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アメリカをさるく

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センチメンタルジャーニー

 この年(57歳)になって上記の表現は自分でもどうかと思わないでもないが、「人生7がけ論」の私はまだ精神的には30歳代のつもりだから、ご容赦願おう。
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 アトランタを数日うろうろして、今、アトランタから南西に約100キロ離れたラグレインジという町に向かっている。何度も書いたが、1974年から1年間、ここの小さな大学に留学していたことがある。正確に言うと、ナイロビ支局勤務を終え1990年春にアメリカ経由で帰国した際に数日間立ち寄ったことがあるが、それさえも記憶のかなたにあるから、37年ぶりの再訪のような感覚だ。
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 これから可能ならば、このラグレインジを拠点に米南部を旅しようと思っているが、漠然とそう願っているだけでどうなることやら分からない。何しろ重くなる一方のスーツケースとキャリーバッグを抱え、秋が深まっているというのに汗ばみながら移動するのは少しばかり辛い。ラグレインジに拠点にさせてもらえそうな家がある。37年前に世間知らずの青二才でここに来た時、親しくなった友人の母親が90歳を超えてもなおお達者で、そこにお世話になる予定だからだ。
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 ヒックス夫人。当時も友人のジョーが週末にはよくこの家に連れて来てくれた。金のない貧乏留学生の私にはジョーの家に来て、ヒックス夫人の手料理をご馳走になるのが楽しみだった。いつも会う度に、何だか日本人の女性のような温もりを感じた人だった。ジョーや彼の妹と連絡を取っていて、ヒックス夫人が私の再訪を楽しみにしていることを知り、とてもうれしかった。という次第で、これから何か所か訪ねることを考えている南部の旅の「ベースキャンプ」にさせてもらいたいと願っている。
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 37年前にアトランタからラグレインジに向かった時にはグレイハウンドの大きなバスだった。4月ごろでもう暑かったような記憶がある。バス停で降りて、心細く感じながら、大学の寮を目指して歩いたことを覚えている。今回は10月の下旬。アトランタに到着した時は寒いと書いたが、このところ、温かい日が続いている。日中は暑くも寒くもなく、とても過ごしやすい日々だ。ラグレインジを再訪するには最適だろう。今回もバスで行くことにしている。アトランタ空港から出ているシャトルバスで乗車料金は31ドル。時間にして1時間。車窓の景色に見とれながら、時の流れを思うことだろう。今回は心細さにとらわれることもない。
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 (写真は上から、アトランタならではの「もの」。まず、アトランタ発祥のケーブルテレビのCNN。15ドルを払ってCNN内部を見るツアーに参加したが、「子供だまし」の拙劣極まりないツアーだった。コカコーラもアトランタ発祥。ここもツアーが人気だったが、CNNに懲りて素通りした。世界一大きいと聞いたアトランタの水族館。世界一大きい「水槽」(日本製)から眺める海水魚の群れは確かに見応えがあった。アトランタはマーティン・ルーサー・キング牧師が生まれた地でもある。牧師夫妻が埋葬されている墓地は終日炎が灯されている。牧師が12歳まで住んだ家=左から二つ目=は記念館となっていた。この家は14部屋あり、牧師は比較的裕福な隣人たちに囲まれて幸福な少年期を過ごした)

