アメリカをさるく
マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)②
- 2011-10-28 (Fri)
- 総合
アトランタにある「マーガレット・ミッチェル邸」及び記念館では、1939年制作の大ヒットした同名の映画 “Gone with the Wind” の難航した俳優選考の逸話や撮影の苦労話などをビデオやパネルで紹介している。
同年12月15日にアトランタの劇場に出演の俳優、スタッフが集い、この映画は封切られ、アトランタは歓喜に包まれるが、マミー役を演じた女優のハッティ・マクダニエルなど黒人俳優陣は参加できなかった。当時はまだ激しい人種差別の時代であり、劇場で黒人が白人と一緒に座ることはタブーだったからだ。マクダニエルはマミー役の演技が評価され、この年のアカデミー賞の助演女優賞を受賞する。式典で彼女が謝辞を述べるシーンを見たが、受賞の喜びよりも晴れの舞台に白人と同席している戸惑いを強く感じた。
この小説の物語の力強さ、瑞々しさを否定するものではないが、首を傾げたくなる記述にも何回か「遭遇」したように思う。例えば、次のような記述だ。これはスカーレットの幼馴染で北部軍の追及を逃れてきた人物が戦況不利を憂え、発する言葉だ。
“Soon we’ll be having nigger judges, nigger legislators—black apes out of the jungle—“ (「すぐに我々は黒んぼの裁判官や黒んぼの議員を仰ぐことになるだろう。連中はジャングルから出て来たばかりの黒いサルだというのに」)
これがどれだけひどい表現であるかは説明するまでもないだろう。
この国でKKKの通称で呼ばれる、悪名高い黒人排斥の秘密結社、クー・クラックス・クランが南部諸州で誕生した経緯については次のように「肯定的」に描かれている。
It was the large number of outrages on women and ever-present fear for the safety of their wives and daughters that drove Southern men to cold and trembling fury and caused the Ku Klux Klan to spring up overnight. And it was against this nocturnal organization that the newspapers of the North cried out most loudly, never realizing the tragic necessity that brought it into being.(南部の男たちが身を切るような怒りに体を震わせながら、クー・クラックス・クランを一夜にして成立させたのは、南部の女性に対する数多い凌辱行為が頻発したことや、自分たちの妻や娘の身の安全への不安感をぬぐいきれなかったからだ。北部の新聞各紙は夜間に密かにうごめくこの組織が発足せざるを得なかった痛ましい必然性が理解できず、声高に非難したのであった)
KKKは白人優位主義、人種差別主義の時代の米社会が生んだ醜悪な落とし子だ。中西部を含めて、今回の旅で立ち寄ったいくつかの博物館では、その地方で一時期暗躍したKKKについてきちんと記録、紹介していた。全身白装束で頭巾をかぶった不気味な彼らの集合写真を目にする度、見てはならない人間の憎しみの深みを垣間見たような気がした。
(写真は上が、「アンダーグラウンド・アトランタ」と呼ばれるダウンタウンの商店街。アトランタは米国の中でも太った女性が目立つ印象。下は、コカ・コーラ社の土地の寄贈を受け、公民権や人権の大切さを訴えるセンターができるダウンタウンの建設予定地)
マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)①
- 2011-10-27 (Thu)
- 総合
日本でも今なお人気のある小説 “Gone with the Wind”(邦訳『風と共に去りぬ』) は南北戦争の嵐が吹き荒れたアトランタが舞台となった作品だ。アトランタ生まれの作家マーガレット・ミッチェルが1936年に発表した。刊行直後に大ベストセラーとなり、3年後の1939年にはビビアン・リー、クラーク・ゲーブル主演で映画化され、これも大ヒットしたことは改めて説明するまでもないだろう。作品を読んだことのない人でも映画は見たことがある人は多いことかと思う。
