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アメリカをさるく
再びNYに
- 2011-10-04 (Tue)
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ニュージャージー州のクランベリーを出て、再びニューヨークに戻った。いい骨休めとなった。もっといたかったのだが、ホストのバタワース先生夫妻がこの日からトルコ旅行に出かけることになっていて、この日朝、一緒に家を出て、NYのペンステーションで握手をして別れた。
先生とは学生時代から懇意にさせてもらったが、そこは学生と先生との関係。やはり一定の「距離」がある。学生時代には私は他の教授同様、「バタワース先生」と「先生」を名字の後に付けて呼んでいた。先生は私のことを「ミスターナス」と他の学生同様、「ミスター」の敬称を名字の前に付けて呼んでいた。今回久しぶりに再会して旧交を温めるに際し、「バタワース先生」と始終呼ぶのも何だかだなあと思っていた。本来なら彼のファーストネームである「ガイ」が一番自然な呼び方である。
でも、さすがにこれはできなかった。今回の旅で初めて出会うアメリカの人々とは結構最初から、お互いにファーストネームで呼び合っている。それでこちらの頼みごともすんなり話が通じ、ミスターやミズ(ミス)という敬称なしの方が気軽でいいと思うことがしばしばだ。
「窮余の一策」で先生のことは「バタさん」と呼び続けた。彼が宮崎大学で同僚の先生たちからそう呼ばれていたことを思い出したからだ。うん、これなら、堅苦しい感じが抜けるし、礼を欠くこともない。「バタさん」は私のことを「ショーイチ」と呼んだ。学生時代は「ミスターナス」だったから、最初はくすぐったい感じがしたが、慣れると何でもない。奥さんとは今年3月に宮崎で一度会っているが、ほとんど初対面に近いから、「ケイティ」「ショーイチ」と呼び合うことに何の違和感もなかった。
いや、それにしても、歓待していただいた。2日目の夜は近くの、といっても、車で30分ぐらいはドライブしたような感じだが、日本食レストランに連れていってもらった。この店は酒類を置けない店のため、酒の持ち込みが自由。バタさんが持参したビールと日本酒を、枝豆や揚げ豆腐などを肴においしくいただいた。本当はお礼の意味を込め、支払いぐらいはさせてもらいたかったのだが、敢然と拒否され、滞在中、何から何までお世話になった。2階のベッドの寝心地も良く、申し分のない4日間だった。
そして再びNY。ここでまだ調べたいと思っていることがある。会って話をうかがいたい人もいる。ブロードウェイの劇場街での観劇はまだ一度だけ。もう少しは足を運びたい。ヤンキースはプレーオフに残っており、メジャーの聖地、ヤンキースタジアムにも行ってみたい。そしてできればゲームを観戦したい。やりたいことだらけで、肝心の文学紀行の筆は進みそうにない。
(写真は上から、クランベリーの近くにある名門プリンストン大学。古城を思わせる雰囲気ある建物の多いキャンパスだった。英国との独立戦争の激しい戦闘の舞台となったプリンストンの丘。ペンステーションに向かう電車内で夫妻と一緒に記念撮影)
恩師訪問
- 2011-10-01 (Sat)
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ボストンを出て、ニューヨーク経由でニュージャージー州のクランベリーという町に来ている。大学時代の恩師が住む町だ。彼にはニューヨークに着いて以来、メールで連絡を取り合い、いろいろ貴重な助言を頂いている。
宮崎大学の英語科で学んだ学生には忘れられないであろうガイ・バタワース先生。私は1970年代にお世話になった。ジョージア州に1年間留学した後、宮大に復学したら、バタワース先生が赴任されていた。先生の研究室に挨拶に行って、”I want to study English conversation.” と告げたら、先生から英会話はstudy するものではなく、”I want to learn English conversation.” と表現すべきだと指摘されたことを覚えている、などといった思い出話は前のブログ「アフリカをさるく」の中の「バタワース先生」の項で既に書いた。
先生は長く宮大で英語を教えた後、2001年にアメリカに帰国され、故郷のニュージャージー州で奥様のケイティと一緒に住まわれている。今回の旅で機会があれば、ご自宅にうかがいたいと思っていた。その旨伝えると、いつでもいらっしゃいとのことで、昨木曜夜から3泊4日でお世話になっている次第。
