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アメリカをさるく

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エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ①

 1809年にボストンで生まれ、1849年にボルティモアで没しているから、19世紀前半のアメリカを駆け抜けた作家だ。彼に酔心して「江戸川乱歩」と名乗った日本人推理作家を通して、ポーに出会った人もいるかもしれない。正直に言うと、幾つかの短編以外はどうも理解しづらいところがあり、私には難解な作家だ。
 ポーの一般的イメージとしては、「破滅的な生活を送った詩人」あるいは「怪奇な幻想的世界を構築した作家」「推理小説のジャンルを確立した才人」などといったところだろうか。阿片中毒説や人格破綻者といった中傷などから、本国では世紀が変わり、第1次大戦後まで正当に評価されることはなかったが、フランスを中心に海外では熱心な信奉者がいた。
 私は前回記したように、1974年に留学していた時、たまたまフィラデルフィアでポーが住んでいた家を訪れたことがあった。その時の「恩義」があり、今回の文学紀行の題材の一つにした次第だ。
 ポーはともに旅役者のアイルランド系の父親とイングリッシュ系の母親の間に誕生。しかし、父親は生後すぐにいなくなり、母親も彼が2歳の時に死亡したため、彼は養父母の元で育てられる。厳格な養父とは後年そりが合わなくなったようで、特にポーが酒が飲めない体質なのに酒を覚え、ギャンブルに手を出すようになってからは二人の関係は冷え切ってしまう。その後、伯母のクレム夫人の寵愛を受け、ポーは33年、まだ13歳だったクレム夫人の娘でいとこにあたるヴァージニアと結婚する。
 養父の庇護にあった時は大学や士官学校で学んだこともあったが、雑誌の編集の仕事を経て、本格的に作家の道を目指す。ただ、作家としてその名が広く知られるようになってからも貧窮の中での生活を絶えず余儀なくされたようだ。
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 彼が結婚後にフィラデルフィアで住んでいた家の一つが今では国の史跡に指定され、記念館のようになっている。独立宣言にまつわる史跡を見学する観光客で賑わう中心街から7番通りを北に向かって歩く。段々と人通りが少なくなる。歩いている人はほとんど見かけなくなる。夕暮れにはあまり周辺は散策したくないような印象だ。”Edgar Allan Poe National Historic Site” という案内表示が見えてきた。おお、ここだ、ここだった。
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 説明文を読むと、ポーは1843年から44年にかけ、この家でクレム夫人、ヴァージニアの三人で暮らしていた。この家に住んでいた時、彼の代表作の一つと見なされる短編『黒猫』(The Black Cat)や『黄金虫』(The Gold-Bug) が発表された。ポーがここで暮らした日々は彼の短い人生で最も幸せな期間であったのだろう。だが間もなく、病弱のヴァージニアは当時不治の病だった「結核」で寝たきりの生活に追い込まれていく。妻の病気もあり、ポーは控えていた酒に再び手を出すようになり、彼自身が「狂気」と「ひどい正気」 “horrible sanity” の連鎖と呼んだ日々にさいなまれていく。
 (写真は上が、国の史跡になっているフィラデルフィアの一角にあるポーの住居を示した案内表示。下が、その家。来訪者はドアノッカーを一度たたくことになっていた)

