アメリカをさるく
CDで聴くマーク・トウェイン
- 2011-08-18 (Thu)
- 総合
ハンニバルの居心地がいいので、研究会が終了した後も数日、居残ることにした。
前にも書いたが、今回の研究会はハンニバルのトウェイン博物館が初めて主催した集まりで、今後4年ごとに開催する方針。ニューヨークのエルマイラ大学にあるトウェイン研究所ではずっと以前から4年ごとにこの種の研究会を開催しており、2013年は彼らの研究会が催される。この調子で行くと、作家の生誕200年に当たる2035年はハンニバルの順番となる。博物館館長のヘンリーさんに「私は2035年には81歳となる。まだ元気矍鑠(かくしゃく)としているだろう。4年後はともかく、24年後には再訪するようにするから、その時は招待してください」と軽口をたたいたら、受けた。
ヘンリーさんと談笑していたら、博物館総括責任者のシンディー・ラベルさんがやってきて、「ショウ、遠くから来てくれてありがとう。これをあげましょう。まだ出回っていないものです」と二枚のCDを差し出した。”Mark Twain: Words & Music” のCDだ。おお、これは、研究会の中でも話題になっていたトウェインの生涯を作家の表現と音楽でたどったCDではないか。博物館の制作で、完成するのは9月末と聞いていた。ハンニバルの思い出に購入したいと思っていた。何というラッキー。
早速ホテルに戻り、パソコンに入れて聴いてみる。素晴らしい演奏と歌だ。さらに凄いのは、4人の語り手の中に、トウェインの役割を担うクリント・イーストウッドが入っていることだ。トウェインとハリウッドの名監督(名優)とはイメージが一致しないが、渋みのある語りは見事にはまっている。リヴィ夫人と3人の娘に囲まれた至福の日々、やがて、長女のスージー、続いて、最愛のリヴィ夫人を失い、失意のどん底に落ちる件(くだり)の語りでは、”She was my life. She was the most beautiful spirit and the highest, noblest, ever be known. And she is dead. I wish I were with Livy.” (妻は私の命だった。彼女はこの世に生きた最も美しく、最上、最高の気質の人だった。彼女はもうこの世にいない。私も妻と一緒に死にたい気分だ)という吐露はぐっと胸に迫る。リヴィ夫人の写真を見ると、確かに気品のある美しい女性だったことが見てとれる。
ところで、私がここ数日、泊まっているホテルはLula Belle’s (ルラベルズ)という名のB&Bで、1917年から50年代にかけてはこの一帯では有名なbordello (売春宿) だったとか。当時のままの建物で雰囲気も残っている。研究会で親しくなった、私より年長で大柄な快男子の研究者、ケントからは別れ際に「君は独身なんだから、夜になったら特別のルームサービスを頼めばいい」と冷やかされた。
最初の夜、未明、ダブルベッドが揺れるので目が覚めた。「はて、ルームサービスは頼んだ覚えはないが」。すぐ近くに貨物列車専用の鉄道が通っており、列車の通過でホテル全体が揺れていたのだった。
(写真は、B&BのLula Belle’s の前で。右がケント。左は車で送ってくれたティム)
(注:マーク・トウェイン博物館の研究会のことをもっと知りたい方は以下がサイトです。http://blog.marktwainmuseum.org/)
マーク・トウェイン(Mark Twain)⑤
- 2011-08-17 (Wed)
- 総合
地元ハンニバルではトウェインはどう受けとめられているのだろうか。人口約1万7000人の小さな町だ。トウェインの「故郷」を見たくて訪れる観光客がハンニバルと周辺部で落とすお金は決して小さくはないだろう。事実、私がここに滞在した1週間余の間に、中高年層の夫婦や祖父母に連れられてやってきた孫の子供たちの姿を数多く見かけた。
しかしながら、ハンニバルも主要な通り沿いに空きビルが結構目立つ。地域経済がここでも苦境にあるのは容易に察することができる。ハンニバルで判事をしているロバート・クレイトンさんは「トウェインのおかげで観光業はある程度潤っていますが、ここにはこれといった基幹産業がない。歴史的にこの一帯を支えてきた水運も今はありません。雇用の場が増えないことには町のこれ以上の発展は望めません」と語った。
今回のトウェイン研究会を主催した博物館の館長、ヘンリー・スイーツさんは「博物館の来館者は年間5万から6万人で推移しています。これに、彼の作品に出てくる洞窟見学とかリバーボートの遊覧客を含めると、年間20万人から25万人がトウェインがらみでハンニバルを訪れていると私たちは見ています」と語る。「観光客の上位五か国はカナダ、英国、オーストラリア、ドイツ、それに日本です。世界中の読者から慕われるのは、やはり、彼の作品が人間の内面を描き、親しみやすいからだと思います。誰もが思い当たる内面の巧みな描写、それが時代を超えてアピールするのだと思います」