ニューイングランドも悪くなかったが、ここクランベリーもいいところだ。ボストンを立つ時は生憎雨模様で陰鬱とも表現できるぐらいの天候だった。クランベリーに着き、一夜明けた金曜の今は気持ちのいい天気となっている。先生の家の2階バルコニーに出て、このブログをアップしているところだが、テーブルの温度計は摂氏24度、湿度55%。溜息をつきたくなるほどのどかだ。事実、今一つ溜息をついてしまった。そばで物音がしたので、視線を走らせると、リスがバルコニーまで階段を上がってきて、急いで逃げて行った。
裏手は高い木が茂った林になっており、その奥は公園だという。車の音もあまりせず、何だか避暑地の別荘に来たような感覚だ。今日は朝、近くのレストランで3人で朝食を食べ、帰り道、先生に通りに面している家々や建物の歴史など話してもらった。
クランベリーはニュージャージー州の中でも古い町のようで、ガイドブックによると、1680年ごろにはイングランドやフランス、ドイツなどの入植者が暮らしていたという。通りに面した家々にはその家が何年に築造されたかがプレートで示されているが、1800年代中ごろの築造が多かった印象だ。中には1700代の建築物もあり、この国の建物がいかに大事にされているかを改めて感じた。日本と同じ木造の家々でこうだ。日本なら、100年以上経過した木造の家は珍しいのではなかろうか。いや、私はこの方面にも疎いから、間違っていたなら、ご容赦を。
ニューイングランドを駆け足で回ってきたので、少し疲れている。という理由でこのブログをアップしたら、このバルコニーで心地よい風に吹かれて、ゆったり、本でも読もうと考えている。すぐに眠るかもしれないが。まことにありがたい。
(写真は上から、カフェの前で、バタワース先生とケイティ。クランベリーの落ち着いた街並み)
デッドソックス(Dead Sox)
- 2011-09-30 (Fri)
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ボストン・レッドソックスのプレーオフ進出はならなかった。それにしても劇的な終幕となった。28日夜のナイトゲーム。レッドソックスは東地区最下位のボルティモア・オリオールズと対戦し、3対2で1点リード。9回裏、抑えのエースが気迫の連続三振を奪い、2死までこぎつけていた。同率で並び、ワイルドカード争いをしているタンパベイ・レイズは既にプレーオフ進出を決めている東地区1位のニューヨーク・ヤンキースと対戦、8回表まで7対0で苦戦を強いられていた。ニューイングランドの人々は誰もが、レッドソックスのプレーオフ進出を確信していただろう。
ところがである。抑えのエースがここから手痛い3連打を浴び、あっという間に逆転を許し、屈辱的さよなら負けを喫したのである。しかも、最後はレフト前のライナーをレフトの選手が一旦グラブに収めながら、ボールをこぼすという拙いプレーが命取りとなった。このレフトを守る選手は高額のトレードで入団したベテランだが、それに見合う活躍をしたとは言えず、ゲーム終了後、ファンや地元メディアから非難の矢面に立たされていた。
これに比べ、タンパベイは8回裏から奇跡的な大逆転を演じた。8回裏に6点を返して、最終回にツーアウトからホームランで同点として、12回裏に再びホームランが出てさよなら勝ちを収めた。さよならホームランはレッドソックスがさよなら負けした直後に飛び出した。野球大好きで大リーグファンの私にはこたえられない一夜となった。
私はボストンのダウンタウンのバーにいて、最初の数イニングを見て、タンパベイが大量失点をしていることもあり、レッドソックスが勝てば良し、負けても29日にワイルドカードの決定戦に出る権利だけは確保するだろうと思いながら、郊外の宿に帰るため、地下鉄の駅に急いだ。バーのお客もこの夜だけはヤンキースに声援を送り、上機嫌だった。ホテルに戻ってテレビをつけてみると、上記の展開となっていた次第だ。
前兆はあった。レッドソックスは1点リードした後も再三好機を迎えていたが、拙い走塁やワンアウトの3塁ランナーを返せないなどの詰めの甘さで、あれ大丈夫かな、このチームは、と何度か思っていたからだ。少なくとも、プロ野球がお手本とするような好プレー続出のゲームではなかった。レッドソックスは負けるべくして負けたと言えるだろう。
当然のことながら、一夜明けた木曜日のこの日、地元メディアでは「大リーグ創設以来の歴史的メルトダウン」だの「壮大なる崩壊」などと、地元チームの惨敗を憂い嘆く大合唱となった。特にレッドソックスに代わりワイルドカードを手にしたタンパベイのプレーヤーの報酬がレッドソックスに比べ格段に低いことも彼らの怒りに火をつけたようだ。
大リーグは162試合の長丁場ながら、28日に全30チームが全ゲームをきれいにそろって終了した。この辺りはプロ野球には真似のできない芸当だ。