アトランタ着

 南部ジョージア州の州都アトランタに来た。6月21日にカリフォルニア州のロサンゼルスからスタートしたこの旅もほぼ4か月が経過し、私が37年前に1年間だけ学生生活を送った町があるこの州には特別な思いを抱かざるを得ない。その町を再訪する前にアトランタで名作 “Gone with the Wind”(邦訳『風と共に去りぬ』)の下調べをしたい。
 昨日ワシントンの近くにあるバージニア州のアレクサンドリアでアムトラックの列車に乗り込んだのは午後7時ごろ。夜を越し、今朝の8時半ごろ、アトランタに着いた。例によってあまり眠ることができなかったが、それよりもアトランタが寒いので驚いた。米国に持参している冬着はジャンバー1着。あと2か月持ちこたえることができるだろうか。
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 ホテルにチェックインして、近くにある “Gone with the Wind” の著者、マーガレット・ミッチェルが住んでいた旧家の記念館を訪ねた。入場上22ドルを払う。ガイドの女性がほどなく出てきて、居合わせた10人ぐらいの観光客を相手に説明を始めた。説明に入る前に、彼女は「皆さんの中で、“Gone with the Wind” の映画を見たことがある人は手を挙げてみて下さい」と質問。ほとんど全員が手を挙げた。「それでは原作の小説を読んだことがある人は手を挙げて下さい」。今度は手を挙げたのは2、3人だけ。
 私は自信を持って手を挙げた。何を隠そう、今回の旅に出る前に原書を買って読み始め、太平洋を超える飛行機の中でも本を開き、西海岸のどこかでようやっと読了した。英文自体は分かりやすかったが、何しろ、私が買った本でも1400頁を超える分量。読み終えるのに四苦八苦した。
 記念館をざっと見学すると、隣の建物では映画製作の舞台裏に関するビデオが見れると聞かされた。何気なく見始めたら、これが意外と面白い。面白いのはいいが、なんだか延々と続く。はっきり時間を測ったわけではないが、2時間かそこらの上映時間だったのではないか。普通の映画をまるまる1本見た感じだ。こういう類のものは通常、30分程度の参考ビデオに簡略にまとめてあるのではないだろうか。いや、原作について調べている私には実に興味深い内容だったので、文句を言ったら、罰があたる。この日の見学で面白いと思ったことについては後日改めて書いてみたいと考えている。
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 アトランタの町を駆け足で歩いてみる。37年前にはアトランタはほとんど来たことがないから、初めての町のようなものである。期待していたよりも人通りが少ない感じがした。活気もないような気がする。海外の観光客であふれていたニューヨークやワシントンを見た印象が強いからかもしれない。
 ダウンタウンの中心にある公園ではここでも、ニューヨークの「ウォール街を占拠せよ」のアトランタ版で、公園の敷地内で参加者が夜を過ごしていると思われる多くのテントが林立していた。
 (写真は上から、地下鉄を上がると青空が見えたが、寒さが少しこたえたアトランタのダウンタウン。ここでも政治の現状・経済格差に異を唱える若者の抗議活動が)

ゲティスバーグ

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 ペンシルベニア州にあるゲティスバーグ。南北戦争で米国の歴史上最も凄惨を極めた戦いが繰り広げられた地で、この戦いの4か月後、リンカーン大統領が当地を訪れ、これも歴史に残る「人民の人民による人民のための政治」という表現で知られる演説を行った。
 現地の国立墓地に立つ記念碑の文言を改めて読んでみると、”It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us—and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.” とある。
 日本語に正しく訳すのは難儀そうな名文だ。
 リンカーンがここを訪れたのは戦争勃発3年後の1863年11月のこと。ゲティスバーグでは両軍がこの年の7月1日から3日間激突し、総計5万人前後の兵士が死傷、捕虜、行方不明になったと言われる。南北戦争自体、60万人以上が死亡した凄まじい内戦だが、ゲティスバーグでは少なくとも7000体の放置された兵士の死体に5000頭ほどの馬の死体も加わり、鼻を衝く死臭が戦いの数か月後まで漂ったという。
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 南北戦争勃発から数えると今年が150年に当たるため、ゆかりの地では多くの記念行事が催され、米国民の関心も高いようだ。私がこの日加わったゲティスバーグの史跡を訪ねるツアーバスの乗客約40人の大半も米国内各地からやって来たシニアのご夫婦だった。バスの中ではゲティスバーグの戦いを史実に沿って再現した歴史ビデオが上映されていた。南軍兵士が隊列を組んで進んでいく。丘の上では大砲や銃を構えた北軍兵士が待ち構える。南軍兵士の不利は歴然だ。当然のことながら、南軍の兵士は次々に倒れていく。私が思わず、「これは(集団)自殺行為だ!」と後部座席の初老の男性に叫ぶと、彼は「イエス、カミカゼ攻撃」と応じた。
 ツアーガイドは以下のことを述べていた。ゲティスバーグの戦いは南軍を率いるロバート・リー将軍がここで北軍に大打撃を与えることにより、和平、早期終戦の道を模索する思惑があり、あえて、北部の要衝の地まで進軍。それまで彼が連勝を続けてきたのは戦いの地が南部だったからであり、ペンシルベニアの兵士も参加したゲティスバーグでの勝利を望むには無理があった。リー将軍はこの戦いの後、南部に退却し、戦略を練り直すが、以降は敗色濃厚になり、1865年に降伏を余儀なくされる。
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 紅葉に時に目を奪われたツアーでは、両軍兵士の死体が散乱した「死の谷」と呼ばれる草地や、北軍が大砲の陣地を敷いた場所、当時のままに残る民家などを訪れた。
 余談を一つ。現地で手にした観光案内に「南北戦争資料館ではリンカーン大統領の演説が聞ける」と記されていた。私のツアーのプログラムにはない。昼食の時間に急いでその資料館に走ってみると、「いや、生録音ではありません。現代のテープです」との由。
 がっかり。リンカーン大統領の演説は時間にして2分間ほど。ガイドの男性は大統領の声は重厚ではなく、むしろ甲高かったと説明していた。ぜひ、聴いてみたかった。
 (写真は上から、南北戦争の戦跡が広がるゲティスバーグ。「死の谷」を眼下にする丘の上。リンカーン大統領の歴史的演説が刻まれた国立墓地の記念碑)