研究会のフィールドワークの一つで、作家が生まれた地であり、ハンニバルに転居後も伯父の農家があった関係で足繁く通っていたフロリダをヘンリーさんの案内で訪ねた時のことも忘れがたい。伯父の家は消失していたが、その家が立っていた場所に復元する作業が進められていた。復元作業の中心人物は70歳になる元教師で考古学者のキャレン・ハントさん。5年ほど前から、私費を投じて、農家があった土地を購入し、土に埋もれた農家の建築材などを発掘している。作業が順調に進めば、来年の夏にはトウェインが「アンクル・ダニエル」(黒人奴隷)の語る話が楽しみで訪れていた当時の農家が復元されているはずだ。
フロリダは作家が誕生した当時は100人程度の住民がいたが、現在は一人も住んでいない。私には緑豊かで落ち着いた暮らしができる絶好の土地に見えたが、仕事の場がないから、住民は転居していったのだろうか。②で紹介した、作家の生家が移転保存されている「トウェイン記念堂」では作家の生涯を20分ほどのビデオで紹介していた。ビデオの最終部ではトウェインの晩年に撮影された珍しい動画が流され、概ね、次のような言葉で締め括っていた。
「マーク・トウェインはほとんどの作家がなしえなかったことをなしえてこの世を去った。彼はimmortality(不朽の名声)を手にしたのだ」
(写真は上から、フロリダのトウェインの伯父の農家跡で進められている復元作業。中央の女性がキャレンさん。「外観」はほぼ完成。作家の生家が本来なら立っていた地。左端で説明しているのが、博物館館長で今回の研究会を仕切ったヘンリーさん)
Mark Twain experience
- 2011-08-17 (Wed)
- Random thoughts
I have been in Hannibal, MO for the past week. Oh, it was a very wise choice to come here. Sometimes I really think that somebody up there, probably God, is taking a good care of me during my journey in America.
While in California, I had a mail from one of my good professors in college days way back in 1970’s that there would be a conference on Mark Twain in Hannibal, America’s Hometown, where the famed writer and humorist had spent his childhood days. Twain was born in Florida, MO, in 1835 and moved here to Hannibal in 1839 and grew up here. When I checked the website of Mark Twain Boyhood Home & Museum, I found out that the conference, which was held for three days from Aug. 11 to 13, was the first of its kind sponsored by the Museum.
On arriving at Hannibal, I found quite a few renowned scholars and reseachers coming to the conference. I’m a novice, although I had managed to translate one of his stories, “Pudd’nhead Wilson” into Japanese and published it two years ago. I only thought just being among the noted scholars on the writer would give me something precious for my American literary journey and I would be cherishing for the rest of my life.
It turned out to be far better than I had hoped. All the people I came across at the conference were just good-hearted and many of them gave some tip on the writer. Some of them also gave me some useful information on the other American writers whose related places I’m planning to visit and write about later on.
