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アメリカをさるく

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スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)① 

 以前にも書いたことがあるが、一度読んだ本は大事な要素はもちろん、粗筋など大半の部分は承知していると思いがちだ。何かの折に再読してみて、「おや、こんな記述があったのか」などと意外に思いながら、読み進むこともままある。アメリカ文学の傑作の一つと目されているこの本、”The Great Gatsby” (邦訳『偉大なるギャッツビー』)は私にとってそういう一冊だった。
 この作品は1925年の出版で、1920年代のアメリカ社会のムードを反映していると評されている。第一次大戦が終了して、アメリカが世界に冠たる先進的民主経済国家として自信に満ちていた時代だ。私が読んだ本の背表紙には “The Great Gatsby is a consummate summary of the ‘roaring twenties’ and a devastating expose of the ‘Jazz Age’.(グレートギャッビーは「狂騒の20年代」を余すところなく描き出し、また、「ジャズの時代」を完膚なきまでに暴露している)との紹介文が掲載されていた。”roaring twenties”は私の電子辞書には”the years from 1920 to 1929, considered as a time when people were confident and cheerful”と説明されている。アメリカという国がそして国民が「自信と活気」に満ちていた時代だったのだろう。
 冒頭に近い次の一節などは、今読めば、少しく手が止まる部分だ。え、あのニューヨークのマンハッタンにある五番街がそういう牧歌的な雰囲気だったのかと。
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 We drove over to Fifth Avenue, warm and soft, almost pastoral, on the summer Sunday afternoon. I wouldn’t have been surprised to see a great flock of white sheep turn the corner.(我々はその夏の日曜日の午後、五番街に車で向かった。牧歌的といってもよさそうなほど、日差しが暖かくかつ柔らかだった。通りの角を曲がったところで、白い羊の大群に遭遇しても僕は驚かなかったことだろう) 
 今は「白い羊の大群」ではなく、デジカメを手にした「観光客の大群」が徘徊している。
 物語の語り手であるニック・キャラウエイは主人公のジェイ・ギャッツビーの豪邸の隣に越してきた縁もあり、彼が豪邸で催したパーティーに招かれる。ギャッツビーはその巨万の富の出所が誰にも不思議がられ、やれ、「人を殺した経歴がある」だの「(第一次)戦争中はドイツ軍のスパイだった」だの、ネガティブな謎に包まれた人物だ。目の前にいるギャッツビーが本人だとは気付かずに、ニックは「いや、自分は隣に越してきたんだが、まだ、ホストに会ったことがないんだ。彼のお抱え運転手に招待状を届けられたから足を運んだんだけどね」と出会ったばかりの男に話しかける。その男は言われた言葉が理解できないかのような顔をして、「私がそのギャッツビーだよ」と答える。ニックの当惑は当然だ。取材で電話をかけた相手に話が通せず「失礼ですが、どちら様ですか」と尋ねたりすることがあった私にはこの当惑感はよく分かる。関係ない話だが。
 (写真は、NY五番街の賑わい。ここでNYは東西に分かれる。「ウエストサイド物語」はこの西側の物語。何を食ってもうまい私はなぜかウエストサイズ物語になりつつある)