この物語の書き出しは1861年4月で、奴隷制度の是非などを巡り、北部と南部が戦火を交える南北戦争の前夜だ。プランテーションと呼ばれる綿花を栽培する大農園で暮らすヒロインのスカーレット・オハラはフランス系の母親エレンとアイルランド系の父親ジェラードの血を引く16歳の美貌の少女。少年のように元気よく溌剌とした彼女の唯一の不満は自分が密かに思いを寄せている幼馴染でどこから見ても非の打ちどころのない好青年、アシュレーが全然自分を振り向いてくれないことぐらいだ。
スカーレットが生まれ育っている北ジョージアではサバンナやオーガスタ、チャールストンなど海岸部の都市と異なり、教育を受けているとか洗練されているとかは重要視されず、いい綿花を栽培するとか、乗馬がうまいとか、射撃の腕があるとか、ダンスに秀でているとか、実務的才があれば、それで十分に評価された。奴隷制度真っただ中の州であり、黒人そのものが例えば、黒人奴隷100人を抱えた白人農園主の元で雇用されていれば、その黒人奴隷の社会的ステータスは保障されているようなものであり、少人数の黒人奴隷しか雇用できない白人の小農園主を多くの黒人奴隷を抱えた農園で働く黒人は小馬鹿にしていたとも記されている。そういう時代だったのだろう。
誤解を恐れずに言えば、そういう大農園でこき使われる黒人奴隷、特に農園主の白人の子供たちとその世話をする黒人奴隷との関係は、単に「白人の主人と奴隷」以上の親密な関係にあった。ニューヨークで先日 ”The Help” という同じ南部のミシシッピ州の町を舞台にした映画を見たが、黒人に対する人種差別が依然として残る1960年代に、白人の女性が自分を愛情豊かに「育てて」くれた黒人の乳母に思いを馳せるシーンが、作品の大切な伏線となって描かれていた。“Gone with the Wind” で言えば、スカーレットと黒人奴隷の乳母、マミーの関係だ。南部のレディーとして逸脱した行動に出るスカーレットをことあるごとに厳しくかつ温かく諌めるたくましさの塊のようなマミー。これは当時の北部では考えられなかったような白人と黒人の「親密さ」だろう。
かつての奴隷制度や人種差別時代の米社会を「擁護」しているわけでは毛頭ない。小説自体、”nigger” とか “darky” といった現代から見ればタブーの表現や、黒人社会には到底受け入れることのできない記述も少なからずあり、そうした点は次に触れたい。
(写真は上が、当時作家が住んでいた「マーガレット・ミッチェル邸」。下が、展示品の一つで、彼女は当時このようなタイプライターで代表作を書き上げた)
センチメンタルジャーニー
- 2011-10-26 (Wed)
- 総合
この年(57歳)になって上記の表現は自分でもどうかと思わないでもないが、「人生7がけ論」の私はまだ精神的には30歳代のつもりだから、ご容赦願おう。
アトランタを数日うろうろして、今、アトランタから南西に約100キロ離れたラグレインジという町に向かっている。何度も書いたが、1974年から1年間、ここの小さな大学に留学していたことがある。正確に言うと、ナイロビ支局勤務を終え1990年春にアメリカ経由で帰国した際に数日間立ち寄ったことがあるが、それさえも記憶のかなたにあるから、37年ぶりの再訪のような感覚だ。
これから可能ならば、このラグレインジを拠点に米南部を旅しようと思っているが、漠然とそう願っているだけでどうなることやら分からない。何しろ重くなる一方のスーツケースとキャリーバッグを抱え、秋が深まっているというのに汗ばみながら移動するのは少しばかり辛い。ラグレインジに拠点にさせてもらえそうな家がある。37年前に世間知らずの青二才でここに来た時、親しくなった友人の母親が90歳を超えてもなおお達者で、そこにお世話になる予定だからだ。
ヒックス夫人。当時も友人のジョーが週末にはよくこの家に連れて来てくれた。金のない貧乏留学生の私にはジョーの家に来て、ヒックス夫人の手料理をご馳走になるのが楽しみだった。いつも会う度に、何だか日本人の女性のような温もりを感じた人だった。ジョーや彼の妹と連絡を取っていて、ヒックス夫人が私の再訪を楽しみにしていることを知り、とてもうれしかった。という次第で、これから何か所か訪ねることを考えている南部の旅の「ベースキャンプ」にさせてもらいたいと願っている。