One of the questions I’ve had on Mark Twain was just how he could drift away from the Civil War, which had ravaged the South and surrounding regions in 1860’s. Before coming here I almost believed that this part of Missouri was part of the Southern region, therefore the Confederacy. I have thought amazing the fact that Mark Twain, who lived throughout the Civil War era, had managed to be somehow free from the aftermath of the war and continue to write on various aspects of human beings beyond the war. Whereas such a fantastic writer as William Faulkner, although born after the war, seemed to have lived and written always lingering on the Southern cause and being a Southerner.
I was glad when I asked Barbara Snedecor, and she did not consider my question irrelevant. Barbara is Director of The Center for Mark Twain Studies, Elmira College, NY. She agreed with me that it was very lucky for him and for us to see him go to the west right after the start of the war in 1861. She also enlightened me into an aspect, until then I had not been aware of. His first piece, a jumping frog story, made his name travel throughout the country and made the nation laugh. Although it’s a simple and maybe dumb story, after the bloodbath of the Civil War, people had needed it.
Don’t think please that I’ve enjoyed and understood all the presentations during the conference. Some of them were too deep for me, I’m afraid. And some of the presenters talked too fast for me to catch up with, although I had no doubt that they were good presentations. Among them I thoroughly enjoyed a presentation by John Pascal. He spoke on “Artemus Ward: The Gentle Humorist and His Lecture Influence on Mark Twain.” It made me understand better now with the American tradition of the literary comedians in which Twain also had a great talent and used it to pay back all his debts. John is a high school English teacher from New Jersey. No wonder his talk was crisp and easy to understand.
After the fruitful three days, I decided to stay in Hannibal for a few more days. I had to find another place to stay. Oh, I almost forgot to thank the venue of the conference, Hannibal LaGrange University. We could stay at the student’s dorm, 15 dollars a night! What a bargain, especially for me struggling always to find a good and reasonable price hotel. And of course I wish to thank Henry Sweet, Cindy Lovell and other staff from the Museum for their wonderful work and hospitality.
When Kent Rasmussen and Tim Champlin, both independent researchers, drove me to a B&B downtown on their way out of Hannibal, Kent kindly explained to me the historic fact that the B&B, called Lula Belle’s, had been actually once a famous bordello. His departing shot was: “Shoichi, are you single? If so, you can order a special room service later on? Enjoy your stay.”
No, Kent. No thank you. Those days are gone for me. I’m a born again atheist.
On the first night, I woke up at the middle of my sleep. I found my bed shaking in the room named "Angel of Delight." No. I didn’t order any room service. I soon found out that it was the vibration coming from the nearby freight railway traffic.
(photo: The last laugh boefore leaving the University dorm. Tim drove me to the B&B in this car. Kent insisted sitting on the back of the car, letting me sit on the front seat. )
マーク・トウェイン(Mark Twain)④
- 2011-08-16 (Tue)
- 総合
今回のハンニバルでのトウェイン研究会で楽しみにしていたことがあった。昨秋、カリフォルニア大学出版会より刊行された『マーク・トウェイン自伝』の編集責任者であるロバート・ハースト博士の基調報告だ。作家の晩年の様子が聞けないものかと。
私の頭にあったのは、作家の命により死後6年後の1916年まで発表が差し控えられた”The Mysterious Stranger”(邦訳『不思議な少年』)という短編だった。1590年のオーストリアを舞台に、サタン(Satan)と名乗る少年が「僕」を含めた子供たちと繰り広げる幻想的な物語で、最後の場面で、サタンは語り手の「僕」にこう言い残して消え去る。”there is no God, no universe, no human race, no earthly life, no heaven, no hell. It is all a dream—a grotesque and foolish dream. Nothing exists but you. And you are but a thought—a vagrant thought, a useless thought, a homeless thought, wandering forlorn among the empty eternities!” (神様なんていない。宇宙も人類もこの世も天国も地獄も存在しない。すべて夢。醜くて馬鹿げた夢。君の他には何も存在しないんだ。でも、君だって、自分がいると思っているに過ぎない。君は実際は助けてくれる者もなく、何もできず、ただあてもなく、果てしなく何もない中でわびしくさまよい続けているだけなんだよ!)