懐かしきフィラデルフィア

 ワシントンを出て、ペンシルベニア州のフィラデルフィアに入った。トーマス・ジェファーソンやベンジャミン・フランクリンらによって、1776年、この国の独立宣言が署名された地として知られている。アメリカはここから生まれた。英国から独立を果たすまではフィラデルフィアこそアメリカを代表する都市、当時はロンドンに次ぐ大都会であり、独立後も1790年から1800年まではここが首都とされていた。
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 実はフィラデルフィアは1974年の冬、留学していたジョージア州から一度だけ足を運んだことがある。37年ぶりの再訪だ。今回の旅でぜひ、訪れたいところがあった。当時、貧乏学生の私を快く受け入れてくれた日本人宣教師、ピーターさん夫妻の家だ。ご夫妻は既に帰国されており、もはやその家に知っている人が住んでいるわけではないが。
 記憶も定かではないが、その家で新年をはさんだ2週間程度お世話になった。クリスチャンでもない私はただ単に日本人というだけで、その家を訪ね、食事から何から面倒を見ていただいた。私は世間知らずの20歳の学生。今から考えると、よく見ず知らずの人の家にお世話になったものだと思う。ずっと南部ジョージア州の小さな町での暮らしだったから、北部の州の大都市の空気が吸いたかったことだけは覚えている。
 ピーターさんの奥様の久子さんは確か、2人目の赤ちゃんが生まれたばかり。上のまだ幼児の男の子と時々一緒に遊んだような、いや、彼が遊んでくれたような。夕方になると、この子が最上階(3階)の部屋をあてがってもらっていた私に “Nasu-saan, the dinner is ready” といつも澄んだ大きな声で呼んでくれたことを覚えている。
 久子さんとは私が大阪勤務の時に再会した。ピーターさんは今では芦屋(兵庫県)を拠点に「子羊の群れキリスト教会」という布教活動を世界中で展開されている。今回の旅の前にも久子さんとは芦屋で会い、旅の無事を祈っていただいた。
 久子さんと私は偶然だが、誕生日が同じ2月5日。ジョージア州の大学に戻って間もなくその年の誕生日に彼女からバースデイカードが届いた。封を開けると、50ドル紙幣が1枚入っていた。「今のあなたにはこれが一番ありがたく思うことでしょう」との添え書きも。事実その通りだった。山間部の農家の出身で、親父がなくなり、長兄が跡を継ぎ、その長兄に無理言って、1年間留学させてもらっていた身。お金がなくて侘しい思いをしたことはないが、可能な限り「質素」な留学生活を送っていたことは間違いない。カードに包まれていた50ドル紙幣が輝いて見えた。
 さて、そのフィラデルフィア。さすがに何も覚えていない。もともと駆け足で訪ねた地である。ここはエドガー・アラン・ポーが一時期住んで代表作が出版された地でもある。彼の住居が国の史跡となっており、私もかつて足を運んだことがある。少しだけ、ポーの文学について書いてみたい。
  (グレイハウンドバスの停車駅はチャイナタウンに隣接していた。あなうれし。最初に目に入ったお店に飛び込み、チャーハンとスープをかき込んだ。味はぎりぎり及第点)

