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中濱万次郎のこと

  • 2011-09-27 (Tue) 22:37
  • 総合

 ニューベッドフォードから川をはさんでフェアヘイブンという町があり、ここは日本とのゆかりが深い。あの中濱万次郎が最初に住んだ地だ。ジョン万次郎といった方が分かりが早いか。かねてから話は少し聞いていたので、足を運ぶつもりではいた。
 ニューベッドフォードの捕鯨博物館を最初に訪れた時のこと。広報担当のモッタ氏は私が日本人と知ると、開口一番、館内にある万次郎ゆかりの展示物に私を案内した。「実は来週(30日)日本から多くの人たちがこの博物館にやってきます。ドクター・ヒノハラという人をご存知ですか。彼が、フェアヘイブンのマンジロウのホームを保存するのに多大な貢献をされており、マンジロウ・フェスティバルで来られるのですが、ドクターは近々100歳の誕生日を迎えられるので、その誕生祝いもあると聞いています」と語る。
 フェアヘイブンにあるという万次郎が住んでいた家を訪ねてみた。万次郎は江戸時代の1841年、現在の土佐清水市から漁に出ていて、船が嵐に遭い、無人島に漂流。当時14歳の少年だった万次郎を含む漁師5人を救ったのが、ニューベッドフォード出港の捕鯨船であり、その船長のウイリアム・ホイットフィールド氏が最年少の万次郎だけを伴い、2年後の1843年に帰港し、自分が住んでいたフェアヘイブンの家に彼を住まわせる。アメリカ本土に住んだ初の日本人が万次郎ということになる。船長は彼をここで学校に通わせ、万次郎は英語だけでなく測量やナビゲーションも学んだ。彼が帰国後、鎖国から明治維新へかけて日本の近代化に貢献したことは歴史に刻まれている。
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 彼が住まわせてもらった船長の家はWhitfield-Manjiro Friendship Houseと名付けられていた。フェアヘイブンにあるホイットフィールド・万次郎フレンドシップソサエティーの理事長、ジェラルド・ルーニーさんに案内してもらった。このフレンドシップハウスがオープンしたのは2009年5月のこと。家が売りに出されていることを知った万次郎ファンの聖路加病院理事長の日野原重明氏が孤軍奮闘し、記念館として残す保存運動に尽力された経緯をジェラルドさんは縷々(るる)説明してくれた。
 10月1日に13回目になるマンジロウ・フェスティバルが催されることもあり、土佐清水市の人々と一緒に日野原氏が来訪する運びになっているという。「博士の100歳の誕生日は10月4日ですが、100歳の誕生日を迎えるに当たっては、我々のところに来ると前々から約束されていたのです。それでフェスティバルの前日の30日に皆でお祝いをする計画です」とジェラルドさんは語った。
 万次郎の子孫の中濱家の人たちとホイットフィールド家の人たちは今も親密な交流を続けていることも知った。少年万次郎は無学に近い身で一人アメリカに連れてこられ、家族や故郷から遠く離れ、手探りで英語をそしてアメリカという国、社会を学んでいったのだろう。その辛苦は私たちや今の若い世代が留学して味わう苦労とは比較することさえはばかられる。
 (写真は、マンジロウの記念館でマンジロウゆかりの品を説明するジェラルドさん)

Comments:1

mutsuo 2011-09-28 (Wed) 09:16

那須君

相変わらず(といっては失礼じゃけんどん)健筆で何よりのことじゃが。

日野原先生の話が出ちょって、びっくりしたが。日野原先生といっしょに仕事をしよりゃった青木事務局長さんという方がおりゃっとじゃけんどん、そん方の孫御がおれがとこに姉妹で通いよるよ。

そん縁で去年、日野原先生に「いのちの授業」をしてもろて、また、やっぱうちん学校の子供の保護者のつてで、こんど、日野原先生肝いりの「葉っぱのフレディ」ちゅうミュージカルを見に行くよ。

日野原先生はまこち元気など。アメリカの方まぢ活躍展開とは嬉しいこっちゃ。

これかいも豊富な話題をお願いします。

体をこわさんごと、元気に旅をつづけてくんないよ。

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