アメリカをさるく
ジョン・スタインベック(John Steinbeck)④
- 2011-07-05 (Tue)
- 総合
『怒りの葡萄』の舞台になったのは、サリナスバレーを始めとしたカリフォルニア州の肥沃な農業地帯だ。今ここを地元の人々は”salad bowl of the world”(世界のサラダボール)と自慢する。「西海岸」とか「アメリカ」ではなく、「世界」と表現するところが、さすが米国と言えようか。
そうした農場で汗を流して働いているのは、南の隣国、メキシコからやって来た人々だ。不法移民も多い。雇う白人農園主も当局も承知の上だ。先に、サリナスの人口約15万人のうち73%がヒスパニック系で、大半はメキシコからの移民と見られると書いたが、ヒスパニックコミュニティーのスーパーに行くと、メキシコに来た感覚に陥る。
必然的に彼らは地元の白人社会からは複雑な目で見られている。一つには、犯罪、麻薬の問題があるからだ。のどかなオールドタウンのダウンタウンにいる限り分からないが、サリナスはアメリカでも有数のメキシコ系ギャングの巣窟となっている。対立するギャングの銃撃事件が絶えず、高校も事件の舞台になっている。私が滞在したわずか数日の間にも、メキシコ系の22歳の若者が未明に銃撃され死亡、地元新聞は「ギャング抗争に起因する事件」と報じていた。
ヒスパニックコミュニティーでも若者グループのギャング抗争には心を痛めている。教師歴33年で最近退職し、サリナスのヒスパニックコミュニティーの指導的立場にあるフランシスコ・エストラダさん(56)に話を聞く機会があった。エストラダさんは「圧倒的大多数のメキシコ系アメリカ人は明日の暮らしが良くなるよう祈って、一生懸命働いている。ごく少数の不埒な連中が事件を起こし、残念にも我々のイメージを悪くしているのです」と語った。
ギャングに加わる若者の問題は、エストラダさんによると「アイデンティティーの喪失」だという。「私は5歳の時、両親に連れられて来た。2部屋の小さな家に13人が住んでいた。貧しかったが、家の中にrestroom(トイレ)がある暮らしが信じられなかった。私はスペイン語が話せるという理由で、同じようなメキシコ系の子供たちから狙われた。父親は自分がメキシコ人であるということに大いなる誇りを抱いていた。私もその誇りを受け継いだ。犯罪に走る若者は自分たちが誰であるか知らない、メキシコの言葉も文化も知らない。だから、メキシコ出身であることにプライドも持てないのです」
サリナスがあるのはモンテレイ郡。エストラダさんはこの秋に選挙が行われるモンテレイ郡の教育委員会に立候補する予定だ。「地域住民の95%がヒスパニック系であっても、その地域のヒスパニック系の委員はゼロというのが実情です。私は教育委員となって、ヒスパニック系社会のためにこれまで培った教師としての経験を生かしたい」
(写真は上が、サリナスで見られる広大な農場。メキシコ系の人々がセロリを収穫していたので写真を撮らせてもらった。ヒスパニック系社会の地位向上に貢献したいと意欲を語るエストラダさん。子供が3人に孫が1人)
ジョン・スタインベック(John Steinbeck)③
- 2011-07-04 (Mon)
- 総合
スタインベックの作品は『怒りの葡萄』を始め、多くが日本語に翻訳されているようだ。国立スタインベックセンターの地下の資料室にも日本語の翻訳本が多数保管してあった。
資料室で資料の整理、記録の仕事をボランティアで手がけていたハーブ・ベレンスさん(83)に話を聞いた。訪れた日は奥さんのロビーさんも隣で録音テープの文書化の作業に当たっていた。私の素朴な質問に「私は専門の学者ではありません。そこのところはご理解ください」と笑顔をたたえながら答えてくれた。
「スタインベックはアメリカ文学の中でどのような位置にいるのでしょうか?」
「東海岸ではそうは読まれていないようです。批評家の中には彼が『怒りの葡萄』以外に手ごたえのある作品を残していないとか、regional(リージョナル、地方の)な作家であるとかと言って軽んじる向きもあるようです。でも、彼が20世紀の偉大な米作家の一人であることは疑う余地のないことです」
「彼の作品は現在のアメリカでどんな意義があるのでしょうか」
「ここには多くの読者から問い合わせのイーメールが届いており、彼の作品が今も共感を得ていることは間違いありません。『怒りの葡萄』が描いた1930年代の経済状況と現在の不況が似ており、彼の作品がより身近に感じられているという指摘もあります」
私が『怒りの葡萄』で引かれたのは、作中主要人物のMaと呼ばれる母親だ。一家の柱はPaと呼ばれる父親なのだが、飢餓に見舞われた非常事態では、Maが大黒柱となり、一家離散の危機に瀕した一家の崩壊を封じ込める。実に「生活感」あふれるたくましい女性だ。避難した先で仕事も食べ物もなく、先が見えない疲労困憊の父親が嘆く。「どうやら俺たちの人生は終わったみてえだな」と。(“Seems like our life’s over an’ done.”)