ハースト博士は2日前に70歳になったとは思えぬ若々しさで、彼にとっては文字通りライフワークとなったトウェインの「素顔」を掘り起こす作業の一端を語った。『自伝』に収められている回顧録は死後100年は公表しないようにと作家が命じたと伝えられる。
博士の元には今も、新たに見つかった作家の手紙が週に平均3通は報告されているという。『自伝』は予想以上の好評を博し、かなり厚手の高価な本であるのに既に50万部が売れた。「私たちは1万部ぐらいの販売を見込んでいました。次巻はいつ出るのだという問い合わせも殺到しています」と博士は語った。次巻は2013年の刊行予定で、2015年の第3巻で完了する運びとか。
基調報告の前に、会場の片隅でくつろぐハースト博士を見つけたので、いくつか質問をさせてもらった。
「あなたは40年以上にわたって、トウェインと向き合っている。大変なご苦労ですね」
「退屈に思う日は一日たりともありませんね。彼は天才だったのですから。日々新しい発見があります。彼は後の世代の私たちが目にすることを念頭に、手紙を含めすべての資料を残すようにしていたのです。プライベートな手紙は焼却する作家が多いのに異例と言えるでしょう」
「最愛の妻や娘たちに先立たれた作家の晩年は厭世的、悲観的に陥りがちで、私には我々が知っているユーモアにあふれた作家とは若干様相が異なるような雰囲気が漂ったという印象があるのですが」
「『自伝』が明らかにする作家の晩年は一般の人が考えている作家のイメージと著しく乖離したものとはならないと思いますよ」
(写真は上が、檀上のハースト博士。下が、ハンニバルのミシシッピ川の遊覧船。観光客だけでなく、遊覧船からの景観と食事を楽しみに来た地元の人たちもいた)
マーク・トウェイン(Mark Twain)③
- 2011-08-15 (Mon)
- 総合
マーク・トウェインは日本でも幅広い愛読者を抱える作家であり、ここで私が彼の魅力を改めて説明することもないかと思うが、ハンニバルのトウェイン博物館で改めて思ったことを述べたい。
『ハックルベリー・フィンの冒険』は1885年の発表直後から「青少年の読む本としてはふさわしくない」として物議をかもし、北部の図書館では「スラム街の読み物」と排斥された。1957年には全米黒人地位向上協会が、奴隷制度時代の象徴的表現である “nigger” という表現が211回も使われていると槍玉に挙げた。隔世の感ありだ。
参考までに、niggerは確かに今では人前で口にすることなど想像できない表現だ。当時は普通に「黒人」を差す表現としては、negroとかdarkyという表現が使用されていたようだ。この二つの言葉ももちろん今では侮蔑的として、歴史的な文脈以外では目にしない。
『ハックルベリー』には次のようなドキッとするやり取りも織り込まれている。当時の南部及び南部に近いミッドウエストの地域では普通に聞かれた会話だったのだろう。ハック少年とトム・ソーヤーの親類の婦人との会話だ。ハックは自分が乗った船で起きた(と偽った)爆発事故を話題にする。
“We blowed out a cylinder-head.” 「シリンダーが爆発したんだ」
“Good gracious! Anybody hurt?” 「なんとまあ!誰かけがでもしたのかい」
“No’m. Killed a nigger.” 「いや、大丈夫だった。黒んぼが一人死んだけど」
“Well, it’s lucky; because sometimes people do get hurt.” 「そうかい。それは運が良かった。人がけがすることはあるもんだからね」
今はこういう会話が交わされる現代の物語は考えられない。黒人の死が人間の死として見なされない南北戦争以前の時代のこの国の偽善性が見事に活写されている。ハックが黒人奴隷ジムとの間に芽生えた友情から、彼の逃亡を手助けすることを決意する場面が感動的だ。教会の教えに背き、ジムが自由になるのに手を貸すことが地獄に落ちることを意味するなら、”All right, then, I’ll go to hell.” と。
