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アメリカをさるく

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ウィリアム・フォークナー(William Faulkner)①

 米南部を代表する作家、ウィリアム・フォークナーは1897年にミシシッピ州で生まれ、生涯の大半をオックスフォードで暮らす。1949年にノーベル文学賞を受賞。
 そのオックスフォードにやっとこ到着した。苦労して来た甲斐があった。オックスフォードはこれまでに私が訪れた作家ゆかりの地でまず、ナンバーワンの地だ。町に歴史というか温もりが残っている。ダウンタウンを歩く人がおり、町がまだ「息づいて」いる。全米でOle Missとして知られるミシシッピ大学を抱えており、キャンパスと町が一体化しているような感じだ。大学の愛称「オール・ミス」も「オールド・ミス」とだぶってユーモラスに聞こえる。
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 アメリカは当然のことながら、イングランドの地名が全土に見られる。オックスフォードもそうだ。面白いのは、地元の人々はここをオックスフォードと命名した時、そう命名すればやがて大学が「やって来る」という願いからそうしたとの由。事実、人々の願いがかない1848年にミシシッピ大学がこの地に開学した。
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 フォークナー自身は南北戦争からだいぶ歳月が流れてこの世に生を受けた男だが、彼の作品の中には南北戦争が南部に与えた陰が色濃くうかがえる。
 例えば1932年に刊行された “Light in August” (邦訳『八月の光』)。主要な登場人物は、黒人の血が流れているのではないかという恐れから屈折した思いを抱えて育った白人の男クリスマス、地元の人々からは「外国人」扱いされる北部出身で黒人のために活動する中年の白人女性バーデン、南北戦争で戦死した祖父や結婚後に妻を自殺に追い込んだ過去にさいなまれ、世捨て人のように暮らすハイタワー、戻って来ない男を追ってアラバマ州から旅に出た身重の少女レナ、そのレナに一目惚れして出産から赤ん坊の父親との引き合わせなどに奔走するお人よしの男バイロン。
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 南部に住む白人が北部の同胞を当時どう見ていたかはバーデンに関する次の記述でうかがえる。She has lived in the house since she was born, yet she is still a stranger, a foreigner whose people moved in from the North during Reconstruction. A Yankee, a lover of negroes, about whom in the town there is still talk of queer relations with negroes in the town and out of it, despite the fact that it is now sixty years since her grandfather and her brother were killed on the square by an ex slaveowner over a question of negro votes in a state election.(彼女はここで生まれたのだが、周囲の人々には依然よそ者であり、南北戦争後に北部からやって来た外国人の一人と見なされていた。つまりヤンキーであり、黒人を愛して厭わない白人だった。彼女は町に住む黒人や町外の黒人とも奇妙な関係を続けていると噂の対象ともなっていた。黒人の参政権を巡り、彼女の祖父と兄が町の広場で昔奴隷を所有していた男から殺害されてから60年の歳月が流れていたにもかかわらずだ)
 (写真は、オックスフォードの町の景観。1864年には北部軍により焼かれている)