これに対し、Maは微笑みすら浮かべてそんな弱気を一蹴する。「いや、そんなこたないよ。まったくない。お前さん、女には分かるんだよ。これも男との違いの一つだよ。いいかい、よくお聞き。男は役立たずだよ。男はおぎゃあと生まれてそして、老いてくたばる。それこそ役立たずだ。農園を手に入れて、それを手放す。それも役立たずだ。女は違う。あたいたちは延々と続くんだよ。せせらぎのように、渦巻きのように、滝のように。そいでもってあたいたちは川になるんだよ。いつまでも流れが絶えない。女はそんなふうに物事を考えるんだよ。あたいたちは死に絶えなんかしないよ。人はずっと生きていくんだよ。多少変化はするかもしれない、多分ね、でも、ずっと続いていくんだよ」
“No, it ain’t,” Ma smiled. “It ain’t, Pa. An’ that’s one more thing a woman knows. I noticed that. Man, he lives in jerks–baby born an’ a man dies, an’ that’s a jerk—gets a farm an’ loses his farm, an’ that’s a jerk. Woman, it’s all one flow, like a stream, little eddies, little waterfalls, but the river, it goes right on. Woman looks at it like that. We ain’t gonna die out. People is goin’ on—changin’ a little, maybe, but goin’ right on.”
(写真は、センターで資料整理の合間、応対してくれたハーブさん、ロビーさん夫妻)
ジョン・スタインベック(John Steinbeck)②
- 2011-07-02 (Sat)
- 総合
『怒りの葡萄』が如実に示したのは、世界大恐慌が米国のダストボール(dust bowl)と呼ばれたオクラホマやアーカンソー、カンザス州など中南部の砂嵐の甚大な被害を受けた乾燥平原地帯に住む農民にもたらした苦悩だ。それとともに、彼らが最後の望みを託してやってきたカリフォルニア州がもはや「約束の地」(a Promised Land)ではないこと、そうした神話は崩壊したものであることを示したとも言えるだろう。
小説が当時のカリフォルニア住民の同胞に対する冷酷な仕打ちを描いているゆえ、スタインベックはカリフォルニアの多くの人々から疎まれ、小説自体も発禁処分を受けたり、州内の多くの図書館の前で焼かれるなどしたという。しかし、スタインベックが1962年にはノーベル文学賞を受賞するなどの名声を得たことや、68年の死去後、時代が推移したこともあり、評価は徐々に好転。サリナスの主要観光名所の一つとなっている国立スタインベックセンターがそれを象徴する。私が泊まっているホテルの前はジョン・ストリートという通りだが、これも作家のファースト・ネームを冠しているのだろう。
カリフォルニア州は日本を含めたアジアや中南米から多くの移民を吸収し、成長してきた。サリナスもしかりだ。国立スタインベックセンターに展示されている資料の中に、作家が少年時代を振り返った次の一節がある。
“I remember Salinas best when it had a population of between four and five thousand. Then you could walk down Main Street and speak to everyone you met.”(私の一番いいサリナスの思い出は、町の人口が4千人から5千人の間だったころのことだ。そのころはメインストリートを歩けば、言葉を掛け合わない人など誰もいなかったものだ)
現在のサリナスではそうはいかないだろう。スタインベック図書館に立ち寄り、サリナスの人口を尋ねたところ、昨年の国勢調査の数字を教えてくれた。それによると、サリナスの人口は現在約15万人。このうちの73%がヒスパニック系という。メキシコからの移民が多いことがこの数字からも分かる。町を歩いていてもヒスパニック系の人々を数多く見かけた。黒人は3%に満たない結果が出ており、ロサンゼルスの通りに比べれば黒人の姿を見かけることは格段に少なかった。
町自体は高層のビルは皆無に近く、二三階建ての建物ばかりで平面的な印象の町だ。とても15万人の都市とは思えない。郊外に住宅街が広がっているからだ。オールド・タウンとも称されるサリナスのダウンタウンを歩いたが、道行く人は少なかった。
少年スタインベックが闊歩した上記のメインストリートでカフェを営むジム・ライリーさんは「サリナスは郊外に大きなモールがあって、大多数の住民はほとんどこのダウンタウンにはやってこない。私の両親は生前のスタインベックをよく知っているが、彼が育った時はこのメインストリートが町のすべてとも言える存在だった」と説明してくれた。今、メインストリートをかつての賑わいに戻すべく商店街の有志で打開策を協議しているところだという。
