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アメリカをさるく
エルパソへ
- 2011-12-07 (Wed)
- 総合
ヒューストンに5日間ほど滞在し、今、同じテキサス州のエルパソという都市に向かっている。例によって、アムトラックという列車に乗っている。広大なテキサス州の東の端から西の端への移動だ。何度も書いているが、節約旅行ゆえ、一泊分のホテル代が浮いて、それで切符自体は78.20ドル(約6500円)。ほぼ20時間列車に乗り続けてこの値段だから、安いと言えば安い。
ヒューストンから乗り込んだ列車は空いており、乗客もまばら。近くの乗客のいびきに悩まされることもなかった。それでイスの背を倒し、ヨガのような姿勢をいくつも試し、眠ろうと努力してみた。残念ながらほとんど眠れなかった。ただ、一夜明け、カフェがある車両でホットドッグにコーヒーでエネルギーを補給し、朝日の当たるテキサスの原野を見やりながら、パソコンに向かってこの原稿を書いている今、不思議と疲れは感じない。
ヒューストンで目にした人々は圧倒的にヒスパニック(メキシコ)系の人たちだった。これから行くエルパソはメキシコと国境を接しており、さらにヒスパニック色の濃い都市だろう。メキシコ側の国境の都市では麻薬が絡んだギャングによる残忍な殺人事件が頻発している。つい最近も、ダウンタウンに放置されていた車の中から29人の男女の遺体が見つかった事件が報じられていた。
内戦下でない国で、これだけの数の市民がギャングウォーで殺戮されている国はないのではないかと思う。ヒューストンで泊まっていた安宿は長距離トラックの運転手が多く、彼らは私がエルパソに向かっていると知ると、「おお、絶対に国境を超えるなよ」と忠告してくれた。もちろん、超えるつもりは毛頭ない。ただ、国境の街(都市)がどんな雰囲気なのか知りたいと思っている。
余談になるが、トラック運転手の人たちと雑談していて思ったことがある。この広大な国は鉄道が敷かれて東海岸と西海外が結ばれ、現在の発展の礎が築かれたのであるが、その鉄道は石油の発見でガソリンを燃焼させて走る車が普及して「衰退」することになる。貨物輸送の鉄道網の「不備」を補っているのが長距離トラックではないか。
「いや、楽な生活ではないよ。年収はざっと6万ドル程度。今大学で学んでいる息子にはさせたくないね。トラック運転手の魅力?自由かな。広大な土地を走っている時の爽快感はいいものがあるよ。70歳代の同僚も多いよ。体が続く限り走っていられるのもいい」
「自分は1マイルにつき50セントの報酬。だいたい1日600マイル(約965キロ)走るから300ドルの収入だね。一人で運転しているよ。前に相棒がいたこともあったけど、一人の方が気楽だからね。94歳でもまだ現役の運転手がいるよ」
(写真は上から、ヒューストンの週末。公園の近くで出会ったヒスパニック系の市民。お祭りに参加するので伝統的衣装をまとっていた。エルパソへの列車の車中から眺めた果てしのない光景。標高が高くなると、雪が降ったのか寒々とした印象も。そこで一句「目覚むたび テキサスは丘 雪も見ゆ」。午後からは少し晴れやかな光景に変わっていった)
ヒューストン着
- 2011-12-02 (Fri)
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ラグレインジを出て、アトランタで一泊、アムトラックの列車に乗り、ニューオーリンズで一泊、昨日遅く、テキサス州のヒューストンに着いた。テキサス州はもちろん初めて。今回の旅でテキサス州出身の人と会う度、テキサスがいかに素晴らしいかと何度も聞かされていた。テキサスは他の州と異なり、独立国だったが、条約を結んで合衆国の一員となったこと。よって、今でもアメリカ国旗とテキサス州旗は同じ高さで掲揚されているとの由。地元の人々はそうした歴史にことのほか誇りを持っているとも聞いた。
テキサス州がこの国ではアラスカ州に次いで大きいことぐらいは承知していた。改めて調べてみると、面積約67万平方キロとあるから、日本の1.7倍の広さだ。ヒューストンはそのテキサス州で最大の都市。例によって、ダウンタウンから少し離れた郊外の安ホテルに投宿。本日、だいたいの見当をつけてダウンタウンに向け、路線バスに乗り込んだ。偶然だろうが、白人乗客は皆無に近い。ヒスパニック系の乗客が目立つ。上を見ると、英語の他、5か国の案内文が掲載されている。最初にスペイン語があり、続いて、ベトナム語、中国語、ウルドゥー語、フランス語。この都市がバラエティーに富んだ人々で構成されていることが一目瞭然だ。