スミソニアン博物館

 首都ワシントンは思ったよりのびのびした印象の都市だった。一つには、シカゴで見かけた超高層ビルが皆無だったことに起因しているのかもしれない。何でも、昔から法令により、中心部のモールの一角に立つThe Capitolと呼ばれる国会議事堂より高いビルは建築できないようになっているとか。
 それもあって、都市全体の見通しがよく、緑や公園も多く、何だか、ほっとした気分にさせられる感じなのだ。このあたりの都市計画はさすがと言うべきだろうか。
 数日間の滞在だったから、欲張らずにかなりの時間をスミソニアン博物館の中の一つ、国立自然博物館 (National Museum of Natural History) で過ごした。ここ一つだけをじっくり見学するだけでも二三日必要かと思うほどの中身の濃さだった。私が特に興味深く見たのは、Race と題した特別展示だった。
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 すでに何度も書いたと思うが、私は人種(レイス)、民族(ネーション)、部族(トライブ)、エスニシティーと呼ばれるものにずっと関心を抱いている。人はなぜ、肌の色が異なるだけで違和感を覚えるのか、不信感を抱くのか。アメリカに関して言えば、白人はなぜ、黒人やアメリカインディアン、アジア系の人々を差別してきたのか。
 特別展では、人は皆、同じ祖先を持つとの観点から、人種的差異にこだわることの無意味さ、愚かしさを指摘する一方、歴史的には目に見える人種的差異から奴隷制度が生まれ、民族迫害が至るところで起きたことを紹介していた。さまざまな肌の色のアメリカ人が自分の人生を振り返るビデオ映像のコーナーで見た白人男性の回想が印象に残った。1951年南部ミシシッピ州生まれのこの男性は自分が6歳の時に何気なく体験し、それが自分のその後の人生を「規定」したエピソードを語っていた。以下がその概略だ。
 暑い夏の日、クリスチャンで教養豊かで心優しい近所の婦人の家で、黒人の庭師と話をしていた。ジョーという名の70歳代の庭師だった。婦人が近づいてきて、何を話しているのと尋ねた。当時、私たち子供は目上の人には男性ならMr、女性なら Mrsと名前の前に付けることを躾けられていたので、私は “I was talking with Mr Joe….” と説明し始めたら、優しさの塊のような婦人は顔をしかめて私に、”Joe is not a Mr. Joe is a n―.” という今ではタブーのNワードを使って、黒人にMrの敬称を付けて呼ぶことをたしなめた。私は6歳のこの時、自分たち白人は黒人より優れていて、彼らより優位な立場を享受するのは理の当然なのだと認識した。そしてその認識のまま、何の罪悪感もなく大人となった。1988年、キング牧師暗殺20周年の特集番組をテレビで見ていて、60年代にキング牧師や黒人の人権活動家を罵っていた白人の群衆が映し出された。彼らは私の父であり、伯父であり、そして私自身だった。私は自分が「加担」してきた罪に初めて気づかされた。 
 私の側では黒人の女性が一人、頷きながらこのビデオに見入っていた。
 (写真は、ワシントン中心部の公園にあるキング牧師の像。今夏完成したばかり。多くの観光客で賑わっていた。首都の新たな観光名所の一つとなることは間違いないようだ)

スーツケース見つかった!

 先にスーツケースが紛失したことを書いた。「貴重品はキャリーバッグに入れているので、たとえ紛失しても大打撃とはならないはずだ」とも。
 しかし、あれからスーツケースに入っているものを思い出していたら、とても憂鬱になった。出発前に両替していたドルの大金とかクレジットカード、パスポートといった死活的に重要なものはスーツケースではなく、旅の途上でも手元に置けるキャリーバッグに入れていたので、その点では心配はなかった。
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 それでも、次のような品々が頭に思い浮かんできた。まだ一度も「お世話」になっていないが、郷里の友人(先輩)がプレゼントしてくれた解熱剤と整腸剤。行き付けの理髪店からいただき、アフリカの旅以来重宝している電池バリカン。坊主頭の私は3週間もほっとくと、ホームレスのような風貌になる。書籍も20冊程度入れてあった。
 衣服。真冬になる前には帰国するつもりだったから、秋が深まるころまでは過ごせるジャンバー、ズボンにもろもろのポロシャツ、下着、靴下。歯間ブラシ。はさみ。おお、そうだ。長兄からもらっていた郷里の銀鏡神社の夜神楽のCD。これは日本の伝統芸能に関心のあるアメリカの人に見せたいと持参したもので、私にとって絶対になくしたくないものだ。
 昨日は憂鬱な気分でグレイハウンド会社からの電話連絡を待ったが、連絡は来なかった。仕方ないので、初めてのワシントンの見学に出かけたが、気分は一日晴れなかった。
 一夜明けて、早朝、バス会社に何度目か思い出せない電話を入れてみる。見つかった。良かった!今日見つからなければ、下着と靴下、ポロシャツを買うつもりだった。
 それで、改めて思った。この国の不思議な現実を。旅先では一番心配なのは貴重品の盗難だ。この2か月、アムトラックと呼ばれる鉄道とグレイハウンドというバスを利用して移動している。アムトラックではスーツケースのような大きな荷物は座席から離れた荷物保管所のようなコンパートメントに置かれる。しかし、タグ(荷札)は付けてくれない。長距離の旅では時には2昼夜も手元から離れているわけだから、さすがに心配になる。途中駅で他人が持ち去らないだろうか。最初のころは心配で時々、保管所まで行ってスーツケースがあることを確認していた。
 バスでは網棚に置けない大きな荷物は先述したように最下部の荷物積載所に置く。これはタグを付けるから、少しは安心する。今回もタグがあったから、無事見つかった。
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 心配性の私はやはり、少しの時間でも手荷物を自分の目が届かない場所に置いておくのはできれば避けたい。だから、なくなったらその先の旅がアウトになる貴重品は常に手元に置けるキャリーバッグに入れておくようにしている。今回の一時紛失はともかく、幸い、今回の旅で私はこれまで盗難の被害に遭っていないことを考えると、この国では上記のようなやり方でも問題がないということか。何と表現していいのか言葉に詰まる。
 (ワシントンはホワイトハウスやスミソニアン博物館など観光名所ばかり。写真上は、ホワイトハウスの前で記念撮影するスペインの観光客。下は、夕暮れ、中心部のモールと呼ばれる公園でソフトボールに興じる人々。奥に見えるのはワシントンモニュメント)

