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アメリカをさるく

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ハンニバルへ

 セントルイスを出て、同じミズーリー州のハンニバルに来た。あのマーク・トウェインの「故郷」である。
 アメリカに着いてほどないころ、宮崎大学時代の恩師の一人から「8月にハンニバルでマーク・トウェインの集まりがあるようだ。知っているかい」とのメールをいただいた。全然知らなかった。ハンニバルにあるマーク・トウェイン・ミュージアムのホームページにアクセスしたところ、8月11日から3日間、セミナーのような集いを今年初めて開催することになったことを知った。すぐに電話を入れて、参加させてもらうことにした。いい時期にアメリカを「さるく」ことにしたものだ。参加費は300ドル。
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 セントルイスからグレイハウンドバスで2時間余。うれしいのはセミナーが催される会場のラグレインジ大学の学生寮に宿泊させてもらえることだ。1泊15ドル(約1250円)。いつも悪戦苦闘して格安ホテルを探し回っている身には実にありがたい。
 バス停で降りて、さあ、どうやってタクシーを呼ぼうかと思っていたら、バス停の近くの事務所の男性が「大学に行くのなら、私が送ってあげる」と言う。初老のロンさん。「ようこそ、ハンニバルへ。ここはマーク・トウェインのおかげであなたのような外国からの観光客が絶えません。私たちはトウェインのことを”tourist trap”と呼んでいますよ」と笑顔で語る。「観光客を招きよせる罠」の意味だ。
 ラグレインジ大学の学生寮に荷物を運び入れてほっと一息。偶然だが、紅顔の美少年だった37年前に南部ジョージア州に留学した先の大学もラグレインジ大学という名前だった。学生寮の部屋に入って当時を少し思い出した。
 ハンニバルのダウンタウンには大学の教授がたまたまそちら方面に行くということでこれも同乗させてもらった。「ミッドウエスト・ホスピタリティー」はどこまでも続く。
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 一通り、トウェインがらみの博物館や当時住んでいた家などを見学した。作家の人となりが少し理解できたような気がした。さて、学生寮に戻ろう。タクシーなら5ドルぐらいだろう。でも、キャンパスの食堂はまだ閉店中で食事するところがないようだ。部屋にはテレビもなかった。
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 それで、ダウンタウンのバーで時間をつぶすことにした。ビールを飲みながら、博物館から渡されたセミナーの資料に目を通す。そのうちに客が増えてきた。明らかに地元の常連客だ。隣に座った中年の男性が話しかけてきた。ジョージ。58歳。生粋のハンニバル男。年齢も近いし、話が弾んだ。ロサンゼルスだったら、こうはいかないだろう。ニューヨークならどうだろうか。そんなことを思いながら、グラスを傾けた。
 (写真は上から、ハンニバルのダウンタウン。ミシシッピ川の近くに立つトウェインの像。作家が少年時代を送った家の前の塀。『トム・ソーヤーの冒険』でトムが言葉巧みに遊び仲間の少年たちに塀のペンキ塗りの仕事を手伝わせたエピソードで名高い塀だ。備え付けのブラシを手にした少年が家族に記念の写真を撮ってもらっていた)