(写真は、サリナスのダウンタウンのメインストリート。いつも閑散としていた)
ジョン・スタインベック(John Steinbeck)①
- 2011-07-01 (Fri)
- 総合
木曜朝、サリナスのモーテルのようなホテルで目覚める。ここは一泊72ドル(約6000円)。朝食は無料とのことゆえ、棟続きの食堂に行く。無料だけあって、湯気の立つブレックファーストではなく、セルフサービス。各種ジュースにコーヒー、コーンフレーク。パンケーキは自分で簡易焼き器を使って焼き上げる。結構満足した。
国立スタインベックセンター(National Steinbeck Center Museum)に向かう。ホテルから歩いて15分ほどの距離にある。日本は猛暑らしいが、ここはロスよりもさらに涼しい感じだ。ジーンズに半袖のポロシャツだが、薄手の上着が欲しいぐらい。
センターの前に小学生ぐらいの子供たちのグループがいた。彼らにもスタインベックが「理解」できるのかと思い、尋ねると、母親らしき女性が「いや、隣の映画館に子供たちを連れてきたんです」との由。なるほど、まだ彼らには『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)は難しいだろう。
センターの入場料は10ドル95セント(約900円)。スタインベックの生い立ちから彼の主要作品にまつわる資料やビデオなどが展示されていた。どれから見ていいものか迷ってしまう。限られた時間で見れるのはしれている。しかも英語だ。メモするのも一苦労。
彼の代表作は1939年に発表された『怒りの葡萄』。アメリカの中南部の農民たちが1929年の世界大恐慌で破産し、銀行に負っている借金で土地を追われ、西海岸のカリフォルニアに活路を見出そうとする悪戦苦闘の物語だが、人間(資本主義)の強欲さ、それでも負けない農民(庶民)のたくましさが描かれている。
『怒りの葡萄』を読んでいると、身につまされるシーンが何度も出てくる。「主人公」のジョード一家はオクラホマ州の農家。カリフォルニア州の人々からは「オーキー」と呼ばれて蔑視される。日本人が「ジャップ」と蔑視されたようなものだろう。長年住んでいた農場から追い立てられ、日々の暮らしに必要な家財道具をぼろ車に積載し、仕事と食べ物を求めて西に向かう。生きる術はほかにないのだ。カリフォルニア州の人々には彼らは治安を乱し、仕事を奪う厄介者として映った。だから作中、カリフォルニア州の同胞の間では次のような会話が交わされる。こんな会話がかつて現実に交わされたとは信じ難いが。
“Well, you and me got sense. Them goddamn Okies got no sense and no feeling. They ain’t human. A human being wouldn’t live like they do. A human being couldn’t stand it to be so dirty and miserable. They ain’t a hell of a lot better than gorillas.” 「そうだな。俺とお前は常識を持ち合わせている。あいつら汚らわしいオーキーは常識も感情も持ち合わせていないんだ。連中は人間じゃない。人間なら、連中のような暮らしはしない。人間なら、あんなに汚くてみじめな生活を我慢できようはずもない。連中はゴリラとたいして変わらないよ」
(写真は上から、国立スタインベックセンター。『怒りの葡萄』にまつわる展示物。作家の生家は地元のボランティアが営む「非営利」のレストラン「スタインベック・ハウス」になっていた。昼抜きの私が無理して食べた約1300円の野菜たっぷりのランチ)
サリナスへ
- 2011-06-30 (Thu)
- 総合
ロサンゼルスで早くも1週間が過ぎた。日本と昼夜逆転したような時差にも体がようやく慣れてきた。そろそろ腰を上げる時が来た。目指すはサンフランシスコ。カリフォルニア州の地図を広げ、さてどうやって行くか考える。カリフォルニア州は日本を少し上回る面積があり、同じ州でも、博多から東京ぐらいの距離はありそうだ。いや、もっとあるかな。まあ、急ぐ旅でもないから、電車で行くことにする。
乗ったのはアムトラック(Amtrak)と呼ばれる全米旅客鉄道公社の電車。あまり期待せず、ロスの鉄道の表玄関ユニオンステーションに向かった。正直に書くと、駅構内でだいぶ戸惑った。自分が乗る電車がどのプラットフォームに着くか直前まで分からなかったからだ。電光掲示板でも案内がない。私のような不安を抱えた乗客は少なからずいたようで、「サンフランシスコ行きの電車はどこに行けばいいのか」と皆同じ質問を駅係員にしていた。
何とか無事に電車に乗り込み、指定の座席にたどり着いた。隣は中国人の若いビジネスマン。北米を旅行中とか。本でも読もうかと思っていたら、隣席に戻ってきた彼が、何やら嬉しそうに話しかけてくる。すぐ先に風景がよく見える車両がある、そこでゆっくりくつろげると言っている。え、本当?