隣に座った黒人女性に何気なく、私が行きたい場所のことを尋ねると、彼女は近くの他の乗客に向かって、その場所について聞いてくれた。誰かがスペイン語で話すと、それを英語に通訳して、一気にバスの中が賑やかになった。この辺りはさすが、テキサスと言うべきだろうか。
ダウンタウンに着いたはいいが、右も左も分からない。それでこれも例によって、シティーホール(市役所)にあるはずのビジターセンターに足を運ぶ。いや、ここにも親切な係員がいて、こちらの訪問の意図を知ると、次から次に資料を出して説明してくれる。ニューヨークやロサンゼルスなどではとても期待できない親切さだ。ヒューストンは決して田舎町ではない。メトロと呼ばれる周辺部を含むと520万人、ヒューストン市だけだと290万人で全米第4位の大都市でもある。経済の柱は石油産業であり、東京を含む国際線63、国内線110の路線を抱える空港もある。
さあ、わずかな時間だが、テキサスのユニークさに触れてみることができるかどうか。幸い、ヒューストンはメキシコ湾に近い最南部の都市であり、アトランタや北部の都市に比べれば格段に温暖な気候だ。街中ではまだ半ズボンで歩いている男性も見かけた。
(写真は上が、ヒューストンの高層ビル。下は、便利な路面電車も走っていた)
「がんたれの繰り言」について。高校時代の恩師から、自分は親しみを込めて「がんたれ」という表現を使っていたとの指摘を受けた。確かに、そういう使い方も可能であり、「男はつらいよ」でおいちゃんがおいの寅さんが何かへまをやらかすと、「バカだねえ、寅は!」と愛情を込めて嘆いていたが、あの「バカだねえ」の感覚だ。
米大統領選に思う
- 2011-12-01 (Thu)
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今回の「アメリカさるき」は2012年の米大統領選を前に政権奪回を目指す共和党陣営の激しい選挙戦を目にする旅でもあった。新聞やテレビで連日、そうした選挙戦の一端に触れてきた。
民主党は現職のオバマ大統領が再選を目指しているから「静か」だが、複数の候補者がしのぎを削る共和党の争いは賑やかである。取材する立場にないので細かなところは分からないが、つい先日まで、最終的には前マサチューセッツ州知事のミット・ロムニー氏とテキサス州知事のリック・ペリー氏の争いに落ち着くだろうと見られていた。
ところが、ここに来て、もう過去の人と目されていた元下院議長のニュート・ギングリッチ氏の人気が急上昇、上記の二人を脅かすほどの支持を集め始めている。ギングリッチ氏は確かにクリントン政権時代にそのタカ派の手腕で名を馳せたものの、これまで共和党の有力候補と見なされることはなかったように思う。
まあ、それにしても、大統領選の候補者になるのは大変なことである。メディアの執拗な取材攻勢もそうだが、いろいろな方面から「火の手」が飛んでくる。今その矢面に立っているのは、ピザレストラン経営から身を立てた黒人実業家のハーマン・ケイン氏。ケイン氏からセクシュアル・ハラスメントを受けたと3人の女性から告発され、「事実無根。証拠はどこにある?」と何とか切り抜けたと思われていたが、今度はケイン氏と過去13年間、不倫関係にあったと告発し、テレビ局の取材を受けた女性が登場する展開に。
ケイン氏はCNNの生番組で「その女性は長年の友人。経済的支援をしたことはあるが、一切の性的関係はない。全くの誹謗中傷」と真っ向から否定した。しかし、番組が終了した直後、同氏の選対事務局サイドから、「ケイン氏のプライベートな生活は選挙戦とは無関係」と苦しい弁明の声明が流されるなど、ケイン氏はかつてない窮地に立たされている。
一時、支持率調査で先頭を走る勢いのあったペリー氏も候補者のテレビ討論会で、「私は大統領になったら、三つの連邦省庁を廃止する。一つ目は商務、二つ目は教育、三つ目はええと、ええと・・・」と三つ目の省庁を最後まで思い出せない信じられない失態を演じるなど、頼りなさを露呈しつつある。
本日(30日)の新聞を読んでいたら、ペリー氏がニューハンプシャー州の大学で29日に開いた集会で、来秋の大統領選までに21歳になる学生に対しては自分に投票するよう求めたが、21歳未満の学生に対しては「一生懸命勉学に励むよう」とだけ述べたという記事が目に入った。AP通信の記事は次のように締め括られていた。
It turns out Perry didn’t know or had forgotten the voting age in America is 18. The flub caused whispers in the crowd. (ペリー氏はアメリカでは18歳になれば投票できるということは知らなかったか忘れていたことが判明した。聴衆の間では彼のへまにさざ波が広がった)
