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アーネスト・ヘミングウェイ (Ernest Hemingway) ③

  • 2011-11-21 (Mon) 02:28
  • 総合

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 ヘミングウェイはその文体の簡潔さでも知られ、後の世代の作家に大きな影響を与えたと言われている。無駄な部分をそぎ落としたような文体である。彼が高校卒業後、一時、カンザスシティー(ミズーリー州)の新聞社に勤務していたことと関係があるのだろうか。
 ヘミングウェイの文体について言えば、”Death in the afternoon” (邦訳『午後の死』1932年)の中で興味深いことを作家は述べている。If a writer of prose knows enough about what he is writing about he may omit things that he knows and the reader, if the write is writing truly enough, will have a feeling of those things as strongly as though the writer had stated them. The dignity of movement of an ice-berg is due to not only one-eighth of it being above water.(作家が自分が書いているものを十分承知しているとするなら、彼は承知している事柄を省略しても構わない。その作家が真実を書いているなら、読者は省略した部分が実際に書いてあるかのように、作家と同じ強い思いを抱くであろう。氷山のたたずまいの気高さは水面に出ている八分の一によるものだけでない)
 まさにその通りだろう。
 ヘミングウェイはさらに次のように続ける。
 A writer who omits things because he does not know them only makes hollow places in his writing. A writer who appreciates the seriousness of writing so little that he is anxious to make people see he is formally educated, cultured or well-bred is merely a popinjay. And this too remember; a serious writer is not to be confounded with a solemn writer. A serious writer may be a hawk or a buzzard or even a popinjay, but a solemn writer is always a bloody owl.(自分が知らないからといって事柄を省略する作家は作品に空虚な陥穽を作っているに過ぎない。物を書くということの真剣さが理解できていない作家は自分のことを他の人々に立派な教育を受けているとか、教養があるとか、育ちが良いとか分かってもらおうとあがいているようなものであり、気取り屋に過ぎない。次のことを覚えていて欲しい。真剣な作家をもったいぶった作家と混同してはならないということだ。真剣な作家は勇猛なタカかもしれないし、狡猾なノスリかもしれないし、あるいは気取り屋でもありうる。だが、もったいぶった作家が真剣な作家と決定的に異なるのは、彼らは常に逆立ちしても我慢のならない存在なのだ。辟易させられるフクロウのように)
 この辺りは新聞記者の仕事についても同じことが言える。私は文章を書くことについて一般の人に話をすることがあれば次のように語っている。
 「7取材して(調べて)5程度を書くと、奥行きのあるいい記事が書ける。時に破綻するのは5取材して5書こうとすること。決してやってならないのは、3取材して5書こうとすること」。新聞記者として取材から執筆の過程で幾度となく苦しんだ末の結論だ。
 (写真は、キーウエストの夕暮れ。写真ではその美しさを活写できないことがしばしばだが、これは例外か。写真の方が現実に目にした光景よりもより感動的に見える)

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