ニューヨーク雑感

 9・11の10周年は懸念されたNYでのテロもなく、無事に過ぎようとしている。金土日と市内を歩き、だいぶ町の様子が分かってきた。ただ、私は昔から悲劇的な「方向音痴」。町に慣れるのに人一倍時間がかかる。ビルに入って階段を上がり、少し右左しただけで、すでに自分がどこから入ってきたか分からなくなる。もとより、東西南北の感覚がない。地下鉄や列車に乗っていて常に感じるのは、どうも自分が目指している方向とは逆の方向に向かっているのではないかという思いだ。人生もそうかもしれない。
 それはそれとして、NYに滞在して数日。以下に気づいたことを少し。
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 ミッドウエストでは秋の気配を感じる日々で、朝夕は涼しい感じだったが、ここはまだ日中は蒸す感じだ。汗ばむこともある。日本と似ていると言えようか。
 この週末は当然のことながら、行く先々で、9・11の10周年の追悼イベントに出くわした。地元の高級紙、ニューヨークタイムズ(10日)を読むと、にぎにぎしい公式追悼イベントは敬遠し、この週末は郊外に出かけ、家族や近しい人たちだけで9・11日を迎えたいというニューヨーカーも多いとか。
 街に捨てられたごみが多い。地下鉄の線路わきや通路とかにごみが散乱している。汚いとまでは言わないが、もう少し何とかならないか。その地下鉄は便利は便利なのだが、日本の地下鉄と異なり、路線図やプラットホームの案内があまり分かりやすいものではなく、私のような「お上りさん」には戸惑うことしきり。何度も反対側の電車に乗ってしまった。
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 最初に乗った地下鉄の車内の片面全体に、ユニクロが10月中旬にNYに超大型店を開店するとの広告が張り出されていて、目を見張った。
 泊まっている宿(ホステル)のインターネット事情が芳しくないので、街角のカフェでネットにアクセスしてメールを確認したり、ブログをアップしているが、NYの中心部でもネットのアクセスができるお店は少数派。そういうカフェを探して30分ぐらい歩くことはしょっちゅう。とてもニューヨーカーが自慢する「世界の中心」にいるとは思えない。
 NYは邦人の数も半端ではないようだ。居住者だけで6万人以上とか。当然、日本の飲食店と大差ないうまい居酒屋やレストランがある(ようだ)。紀伊国屋の大きな書店もあった。「週刊文春」を立ち読みした後、「週刊新潮」の最新号(9月15日号)を購入する。日本では340円だが、ここでは8ドル(約660円)だから、2倍の値段か。
 地元の人に聞くと、治安はいいようだ。観光客であふれ返っている中心部は特にそうだ。私のホステルは観光ルートから離れた、少し寂れた感じの住宅街にあり、いろいろな肌の色の人たちが住んでいるが、夜中にうろうろしていても大丈夫な感じだ。9・11がNYの人々の「連帯感」を育んでいるのかもしれない。
 (写真は上から、マンハッタンの真ん中にあるブライアント・パーク。テロでなくなった2753人を追悼する意味で、2753人分のイスが並べられていた。その側では、9・11をどう考えるか、通りがかりの人を対象にした「聞き取り調査」が行われていた)

ニューヨーク着

 フィラデルフィアからアムトラックの列車で北上すること約1時間半、ニューヨーク(NY)に到着した。
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 行方不明から戻ってきたスーツケースを結局、読売新聞社のNY支局に預かってもらうことにした。これでしばらく身軽に旅ができる。かつての同僚のNY支局長にいろいろ地元事情を説明してもらい、当面の宿に向かう。さすがにNYはホテルが手が出ないほど高い。フィラデルフィアのホテルと同じ系列のホテルを当たってみたが、一晩300ドル(約25,000円)を超す値段だ。こんなホテルに泊まっていたら、懐が干上がってしまう。
 それで、若者が泊まるホステルをネットで探したが、それでも一泊70ドル程度。4人が二段ベッドに寝る相部屋で、バストイレは10人以上の同宿者と交代で使う。私がもう少し若ければ何でもないかと思うが、この歳になって20歳代の若者との「共同生活」もなんだかなあと思わないでもないが、懐事情を考えると我慢するしかない。
 下らない前置きが長くなった。NYはさすがにNYだ。海外からの観光客で活気にあふれている。この日曜日があの9・11から10周年だ。物々しい警備といった感じではないが、通りには警察官の姿が目立つように感じた。地元の新聞やFMラジオでは11日に「テロの恐れ」とのニュースも流れていた。3人の男がそれぞれ車爆弾を使ったテロをNYで画策している、そういう可能性があるとの報道だった。
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 NYでは何人かの作家の作品を取り上げたいと考えているが、とにかく、9・11の「グラウンド・ゼロ」に足を運ばなくては。到着翌日の9日、地下鉄を乗り継いで「世界貿易センター」(WTC)のツインタワーが立っていた地点を訪れた。ここもカメラを手にした観光客であふれ返っていた。
 「グラウンド・ゼロ」の道をはさんだ向かい側に、セントポール教会が立っていた。ここにも多くの観光客が出入りしているのが見えた。展示物を見ていて分かった。ここは9・11でWTCのビルが崩壊した時、奇跡的に大きな被害を免れたこと。被災者の救出活動が始まると、この教会がそうした献身的活動の前線基地となったことが。観光客の多くは犠牲者を追悼するリボンにメッセージをしたためていた。
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 ほどなく、教会内で追悼コンサートが始まった。NYの若者グループだ。ピアノの演奏でさまざまなジャンルの歌を披露してくれた。40人ぐらいはいたであろうか。10年前には小学生ぐらいだったのだろう。彼らの顔を見ていて、ふと思った。白人、黒人、アメリカインディアン、ヒスパニック系、アラブ系、日系、中国系、韓国系と、実に多様な顔付きの若者たち。こうした場で彼らに「出自」を尋ねるのは適切ではないだろう。彼らは皆「アメリカ人」なのだ。そしてそれを誇りに思っていることも容易に見てとれた。
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 (写真は上から、観光客で賑わうNYのタイムズスクエア。「グラウンド・ゼロ」の地点では、新しいビルの工事が進んでいた。セントポール教会で催されていた若者グループのコンサート。木立ちに囲まれた教会の霊園は涼やかで気持ちも癒される感じだった)

Thank you, Mr Poe.