奴隷は当時、所有者の所有物と見なされていた。だから、たとえ所有者が奴隷を殺したとしても、殺人罪など適用されることはなかった。トウェインは1897年に発表した旅行記の中で、ハンニバルで彼が10歳の少年のころ目撃した「殺人事件」を概ね次のように回想している。「ある黒人奴隷を所有していた男の人がその奴隷の動きが鈍いと怒り、鉄の塊で頭を打ち付け、その奴隷はほどなく息絶えた。私は痛ましく、間違った行為のように思ったが、なぜと問われても、その時の私は幼すぎて、うまく説明することはできなかっただろう。村の皆がこの殺人行為を快く思っていなかったが、誰もとりたてて話題にしなかった」
(写真は上が、博物館で毎日来館者を対象に行われている、作家のそっくりさんのパフォーマンス。下が、地元の子供が扮する「トム・ソーヤー」の登場人物と記念撮影)
マーク・トウェイン(Mark Twain)②
- 2011-08-14 (Sun)
- 総合
マーク・トウェインの本名はサミュエル・クレメンズ。彼がハンニバルで少年時代を過ごした家には、当時のハンニバルの様子が紹介されている。人口は1830年にはわずか30人で、クレメンズ一家がフロリダから越してきた1939年には約1000人に増えていたと述べられている。10年足らずのうちに急増しているが、当時はほとんどが顔馴染のコミュニティーだったのだろう。(現在の人口は約1万7000人程度)。19世紀半ばのアメリカは90%以上の国民がこのような小さな町村に居住していたという。
ミズーリー州はミッドウエストの州であり、1861年に勃発した南北戦争では南部支持派と北部支持派が激しく争い、北部支持派が優勢に立った。しかし、黒人奴隷を保持していた白人もおり、富裕とは言えないクレメンズ一家も黒人奴隷がいた。暮らしが厳しくなると、その奴隷を売りさばいたが、その後も時に、奴隷をレンタルで雇ったりしていた。
彼の代表作『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)を読んで、心打たれるのは少年ハックと逃亡奴隷ジムとの友情だ。当時は教会の教えでも、逃亡奴隷に手を貸すことは罪悪と見なされていた。煩悶の末、ハックはジムとの友情を優先し、ジムを助けることを決意する。
私はかねてからトウェイン専門家に尋ねたいと思っていたことがあった。作家の家は奴隷を代々所有し、作家は奴隷所有が認められた州で育った。トウェインは南北戦争勃発直後には南部の独立派に心情的に肩入れし、北軍に抗しようとするが、すぐに「見切り」をつけ、西部に仕事を得た兄に従い、カリフォルニアに向かう。これが結果的にトウェインを南北戦争の泥沼に引きずりこむことなく、後に作家として大成する契機となった。彼にとっても、現代に生きる我々にとっても、幸運な展開となったのではないか。歴史の歯車が一つ食い違えば、戦場で屍となった可能性があったのだから。
ニューヨークのエルマイラ大学にあるマーク・トウェイン研究所の所長、バーバラ・スネデカ博士は「そうですね。私もそう思います。(マーク・トウェインにとっては)大変幸運な展開になったと思います。彼がその当時奴隷制度に明確に敵対する意思表示をしていないことを指摘する批評家もいますが、彼は奴隷を所有することがごく当たり前の家庭に生まれ、育ったのです。黒人奴隷との触れ合いがごく自然な環境で育ったのです。そのことで彼を批判するのは見当違いでしょう」と語る。
彼はハンニバルに越してからも、南西に約65キロ離れたフロリダにある伯父の家に足繁く通った。ここにはダニエルという名の中年の話し上手な黒人奴隷がいて、トウェインは彼の話に魅了される。この黒人奴隷が『ハックルベリー』で逃亡奴隷のジムのモデルとなる。作家としての「下地」がこの時代に育まれていったのだろう。