いやはや、アメリカは「奥」が深いところではある。
「がんたれ」の繰り言
- 2011-11-28 (Mon)
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ラグレインジで旅の疲れも癒せた。これから一路、寄り道しながら、ロサンゼルスを目指す。飛行機に乗れば、一っ飛びだろうが、陸路だとそうもいかない。悩ましいのは少しずつ増えている書籍でスーツケースがずっしりと重いこと。これを運びながらの旅はさすがに辛い。でも愚痴をこぼしたら罰が当たるか。スーツケースはもっと辛いかもしれない。こんなに詰め込んでくれるなと。
ヒックス家ではすっかりお世話になった。我が家のように使わせてもらった。今回初めて気づいたが、現在93歳のヒックス夫人は私の亡き母親と同じ歳だった。私の母は10年前に83歳で死去しており、生きていれば93歳。このことに初めて気がついて複雑な心境になった。晩年の数年間は老人特有の痴呆症状を呈した母と異なり、ヒックス夫人は今もお達者そのものだ。何が彼女をしてこんなに健康を保つことを可能にしているのだろうか、と思わざるを得ない。(我ながら英文和訳の解答のような文章だ)
私は間違いなく「お袋っ子」だった。良く似ているとも言われた。自分でもそう思う。私は自分が多分長生きするだろうなと信じて疑わないのは、自分が母に似ていること、その母はとても丈夫とは言えない体で9人の子供を生み、7人を育てあげていることに起因する。荼毘(だび)に付された母の灰から骨らしい骨を見つけることは難しかった。出産や長年の薬漬けの生活で骨がぼろぼろになっていたのではと、自分は何の根拠もなく思った。(男だから当然だが)一人の子供も生まず、気ままな暮らしの私が母の年齢をはるかに超えて生きても全然不思議ではないだろう。孫の顔も見せられず、ろくな親孝行もしてあげられず、「がんたれ」な私ができることは長生きすることぐらいだ。(「がんたれ」とは宮崎弁で「役に立たない」「出来の悪い」人や物を意味する。「あらぁ、がんたれじゃが」と言えば、「あの男は能無し、役に立たない」ということになる)
話が変な方向に行ってしまった。私がここで書きたかったのは、母と同じ歳のヒックス夫人のお達者さだ。私の母は子供が多い分、常に日々、心配事を抱え、子供たちのことを気に病んで暮らしていたような気がする。その分、健康をむしばんだのでないかと思わないでもない。ヒックス夫人も4人の子供を育てた。今も家事一切をこなし、家に残った初老の長男と一緒に暮らしておられる。彼が語る話、もう幾度となく耳にしている話だろう、それを微笑みながら聞き、時に合いの手を入れ、私のカップにコーヒーを注ぎ足してくれる。些事にこだわらない、おおらかな性格が「長寿」「健康」の秘訣なのだろうか。
この次、ここにいつまた来ることができるか分からないが、近い将来、また再訪できるようにしたいと強く思っている。お袋が「聞いたら」、「自分を生んでくれた親に(親孝行)せず、なんば考えとっとか」と叱られそうだ。いや、心優しい母は「お前は本当にがんたれじゃ」と笑ってくれるだろう。
(写真は上から、感謝祭で里帰りした息子や娘、その家族たちとご馳走を囲むヒックス夫人=左から2人目、ラグレインジは少し歩くと、このような贅沢な住宅が広がる)
再びラグレインジへ
- 2011-11-24 (Thu)
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11月の第4木曜日(11/24)はこの国のThanksgiving Day と呼ばれる「感謝祭」。日本で言えば、お正月のような感じで、多くの人々がこの感謝祭に合わせ自分の郷里に戻り、週末にかけ家族や親類、旧友たちと憩いのひと時を過ごすのだという。私はキーウエストを後にして、再び、ジョージア州ラグレインジに戻ってきた。
キーウエストからラグレインジへはグレイハウンドバスでほぼ2日の旅だった。月曜の午後にキーウエストを出て、アトランタ経由でラグレインジ着は火曜の深夜。また眠れぬ夜をバスの中で過ごすことになったが、バス賃は納得のいく運賃だったし、ホテル代一泊分が浮いたと思えばそう悪くはない。
何度も書いたような気がするが、キーウエストは11月下旬に差し掛かっても汗ばむ陽気の日々だった。日中は初夏のよう。日差しは結構強く、ホテルの部屋でバリカンを頭に走らせ、少し伸びた髪の毛を散髪し、ビーチで数時間さらしただけで、丸坊主の頭は今も少しひりひりして痛い。夕暮れはさすがに早く、午後5時40分ごろ。レンタル自転車で海岸沿いの自転車道を走っていると、少し物悲しくなる晩夏のよう。ああ、せっかくアメリカに来ているのだから、もっといたいと何度も思ったが、感謝祭はラグレインジのヒックス家で迎えることに決めていたのでそうもいかない。