 I have been in Philadelphia the past several days. This was a place I wanted to visit in this journey. I had stayed for a very short time in here at the end of the year 1974. I was a student at that time, studying in a small city in Georgia. Then I wanted to come up to taste the atmosphere of the northern big city.
 I had happened to meet with a Korean family in the Georgian city. They informed me of a Japanese missionary in Philadelphia. I have no memory how I had got in touch with the missionary. Maybe I wrote a letter, asking him to give me a room and board for free for a week or two during the Christmas holidays.
 The missionary, Peter-san, was from the same Kyushu Island in Japan. He was nice to me, taking me into various gatherings of his faith in Philadelphia. His wife, Hisako-san was also a very kind lady. They had two little sons, the youngest one just born then. I still remember the older boy, maybe 3 or 4 years old, calling me for a supper with his clear voice every evening. (Please understand that we Japanese respect our elders, always referring them with honorific titles of san.)
 I and Hisako-san happen to share the same birthday, Feb. 5. While I was back in Georgia the next year, she had sent me a Happy Birthday card, with a 50 dollar bill inside. I was studying with a very limited budget. Oh, I still remember the shine of the bill in front of my eyes. It was a fortune for me then!
 (By the way Peter-san has been leading the Christian faith called “Kohitusuji no Mure“ (Flock of little lambs) throughout the world, based in Japan.)
 Now coming back 38 years back, of course I don’t remember anything. But the fact alone pleases me that I came back after all these years. I had one particular place I’ve wanted to visit. It is the house where the writer, Edgar Allan Poe used to live. I remember the visit there I did with Hisako-san.
 After arriving at Philadelphia I’ve checked the address and found out that the house was on 530 North 7th St., not so far away from the city center. After seeing those historic sites related to the Independence struggle of this country, I walked to the house. When I was in the old city district minutes ago, there were many tourists around me. But On the way to the Poe house, I saw very few people walking along the rather desolate area. At one point I thought I was walking into the wrong street.
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 No I was on the right track. Eventually I saw a signboard “Edgar Allan Poe National Historic Site.” It was thus authorized, I learned, as a unit of the National Park Service in 1978, four years after my visit. When I arrived there, it was just the time for the day’s last guided tour of the house. The guide took us, around 10 visitors into the rooms up and down, and into a basement.
 We know that Poe lived with his wife, Virginia, and her mother Maria Clemm in Philadelphia for six years, and a part of it in this house probably sometime between the fall of 1842 or June 43 and April of 44. The Philadelphia years were very productive for him as a writer and also happy for him as an individual. While living in this house such famed works as “The Gold-Bug” and “The Black Cat” were published.
 Honestly speaking, I find some of Poe’s works hard to read. But the above mentioned two are those I’ve enjoyed reading. Yes, I enjoy the horror factor in “The Black Cat” but what I like more is the description like the following: Who has not, a hundred times, found himself committing a vile or a silly action, for no other reason than because he knows he should not?
 The house seems to be a bit different from that I have seen 38 years ago. When I visited the house then, there was a particular door knob, which is said to have a magic power to anybody who touches it, for improving his or her writing ability a great deal. Although I had not thought of becoming a journalist then, I had touched it with gratitude. Now looking back, I kind of feel that maybe it was partly due to the magic power that I could have survived all these years as a journalist.
 To my surprise there was no more such magic door knob in the house. I’ve asked several people working there about it. They all said they had never heard of it. Since the National Park Service took over the care of the house, the door knob must have gone with the necessary renovation of the facility.
 I was a lucky one then.