行ってみると、確かに素晴らしい空間の車両だった。通路をはさんで側面が大きなガラス窓になっており、窓に向いた椅子がある。なるほど、これなら車窓を流れる風景を心行くまで楽しめる。しかも無料。日本の長距離列車でこんな贅沢な車両を私は知らない。さらに良かったのは、隣にやって来たアメリカ人の乗客と知り合い、打ち解けた話ができたことだ。座禅(Zen meditation)に詳しい60歳代のこの人は日本人の友人もいて日米の文化についていろいろ話をすることができた。
ロスを出てほどなく、砂漠地帯のような乾燥地帯に出た。「南カリフォルニアは昔は砂漠だったんですよ。植生も昔はなかったものが多くあります。あそこに見えるユーカリの木々はオーストラリアから持ってきたんですよ」と説明してくれた。「私はロスで生まれ育ったが、今はロスに住みたいとは思わない。ロスの生活は忙しすぎる。今住んでいるところはのどかなところです。機会があったらぜひ訪ねて来てください」
車中のアナウンスを聞いていて、サンフランシスコへの途中駅にサリナスがあることを知った。ジョン・スタインベックの生地だ。一旦サンフランシスコに行き、そこからサリナスに向かうつもりだった、急遽計画を変更、サリナスで途中下車することにした。
ロスを出たのが午前11時前で、サリナスで下車したのは午後7時ごろだが、時間を感じさせない快適な旅だった。ロス同様、サリナスも午後8時過ぎまで明るい。明日木曜から数日ここでノーベル文学賞も受賞した作家の足跡の一端をたどり、その代表作『怒りの葡萄』について考えることにしよう。
(写真は上から、車窓の風景を心行くまで楽しめた車両。車窓から見えた乾いた大地。途中から海岸沿いを走り、太平洋の浜辺がすぐ近くに見えた)
日系アメリカ人
- 2011-06-28 (Tue)
- 総合
ロサンゼルスにいるからにはやはり、日系アメリカ人が米本土に根ざす足場となった先人の歴史にも敬意の念を示さないといけないだろう。リトルトーキョーの一角に「全米日系人博物館」(Japanese American National Museum)がある。
米本土の地を踏んだ最初の日本人としては、最初に頭に浮かぶのはジョン万次郎だろうか。英語か社会の教科書でこの名前が出てきたような記憶がある。作家吉村昭氏のノンフィクション「アメリカ彦蔵」で描かれた浜田彦蔵もジョン万次郎に近い世代だ。二人ともに江戸時代、乗っていた船が難破してアメリカの地を踏むことになる。
全米日系博物館は明治維新期以来、日本人が移民としてアメリカを訪れた苦難の歴史を紹介している。1869年(明治2年)には維新の新政府に反発し、福島の会津若松からオランダ系米人に率いられ、約40人の武士や町人がカリフォルニア州に「若松コロニー」を創設するためやって来たことも初めて知った。米本土ではこれが最初の日本からの移民という。
カリフォルニア州はその後、ハワイの日系移民も加わり、1910年代には日系農民は35,000人を数えたという。彼らがいわゆる「一世」と称される人々だ。しかし州政府の日系に対する差別は段々と厳しくなり、1913年に排日土地所有禁止法案が成立し、一世の人々は土地を所有することができなくなり、「二世」の名義で土地を持つようになった。1941年12月の真珠湾攻撃により日米が開戦し、屈辱の強制収容が幕を開ける。
博物館の資料では、日系の人々が当時すでにアメリカを「祖国」と思い、アメリカに対する「忠誠心」は揺るぎのないものであるという米政府の内部調査報告にもかかわらず、米当局はカリフォルニア州を中心とする西海岸に居住していた約12万人の日系人を「敵性外国人」として約10か所の環境劣悪な強制収容所に送り込んだ。同じ「敵性外国人」のドイツ系やイタリア系からは程遠い措置だった。
博物館の資料を見ていると、当時のカリフォルニア州では日系のみならず、中国系、朝鮮系住民に対する強烈な差別がはびこっていたことが理解できる。もちろん、こうした外国人に対する蔑視、差別意識は日本を含め、どの国も歴史の過程で経験したものであり、アメリカ人だけのものでないのだが、複雑な心境にならざるを得ない。