(写真は、レッドソックスの敗退を報じる29日付けのボストングローブ紙の一面とスポーツ面。チーム名にひっかけて、Red Sox ならぬ Dead Sox とうたっている。立ち寄った同じニューイングランドのコネティカット州ハートフォードの新聞も同じ論調だった)
ボストンへ
- 2011-09-29 (Thu)
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ニューベッドフォードを出て、マサチューセッツ州を代表する都市のボストン周辺に来ている。「ボストン周辺」と表現しないといけないところがつらい。
歴史の香り漂うボストンのダウンタウンの中心部のホテルはとても高くて手が出ない。それで私でも泊まれる安価な宿を探すと、例によって、郊外の列車で30分ぐらいの距離にある町まで離れなくてはならない。とてもボストンに「滞在」しているとは言えない。
私はずいぶん最近まで、ボストンはニューヨークの南にあると思っていた。だからニューイングランドと言えば、ニューヨークも含まれると思っていた。そうではなかった。ニューヨークはニューイングランドには含まれない。ニューイングランドはボストンのあるマサチューセッツ、メーン、ニューハンプシャー、ロード・アイランド、コネティカット、バーモントの6州を指す総称で、ニューヨークは該当しない。
ボストンとニューヨークの関係は私は良くは分からない。ただ、大リーグに関する限りはそれぞれの地元チームの応援で、まるで「親の仇」のように激しい敵対心をお互いに抱いているようだ。ボストン・レッドソックスとニューヨーク・ヤンキース。ニューベッドフォードに着いて以来、携帯ラジオでボストンから発せられるFMのスポーツラジオ局を聴いているが、いや、レッドソックスファンの「かわいさ余って・・・」か、最近不振の主力選手に対する批判の声がすさまじい。
というのも、今、レッドソックスが歴史的な窮地に立たされているのだ。大リーグはアメリカンとナショナルの2リーグでまずチャンピオンを決めるが、リーグチャンピオンはそれぞれのリーグの3地区の1位に、最も好成績の2位のチームを加えた4チームによるプレーオフで決定される。プレーオフに進める2位のチームはワイルドカードと呼ばれる。
レッドソックスは9月初めの時点ではライバルのヤンキースと東地区の首位を争っており、ワイルドカードの権利で言えば、同じ東地区のタンパベイ・レイズに9ゲームの大差をつけ、少なくとも10月のプレーオフ進出は確実視されていた。それが9月に入って大ブレーキがかかり、ついに今月26日にタンパベイに並ばれ、現時点でともに90勝71敗。今このブログを書いている28日夜、異なる対戦相手と公式戦162試合目の最終戦が行われようとしている。仮に両チームともこの最終戦でともに勝つか負けるかして同率の場合、29日に両チームによるワイルドカードの決定戦が行われる運びだ。
ボストンの代表的地元紙、ボストングローブのコラムニストは28日付紙面のコラムで「ニューイングランドに住む人々は代々、質実さで知られてきた。また、大いなる困難を克服することでも知られてきた。他の人々や我々自身が無理だと見なしたことさえやり遂げてきた」と述べ、レッドソックスが死力を尽くし、10月のプレーオフまで勝ち残るよう叱咤激励していた。
(写真は上が、ボストンのダウンタウン。アメリカの建国の歴史に触れる観光客で賑わっていた。下が、アメリカ建国の父の一人、政治家サミュエル・アダムズの銅像)
中濱万次郎のこと
- 2011-09-27 (Tue)
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ニューベッドフォードから川をはさんでフェアヘイブンという町があり、ここは日本とのゆかりが深い。あの中濱万次郎が最初に住んだ地だ。ジョン万次郎といった方が分かりが早いか。かねてから話は少し聞いていたので、足を運ぶつもりではいた。
ニューベッドフォードの捕鯨博物館を最初に訪れた時のこと。広報担当のモッタ氏は私が日本人と知ると、開口一番、館内にある万次郎ゆかりの展示物に私を案内した。「実は来週(30日)日本から多くの人たちがこの博物館にやってきます。ドクター・ヒノハラという人をご存知ですか。彼が、フェアヘイブンのマンジロウのホームを保存するのに多大な貢献をされており、マンジロウ・フェスティバルで来られるのですが、ドクターは近々100歳の誕生日を迎えられるので、その誕生祝いもあると聞いています」と語る。