思えば、この旅は日本を発ったのが6月21日だったから丁度5か月が経過。予定していた旅程はほぼ終了した。ヒックス家で少し過ごした後、一路、寄り道しながら西海岸を目指す。昨年のアフリカの旅はクレジットカードが使用不能になり、現金が「枯渇」して、ハラハラドキドキしながらの苦しい旅だったが、今回のアメリカの旅はそれを思えば、天と地ほどの開きがある。何より、身辺の「危険」を心配することのない心安さはとてもありがたい。
途中バス停のマイアミでは一駅早く国際空港で下車してしまうポカを演じた。名札を付けた空港のガードマンらしき人に、自分のミスで下車駅を間違えたことを嘆くと、彼は素早く近くの路線バスの停留所まで連れて行ってくれ、停車していた路線バスの運転手にグレイハウンドの駅まで私を乗車させてくれるよう頼んでくれた。彼のお蔭で私は何の負担も問題もなく、本来の乗換駅に無事たどり着くことができた。ささいなことだが、こうした親切がこの国ではまだ息づいていることがうれしかった。キーウエストのレンタル自転車店のおじさんもなぜか、最後の日のレンタル料(10ドル)はただにしてくれた。
(写真は上から、キーウエストによくあるバーで食べたEdamame (8ドル=約660円) とTunaTataki (16ドル50セント=約1400円)。枝豆はスパイスの効いたドレッシングであえてあり、それなりに美味かったが、これだけでお腹が一杯になった。マグロのたたきもまずまず。ハンドブレーキはなく、逆ペダルがブレーキのレンタル自転車にもすっかり慣れた。行くところが全部こんな感じだったら、とても快適だっただろうに。少し太り、感謝祭で皆が食べる皮脂面鳥いや七面鳥のようにいい色合いに焼きあがった私)
アーネスト・ヘミングウェイ (Ernest Hemingway) ⑤
- 2011-11-22 (Tue)
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「ヘミングウェイはキーウエストでポーリーン夫人の富裕な伯父の援助で当時の一般の人々からは考えられない豊かな暮らしをエンジョイします。世界大恐慌の真っただ中のことですから」とキーウエストの図書館に勤務する歴史家、トム・ハンブライトさんは語る。
確かに、記念館となっているヘミングウェイハウスはシャンデリアあり、冷蔵庫あり、プールありといった洒落た住まいだった。当時のスタンダードから見れば、豪勢な暮らしぶりだったことがうかがわれる。「ヘミングウェイがここに住むようになったのはいろいろ偶然が重なってのことですが、今では地元の観光業への貢献大ですね。ヘミングウェイハウスはキーウエストのナンバーワンの観光スポットです」
医師を父親に音楽家を母親に生まれた作家の故郷はキーウエストから遠く離れたイリノイ州シカゴ近郊のオークパーク。生家は記念館として残されているほか、近くにヘミングウェイ博物館もある。博物館の展示品で印象に残ったのは、彼がアーニーと呼ばれた高校時代の卒業写真だ。ハンサムな顔立ちで、遠くを見つめるかのような真剣な眼差し。若きヘミングウェイが自分の人生に抱く希望と自信が見て取れた。写真の下には卒業記念アルバムに記されている文章の一文が紹介されていた。None are to be found more clever that Ernie.” (アーニーよりも賢い生徒は誰もいなかった) 。ずば抜けて聡明な生徒だったようだ。
ヘミングウェイはアメリカを代表する作家となり、『老人と海』を発表した翌年の1953年にピュリッツアー賞を、そして1954年にはノーベル文学賞を受賞する。しかし、華やかな人生は7年後に暗転する。1961年7月、最後の住まいとなったアイダホ州ケッチャムの自宅で彼は猟銃自殺する。ケニアでの動物サファリで遭った飛行機事故で重傷を負い、後遺症に苦しんだことや、精神を病み、うつ病にも悩まされていたという。
『老人と海』でサンチャゴ老人がカジキマグロの大物を仕留め、漁港を目指す途中、サメに襲われ、「応戦」する中であれこれ思うシーンがある。
“But man is not made for defeat,” he said. “A man can be destroyed but not defeated.” (「しかし、人間は打ちのめされるようにはできていないのだ」と彼は自分に言い聞かせた。「人間は命を落とすことはありうる。しかし、打ちのめされることはありえない」)