タトゥーと食べ残しの持ち帰り

 アメリカを旅して1か月以上が過ぎた。気分的にはもう何か月もこの国にいるような気がしてならない。アフリカに比べれば、楽な部分はある。第一、絶えず、身の安全の心配をしなくていい。まあ、油断はできないが。先日はあるところで、脱いだ靴を盗まれそうになったが、私の足のサイズは24・5センチでとても小さい。盗んだ男は自分の足に合わなかったのだろう。ごみ箱に捨てられているのを見つけた。私は足のサイズが小さいのに少しコンプレックスを抱いてきたが、足が小さいのも案外、いいのかもしれない!
 何度か書いてきたが、アメリカでも行く先々でアフリカ同様、人の親切、情けに触れ、感謝している。誤解して欲しくないのだが、小さいことでは不快な思いをすることもないことはない。そうしたことを事細かに書いても詮無いことだから書かないだけの話だ。今日はセントルイス最後の夜。もうこれから行くレストランは決まっている。土曜日の夜、そこに行って一人で食事する前にバーのカウンターでウエイターやウエイトレスの人たちと適当におしゃべりしていたら、店のマネージャーらしき女性が「あなたの旅が気にいった。今夜の食事(ビール3杯含め)は私の驕りだ」といった調子でもてなしてくれた。せめて今宵は「返礼」で自分の金できちんと飲食しなければ。
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 それはそれとして、これまでの旅で気づいた点を二つ、以下に記したい。まず、タトゥー(tattoo刺青)をしている人たちが異様に多いこと。若い女性もそうだ。どうも、ファッションというか流行(fad)の一つになっているみたいだ。ピアスも唇から瞼、果ては舌の中央部にもしている女性がいた。物を食べる時はどうするのだろう。社会的にタトゥーが認知されていることの現れだろう。自身も体に10か所以上のタトゥーをしている中年男性は「昔はタブーだったが、そうね、15年ほどになるかな、皆がタトゥーをするようになったのは」と語る。彼はアメリカンインディアンの血が流れており、右手の腕にはそのことを誇りにしたいと先住民が好む伝統的絵模様のタトゥーが描かれていた。
 続いて、レストランで食事を済ませた人が、食べ残した物をレストランが用意している簡易容器に入れて持ち帰っていること。「もったいない」という意識の現れだけではなく、米経済も日本同様あまり芳しくなく、少しでも家計を切り詰めたい思いが背景にあるのだろう。食事を終えた10人ぐらいのグループの男女がそれぞれ、食べ残りが入った容器が納まったビニール袋をそれぞれ手にして店を後にする光景は、最初、意外に思えた。
 はるか昔。学生時代に結婚式場でアルバイトしていた時、披露宴が終わる度に、真っ先に花嫁の席に駆け寄った。花嫁が食べ残した、といういか、正確には、全く手をつけていない鯛やエビ、赤飯などの食べ物を折に入れ、アパートに持ち帰り、夜になると、友人たちとささやかな酒宴を催したものだ。憂いのない、いい時代だった。「下駄を鳴らして奴が来る 腰に手ぬぐいぶらさげて♪♪・・・語り明かせば下宿屋の おばさん酒持ってやって来る♪♪」(吉田拓郎の「我が良き友よ」より)
 (写真は、袖振り合うも多生の縁で、お店の人たちと仲良くなったレストラン)

ミズーリー歴史博物館

 アメリカはご承知のように、若い国だ。英国から独立したのは1776年のこと。まだ、235年前のことである。国家としての在り様を大きく揺るがした南北戦争の終結から数えると、わずか150年にも満たない。
 だから、米国民は「伝統」や「古い」ものに憧れるのだと私は思っている。この国で英王室が人気があるのも、政治や社会状況はともかく、日本や中国が時として憧憬の念で迎えられるのも、米国の国家としての「若さ」と無縁ではないのではないか。
 若い国家だけに、訪れる米国内の各市町村がその歴史を濃密に抱え込み、そして誇りにしている。「米国で初めての○○ができたのは・・・」「この州で初めて○○が確立したのは・・・」などといった歴史紹介文をよく目にする。
 セントルイスも例外ではない。ただ、ここは正真正銘、地政学理由もあり、米国の発展に大きく寄与した。鉄道が開通する前は、蒸気船による水運が頼みの綱であり、セントルイスはミシシッピ川が南北に流れ、西からはミズーリー川が合流する地の利を得ていたからだ。郊外のフォレスト・パークの中にあるミズーリー歴史博物館に足を運んだ。
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 ミズーリー州一帯はアメリカインディアンが先住民としていたが、17世紀以降、スペイン続いてフランスが入植する。フランスはルイジアナ州からミズーリー州、ネブラスカ州、アイオワ州など、さらにはカナダにかけた一帯の土地を支配下に置いた。アメリカは独立後にフランスと交渉し、1803年にこの膨大な土地を購入する。Louisiana Purchase(ルイジアナ購入)と呼ばれる買収だ。米国土はこれで一気に二倍に増えた。背景に当然、英米仏の当時の微妙な「三角関係」がうかがえる。
 セントルイスが発展する原動力となったのは、ミズーリー川流域で豊富に獲れた動物の毛皮と、多様な用途があった鉛だったという。アメリカインディアンは毛皮取引で買いたたかれ、最終的には動物の数の激減で辛酸をなめさせられた。穀物や綿花の栽培が本格化すると、今度は南部から黒人奴隷が大量に導入され、セントルイスの発展の礎を築いた。
 博物館の一角ではルイジアナ購入100年を記念して1904年にセントルイスで開催された万国博覧会の様子を伝える品々が展示されていた。博覧会跡地がフォレスト・パークになっており、博物館は当時のメインゲート跡に立っている。米国の力が伸び行くことを世界に知らしめた博覧会だったのだろう。明治末期の日本も参加して、茶室などを造り、芸者も送り込んだことが紹介されていた。
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 展示品を見ていると、ガイドと思われるご婦人が「この博覧会で世界で初めてアイスクリームのコーンがお目見えしたのですよ。女性の服装を見て下さい。誰もがきれいに着飾っているのが分かるでしょう。見学する人にとっても、心が躍る晴れ舞台だったのだと思いますよ」と説明してくれた。
 (写真は上が、ミズーリー歴史博物館の外観、1904年の博覧会の様子を伝える展示品。着飾った女性がアイスクリームのコーンを手にしているのが見える)