 (photo: The basement in Poe's house with a toy black cat welcoming visitors)

エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ③

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 『黒猫』の中で私が好きな部分は作家の人生哲学がうかがえる次のような表現だ。
 Who has not, a hundred times, found himself committing a vile or a silly action, for no other reason than because he knows he should not? (他に理由があるわけではない、やってはいけないことを承知しているからこそ、下劣な、あるいは愚かな行為を何度も何度もやってしまう、そういうことを経験していない人が果たしているものだろうか)
 私も身にしみてそう思う人間の一人である。
 ポーはアメリカ文学の中でどういう位置づけをされているのだろうか。フィラデルフィアの名門大、ペンシルベニア大学で文学を教えるデボラ・バーナム講師に尋ねてみた。
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 「彼はとても重要な作家であることは疑う余地のないことです。第一に、彼はアメリカで作家として生計を立てることを目指した最初の人物です。もちろん、19世紀前半の当時は著作権などといった概念もありませんでしたから、彼の優れた短編はヨーロッパで模倣される時代でした。当然、経済的には楽な仕事ではありませんでしたが」
 「ヘミングウェイなどは米文学はマーク・トウェインに始まると述べていますが」
 「トウェインとポーはアメリカ文学の両極にあり、作風も好対照をなしています。ヘミングウェイがトウェインを評価するのは無理からぬことです。平易な文章のトウェインの作風は、枝葉をそぎ取った淡々とした描写のヘミングウェイが継承し、精巧な描写を重ねたポーの作風はヘンリー・ジェイムズが継承したと私は考えています」
 「今の学生もポーの作品を読んでいますか」
 「私は講義でポーを読ませていますが、学生は彼の作品を喜んで読んでいます。(怪奇な出来事を描いた)ゴシック文学として興味を抱いているようですが。あなたが指摘した、誰もが心の中に抱えている ”perverseness” (道理に逆らった言動)などを描いた彼の作品は、これからも読み継がれていくと確信しています」
 ポーは1849年に旅先のボルティモアで死亡。47年には最愛の妻ヴァージニアに他界され、生きる希望を失い、飲めない酒に溺れた様子も見てとれるが、死亡の場面は不明な部分も多い。そうした点も彼のミステリアスさをあおっているのかもしれない。
 私は①でポーに「恩義」があると書いた。38年前にポーの家を訪れた時のことだ。当時家のドアノブの一つに触れると、文章がよく書けるようになるという言い伝えがあり、私も何度もそのドアノブを触った思い出がある。今回再訪してそのような言い伝えはもはやないことが分かった。ドアノブも新しくなっているのかもしれない。当時は新聞記者になることなど考えていなかったが、曲がりなりにも31年もの間、文章を書いて食ってこられたのもポーのお蔭と思わないでもない。私は心の中で2年前に生誕100年を迎えた作家に感謝の念を捧げた。
 (写真は上が、フィラデルフィア中心部の建国にまつわる史跡で目にした観光客の子供たち相手のイベント。下が、ポーの魅力について語るデボラさん。川端康成の『雪国』が好きだとか)

エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ②

 ポーは「私には難解な作家だ」と書いたが、好きな作品がないわけではない。短編の “The Black Cat” (『黒猫』)はもともと猫が大好きだからというわけではないが、何回か読んだ(気がする)。
 物語の語り手の私は「明日には死ぬことになっている身」であり、自分の心の重荷になっている事柄を明かそうとしている。私にとっては「ホラー」(Horror) 以外の何物でもないが、読者には「奇妙きてれつ」な話として映るかもしれないと警告した上で。
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 From my infancy I was noted for the docility and humanity of my disposition. My tenderness of heart was even so conspicuous as to make me the jest of my companions. (私は小さい時から従順でおとなしい性分だった。その優しさが際立っていたため、同じ年頃の男の子たちからはからかいの対象となっていた)
 このような生い立ちの告白は作家の幼少のそれであろう。そうした性分からペットに目がなく、若くして結婚した妻も語り手と同様、動物好きで、二人は他のペットとともに一匹の黒猫を飼うようになる。大きくて賢く、真っ黒の猫だ。プルートと名付けられた黒猫は私にとても懐くのだが、私がやがて過度の飲酒から常軌を逸する乱暴な言動に出るようになると、プルートでさえ私を避けるようになる。
 ある晩、いつものように泥酔した私は抱き上げようとしたプルートに指をかまれ、怒りの余り、プルートの片目をナイフで切り取る蛮行を犯してしまう。この蛮行に何らの良心の呵責を覚えなくなったころ、今度はプルートの首に縄をかけ、縛り首にしてしまう。悪いことだとは百も承知の上で。
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 その後、私は酒場で見つけたプルートによく似た黒猫を飼うようになるが、この黒猫が懐くにつれ、プルートを想起させずにはおかない黒猫に対し、不快感、やがては憎しみが募っていく。ある日、地下室に降りようとしていた私は黒猫が足にまとわりつき転倒しそうになる。怒りから手にしていた斧で黒猫に一撃を加えようとするが、妻に阻止される。今度はその妻に怒りの矛先を向け、斧で妻を殺害してしまう。
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 犯行後、私は妻の死体を地下室の壁の中に塗り込み、犯行を覆い隠す。犯行後4日目に何人かの警察官がやってきて、地下室を含めた家宅捜索をする。何の異常も認められず、地下室から立ち去ろうとする警察官に向かって私は「勝利」に酔いしれ、「この地下室の壁は強固そのものです」と語りかけ、妻を埋めた部分の壁を手にしていた杖でたたく。
 すると、壁の中から、最初は子供の泣き声のような押し殺した声が、続いて人間のものとは思えない甲高い叫び声が聞こえてくるではないか。茫然自失の私が見守る中、その壁に走り寄った警察官の手により壁が壊されると、そこから現れたのは・・・。
 (写真は上から、ポーが住んでいた家で行われている見学会。ここはポーがおそらく執筆に使っていた部屋。『黒猫』のモデル(?)になったとも言われる地下室。見学者を楽しませるために、おもちゃの黒猫が置かれていたが、十分ドキッとさせられた)