フェアヘイブンにあるという万次郎が住んでいた家を訪ねてみた。万次郎は江戸時代の1841年、現在の土佐清水市から漁に出ていて、船が嵐に遭い、無人島に漂流。当時14歳の少年だった万次郎を含む漁師5人を救ったのが、ニューベッドフォード出港の捕鯨船であり、その船長のウイリアム・ホイットフィールド氏が最年少の万次郎だけを伴い、2年後の1843年に帰港し、自分が住んでいたフェアヘイブンの家に彼を住まわせる。アメリカ本土に住んだ初の日本人が万次郎ということになる。船長は彼をここで学校に通わせ、万次郎は英語だけでなく測量やナビゲーションも学んだ。彼が帰国後、鎖国から明治維新へかけて日本の近代化に貢献したことは歴史に刻まれている。
彼が住まわせてもらった船長の家はWhitfield-Manjiro Friendship Houseと名付けられていた。フェアヘイブンにあるホイットフィールド・万次郎フレンドシップソサエティーの理事長、ジェラルド・ルーニーさんに案内してもらった。このフレンドシップハウスがオープンしたのは2009年5月のこと。家が売りに出されていることを知った万次郎ファンの聖路加病院理事長の日野原重明氏が孤軍奮闘し、記念館として残す保存運動に尽力された経緯をジェラルドさんは縷々(るる)説明してくれた。
10月1日に13回目になるマンジロウ・フェスティバルが催されることもあり、土佐清水市の人々と一緒に日野原氏が来訪する運びになっているという。「博士の100歳の誕生日は10月4日ですが、100歳の誕生日を迎えるに当たっては、我々のところに来ると前々から約束されていたのです。それでフェスティバルの前日の30日に皆でお祝いをする計画です」とジェラルドさんは語った。
万次郎の子孫の中濱家の人たちとホイットフィールド家の人たちは今も親密な交流を続けていることも知った。少年万次郎は無学に近い身で一人アメリカに連れてこられ、家族や故郷から遠く離れ、手探りで英語をそしてアメリカという国、社会を学んでいったのだろう。その辛苦は私たちや今の若い世代が留学して味わう苦労とは比較することさえはばかられる。
(写真は、マンジロウの記念館でマンジロウゆかりの品を説明するジェラルドさん)
ハーマン・メルビル (Herman Melville) ③
- 2011-09-26 (Mon)
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ニューベッドフォードの人々はメルビルに対してどういう思いを抱いているのだろうか。捕鯨博物館の広報担当、アーサー・モッタ氏に尋ねた。
「この町は今も漁業が盛んです。特にホタテガイ(scallop)で知られています。捕鯨は姿を消しましたが、漁業全体の漁獲高では今なお全米一です。多くの人がこの町の名を高めたメルビルに畏敬の念を抱いています。今も高校で“Moby-Dick” を読むことは必須となっています。私も高校時代にその難解さに苦労しました。読破はできませんでしたが」
作家に敬意を表し、博物館では15年前から毎年1月に、“Moby-Dick” を25時間で音読してしまうマラソン・リーディングを催している。今では1月の恒例の行事として定着、世界中からメルビルファンが集う場となっている。「でもご承知のように、この作品は音読も難解。あれだけの長編だからどの部分に自分が当たるか予測も困難。でも、多くの愛好家が集っています」とモッタ氏は語る。
メルビルは自信満々で“Moby-Dick” を発表したが、評判は散々。彼は結局NYで税関に勤め、糊口を凌ぐが、家庭的にも幸福な家族とは言えなかったようだ。1891年に死亡した時、NYタイムズ紙に、「メルビルはとっくに死んでいるものと思っていた」という死亡記事が掲載されたという。彼の作品が再評価されるのは死後20年後のことだった。
メルビルの不幸は “Moby-Dick” で訴えようとしたことが、当時の社会には理解できなかったことだ。私の手元にある米文学案内本には、メルビルが描いた捕鯨は人間が知識を追求する a grand metaphor (壮大な隠喩)であると解説されている。エイハブ船長に率いられた船は白鯨に砕かれ、イシュメールただ一人を除き、藻屑となることが象徴するように、いくら自然科学の知識を身に付け、機械化が進んでも、人間(文明)が白鯨(自然)を凌駕することはないとのメッセージが読み取れると。
捕鯨活動が世界中から疎まれる今日では想像しにくいが、鯨油を求めた捕鯨業は石油が見つかるまでは大事な産業であり、漁港に恵まれたニューベッドフォードのあるニューイングランド地方では都市の発展の原動力となった主力産業だった。その意味ではメルビルが描いている世界は当時はかなりの「普遍性」がある物語だったのだろう。