37年前にアトランタからラグレインジに向かった時にはグレイハウンドの大きなバスだった。4月ごろでもう暑かったような記憶がある。バス停で降りて、心細く感じながら、大学の寮を目指して歩いたことを覚えている。今回は10月の下旬。アトランタに到着した時は寒いと書いたが、このところ、温かい日が続いている。日中は暑くも寒くもなく、とても過ごしやすい日々だ。ラグレインジを再訪するには最適だろう。今回もバスで行くことにしている。アトランタ空港から出ているシャトルバスで乗車料金は31ドル。時間にして1時間。車窓の景色に見とれながら、時の流れを思うことだろう。今回は心細さにとらわれることもない。
(写真は上から、アトランタならではの「もの」。まず、アトランタ発祥のケーブルテレビのCNN。15ドルを払ってCNN内部を見るツアーに参加したが、「子供だまし」の拙劣極まりないツアーだった。コカコーラもアトランタ発祥。ここもツアーが人気だったが、CNNに懲りて素通りした。世界一大きいと聞いたアトランタの水族館。世界一大きい「水槽」(日本製)から眺める海水魚の群れは確かに見応えがあった。アトランタはマーティン・ルーサー・キング牧師が生まれた地でもある。牧師夫妻が埋葬されている墓地は終日炎が灯されている。牧師が12歳まで住んだ家=左から二つ目=は記念館となっていた。この家は14部屋あり、牧師は比較的裕福な隣人たちに囲まれて幸福な少年期を過ごした)
アトランタ着
- 2011-10-21 (Fri)
- 総合
南部ジョージア州の州都アトランタに来た。6月21日にカリフォルニア州のロサンゼルスからスタートしたこの旅もほぼ4か月が経過し、私が37年前に1年間だけ学生生活を送った町があるこの州には特別な思いを抱かざるを得ない。その町を再訪する前にアトランタで名作 “Gone with the Wind”(邦訳『風と共に去りぬ』)の下調べをしたい。
昨日ワシントンの近くにあるバージニア州のアレクサンドリアでアムトラックの列車に乗り込んだのは午後7時ごろ。夜を越し、今朝の8時半ごろ、アトランタに着いた。例によってあまり眠ることができなかったが、それよりもアトランタが寒いので驚いた。米国に持参している冬着はジャンバー1着。あと2か月持ちこたえることができるだろうか。
ホテルにチェックインして、近くにある “Gone with the Wind” の著者、マーガレット・ミッチェルが住んでいた旧家の記念館を訪ねた。入場上22ドルを払う。ガイドの女性がほどなく出てきて、居合わせた10人ぐらいの観光客を相手に説明を始めた。説明に入る前に、彼女は「皆さんの中で、“Gone with the Wind” の映画を見たことがある人は手を挙げてみて下さい」と質問。ほとんど全員が手を挙げた。「それでは原作の小説を読んだことがある人は手を挙げて下さい」。今度は手を挙げたのは2、3人だけ。
私は自信を持って手を挙げた。何を隠そう、今回の旅に出る前に原書を買って読み始め、太平洋を超える飛行機の中でも本を開き、西海岸のどこかでようやっと読了した。英文自体は分かりやすかったが、何しろ、私が買った本でも1400頁を超える分量。読み終えるのに四苦八苦した。
記念館をざっと見学すると、隣の建物では映画製作の舞台裏に関するビデオが見れると聞かされた。何気なく見始めたら、これが意外と面白い。面白いのはいいが、なんだか延々と続く。はっきり時間を測ったわけではないが、2時間かそこらの上映時間だったのではないか。普通の映画をまるまる1本見た感じだ。こういう類のものは通常、30分程度の参考ビデオに簡略にまとめてあるのではないだろうか。いや、原作について調べている私には実に興味深い内容だったので、文句を言ったら、罰があたる。この日の見学で面白いと思ったことについては後日改めて書いてみたいと考えている。
アトランタの町を駆け足で歩いてみる。37年前にはアトランタはほとんど来たことがないから、初めての町のようなものである。期待していたよりも人通りが少ない感じがした。活気もないような気がする。海外の観光客であふれていたニューヨークやワシントンを見た印象が強いからかもしれない。
ダウンタウンの中心にある公園ではここでも、ニューヨークの「ウォール街を占拠せよ」のアトランタ版で、公園の敷地内で参加者が夜を過ごしていると思われる多くのテントが林立していた。
(写真は上から、地下鉄を上がると青空が見えたが、寒さが少しこたえたアトランタのダウンタウン。ここでも政治の現状・経済格差に異を唱える若者の抗議活動が)
