代表作と見なされている、1953年に発表された小説 “Go Tell It on the Mountain” を読んだ。(『山にのぼりて告げよ』という邦訳がある)。アメリカという国で黒人に生まれるということがどういうことを意味するのか。そのことを改めて考えさせる名作だ。
 作品は多分に作家の自伝的色合いの濃い物語で、主人公で語り手のジョンは14歳の少年。兄弟は下に弟1人と妹が2人。彼には教会で執事をしている厳格な父親がいて、この父親との確執が物語の柱となっている。というのも、父親は弟を溺愛しており、ジョンとの間には埋めがたい溝がある。一つにはジョンがハーレムや黒人社会の枠にとらわれず、広い社会で羽ばたきたいという抑えがたい欲求があるからだ。彼は休みの日になると、街の映画館に行き、まだ見ぬ世界に胸をときめかせるような少年だった。
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 父親はジョンのそうした気質を見抜き、次のように言って彼に警告する。
 His father said that all white people were wicked, and that God was going to bring them low. He said that white people were never to be trusted, and that they told nothing but lies, and that not one of them had ever loved a nigger. He, John, was a nigger, and he would find out, as soon as he got a little older, how evil white people could be. (彼の父親は白人はすべて邪悪であり、神はやがて白人を貶めるであろうと言った。父親はまた、白人は決して信用してはならず、白人が言うことは嘘ばかりであり、黒人を好ましく思った白人など誰もいない、ジョン、お前は黒人であり、もう少し大きくなれば、白人がどれだけ邪悪になれるかすぐに分かることだろうと言った)
 (写真は上が、ショーンバーグ黒人文化センター。下が、ハーレムを歩いていて見つけた、カフェで行われていたジャズセッション。ビール2杯飲んで心地よいひと時を過ごした)

ハーレムへ

 ニューヨークに着いて1か月が経過した。ニューベッドフォードやボストンなどニューイングランド地方を訪ねていた時期もあるので、なんだかあっという間の1か月という印象だ。ニューヨークもそろそろ後にしなくてはならない。その前にきちんと訪れたい場所があった。ハーレム地区だ。
 ニューヨークはマンハッタン島に限れば、9・11テロの現場となったグラウンド・ゼロがあるのは南端のダウンタウン、タイムズスクエアやブロードウェイはミッドタウン、セントラルパーク以北はアップタウンと呼ばれる。ハーレムは北のアップタウンにある地区だ。ニューヨークの黒人の人々が数多く移り住んだことから、全米的に文学や音楽などブラックカルチャーの発信地として知られてきた。
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 ニューヨークで最後に少し書こうと思っている作家、ジェイムズ・ボールドウィンもハーレム生まれだ。あのマルコムXもハーレムで生まれている。せっかくニューヨークにいるのだから、ハーレムで最後の日々を過ごすことにした。ミッドタウンにあるYMCAからハーレムにあるYMCAに移った。経済的理由もある。ミッドタウンのYMCAはニューヨーク中心部では破格の安さとはいえ、一泊115ドルを支払っていた。節約旅行の身にはやはり高すぎる。先週、ハーレムを歩いていてYMCAがあることを知り、尋ねたところ、一泊75ドルで泊まれることが分かった。バストイレは共有であり、部屋にテレビはなく、ネットも一階のロビーでしか使えないという制約はあるが、贅沢は言えない。もっと早くここを知っていればと思わないこともない。
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 誤解を恐れずに言えば、私のような古い世代にはハーレムと言えば、犯罪、治安の問題が脳裏をかすめる。今回初めてハーレムを歩き、そうした懸念が杞憂であることを知った。第一、ここもデジカメを手にした海外からの(と思われる)観光客が談笑しながら歩き、写真を撮りまくっているのだ。家賃の安さからハーレムに移り住む白人も多いと聞いた。
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 日曜日。ブランチを食べるレストランを探して歩いていたら、アフリカの民族衣装をまとった黒人の人々が集まっている光景に出くわした。「アフリカン・デイ・パレード」と称して、目抜き通りのマルコムXアベニューを135番通りから125番通りまで歩くのだという。「自分たちのアイデンティティーであるアフリカ出身という出自に誇りを持とう」と毎年この時期に催しており、今年が5回目のイベントだとか。アフリカのすべての国を「網羅」したイベントにはまだ成長していなかったが、参加者の熱気、パレードを見守る人々の笑顔から、その可能性を十分感じることができた。
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 (写真は、「アフリカン・デイ・パレード」の光景。竹馬のようなものに乗り、闊歩していた若者は「アフリカ合衆国」を意味する “United States of Africa” と書かれたTシャツを着ていた。アメリカ国内から選出された「ミス・シエラレオネ」は20歳。「ミス・ギニア」は19歳。美しい笑顔に魅了された。猫もパレードが見たいらしく歩道に出てきていた。人に慣れているのか、嫌がらずに頭を触らせてくれた。私が触れるのはこの程度だ)