(写真は上が、マーク・トウェインの生家。フロリダの「マーク・トウェイン記念堂」の中に保存展示されている。生家の中の様子。当時の質素な暮らしぶりがうかがえる。猫の縫いぐるみがかわいい)
マーク・トウェイン(Mark Twain)①
- 2011-08-12 (Fri)
- 総合
マーク・トウェインの「故郷」であるハンニバル(Hannibal)で彼の著作、足跡を考察する研究会が催されている。集まっているのはトウェイン研究の第一線で活躍している大学教授や専門家の人たちだ。「門外漢」の私は末席で彼らの研究の成果に耳を傾けている。
研究会の主催組織は、ハンニバルにあるMark Twain Boyhood Home & Museum。トウェインが少年時代を過ごした家や父親が判事として勤務していた事務所、ガールフレンドの家などが史跡として残してあり、作家の業績を顕彰する博物館も含めた総称だ。このブログでは便宜的に「マーク・トウェイン博物館」と呼ぶことにする。この博物館が今夏、初めて研究会を開催。今後、4年ごとにこの集いを開催したい方針だという。
トウェインは1835年にミズーリー州のフロリダという田舎町で生まれ、近くのここハンニバルで少年時代を過ごす。トウェインゆかりの地は米国内にいくつかあるが、彼の代表作『トム・ソーヤーの冒険』(The Adventures of Tom Sawyer)や『ハックルベリー・フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn)の舞台となっているのがハンニバルであり、彼が終生「望郷の念」を抱いたのもハンニバルであることから、トウェインゆかりの地と言えば、ハンニバルが真っ先にあがるようだ。ハンニバルの観光パンフレットや道路標識には、”America's Hometown”(アメリカの故郷)とも記されている。米国民の多くがトウェインの著作を読んで育っていることも、ハンニバルが「アメリカのホームタウン」と自負する所以と言える。
私はトウェインの代表作とはみなされていないが、”Pudd’nhead Wilson”という中編小説をふとしたことから翻訳したことは先に記した。その時に彼の独特のユーモア、ストーリー・テラーとしての魅力に引きつけられた。作品の登場人物が語る英語、特に当時の黒人奴隷が話すスラングは難解で、手を焼いたが。
トウェインはいずれにせよ、ずっと気になっていた作家だった。アフリカを旅していて、ヘミングウェイの次の一文に出会っていたからだ。"All modern American literature comes from one book by Mark Twain called Huckleberry Finn.” (すべてのアメリカ現代文学はマーク・トウェインが書いた『ハックルベリー・フィン』という一冊の本から始まる)。これはヘミングウェイが東アフリカの草原で楽しんだ狩猟の日々を描いた ”Green Hills of Africa”(1935) という紀行本の中に出てくる文章だ。
改めて、トウェインのことを調べてみると、ヘミングウェイだけでなく、世界の多くの名立たる作家がトウェインのことを激賞している。ウィリアム・フォークナーは”the first truly American writer”(最初の真のアメリカ人作家)と述べている。チャールス・ダーウィンは”Innocents Abroad”という、トウェインがヨーロッパ旅した紀行本を常にベッドのそばに置き、心を落ち着ける時に愛読したという。
(写真は上が、高台からハンニバルを望む。右に見えるのがミシシッピ川。下が、作家が生まれた家の前の広場で毎週木曜夜に催される音楽コンサートに集まった地元の人々。黒人やヒスパニックの人を見かけたか記憶にないほど白人の聴衆だった)