ゲティスバーグ
- 2011-10-19 (Wed)
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ペンシルベニア州にあるゲティスバーグ。南北戦争で米国の歴史上最も凄惨を極めた戦いが繰り広げられた地で、この戦いの4か月後、リンカーン大統領が当地を訪れ、これも歴史に残る「人民の人民による人民のための政治」という表現で知られる演説を行った。
現地の国立墓地に立つ記念碑の文言を改めて読んでみると、”It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us—and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.” とある。
日本語に正しく訳すのは難儀そうな名文だ。
リンカーンがここを訪れたのは戦争勃発3年後の1863年11月のこと。ゲティスバーグでは両軍がこの年の7月1日から3日間激突し、総計5万人前後の兵士が死傷、捕虜、行方不明になったと言われる。南北戦争自体、60万人以上が死亡した凄まじい内戦だが、ゲティスバーグでは少なくとも7000体の放置された兵士の死体に5000頭ほどの馬の死体も加わり、鼻を衝く死臭が戦いの数か月後まで漂ったという。
南北戦争勃発から数えると今年が150年に当たるため、ゆかりの地では多くの記念行事が催され、米国民の関心も高いようだ。私がこの日加わったゲティスバーグの史跡を訪ねるツアーバスの乗客約40人の大半も米国内各地からやって来たシニアのご夫婦だった。バスの中ではゲティスバーグの戦いを史実に沿って再現した歴史ビデオが上映されていた。南軍兵士が隊列を組んで進んでいく。丘の上では大砲や銃を構えた北軍兵士が待ち構える。南軍兵士の不利は歴然だ。当然のことながら、南軍の兵士は次々に倒れていく。私が思わず、「これは(集団)自殺行為だ!」と後部座席の初老の男性に叫ぶと、彼は「イエス、カミカゼ攻撃」と応じた。
ツアーガイドは以下のことを述べていた。ゲティスバーグの戦いは南軍を率いるロバート・リー将軍がここで北軍に大打撃を与えることにより、和平、早期終戦の道を模索する思惑があり、あえて、北部の要衝の地まで進軍。それまで彼が連勝を続けてきたのは戦いの地が南部だったからであり、ペンシルベニアの兵士も参加したゲティスバーグでの勝利を望むには無理があった。リー将軍はこの戦いの後、南部に退却し、戦略を練り直すが、以降は敗色濃厚になり、1865年に降伏を余儀なくされる。
紅葉に時に目を奪われたツアーでは、両軍兵士の死体が散乱した「死の谷」と呼ばれる草地や、北軍が大砲の陣地を敷いた場所、当時のままに残る民家などを訪れた。
余談を一つ。現地で手にした観光案内に「南北戦争資料館ではリンカーン大統領の演説が聞ける」と記されていた。私のツアーのプログラムにはない。昼食の時間に急いでその資料館に走ってみると、「いや、生録音ではありません。現代のテープです」との由。
がっかり。リンカーン大統領の演説は時間にして2分間ほど。ガイドの男性は大統領の声は重厚ではなく、むしろ甲高かったと説明していた。ぜひ、聴いてみたかった。
(写真は上から、南北戦争の戦跡が広がるゲティスバーグ。「死の谷」を眼下にする丘の上。リンカーン大統領の歴史的演説が刻まれた国立墓地の記念碑)
ジェームズタウン
- 2011-10-17 (Mon)
- 総合
ニューヨークを離れ、間もなくディープサウスとも呼ばれる米国の深南部に向かう。その前にいくつか訪れたい場所があるので、再び首都ワシントンで途中下車した。
足を運びたかったのはバージニア州にあるジェームズタウンという歴史的な場所だ。1607年にイングランドから3隻の船に乗った少年を含む104人の男たちがここに入り、米国でイングランドの初の恒久的入植地を築いた。ピューリタン(清教徒)たちがメイフラワー号でマサチューセッツ州に入植する1620年より13年も早い。
ジェームズタウンの名前は当時イングランドを治めていたジェームズ国王に由来する。ジェームズタウンの跡地に立つ「見学者センター」で10ドル支払い、跡地を歩く観光ツアーに加わる。ガイドの男性は「ジェームズ国王が新大陸の入植を決意したのは、プライド、プロフィット、フィアの三つの要因からです」と流暢に説明する。17世紀初頭、世界はカトリック教のスペインが席巻していた。プロテスタントの英国国教会の信者を増やしたいというプライド(自尊心)。当時イングランドは経済不況で食えない国民が多く、新世界に富と働き口を求めたプロフィット(権益)。手をこまねいていればスペインが新大陸もすべて支配下に置くのではというフィア(恐れ)。
