- 2011-08-14 (Sun) 11:36
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マーク・トウェインの本名はサミュエル・クレメンズ。彼がハンニバルで少年時代を過ごした家には、当時のハンニバルの様子が紹介されている。人口は1830年にはわずか30人で、クレメンズ一家がフロリダから越してきた1939年には約1000人に増えていたと述べられている。10年足らずのうちに急増しているが、当時はほとんどが顔馴染のコミュニティーだったのだろう。(現在の人口は約1万7000人程度)。19世紀半ばのアメリカは90%以上の国民がこのような小さな町村に居住していたという。
ミズーリー州はミッドウエストの州であり、1861年に勃発した南北戦争では南部支持派と北部支持派が激しく争い、北部支持派が優勢に立った。しかし、黒人奴隷を保持していた白人もおり、富裕とは言えないクレメンズ一家も黒人奴隷がいた。暮らしが厳しくなると、その奴隷を売りさばいたが、その後も時に、奴隷をレンタルで雇ったりしていた。
彼の代表作『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)を読んで、心打たれるのは少年ハックと逃亡奴隷ジムとの友情だ。当時は教会の教えでも、逃亡奴隷に手を貸すことは罪悪と見なされていた。煩悶の末、ハックはジムとの友情を優先し、ジムを助けることを決意する。
私はかねてからトウェイン専門家に尋ねたいと思っていたことがあった。作家の家は奴隷を代々所有し、作家は奴隷所有が認められた州で育った。トウェインは南北戦争勃発直後には南部の独立派に心情的に肩入れし、北軍に抗しようとするが、すぐに「見切り」をつけ、西部に仕事を得た兄に従い、カリフォルニアに向かう。これが結果的にトウェインを南北戦争の泥沼に引きずりこむことなく、後に作家として大成する契機となった。彼にとっても、現代に生きる我々にとっても、幸運な展開となったのではないか。歴史の歯車が一つ食い違えば、戦場で屍となった可能性があったのだから。
ニューヨークのエルマイラ大学にあるマーク・トウェイン研究所の所長、バーバラ・スネデカ博士は「そうですね。私もそう思います。(マーク・トウェインにとっては)大変幸運な展開になったと思います。彼がその当時奴隷制度に明確に敵対する意思表示をしていないことを指摘する批評家もいますが、彼は奴隷を所有することがごく当たり前の家庭に生まれ、育ったのです。黒人奴隷との触れ合いがごく自然な環境で育ったのです。そのことで彼を批判するのは見当違いでしょう」と語る。
彼はハンニバルに越してからも、南西に約65キロ離れたフロリダにある伯父の家に足繁く通った。ここにはダニエルという名の中年の話し上手な黒人奴隷がいて、トウェインは彼の話に魅了される。この黒人奴隷が『ハックルベリー』で逃亡奴隷のジムのモデルとなる。作家としての「下地」がこの時代に育まれていったのだろう。
(写真は上が、マーク・トウェインの生家。フロリダの「マーク・トウェイン記念堂」の中に保存展示されている。生家の中の様子。当時の質素な暮らしぶりがうかがえる。猫の縫いぐるみがかわいい)
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