ジェームズタウン

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 ニューヨークを離れ、間もなくディープサウスとも呼ばれる米国の深南部に向かう。その前にいくつか訪れたい場所があるので、再び首都ワシントンで途中下車した。
 足を運びたかったのはバージニア州にあるジェームズタウンという歴史的な場所だ。1607年にイングランドから3隻の船に乗った少年を含む104人の男たちがここに入り、米国でイングランドの初の恒久的入植地を築いた。ピューリタン(清教徒)たちがメイフラワー号でマサチューセッツ州に入植する1620年より13年も早い。
 ジェームズタウンの名前は当時イングランドを治めていたジェームズ国王に由来する。ジェームズタウンの跡地に立つ「見学者センター」で10ドル支払い、跡地を歩く観光ツアーに加わる。ガイドの男性は「ジェームズ国王が新大陸の入植を決意したのは、プライド、プロフィット、フィアの三つの要因からです」と流暢に説明する。17世紀初頭、世界はカトリック教のスペインが席巻していた。プロテスタントの英国国教会の信者を増やしたいというプライド(自尊心)。当時イングランドは経済不況で食えない国民が多く、新世界に富と働き口を求めたプロフィット(権益)。手をこまねいていればスペインが新大陸もすべて支配下に置くのではというフィア(恐れ)。
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 プロフィットに関しては、入植者たちが頭に描いていたのはゴールド(金)だったが、ゴールドは得られなかった。その代わり、金になるタバコの栽培に適していることが判明。収益を上げるためにはタバコ農園で働く多くの労働力が必要になり、アフリカから黒人を奴隷として強制的に連行。新大陸と奴隷貿易を結びつけたと言う意味でも、現在のアメリカという国の「道筋」をつけた入植地だった。見学センターで最初に見た15分程度のビデオは確か ”America’ Birthplace” という副題が付いていたが、むべなるかなだ。
 とはいえ、大西洋の荒波を乗り越えて入植したジェームズタウンは食糧難に病気、先住民のアメリカインディアンとの衝突もあり、栄養失調や病気から死亡する入植者が続出した。特に1609年から翌年の厳冬期には食糧が底をつき、入植者300人のうち、冬を越すことができたのはわずか60人だけだったという。ジェームズタウンはその後、入植者の内乱や火災もあり、近くのウイリアムズバーグに町の機能を移転する。跡地には1907年に建てられた「入植300年記念塔」や、入植地のリーダーとして名を馳せた傲岸不遜の軍人で探検家のジョン・スミスの銅像も立っている。
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 私が訪れた日、うららかな日だった。日本なら小春日和というには早すぎるか。こちらではインディアンサマーとでも呼ぶのだろうか。入植当時の壮絶さを想像することは難しかった。紅葉も見られ始めており、句心のない私も帰りの電車の中で句作に取り組んだ。
 紅葉も 今米国の 生誕地
 (写真は上から、ジョン・スミスの銅像。記念撮影しているのはノースカロライナ州からやって来た高校生のグループ。ジェームズタウンは大西洋にそそぐジェームズ川の河岸に築かれた。その跡地を訪ねる観光客。真ん中に見えるのが入植300年の記念塔)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ⑤