プロフィットに関しては、入植者たちが頭に描いていたのはゴールド(金)だったが、ゴールドは得られなかった。その代わり、金になるタバコの栽培に適していることが判明。収益を上げるためにはタバコ農園で働く多くの労働力が必要になり、アフリカから黒人を奴隷として強制的に連行。新大陸と奴隷貿易を結びつけたと言う意味でも、現在のアメリカという国の「道筋」をつけた入植地だった。見学センターで最初に見た15分程度のビデオは確か ”America’ Birthplace” という副題が付いていたが、むべなるかなだ。
とはいえ、大西洋の荒波を乗り越えて入植したジェームズタウンは食糧難に病気、先住民のアメリカインディアンとの衝突もあり、栄養失調や病気から死亡する入植者が続出した。特に1609年から翌年の厳冬期には食糧が底をつき、入植者300人のうち、冬を越すことができたのはわずか60人だけだったという。ジェームズタウンはその後、入植者の内乱や火災もあり、近くのウイリアムズバーグに町の機能を移転する。跡地には1907年に建てられた「入植300年記念塔」や、入植地のリーダーとして名を馳せた傲岸不遜の軍人で探検家のジョン・スミスの銅像も立っている。
私が訪れた日、うららかな日だった。日本なら小春日和というには早すぎるか。こちらではインディアンサマーとでも呼ぶのだろうか。入植当時の壮絶さを想像することは難しかった。紅葉も見られ始めており、句心のない私も帰りの電車の中で句作に取り組んだ。
紅葉も 今米国の 生誕地
(写真は上から、ジョン・スミスの銅像。記念撮影しているのはノースカロライナ州からやって来た高校生のグループ。ジェームズタウンは大西洋にそそぐジェームズ川の河岸に築かれた。その跡地を訪ねる観光客。真ん中に見えるのが入植300年の記念塔)
Coming across two booing in New York
- 2011-10-15 (Sat)
- Random thoughts
Since I wrote my last column in English some time has passed. All this while I have been traveling in New York and then to New England area. I’ve never been in this part of the United States before. So I was very glad to be able to visit and see the so to speak major “birthplace of the new world.”
I understood vaguely why the north-eastern states of this country is called New England. Now I understand better. According a book “Albion’s Seed” written by David Hackett Fischer, in the period from 1629 to 1775, this country was settled by at least four large waves of English-speaking immigrants. The first one was “an exodus of Puritans from the east of England to Massachusetts from 1629 to 1640,” then followed by “the migration of a small Royalist elite and large numbers of indentured servants from the south of England to Virginia.” No wonder the six present states including Massachusetts are called New England.