Ubiquitous tragedy

 Now I’ve just arrived at Washington DC. It was a very good stay in Chicago, partly due to the hospitality of Larry, Judy and her father Tom. (I’ve met Larry in Hannibal. The good luck is still continuing.) Certainly I’ve enjoyed the vigor of the third largest city in this country. Those skyscrapers in the city were something worthy of seeing. How many times I had to look up to see the top of the buildings. As a short man of 5 feet 4, it had been a tough week.
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 The view from the top of the Willis Tower was also memorable. We are now in the middle of building the world tallest skyscraper in downtown Tokyo, called “Tokyo Sukai-tsurii” (Sky Tree). When completed in May next year, it would be 634 meters high, 222 meter higher than the Willis Tower. When you think that we are expecting another “Big one” any time in the foreseeable future in and around Tokyo after the Great earthquake and tsunami in March this year, which had hit the northern and central part of Japan, this tower is all the more significant.
 In Chicago, I wanted to visit a place related to an American writer, Theodore Dreiser (1871-1945). Unfortunately I couldn’t find any such place. He is the author of such novels as “An American Tragedy” and “Sister Carrie.” As he lived and worked briefly during his life, I hoped that I might come across something related to him or his work.
 “An American Tragedy” is a story of a poor young man, named Clyde Griffiths who struggle to climb up a social ladder, relying on a connection of his father’s rich brother. When he finally reached the very entrance of the rich world, with a beautiful girl with a rich family, he finds his girlfriend whom he picked up to satisfy his young sexual needs at his work place pregnant with his baby. If this fact were revealed, it is all over for his dream. Clyde eventually goes to the scaffold with the crime of the alleged murder of the girl.
 The novel was published in 1925. It was a time, I suppose, America was in full swing to the capitalist society, with millionaires’ life glittering from magazines and posters along the streets, enticing the poor youngsters like Clyde with envy and longing. I just wonder how the situation is different now from those days in early 1900’s. Judging from the talk I’ve had so far since my arrival at the US late June, it seems to be the same or worse.
 Lots of young people, I hear, find it difficult to get a job nowadays. After graduation some of the university students just go home to live with their parents to make ends meet. It is nothing unusual in Japan to see young adults to continue living with their parents, though. Graduating from universities or starting to work did not mean leaving their homes right away in our country. But it would be, I suppose, quite an unusual sight here in US.
 The Chicago Tribune recently cited a finding that the disparity between the CEOs of a company and average workers are increasing: 42 to 1 over 30 years ago to more than 300 to 1 now. Staggering figures. With all the economic ailments in Japan, I don’t think that the disparity in the same categories is more than 10 or 15 in our country.
 When walking on a street one day in downtown Chicago, I came across a man selling magazines. I thought it must be something like “Big Issue,” which has originated in Britain but now spread to other countries including Japan, with an aim of self-help of the unemployed people. I stopped to buy it so that I can contribute the vender’s profit in the sales. Actually it was not at all like the “Big Issue” type magazine. It was just a leaflet of movie notices. I wished to leave at once. But I had already started up a chat. It would be, I felt, a bit rude to do so. I asked him how much he expects from a passerby buying the leaflet. “Oh, it depends on the person. Just leave anything you feel like.” When I dipped my hand into a pocket, a five dollar bill came up. He saw it. I knew it. OK, Goodbye my precious 5 dollar bill!
 When I was about to leave the man, he thanked me, with something like “You are very kind-hearted. Thank you, young man.” I froze with the compliment. I returned to the man and said. “Listen, how old do you think I am? Maybe I’m older than you. I’m 57.” He replied to me smiling, “Oh, you don’t look that old. I’m getting at 50 years old soon. But you are a fine young looking man.”
 I know I look young as long as I have a cap on my head. I feel young and act young. Somehow I feel that there would be lot more years to go in my life. Maybe from now I should call myself “Dorian Gray” from Japan, although I don’t carry with me a picture, which absorbs age for me.