ゲートウェイ・アーチ

 マーク・トウェインの本でまだ読んでいなかった本を読んでいて、これはやはり、セントルイスでミシシッピ川の乗船を体験しておいた方がいいと思いついた。
 “Life on the Mississippi”という本だ。ミシシッピ川という単語を今、パソコンで打っていて、この川というか州の名前は昔、英語の試験によく出てきた単語だとふと思い出した。
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 再び、ミシシッピ川岸のラクリーズ・ランディングに。期待通り、遊覧船が出ている。乗船券は14ドル(約1200円)。乗った船は「トム・ソーヤ」と名付けられていた。カメラを手にした乗船客で賑わっていた。操舵室の係員がマイクを片手に、ミシシッピ川を蒸気船が上り下りしていた19世紀のセントルイスの様子を説明する。南北戦争(1861-65年)で下り坂になるが、それまではミシシッピ川を行き来していた蒸気船がこの都市の発展及び、西部開拓に大きく寄与したという。
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 トウェインの本名はサミュエル・クレメンズ。作家になる前の一時期、南北戦争直前、蒸気船に乗って働いていた。上記の本の中で、彼が育ったセントルイスから北西約160キロの町ハンニバルでは、子供たちにとってはミシシッピ川の蒸気船のパイロット(水先案内人)になるのが夢であったと書いている。ただし、パイロットの仕事は予想以上に困難極まりなく、彼はこの仕事が一人前に務まるようになるなら、”I’ll be able to raise the dead.”(死人を蘇生させることができるだろう)と嘆いてもいる。セントルイスからニューオーリンズまで約1200マイルのミシシッピ川は昼と夜で大きく異なり、また絶えずその「表情」を変化させる。どこに岩場や障害物が隠れているか熟知していないと、自身と乗客の命の危機を含むとんでもない災難が待ち受けていた。
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 今はそのような緊迫感は味わえないのだろう。遊覧客の世話をしていた若者に聞いてみた。「それは当時の話です。当時は川幅はもっと広く、全体的に浅かった。今のように、護岸工事もなされていませんでした。パイロットに要求された技量と経験は大変なものだったと思います」と若者は語った。
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 作家のペンネームは蒸気船が当時、安全に航行できた水深(2フィート、約3・6メートル)に注意を促すため、皆が”Mark twain.”(水深2尋)と叫んだことに由来する。
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 何気なく、操舵室の係員の説明に耳を傾けていたら、セントルイスに着いた時から気になっていたアーチ状のモニュメントの上部は観覧室になっているとの由。遠目には信じがたい。下船して近くまで行って見ると、観光客の長蛇の列ができていた。セントルイス以西の開拓の歴史を象徴する「ゲートウェイ・アーチ」。1965年の完成で最上部は192メートル。最下部の底部の左右の距離も192メートル。最上部まで左右の底部から計16の卵形のゴンドラのようなリフトで上がることができる。私のような閉所恐怖症には最初ちょっと気持ちが悪いが、最上部の窓からの眺めで相殺される、かな。これは10ドル。
 (写真は上から、「トム・ソーヤ」号。「ゲートウェイ・アーチ」。最上部に観覧室の小窓が見える。その観覧室内部。そこから見えたセントルイスのダウンタウンの街並み)