 ボールドウィンは生涯の多くの時間をヨーロッパで過ごす。エッセイの中で次にように記している。I left America because I doubted my ability to survive the fury of the color problem here. (Sometimes I still do.) I wanted to prevent myself from becoming merely a Negro; or, even, merely a Negro writer. I wanted to find out in what way the specialness of my experience could be made to connect me with other people instead of dividing me from them.(私がアメリカを去った理由は、私にはアメリカで肌の色の問題がもたらす憤激を乗り切ることができないのではと思ったからだ。〈今も時々そう思うことがある〉。私は自分が単に一人の黒人と色分けされることが嫌だったのだ。いや、黒人の作家として遇されることもだ。私は私が経験してきた私独特のことがどのようにしたなら他の人々の共感を得ることができるものか知りたかった。私と彼らを隔絶することなく)
 自分が今で言うゲイであることを含めて、「一個の人格」として世界の人々からどう思われるのか突き詰めてみたいということであろうか。それがある意味、アメリカ以上に多人種が「交錯」するヨーロッパなら可能だったのだろう。
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 ボールドウィンはヨーロッパの魅力を大意次のようにも述べている。ヨーロッパは一人の男が例えばウエイターであっても、その仕事に誇りを持てる社会であり、被害妄想的な階層意識に縛られていない。アメリカ人作家はだからヨーロッパに来て初めて誰とでも何の気兼ねもなく話をすることができると。何となく分かるような気がしないでもない。
私が “Go Tell It on the Mountain” で気に入ったパラグラフがある。ジョン・スタインベックの “The Grapes of Wrath” でも似たような一節があったかと思う。ジョンの父親の姉、つまりジョンにとっては伯母に当たるフローレンスがジョンの母親のエリザベスに向かって語りかける場面だ。エリザベスはこの時まだ、やがて自分の夫となるフローレンスの弟に出会っておらず、自殺した恋人でジョンの実父を失った悲しみを友人のフローレンスに初めて吐露する。フローレンスはエリザベスを次のように励ます。
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 “Yes,” said Florence, moving to the window, “the menfolk, they die, all right. And it’s us women who walk around, like the Bible says, and mourn. The menfolk, they die, and it’s over for them, but we women, we have to keep on living and try to forget what they have done to us. Yes, Lord—“(「そうね」とフローレンスは窓の方に近づきながら言った。「男連中はそうやって死んでいくのよ。構やしない。聖書に書いてあるように、その後に残って悲しみに暮れるのはあたしたち女。男連中は死に、それで終わり。でも、あたしたち女はそうはいかないのよ。あたしたちはずっと生き続けなくてはならない。男たちがあたしたちにしたことを忘れるようもがきながらね。ああ、神様」)
 (写真は、NYのビジネス街にある「アフリカ人墓地」の国史跡。重労働などで死去した多くの黒人奴隷が人知れず埋まっているのが判明したのは連邦ビル建設工事中の1991年のこと。黒人の人々の運動が実り、国史跡となった。地元高校生は屈託なく記念撮影)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ④

 “Native Sons” を著したマーゴリーズ氏をニューヨークに自宅に訪ね、話を聞いていたところ、彼も1925年生まれの同世代で、しかも、ボストンで育った氏はマルコムXがボストンのナイトクラブや街頭で靴磨きや存在しないスポーツイベントのチケットを売りさばいていた十代のころのマルコムXを覚えていることを知った。
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 「もちろん当時はまだマルコムXとまだ名乗ってはいませんでした。(肌の色から)ビッグレッドと呼ばれていました」とマーゴリーズ氏は振り返った。ボールドウィン氏とも面識があるが、彼がゲイであることは話題とはならず、むしろ、彼の反ユダヤ感情が物議をかもしていたという。ハーレムでは当時、不動産はユダヤ人が所有し、黒人から容赦なく家賃を取り立てるユダヤ人は時として黒人住民の反感を買っていた。
 マルコムXは同じ公民権運動でも非暴力で知られたキング牧師とは対極にある存在のように見られがちだが、彼が帰依したイスラム教の理解を深めるにつれ、白人=悪の図式から脱却し、レイシスト(人種差別主義者)の白人だけが敵であると見なすに至っている。
 アレックス・ヘイリーがマルコムXとのインタビューに基づき執筆した「伝記」によると、次のように表現されている。“I don’t speak against the sincere, well-meaning, good white people. I have learned that there are some.I have learned that not all white people are racists. I am speaking and my fight is against the white racists. I firmly believe that Negroes have the right to fight against these racists, by any means that are necessary.”(私は真摯で善意のある善良な白人に反対するものではない。私はそういう白人の人々が少なからずいることを知った。私は白人のレイシストに反対するものであり、白人のレイシストに対して戦うのだ。私は彼らのようなレイシストには必要なあらゆる手段を講じて戦う権利があると固く信じている)
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 マルコムXは1965年、イスラム教の教団のかつての仲間の凶弾に倒れた。まだ、39歳の若さだった。ハーレムに来て以来、私の中には素朴な疑問があった。ボールドウィンとマルコムXの人生は交差したことがあったのだろうか。”Baldwin’s Harlem” という伝記を2008年に書いた作家のハーブ・ボイド氏に運よく出会うことができた。
 「二人は黒人解放をテーマにしたラジオ番組などで対談しています。目指すところは同じでも方法論で異なりますから、時として微妙な関係にあったようですが、マルコムXが暗殺される前のころは二人の間には深い理解が生まれていたと思います。マルコムXの暗殺後、ボールドウィンはハリウッドからマルコムXの生涯を描いた映画制作の仕事を引き受けますが、政治色を薄めようとする制作側の意図に嫌気がさし、マルコムXの『セカンド・アサシネーション』に加担などまっぴらと言って手を引きます」とボイド氏は語った。
 (写真は上が、自分の著書を手にしたマーゴリーズ氏。本の写真は氏の若い時のポートレート。この12月で86歳になる。下が、ハーレムで会ったハーブ・ボイド氏。ハーレムに関する著書も多く、インタビュー後、大学で講義があると忙しそうに立ち去った)

ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ③

 この国では奴隷制度の廃止か否かが対立の一つの要因となり、南北戦争(1861-65年)が戦われ、南部の農園などで隷属的立場にあった黒人は自由人となった。しかし、その後も黒人に対する人種差別は続き、彼らが晴れて白人と同様の権利を獲得するには1950年代から60年代にかけての公民権運動が成就するまで待たなければならなかった。
 だからこそ、race riot と呼ばれる人種暴動の「火種」は全米各地でくすぶり続けてきたし、ある意味、今もそうかもしれない。多様な人種で構成されるアメリカで今も黒人が社会の最下層にあることは多くの統計資料が示している。
 それはさておき、南北戦争後、さらには第1次大戦後、多くの黒人が「豊かな暮らし」を夢見て、南部諸州から北部諸州にやって来る。ボールドウィンの父親(実際には育ての親であり養父)も南部ルイジアナ州ニューオーリンズからニューヨークにやって来た一人だった。だが、北部の暮らしが心地よいものだったとは言えないようだ。
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 アメリカの黒人作家のことを紹介した作品に “Native Sons” (邦訳『アメリカの息子たち』)という本がある。ニューヨークの大学教授のエドワード・マーゴリーズ氏が1969年に著した本で、ボールドウィンの項で次のように書いている。
 In the South, at least, a Negro knew where he stood, however barren and bitter his place. Above all, there existed in the South a pattern of interpersonal relationships among whites and Negroes—rooted, to be sure, in racial preconceptions, but for all that occasionally warm and recognizable—so closely interwoven had been the lives of both races over the centuries. But the white Northerner, when he was not downright hostile, treated Negroes with cold and faceless indifference. If he granted them greater self-expression, he seemed at the same time to be saying, “You may amuse me from time to time with your quaint and primitive antics, but in all significant areas of my life please keep away.” For the Southern Negro migrant, the emotional stresses must have been intolerable.(南部では黒人は少なくとも自分がどういう場所にいるか心得ていた。たとえ、それがどんなに殺風景で辛いところであったとしても。南部ではとりわけ、白人と黒人の間に個人的な関係が存在していた。確かに人種的な偏見に根差したものではあったが、それでも時として温かく、肌で感じることができるものであった。何世紀にもわたって彼らの暮らしは絡み合ってきたのだから。しかし、北部の白人は頭から敵意があるというわけではなかったが、黒人を冷たく、無表情の無関心さで扱った。仮に黒人に自己表現の機会をより多く与えたとしても同時に次のように言っているような感じだった。「お前さんは時々、そのお前さんの奇妙かつ原始的な芸当で私を楽しませてもよかろう。だが、私の人生の大切な分野では私の前からお引き取り願えるかな」。南部から仕事を求めてやって来た黒人の精神的なストレスは耐えられないものであったろう)
 (写真は、ハーレムのレストラン。週末ともなれば観光客でかなりの混みようだ)

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