展示資料に見入っていたら、第二次大戦時に「二世」兵士で構成される「第442連隊」の一員だったという日系のお年寄りが「日本の方ですか」と声をかけてきた。話をうかがっていると、そばに小柄な青年が近づいてきた。老人は「私の孫です。四世になります。私は91歳になり、車の運転が心配だからと、家の者が私の外出には孫に運転させているんです」と語った。この青年は日本語は解さないというので、英語で話した。30歳になるという青年は仕事を探している真っ最中で、私がこれから数か月、この国で文学の気ままな旅をするのだと告げると、”Oh, that’s cool.”と関心を示してくれた。
(写真は上が、リトルトーキョーにある全米日系人博物館。下が、ロス散策にも便利な路線バス。自転車もバス前方に乗せることができるのには感心した)
メジャー・リーグ
- 2011-06-26 (Sun)
- 総合
初回にバスケットゲームの観戦を書いて、3回目はメジャー・リーグ(MLB)と呼ばれる大リーグのことを書こうとしている。「名作の故郷を訪ねて」ではなくて、「米スポーツの本場を訪ねて」ではないかと言われそうだ。
そういう批判は承知の上で、今回は大リーグのことを。金曜日の夜、テレビのチャンネルをカチカチしていたら、地元ドジャースのゲームを中継していた。対戦相手は同じロスを地元とするエンジェルス。アナウンサーが「明日土曜のデーゲームはヒロキ・クロダが登板する」と言うではないか。黒田博樹投手が地元で投げるゲームを生で見ることができるのは間違いなくこれが最初で最後だろう。万難を排して行かなくては。
私はスポーツ観戦、その中でも特に野球が大好きだ。大リーグもしかり。デスクワークが主となった新聞社勤務時代には毎朝、パソコンでMLBのホームページをチェックし、日本人選手が属するチームのゲームをほぼリアルタイムで追っていた。日本にいる時は好きな選手ではなかったが、イチロー選手の活躍を願い、彼が活躍すると、そのゲームのサマリーを楽しみながら読んだ。日本語の新聞やテレビでは伝わらない部分だ。
アメリカでは野球が一つの文化になっていると思う。英語表現の中に野球から生まれた語彙も少なくない。clutch hitter (クラッチヒッター)と言えば、ここぞという時に適時打を放つ好打者のことだが、職場や仲間内で頼りになる人もこう呼ばれている。
前置きが長くなった。絶好の好天に恵まれたドジャー・スタジアム。切符売り場で一番安い席を求めたら、最上段3階の席を売ってくれた。15ドル(約1250円)。駐車場をぐるっと回って、階段を随分登らされてようやく最上段へ。素晴らしい見晴らしだった。土曜日だし、ビールを飲んでも罰は当たらないだろう。売店で生ビール(8ドル)を注文したら、なかなか出てこない。「頂戴」とせがんだら、おばちゃんは「ちょっと待って、今、国歌を歌っているから」と言い、はるか下のグラウンドで女性歌手が歌っていた国歌に合わせ、しばし口ずさんでいた。
7回にもあの”God Bless America”の斉唱が行われたが、観客は一斉に立ち上がり、老若男女、風にそよぐ星条旗を見やりながら、大きな声で歌っていた。いつも思うのだが、何の気負いもなく、国歌やそれに準じた歌を元気よく歌える彼らの幸せ、純朴さ・・・。
肝心のゲームの方は黒田投手の力投を相手投手が上回る好投を見せ、ドジャースは敗れ、黒田投手は敗戦投手となった。残念。ただ、5回を投げ切り、相手チームに与えた点は2点であり、ぎりぎり、quality startであったと言えるだろう。大リーグでは先発投手が6回前後を3点以下で抑えれば、こう呼ぶようだ。最近ではプロ野球の解説でも「今日の○○投手はクオリティ・スタートでした」と表現し始めている。
アメリカの野球は文化だということまで書きたかったのだが、それはまたこの次。
(写真は上が、ドジャー・スタジアム。何度でも行きたくなる美しい球場だった。下が、ゲームが終わり、満足した表情で球場を後にするファン)