セントルイス点描

 前回の項で、「ガーデンシティを出て、西隣のミズーリー州の大都市セントルイスに到着した」と書いたが、「東隣」の誤りだった。「方向音痴」も極まれり。
 セントルイスのダウンタウンを手っ取り早く歩いて見た。ホテルはダウンタウンへ歩くには遠すぎる。タクシーは使いたくないので、ホテルのフロントで尋ねたら、バスとメトロ(電車)に乗ることを勧められた。2ドル75セント(約230円)の切符を買えば、2時間は何度でも乗り換え自由だとの由。
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 確かに便利だったが、それより、驚いたのは、駅に改札がないことだ。階段を下りればそこがホームであり、語弊を恐れずに言えば、すっと乗って、すっと下車できる。その気になれば、無賃乗車の仕放題に思えた。鷹揚と言えば鷹揚である。
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 とりあえず、ミシシッピ川が見たかった。これからその「故郷」を訪ねるマーク・トウェインの個性、文学を育んだ、トウェインにとっては切っても切れない縁の川である。メトロの路線図を見ると、East Riverfrontという駅名がある。リバーフロントというだけに川のそばに駅があり、豊かな水量のミシシッピ川が眼下に見えた。ホームの路線図を改めて見ていると、川のこちら側はイリノイ州と記してある。川が州境になっているのだ。
 再び電車に乗り、対岸のミズーリー州にある駅で下車した。Laclede’s Landing。「ラクリーズ・ランディング」と呼ぶらしい。石畳で古い建物が多く、かつての雰囲気を醸し出そうとしていることが分かる。どこかで似たような地名に出会った気がする。思い出した。トウェインの中編小説の”Pudd’nhead Wilson”の舞台となった架空の地がDawson’s Landingという町だった。(参考までに、私が昨年『二人の運命は二度変わる』とのタイトルで翻訳したのがこの本です)
 カフェの外のテーブルに座り、道行く人たちを眺めた。夏休みの最後を過ごす家族連れが目についた。カリフォルニアを出てからは猛暑の日々が続いていたが、今日は珍しく朝方に雨が降ったせいか、暑さはそうでもない。
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 トウェインの本で読みたかった本があり、古本屋を探してダウンタウンを歩いたが目当ての本を見つけることはできなかった。のぞいた書店の隣がレストランになっていた。メニューを見ると、「ビールとワインの専門店」であることが分かった。「今日は金曜日か。日本はもう土曜日になっているな」と思いながら、ビールを飲むことにする。(こちらに来てから、週末が随分増えた気がする)。生ビールを頼んだら、味見をして選べと言う。見ていると、コックから小さいコップに二種類のビールを少量注いでくれた。57種類のビールが飲めるという。こういう店が行きずりだけの縁となるのが辛い。
 (写真は上から、メトロの駅。イリノイ州側から見たミシシッピ川。樽からビールを注ぐコックの前で微笑むレストラン従業員のお嬢さん。背後にビールの銘柄がずらり)
 (注・カポーティの③を若干修正しました。彼が”In Cold Blood”で訴えたかったと私が思うことを加筆しました。遅ればせながら)

セントルイスへ

 ガーデンシティを出て、東隣のミズーリー州の大都市セントルイスに到着した。例によって、アムトラックだ。これまでスムーズに来たので、アメリカの鉄道もやるではないかと思っていたが、いや、やはり「奥」が深かった。
 復路の切符はカンザスシティで購入していた。3日(水)の午後11時17分発。ホテルの親切な支配人が「夜10時過ぎには駅員が来るから」と言って送ってくれた。結論から言うと、「夏季休暇」なのか分からないが、駅員さんは最後まで来なかった。切符があるからそれはいいのだが、列車の遅れのアナウンス一つないから、これは困った。何と列車が来たのは、日付が変わった4日午前1時半だった。
 急ぐ旅ではないから、これぐらいの遅れは我慢しよう。もっと困ったのは、夜になっても決して涼しいとは言えない熱気が続く中、駅舎内には鍵がかかっていて入れない。飲料水の自動販売機がこうこうと光っているのが、窓から見えるのだが、どうすることもできない。それでもって、駅は町の外れにあって、しかもここは夜の9時を過ぎると、開いているお店は皆無に近い。自動販売機も探してみたが、見当たらなかった。スーツケースなどの荷物を無人の駅に残したまま遠くまで歩くことはさすがに出来かねた。
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 弱り目に祟り目で、ロサンゼルスで買った携帯電話がガーデンシティでは「圏外」。アメリカのど真ん中にいるのに!購入した携帯がきっと全米ではマイナーな会社なのかもしれない。おまけに、この日は久しぶりにプールで結構泳いだのと、夜にメキシカンレストランでスパイスをたっぷり効かせた夕食を腹一杯食べていた。の、のどが渇く。何か名案はないかと思案していたら、駅舎を囲む庭の端から芝生養生の水が飛び出してきた。小刻みに円を描くように水を噴霧していく「蛇口」を一瞬頭に浮かべた。
 しかし、やはり、「ミッドウエスト・ホスピタリティ」のカンザスである。ジェイムズという名の35歳の男性がカリフォルニアに里帰りしている妻を迎えにやって来た。私の「窮状」に気づき、車の中にあった清涼飲料水の大きなペットボトルをくれたのだ。お金を渡そうとしたら、「困った時はお互い様」と言う。列車が遅れたこともあり、そこから列車がやって来るまで、3時間余、彼とたっぷりお互いの人生について話した。
 今の妻とは再婚。最初の妻は2人目の子供を産んだ直後に精神を病み、生後間もない赤ちゃんを窒息死させた。裁判などで最初の子供は養子としてジェイムズの手元を離れた。もう、家庭をもつことはないだろうと思っていた4年前に、彼女と出会い、再婚を決意。女の赤ちゃんが2年前に生まれ、妻とは今も”madly in love”にあると語った。煙草はやるが、酒はやらない。語り口に真面目な性格がうかがえた。束の間の出会いをお互いに喜んだ。
 ようやく着いた列車から、私と入れ替わるように下車してきた妻子を彼がしっかり抱きしめるのを横目に、私は乗車した。また、今回も眠れそうにないだろうなと思いながら。
 (写真は、いや、それにしても、こんな広いプールは初めて。日本だったら、芋の子を洗うような混雑になるのでは。新学期が始まるのでこの14日で店仕舞いとか)