「充電完了」

null 「勝手知ったる」とまでは言わないが、かつてお世話になったことのあるヒックス夫人の家に来て、この6日間ほどゆっくりさせてもらった。食事付きである。ただである。友人の母親の家とは言え、やはり、国籍が違えば、多少は遠慮はある。気兼ねもしようというものである。だが、実家に帰ってきたように気持ちよく過ごさせてもらった。
 天候にも恵まれた。インディアンサマーとはこういう天候を言うんだろうなあと思いながら過ごした。ヒックス家はラグレインジ大学のすぐ近くにある。大学にも何回か足を運んだ。昔住んでいた寮は記憶に残っていたが、ほかはあまり覚えていない。この大学は学生数は千人ぐらいの小さな規模の大学だ。私が在籍していた時は日本人は私のほかに年上の女子学生が一人いただけだった。学生課のようなところに行って尋ねたら、今は一人だけ日本人学生が在学しているとのことだった。
 実は “Gone with the Wind” を読んでいて、LaGrange Female Institute という表現が出てきて驚いた。大学はその昔は女子専門学校のようなところだったようだ。
 さて、「充電」ができたところで、また、旅に出なくてはならない。あと少なくとも3人の作家のゆかりの深い場所を訪ねたいと思っている。まずはグレイハウンドの長距離バスに乗って、テネシー州のメンフィスを目指す。そこで一泊して、南隣のミシシッピ州のオックスフォードという町に行く予定だ。レンタカーを運転せず、飛行機にも乗らず、列車かバスの旅だから、公共交通機関の不便なところに行くのは並大抵ではない。本来ならメンフィスまで足を延ばすことはないのだが、これがネットや電話で悪戦苦闘の末にようやく見つけたアトランタからオックスフォードへの「足」だった。
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 それにしても、ヒックス夫人にはすっかりお世話になった。いや、過去形にはまだできない。何しろ、重いスーツケースはヒックス家に置かせてもらい、予定通り事が運べば、11月下旬にはまたここに戻ってくるからだ。それから帰国に向け、改めて西海岸に向かうことを考えている。
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 ヒックス夫人が93歳になることはすでに書いたが、いやはや、とても元気だ。昨年のアフリカの旅でも110歳のおばあちゃんに再会したが、ヒックス夫人の場合は車を運転してショッピングに行き、朝から晩まできちんと家族の食事を作り、なおかつ、私は触ったことのないアイパッドとかいう最新の機器を自由自在に楽しんでおられる。脱帽!
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 ラグレインジは近くに「キャラウェイガーデン」という広大な自然公園がある。このガーデンにも車で連れて行ってもらった。車を降りても杖なしで歩いておられる。普段食しておられるのは普通のアメリカ人が食べているものである。そう考えると、健康をつくるのは食べ物だけでなく、生き方、考え方にあるのかなと思わざるを得ない。私など夫人から見ればまだひよっこみたいなものだろう。羽も毛もないが。
 (写真は上から、ヒックス家。車を運転して買い物に出かけるヒックス夫人。キャラウェイガーデン。紅葉のピークではなかったが、目の保養になった。庭園では菊も満開に)

マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)⑤

 ミッチェルは1900年にアトランタに生まれた。1949年、自宅近くを夫と歩いていて車にはねられ死亡。48歳の若さだった。“Gone with the Wind” は生涯ただ一つの作品だった。作品が発表された翌年の1937年に栄えあるピュリッツアー賞を受賞している。
 彼女が描いたスカーレットの魅力は決してあきらめない心の強さだ。それがよく表現されているのは、スカーレットが戦火のアトランタからタラに戻り、故郷が北部軍に無残に破壊され、最愛の優しい母親は既に死亡、父親も生ける屍のように気力を失っている現実に直面した時であろうか。食べるものもろくにない状況。あるのは荒廃と飢餓の危機だ。
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 Hunger gnawed at her empty stomach again and she said aloud: “As God is my witness, as God is my witness, the Yankees aren’t going to lick me. I’m going to live through this, and when it’s over, I’m never going to be hungry again. No, nor any of my folks. If I have to steal or kill—as God is my witness, I’m never going to be hungry again.” (飢餓感が彼女のすきっ腹を再びさいなんだ。彼女は声に出して叫んだ。「神に誓って、神に誓って、私はヤンキーたちに負けなどしない。私は生き延びて見せる。これが終わったら、二度とひもじい思いはしない。そう、私の一族郎党に決してひもじい思いなどさせはせぬ。たとえそのために物を盗んだり、人をあやめたりすることになったとしてもだ。神に誓って言う。私は二度とひもじい思いをしない」)
 父親のジェラードは21歳の時にアイルランドからやって来て、無一文の身からタラの農園主となった男だった。小説の冒頭部分で農園を継承することなどどうでもいいと言う長女のスカーレットにジェラードは怒って次のように諭す。”Land is the only thing in the world that amounts to anything, for ‘tis the only thing in this world that lasts, and don’t you be forgetting it! ‘Tis the only thing worth working for, worth fighting for—worth dying for.” (「土地はこの世で価値ある唯一のものだ。永久に続くものは土地の他にはありはしない。忘れてはならないぞ。そのために汗を流し、戦う価値のある唯一のものなんだ。命をかける価値のあるものなんだ」)
 ミッドウエストを舞台にウィラ・キャザーが描いた開拓者の小説でも酷似している記述があった。そういう意味ではアメリカらしい小説と言えるだろう。
 私は映画では夫のレットを愛していることに初めて気づいたスカーレットが、彼女に愛想をつかして立ち去る彼を引き留めようとするシーンが印象に残っている。レットはスカーレットの懇願を一蹴して別れ際に言い放つ。”Frankly, my dear. I don’t give a damn.” (正直言って、お前さんがこの先どうなろうと俺の知ったことじゃないよ)。小説では、単に ”My dear, I don’t give a damn.” となっているが。
 それでも彼女はへこたれない。小説は ”I’ll think of it all tomorrow, at Tara….After all, tomorrow is another day.” という彼女がよく口にする言葉で終わっている。
 (写真は、タラのモデルとなった著者の祖父母の家を描いた絵=タラへの道博物館で)

マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)④

 これまでに何回か引用してきた参考図書の小冊子 “Outline of American Literature” ではなぜか、“Gone with the Wind” を取り上げていない。著者のマーガレット・ミッチェルについても一言も言及していない。本来なら、20世紀中葉の米南部の作家の一人として紹介されてしかるべき作家であり、作品だと私は思う。
 私がかつて在籍したラグレインジ大学で英語学を教えるジョン・ウィリアムズ准教授に尋ねた。彼は同じ時期に生きた同じ南部の作家であるウィリアム・フォークナーの作品に比べればその「差」は歴然としていると語った。
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 「フォークナーの作品の登場人物は深みがあります。これに対し、ミッチェルが描いている人物は南部のステレオタイプの人物像です。ミッチェルは南部の神話を切り崩したり、挑戦しているのではなく、この作品で彼女自身が南部の神話の一部になってしまった」
 「もちろん、物語としては優れた作品です。上質のエンターテインメント作品です。映画を通して作品のことを知らない人はいないでしょう。米社会に大きな足跡を残した大衆文化であることは間違いない。そういうとらえ方をすべき作品だと思います」
 ゲティスバーグの南北戦争の史跡を見学していた時、一冊の短い回想録に遭遇した。”At Gettysburg, or What a Girl Saw and Heard of the Battle”。著者はゲティスバーグで暮らしていた当時15歳の少女で、激戦の25年後の1888年に書き残された冊子だ。北部に属していた少女には進軍してきた南部軍はどう映ったかが淡々と綴られている。
 What a horrible sight! There they were, human beings! clad almost in rags, covered with dust, riding wildly, pell-mell down the hill toward our home! shouting, yelling most unearthly, cursing, brandishing their revolvers, and firing right and left. ( 何という光景だったでしょうか。ぼろをまとい、ほこりにまみれ、荒々しく馬にまたがり、隊列などめちゃくちゃになって丘を下り、我が家に向かってやって来ていたのです。まともな人間にはとても見えませんでした。彼らは口々に何か叫んでいました。この世のものとは思えない言葉や罵りの表現でした。彼らは拳銃を振り回しながら、右に左に発砲していました)
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 ミッチェルが “Gone with the Wind” の中で北部軍兵士をモラルのない野蛮な連中とこき下ろしているのに対し、ゲティスバーグの少女の目には南部軍の兵士がまさにそのように映っている。南北戦争は1865年に北軍の勝利で終結。しかし、南部の人々がその後も、北部からやってきた人々やこれに取り入った同胞により、さらに困窮の暮らしを余儀なくされたことは、小説が描いている通りだろう。だから現在に至るまで、南部の人々のいわゆるヤンキー嫌いが続いているかに思われる。ほんの150年前の出来事である。
 (写真は上が、米南部の文学について話してくれたウィリアムズ准教授。下は、アトランタの歴史センターで催されていた、南北戦争にまつわる展示。このパネルには「南部の人々は連邦を離れ独立する当然の権利があると考えていた」と記されている)

マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)③

 『風と共に去りぬ』にまつわる記念館はアトランタ以外にもある。南に約30キロ走ると、ジョーンズボロという町があり、ここに “Road to Tara Museum” という名の小さな博物館が立っている。『風と共に去りぬ』の小説、映画に関するアイテムのコレクターで知られるハーブ・ブリッジズさんが長年かけて収集してきたものが展示されている。
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 この町に乗客を乗せる列車が走っていたころの駅舎を活用した博物館だ。電話で連絡していたので、ハーブさんがにこやかに出迎えてくれた。82歳。かつては郵便関係の仕事に就いていたとか。
 一説によると、“Gone with the Wind” は今なお毎年25万冊以上が世界各国で(翻訳)出版され続けており、これは聖書に次ぐ数字だという。博物館ではそうした各国での出版本や、映画で使われた衣装、南北戦争関連の品々などが展示されている。ハーブさんがかかわり、日本の某有名デパートが日本全国で催した展示会のポスターも目についた。
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 映画でおなじみのスカーレットの等身大の写真も展示されていた。今回初めて知ったのはスカーレット役の女優、ビビアン・リーが意外と小柄だったことだ。等身大の写真と向き合ってみると、私の方がほんの少し背が高い。ますます「好感度」を深めた。そう言えば、アトランタの「マーガレット・ミッチェル邸」の受付にいた女性スタッフが「彼女は5フィート3インチぐらいだったかしら」と語っていた記憶がある。私は5フィート4インチぐらいだから、計算は合う。彼女のあの生気にあふれた演技は日本人女性でも今では小柄な部類に属する体から発せられていたのだ。
 一通り見学を終えた後で、ハーブさんに尋ねた。
 「いつごろから、収集されたのですか?」
 「1960年代末です。私もジョージア州生まれですから、地元の作家の作品が世界中で脚光を浴びるのに興味を覚え、映画にまつわる品々を含め、集め始めました。このように一般に公開するようになったのは80年代末からですが」
 「私は小説を読んでいて、登場人物が黒人を猿扱いしている発言やKKKに関する記述に正直驚きました。黒人社会から見れば容認できない表現ではないでしょうか?」
 「それはその通りでしょう。ただし、彼女があの作品を執筆していた当時はああいう表現が当たり前だったのです。何の不自然さもなかったのです。私はあの作品をそうした歴史を踏まえて読んで欲しいと願っています」
 ハーブさんの博物館の名前にもなっている「タラ」という地名は作家が考え出した架空の地に過ぎない。博物館の周辺はのどかな雰囲気で、なるほど「タラへの道博物館」と名乗るのにふさわしいと思った。残念なのは旅客列車やバスの便が一切なく、私のような観光客には来訪するのが一苦労することだ。
 (写真は上が、展示品を前にしたハーブさん。博物館自体は地元のクレイトン郡観光局が運営している。下が、展示されている映画や劇のポスターの数々)

マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)②

 アトランタにある「マーガレット・ミッチェル邸」及び記念館では、1939年制作の大ヒットした同名の映画 “Gone with the Wind” の難航した俳優選考の逸話や撮影の苦労話などをビデオやパネルで紹介している。
 同年12月15日にアトランタの劇場に出演の俳優、スタッフが集い、この映画は封切られ、アトランタは歓喜に包まれるが、マミー役を演じた女優のハッティ・マクダニエルなど黒人俳優陣は参加できなかった。当時はまだ激しい人種差別の時代であり、劇場で黒人が白人と一緒に座ることはタブーだったからだ。マクダニエルはマミー役の演技が評価され、この年のアカデミー賞の助演女優賞を受賞する。式典で彼女が謝辞を述べるシーンを見たが、受賞の喜びよりも晴れの舞台に白人と同席している戸惑いを強く感じた。
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 この小説の物語の力強さ、瑞々しさを否定するものではないが、首を傾げたくなる記述にも何回か「遭遇」したように思う。例えば、次のような記述だ。これはスカーレットの幼馴染で北部軍の追及を逃れてきた人物が戦況不利を憂え、発する言葉だ。
 “Soon we’ll be having nigger judges, nigger legislators—black apes out of the jungle—“ (「すぐに我々は黒んぼの裁判官や黒んぼの議員を仰ぐことになるだろう。連中はジャングルから出て来たばかりの黒いサルだというのに」)
 これがどれだけひどい表現であるかは説明するまでもないだろう。
 この国でKKKの通称で呼ばれる、悪名高い黒人排斥の秘密結社、クー・クラックス・クランが南部諸州で誕生した経緯については次のように「肯定的」に描かれている。
  It was the large number of outrages on women and ever-present fear for the safety of their wives and daughters that drove Southern men to cold and trembling fury and caused the Ku Klux Klan to spring up overnight. And it was against this nocturnal organization that the newspapers of the North cried out most loudly, never realizing the tragic necessity that brought it into being.(南部の男たちが身を切るような怒りに体を震わせながら、クー・クラックス・クランを一夜にして成立させたのは、南部の女性に対する数多い凌辱行為が頻発したことや、自分たちの妻や娘の身の安全への不安感をぬぐいきれなかったからだ。北部の新聞各紙は夜間に密かにうごめくこの組織が発足せざるを得なかった痛ましい必然性が理解できず、声高に非難したのであった)
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 KKKは白人優位主義、人種差別主義の時代の米社会が生んだ醜悪な落とし子だ。中西部を含めて、今回の旅で立ち寄ったいくつかの博物館では、その地方で一時期暗躍したKKKについてきちんと記録、紹介していた。全身白装束で頭巾をかぶった不気味な彼らの集合写真を目にする度、見てはならない人間の憎しみの深みを垣間見たような気がした。
 (写真は上が、「アンダーグラウンド・アトランタ」と呼ばれるダウンタウンの商店街。アトランタは米国の中でも太った女性が目立つ印象。下は、コカ・コーラ社の土地の寄贈を受け、公民権や人権の大切さを訴えるセンターができるダウンタウンの建設予定地)

マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)①

 日本でも今なお人気のある小説 “Gone with the Wind”(邦訳『風と共に去りぬ』) は南北戦争の嵐が吹き荒れたアトランタが舞台となった作品だ。アトランタ生まれの作家マーガレット・ミッチェルが1936年に発表した。刊行直後に大ベストセラーとなり、3年後の1939年にはビビアン・リー、クラーク・ゲーブル主演で映画化され、これも大ヒットしたことは改めて説明するまでもないだろう。作品を読んだことのない人でも映画は見たことがある人は多いことかと思う。
 この物語の書き出しは1861年4月で、奴隷制度の是非などを巡り、北部と南部が戦火を交える南北戦争の前夜だ。プランテーションと呼ばれる綿花を栽培する大農園で暮らすヒロインのスカーレット・オハラはフランス系の母親エレンとアイルランド系の父親ジェラードの血を引く16歳の美貌の少女。少年のように元気よく溌剌とした彼女の唯一の不満は自分が密かに思いを寄せている幼馴染でどこから見ても非の打ちどころのない好青年、アシュレーが全然自分を振り向いてくれないことぐらいだ。
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 スカーレットが生まれ育っている北ジョージアではサバンナやオーガスタ、チャールストンなど海岸部の都市と異なり、教育を受けているとか洗練されているとかは重要視されず、いい綿花を栽培するとか、乗馬がうまいとか、射撃の腕があるとか、ダンスに秀でているとか、実務的才があれば、それで十分に評価された。奴隷制度真っただ中の州であり、黒人そのものが例えば、黒人奴隷100人を抱えた白人農園主の元で雇用されていれば、その黒人奴隷の社会的ステータスは保障されているようなものであり、少人数の黒人奴隷しか雇用できない白人の小農園主を多くの黒人奴隷を抱えた農園で働く黒人は小馬鹿にしていたとも記されている。そういう時代だったのだろう。
 誤解を恐れずに言えば、そういう大農園でこき使われる黒人奴隷、特に農園主の白人の子供たちとその世話をする黒人奴隷との関係は、単に「白人の主人と奴隷」以上の親密な関係にあった。ニューヨークで先日 ”The Help” という同じ南部のミシシッピ州の町を舞台にした映画を見たが、黒人に対する人種差別が依然として残る1960年代に、白人の女性が自分を愛情豊かに「育てて」くれた黒人の乳母に思いを馳せるシーンが、作品の大切な伏線となって描かれていた。“Gone with the Wind” で言えば、スカーレットと黒人奴隷の乳母、マミーの関係だ。南部のレディーとして逸脱した行動に出るスカーレットをことあるごとに厳しくかつ温かく諌めるたくましさの塊のようなマミー。これは当時の北部では考えられなかったような白人と黒人の「親密さ」だろう。
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 かつての奴隷制度や人種差別時代の米社会を「擁護」しているわけでは毛頭ない。小説自体、”nigger” とか “darky” といった現代から見ればタブーの表現や、黒人社会には到底受け入れることのできない記述も少なからずあり、そうした点は次に触れたい。
 (写真は上が、当時作家が住んでいた「マーガレット・ミッチェル邸」。下が、展示品の一つで、彼女は当時このようなタイプライターで代表作を書き上げた)

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