ヤンキースタジアム

 メジャーリーグの聖地、ヤンキースタジアムに出向いた。旧スタジアムのすぐそばに新しいスタジアムができて間もないことぐらいは知っていた。マンハッタン島の北のブロンクス地区にあり、電車で簡単にいけることも。
 私が訪れた日はアメリカンリーグのチャンピオンを決める最終プレーオフに出る地区1位同士の最終戦が行われる日だった。ヤンキースはデトロイト・タイガースと2勝2敗で、文字通り剣が峰の一戦だった。
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 とてもチケットなど売れ残っていないだろうなあと思ったが、万が一ということもある。スタジアムに入れなければ、球場周辺の雰囲気だけでも味わおうと思っていた。
 試合開始は午後8時7分。午後3時ごろチケットを売っているゲートに着いた。観客席の入場ゲートは閉まっているし、歩いている人もまだまばら。ひと気のないチケット売り場に近づき、売れ残りの席があるわけないよねと尋ねると、あると言うではないか。「え、うそ、悪い冗談でしょ?」と思いながら、「ハウマッチ?」と聞くと、売り場の若者、微笑みながら「スリーサーティーワン」と答えるではないかいな。私の頭の中に「331」という数字が印字される。ロサンゼルスではいくら払ったんだっけ? 一番記憶に新しいセントルイスでは確か36ドル支払ったような記憶があるが・・・。
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 バックネット裏の「331ドル」の席ならまだ売れ残っているのがあるが、他の席は完売だという。だめ。私にはとても無理。1ドル=80円で計算しても、2万6千円ではないか。未練たらたらゲートの外に出て、ベンチに座る。そのうち隣にヤンキースのユニフォームのシャツを着た中年男性が座った。聞くと、インターネットで毎週金曜日だけ観戦できる年間チケットを安く購入しており、木曜日のこの夜のゲームのチケットもその延長線上で20ドルで購入することができたのだとか。
 結局試合はテレビで観戦したが、途中からなぜか、ヤンキースが負けるような気がしていた。タイガースの選手からはひたむきさが伝わってきたが、常勝スター軍団のヤンキースからはそうしたひたむきさが伝わってこなかったからだ。(どこかの人気球団のことを言っているのではない)。案の定、ヤンキースは3対2で敗れ去った。
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 今こちらではメジャーリーグを舞台にした “Moneyball” という映画が上映されている。ブラッド・ピット主演。ヤンキースとは好対照の貧乏球団であるオークランド・アスレチックを率いるゼネラルマネジャーの「野球理論」を実話に基づいて描いている。弱小チームを強いチームに育てた手腕を見込まれ、ヤンキースと並ぶ人気球団のボストン・レッドソックスから破格の報酬を提示され、ゼネラルマネージャーに誘われるが、彼は「アスレチックをワールドシリーズで優勝させたい」と断る。決してビッグマネーだけが勝敗を左右しているわけではないメジャーリーグの醍醐味が伝わる作品だ。
 (写真は上から、2009年にオープンしたヤンキースタジアム。ゲートの開門を待つ圧倒的大多数がヤンキースファンの観客。ヤンキース敗退を伝える7日の新聞)

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