トルーマン・カポーティ (Truman Capote)⑤

 “In Cold Blood”で印象に残っているシーンがある。文字通り、大団円の最終パラグラフだ。私にとっては、この部分だけでも、この小説に出合って良かったと思った。
 最終章ではペリーとリチャードの二人が、1959年12月の逮捕以来、5年余の曲折を経て、1965年4月にようやく絞首刑に処される様子が描かれる。捜査の陣頭指揮に当たってきたアル・デューイ刑事も絞首刑を見守る。デューイ刑事は小説の中で事件の捜査に全力を注ぐ姿が描かれており、作家が彼に好感を持っていたことがうかがえる。
 デューイ刑事は「ちんぴら」に過ぎないリチャードの処刑には特段の感情は起きない。しかし、続いて行われたペリーの処刑には複雑な思いを抱く。ペリーは傷つき、追われる動物が醸し出すオーラのようなものを持っていたからだ。
 そのペリーは首に縄が巻かれる直前に次のような最後の言葉を口にする。「自分がやったことを(今ここで)謝罪するのは意味のないことだろう。適切でもない。でも、俺は謝りたい。俺は謝罪する」(”It would be meaningless to apologize for what I did. Even inappropriate. But I do. I apologize.”)。デューイ刑事には期待していた「一件落着」の高揚感や解放感はない。彼はその時、1年ほどまえにクラター一家が眠るガーデンシティの霊園を訪れた時の光景を思い出していた。
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 父親の墓参りが目的で訪れていたデューイ刑事はここで、事件の被害者の少女、ナンシーの無二の親友のスーザン(スー)に4年ぶりに再会する。彼女はナンシーの墓参りに来ていたのだ。4年前は少女だと思っていた彼女も今や大学に通う美しい娘に成長していた。立ち話の後、約束があるからと慌ただしく霊園を去る彼女に彼は優しく声をかける。
 “And nice to have seen you, Sue. Good luck,” he called after her as she disappeared down the path, a pretty girl in a hurry, her smooth hair swinging, shining—just such a young woman as Nancy might have been. Then, starting home, he walked toward the trees, and under them, leaving behind him the big sky, the whisper of wind voices in the wind-bent wheat.(「スー、また会えて良かった。元気でね」と彼は立ち去って行く彼女に声をかけた。彼女はきれいな髪の毛を風になびかせ、きらめかせながら、急いで駆けて行く。ナンシーが生きていれば、まさに彼女のように成長していたことだろう。ほどなく、彼も木々の下を自宅に向かった。背後には空が大きく広がり、風に揺すられた小麦が波打ってささやき合っている)
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 この時の情景が目に浮かぶようだ。まるで一点の絵画を見ているような感覚に陥る。ちなみにこの霊園はValley View Cemeteryと呼ばれ、その昔ガーデンシティの開拓者の人々が乾いた土地に水を運び、木々を植え、大切に育んできたもので、ここに住む人たち誰もが誇りに思っている墓地だ。8月の陽光を浴び、緑が爽やかに映った。
 (写真は上が、クラター一家が眠る墓。下が、ガーデンシティの市民プール。アメフトの競技場の大きさを誇る。久しぶりに泳いだついでに監視員のお嬢さんをパチリ)

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