 (Photo: “Tokyo Sky Tree” in Tokyo’s Asakusa area, as of early June this year. The tower is about in the middle, although it looks very tiny.)

スーツケース戻って来て、お願い!

 いや、「おあと」の準備ができていたのか、私は火曜朝現在、結局ワシントンに着き、メトロに乗って、安いホテルがありそうな、いやそんな感じでもない、ビジネス街のカフェに入ってこのブログを書いて(打って)いる。
 オハイオ州のコロンバスという都市にあるグレイハウンドの停車駅で昨夜、ワシントンに行くバスもあることを知って、それなら初志貫徹でワシントンに向かうことにして、追加料金約30ドルを支払った。バスの最下部の荷物積載所に入るスーツケースのタグ(荷札)はフィラデルフィアのままであることから、切符を買った窓口のおばちゃんにタグをワシントンに付け替えてくれるよう頼むと、おばちゃんは「いや、そのままで大丈夫だよ」と言う。そうかなあと思いながらも、彼女の言葉を信じてバスに乗り込んだ。おばちゃんの説明ではバスは一旦フィラデルフィアに着いて、それからワシントンに向かうということだったので、それだったら、自分で荷物を確認できるという安心感もあった。受け取った新しい切符にはフィラデルフィア朝8時半着、ワシントン同11時半着となっていた。
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 バスはシカゴを出た時から文字通り鮨詰め状態。アムトラックや空の便がハリケーンの余波でまだ乱れているからだろうか。深夜もなかなか寝付けず、ほとんど一睡もできないまま、明け方携帯電話の時刻を見ると、朝8時半過ぎになっている。そろそろフィラデルフィアかなと考えていたら、バスが停車、乗客がぞろぞろ降りだした。フィラデルフィア?乗客に尋ねると、いや、ワシントンだよと言う。え、フィラデルフィア経由ではなかったの?思った以上に早く着いたので、狐につままれた感じで下車した。
 まあいいや。早く着いて良かった。取り急ぎ、ホテルを探さなくては、と思いながら、バスの荷物積載所にあるはずの自分のスーツケースを探す。ない!悪い予感がする。やはり、どこかの停車駅で私のスーツケースはフィラデルフィア行きというタグが付いていたので、そちらに仕分けられたのだ。貴重品は網棚に乗せられるキャリーバッグに入れているので、たとえ紛失しても大打撃とはならないはずだが、それでも再び手元に戻ってこなければ文字通り、不便は不便。着の身着のままの旅を余儀なくされる。
 ワシントンのグレイハウンドの窓口で紛失届けを済ませ、とりあえず、フィラデルフィアに回っているはずのスーツケースが無事ワシントンに戻されることを祈る。眠気も吹き飛んでしまった。やはり、自分で不安に思うことは自分できちんと最後までやり遂げないとこういう目に遭う。あのおばちゃんに悪気があったとはもちろん思わないが、それにしても、普通はちゃんとタグを付け替えろというのが常識だろうになあ。愚痴の一つもこぼしたくなる。
 スーツケースが無事に戻ってくれば、かつての同僚が勤務する読売新聞のワシントン支局を訪ね、東海岸での旅の間、これを預かってもらうことにしている。いや、さすがに本や何やらが加わり、段々と重くなる一方で、これを引きずっての旅はさすがにしんどい。
 (写真は、グレイハウンドのバス。おそらくこれが一番安い長距離の移動手段か)

