- 2011-07-13 (Wed) 14:07
- 総合
アルメニア正教の教会で東洋人の風貌の私が珍しいのか、一人の男性が声をかけてきた。サロイヤンのことを話すと、「今時間ありますか。ちょっとドライブに行きましょう」とダウンタウンに残る「サロイヤン・ヒストリック・サイト」のいくつかを案内してくれた。
ヴァロジャン・デアシモニアン氏。フレズノでアルメニアにまつわる文化遺産の保存啓発に奔走している人物だった。実はロサンゼルスにいる時、フレズノのサロイヤン協会の会長とメールの交換を始め、彼に会うことを楽しみにしていたのだが、この会長が私の到着3日前の今月4日に急死されていた。私にとってヴァロジャンさんは「渡りに船」の人物だった。
「ここにサロイヤンが生まれた家がありました。道路網の拡大で家は取り壊され、今は跡形もありません」「この角に立ってサロイヤン少年は新聞売り子をしていました。時に友達を出し抜いて新聞を売っていたようです」「サロイヤンが成長期を過ごしたこの家は当時のままに残っています。今、記念館のように残せないか家主と交渉しているところです」などと実に手際よく案内してくれた。
「サロイヤンはフレズノを世界地図の中に示してくれた人。私がアルメニア系だからというわけではありません。フレズノに住む私たちはもっと彼の魅力、彼が生きた時代のアメリカを内外にアピールしていく責務があると思います」
ヴァロジャンさんらアルメニア系市民が中心となって、2001年には没後20年の展示会をフレズノで催した。2008年には生誕100年の記念行事を盛大に繰り広げたという。ヴァロジャンさんが今、中心となって取り組んでいるのが、サロイヤンの常設展示を手がけるサロイヤン・ミュージアムの開設だ。
「サロイヤンに関する資料の多くはスタンフォード大学(カリフォルニア州)に移っているんです。本来なら、ここフレズノにあっていいのですが。フレズノに以前は民間のメトロポリタン・ミュージアムという施設がありました。そこである程度のサロイヤンの展示ルームはあったのですが、ミュージアムは昨年赤字で閉鎖されました。サロイヤンの資料は梱包されて、何と倉庫で眠っているのです。梱包で19個に上るほどの大量の資料です。私たちはこれを取り戻し、常設展示にもっていきたい」とヴァロジャンさんは話す。
ヴァロジャンさんたちが白羽の矢を立てたのが、フレズノ郊外のショッピングセンターに近いカリフォルニア大学が所有する地下1階、地上2階建ての建物。大小さまざま多くの会議室があり、アートギャラリーとしては最適の空間だ。フレズノを訪れた人が気軽に足を運べ、サロイヤンの時代の雰囲気に触れることのできる場を作りたいとヴァロジャンさんは語る。
(写真は上から、サロイヤン少年が新聞を売っていたことを示す街角の表示の前に立つヴァロジャンさん。サロイヤンが少年時代を過ごした家。サロイヤン・ミュージアムが開設される予定の建物。玄関の案内表示の空欄にその名が刻まれる日が来るか)
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