レイバー・デー

 昨日(5日)はアメリカはLabor Day(労働者の日) と称する祝日だった。土日を含めると3連休になり、この国ではこのレイバー・デーで長かった「夏」が終わり、「秋」が始まるらしい。ミッドウエスト(中西部)では夏休み明けの学期はとっくに始まっていたが、ここフィラデルフィアでは学校も今日6日からスタートらしい。
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 この週末は久しぶりにホテルの部屋でのんびり過ごした。疲れている感じではないが、やはり、いつも「移動」している感覚なので目に見えない疲れがあるのかもしれない。読書にいそしむことにした。が、テレビではゴルフや野球、漫画をやっていて、この漫画が実に面白い。いや、時間がいくらあっても、いや、体がいくつあっても足りない。夕刻、ベッドに寝そべって新聞を読んでいると、地元の強豪チーム、フィラデルフィア・フィリーズが同じナショナルリーグ東地区のライバル、アトランタ・ブレーブスと対戦するナイトゲームがあると書いてある。
 フィリーズの球場は今いるホテルからそう遠くはない。タクシーを飛ばせば、わけなく行ける距離だ。「夏」の最後の祝日だし、リーグを代表する強豪チームの対戦だ。切符は残っていないだろうなと思いながら、フィリーズのホーム球場であるCitizens Bank Park に電話を入れてみる。まだ売れ残っているのがあるらしい。急いで球場に駆け付けると、果たせるかな、外野席だが、割といい席(36ドル)が取れた。
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 日本人選手は比較的アメリカンリーグに多いので、ナショナルリーグのことは暗いが、それでもこの日対戦する両チームが好チームなのは承知していた。フィリーズを率いるのは日本でもプレーしたことのあるチャーリー・マニュエル監督。ヤクルトや近鉄時代に「赤鬼」というニックネームで大活躍した選手だ。もうかなりの年齢になっているはずだが、ここではチームの好成績もあって、チャーリーはすごい人気を博している。何の関係もない私もなぜかうれしくなる。
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 試合直前、スタンド内を見て回っていると、長蛇の列ができているコーナーがあった。Crab Fries と呼ばれるフレンチフライを売っているようだ。売店の側で休憩していた店員に「うまいの?」と聞いていたら、「食べたことないのかい。よし、僕がおごってあげよう」と一つただでくれた。いや、そういうつもりで聞いたわけではないが。適度の辛味があって、ビールによくあった。
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 小雨模様の天候にもかかわらず、球場はほぼ満席だった。発表された入場者数は45,267人。見渡す限り、赤が基調のフィリーズのユニフォームのTシャツを着たファンで埋まっている。私もにわかフィリーズファンとなり応援。エースが完封し、9対0で圧勝するゲーム。四番のライアン・ハワードもホームランを放つなど、フィリーズファンには幸せ満喫の一夜となった。私も両隣のファンと何度かハイタッチをすることになった。
 (写真は上から、フィリーズのホーム球場。私の目にはほぼ満席に映った。ただでもらったCrab Fries。フィリーズの圧勝でゲームセット、左隣の女性客2人も大喜びだった)

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