フィラデルフィアへ

 前項で「おあとがよろしいようで」と書いたが、「おあと」の準備は全然できていなかったようだ。例のハリケーンの影響で土曜に出る予定だったシカゴ発ワシントン行きの列車がキャンセルとなったからだ。土日と連続してアムトラックがあるユニオンステーションに足を運んだが、週明けも「めど」が立たないという。
 この辺りがこの国はやはり車社会で、公共交通は二の次だとつくづく思う。シカゴほどの大都会の中心駅にもかかわらず、チケット売り場には列車の発着状況を知らせるスクリーンなどなく、窓口に到達するまで皆目見当がつかない。せめて運行再開のめどぐらいは告げてもらいたいと思うが、「木曜には運行できると聞いている」というぐらいで、あとは何も分からない状況だった。それを考えると、日本のJRや私鉄は素晴らしい。
 週明けには運行再開と思える気がするのだが、土地勘もないし、乗客が殺到して切符をうまくゲットできるか分からないので、仕方なく、先に購入していたアムトラックの土曜の切符(173ドル)は払い戻ししてもらい、少し離れたところにあるグレイハウンドのバス会社に向かう。
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 残念ながら、グレイハウンドもワシントン行きのバスは月曜は運行のめど立たずと言われた。困ったなと思いながら、フィラデルフィアとかも駄目なのと聞くと、フィラデルフィアへは走っていると言うではないか。よし、それなら、ワシントンをやめて、フィラデルフィアに向かおう。月曜朝にシカゴを出てほぼ丸一日後の火曜朝にフィラデルフィアに到着する便を購入した。115ドル。もともとワシントンに数日滞在してフィラデルフィアに入る計画だったので、少し計画が早まっただけとも言えなくもない。ホテルはワシントンの先約のホテルの変更、キャンセルのやり取りで少々疲れたので、現地に着いてから、安いところを探すことにした。
 ところで、東海岸はハリケーンで大きな被害が出ている模様だが、シカゴにいる限り、ずっとすごく快適な日々だった。暑さもようやく和らぎ、朝夕は涼しいぐらいだ。日中は時に公園のベンチに寝そべり、新聞や読書にいそしんだが、「命の洗濯」のような心地さえした。小さなリスがすぐ近くまでやってきて、体を起こし、前足を体の前で構え、まるでエサを欲しがるような可愛い所作を見せる。カメラを向けると逃げていく。
 そういえば、アフリカの旅ではこんなに「無防備」でゆっくりくつろいだことはあったろうかと思ったりする。絶えず、どこかで緊張感を抱いていた。第一、ここでいつも持ち歩いているナップザックや財布などの類は原則、持ち歩くことはなかった。ポケットに入れておく現金の量にもいつも気を遣った。ここではそういうことに今までのところ、ほとんど気を遣わないで済んでいる。もちろん、時々、「悪いやつもいるから、くれぐれも気を付けて」と助言してくれる人はいるが。
 (写真は、オークパークの沿線にある公園で日曜、バスケットボールに興じる黒人の若者たち。俊敏な動きは見ていておやっと思うほどの見事さだ)

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