- 2011-07-22 (Fri) 06:43
- 総合
キャザーの「故郷」、レッドクラウド(Red Cloud)にはキャザーの業績を顕彰するウィラ・キャザー財団があり、希望者にはキャザーにまつわる史跡を見学するツアーを催していた。私より少し年配らしきアンジェラさんが案内してくれた。
レッドクラウドが今のような町として基盤が確立したのは1870年のこと。町名はアメリカインディアンのラコタ族の指導者で白人からも畏敬の念を抱かれていた人物、レッド・クラウドに由来するという。彼自身の名前は、生まれた時に空が深紅に染まっていたからこう命名されたとか。
レッドクラウドの目抜き通りはすぐに尽きる感じで、大通りに面したビルにも「空き家」が目立つ印象をぬぐえなかった。「なんか、寂しい感じですね。キャザーが暮らした当時の方が活気があったのではないでしょうか」「そうなんです。私もこの町に生まれ、育ちましたが、昔の方がもっと賑わっていました」。
彼女の説明によると、キャザーが住んでいた1980年当時はレッドクラウドの人口は約2500人。現在は人口1300人ぐらい。
「レッドクラウドの人たちはキャザーに対して、どういう思いを抱いているのでしょうか?」
「彼女が生きていた当時よりも格段にいい思いを抱いていることは間違いありません。私は彼女と実際に会ったことはありませんが、彼女はエキセントリック(eccentric)な人だったと聞いています。男の子のような服装をいつも好んで。無礼な(rude)人だったという風評もあります。通りで人に会っても、自分から挨拶するようなことはしなかったと。でも、彼女が親しくしていた友人たちはいましたし、そういう人たちとは長く友情関係を続けました。彼女がいたからこの町のことも多くの人に知っていただけるわけです。彼女が代表作でレッドクラウドの地名を実際に記したことは一度もありませんが」
キャザーがレッドクラウドの町で最初に住んだ家は現在、財団が管理していて、見学コースになっていた。1879年に建てられた二階建ての小さな家で、キャザー一家は1984年に越してきた。キャザーは7人妹弟の長子。二階の屋根裏部屋で大好きな読書に没頭したであろう彼女のベッドなどが当時のままに残されていた。
見学しながら、思わず「暑い」と口にすると、アンジェラさんは「キャザーが暮らしていた当時も暑かったと思いますよ。夏の夜は外のポーチで子供たちは寝たと聞いています。プレーリーの真っただ中で生きる生活は当時はそれこそ大変だったでしょうが、彼女はそれをロマンチックに描き上げた。だから、多くの読者の心を今につかんでいるのでしょう。年間ここにはざっと1万人ぐらいの見学者が足を運んでくれています」と語った。
(写真は上から、1885年に建てられたオペラハウスの1階にある財団の事務所。キャザーの著書や関連する土産物が並べられていた。上階はキャザーが演劇などに情熱を燃やしたオペラハウスの劇場。キャザーが住んでいたレッドクラウドの最初の家。二階の部屋を案内するアンジェラさん。奥の部屋のベッドをキャザーは使っていた)
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