手元の文学案内はこうも述べている。「小説のエピローグ(結末)は悲劇性を和らげている。メルビルは作品を通し、友情の大切さ、異文化との交流の大切さを強調している。捕鯨船が破壊され、イシュメールが助かるのは彼の友人となった人食い人種で銛打ちのクイークェグが作った棺桶が海面に浮かんでいたからだ。Ismael is rescued from death by an object of death. From death life emerges, in the end. (イシュメールは死の淵から死にまつわる物体により救われる。死から最終的に生命が生まれる)」。メルビルは人間の無限の可能性を最後まで信じていたのかもしれない。
(写真は上から、ニューベッドフォードで遭遇した海の幸を味わうイベント。名産のホタテを揚げているところ。これはグリルしたホタテで一皿7ドル。うまかった)
ハーマン・メルビル (Herman Melville) ②
- 2011-09-26 (Mon)
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ニューベッドフォードに来たら、ここに行こうと決めていた。ダウンタウンにある捕鯨博物館だ。一階の受付で訪問の意図を告げると、入場料を免除してくれた。クジラについて色々と学んだ。leviathan (リバイアサン、海獣)とも称される地球上で最大の動物のクジラが大きいことは承知していたが、巨大なクジラになると、人間2500人分、ゾウの40頭分に当たる200トンの重さになるという。
目指すは『白鯨』のコーナー。作家のメルビルは1819年に生まれ、1891年に没している。彼が生きた時代はニューベッドフォードが先に書いたように世界の捕鯨業の中心地として栄えた時代とぴったり重なる。NY生まれの彼は生活苦から1940年にニューベッドフォードに来て、小説の語り手イシュメールのように捕鯨船の船員となる。
「メルビルがここに来た時は21歳の背の高い、十分な教育を受けていない男でした。彼の船は1941年1月に出港し、彼は途中で航海の厳しさから船から逃げ出すなど苦労を重ね、3年後の44年に帰港。船中で手に入るあらゆる本を読みふけり、帰港後も歴史から宗教、自然科学など幅広く勉強して、作家として独り立ちしました」「小説は二人の男の探求の物語です。自分の左足を食いちぎった白鯨を執念で追うエイハブ船長と、神秘に満ちたクジラと人生の真理を追うイシュメールの物語です」などと紹介されていた。
再び図書館。小説をめくっていて、思い出した。私がこの小説を読破できたのは7、8年前のことだが、以下のようなクジラを食する国民として興味深い章に出くわして、この章がもっと早く出てきていたなら、もっと早い時期に読破できていたのではと思ったことを。「料理としてのクジラ」(The Whale as a Dish)というタイトルの第65章だ。
It is upon record, that three centuries ago the tongue of the Right Whale was esteemed a great delicacy in France, and commanded large prices there. (300年ほど昔、フランスではセミクジラの舌は大いなる美味として珍重され、高価な値がつけられたことが記録として残っている)The fact is, that among his hunters at least, the whale would by all hands be considered a noble dish, were there not so much of him; but when you come to sit down before a meat-pie nearly one hundred feet long, it takes away your appetite. (実は、捕鯨に携わる者の間では少なくとも、誰に聞いても、クジラが立派な料理であると認めることだろう。あれだけの量でないとしたらの話だが。30メートルも長さのあるミートパイを前にしたら、誰でも食欲が失せるというものだ)
正直、私は欧米諸国が捕鯨に精を出したのは、クジラの肉を求めてのことだとずっと思っていた。だから、灯油あるいは潤滑油としての鯨油が目当てだったとこの小説で初めて知った。だから、第65章を読み終えた時は、思わず、「そうだろ。日本とノルウェーの捕鯨を少しは理解して欲しいよな」と心の内でつぶやいたものだ。
(写真は上から、小説ではWhaleman’s Chapel と記されているSeamen’s Bethel教会。説教壇が船の舳先のようだ。メルビルが実際に座った信者席だという表示もあった)
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