彼が最後に自死を選択したのは、being destroyedであっても、being defeatedではなかったのだろうか。いや、やはり、being defeated の末の行動だったのだろうか、などと私は上記の文章を目にした時、思いを馳せもした。文豪の苦悩など凡人の私には理解できようはずもないが。
(写真は上から、ヘミングウェイについて語るハンブライトさん。キーウエストは今も緩やかな暮らしに引かれ、移り住む作家が少なくないという。かつて灯台だった塔からヘミングウェイハウス記念館周辺を望む。真ん中の白い屋根がそのハウス。キーウエストの平均海抜は1.5メートルだが、ハウスがある地区は4.8メートルの「高台」ゆえ、過去の幾多のハリケーンによる洪水の被害も免れているとか。作家の高校卒業時の写真)
アーネスト・ヘミングウェイ (Ernest Hemingway) ④
- 2011-11-22 (Tue)
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『老人と海』では84日間も魚を獲ることができなかったサンチャゴ老人が85日目にその生涯で初めて出くわした巨大なカジキマグロを釣ることに成功する。だが、自分が乗っている小舟より大きい全長6メートルの大物だ。3日間の「格闘」の末、ようやく仕留めることができたが、船体に縛りつけて港に引き揚げる途中、幾度となくサメに襲われ、サンチャゴの必死の抵抗も空しく、カジキマグロは骨格だけになってしまう。
骨だけになったカジキマグロとともに、疲労困憊のサンチャゴは夜の港に帰港。はうようにして戻った自分の小屋で倒れ込んで眠る。サンチャゴの身を案じていたマノリンは翌朝、まだ寝入っているサンチャゴを見て、泣き出すのを抑えきれない。目覚めたサンチャゴに向かい、マノリンはこれからはまた一緒に漁に出ようと語りかける。サンチャゴも少年の執拗さに押し切られ、一緒に漁に出ることを承諾する。
『老人と海』は簡潔な文章が淡々と繰り出されていく。冗長な記述は皆無に近い。例えば、次のような文章に私は最初、戸惑った。He was feeling better since the water and he knew he would not go away and his head was clear. この部分を私が日本語に訳すとすると、次のようになる。老人は先ほど一口飲んだ水で元気を少し回復していた。仕留めた獲物が逃げ出すこともない。混乱していた頭もすっきりしていた。どう見ても、ヘミングウェイの原文の英語に比べ、実に「余計な」表現が入っている気がしてならない。だが、その「余計な」表現をはしょると、日本語としては分かりづらい文章になる。翻訳者泣かせの名文なのだろう。
ヘミングウェイの文体は③で述べたように、一般には「アイスバーグ論」とも呼ばれていることを今回の旅で知った。彼が日本の「俳句」の影響を受けていることを指摘する批評家がいることも知った。次のような文章に出会うと、なるほどと感じないこともない。
It was cold after the sun went down and the old man’s sweat dried cold on his back and his arms and his old legs.(日が沈むと寒くなった。老人の汗も背中で乾き、寒さを覚えた。腕もしかり。年老いた足もしかり)
Then the fish came alive, with his death in him, and rose high out of the water showing all his great length and width and all his power and his beauty.(その魚は息絶える直前、生気をみなぎらせ、水面高く跳ね上がった。その体の大いなる長さ、幅の広さ、力強さ、そして美しさを誇るかのように)
なぜか、この作家は and という接続詞を多用する。普通はコンマ「,」を使用するところだろう。ずっと昔、中学校か高校の英語の授業で and を多用して文章を書くと、稚拙と言われたような記憶があったような。ヘミングウェイが先生だったら、一味もふた味も違った授業になっていたことだろう。
(写真は上が、キーウエストのビーチ。下は、町の通り。レンタル自転車、人力車のほか、観光客が利用できるさまざまなユニークな乗り物で賑わっていた)
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