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アメリカをさるく
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ジョン・スタインベック(John Steinbeck)①
- 2011-07-01 (Fri)
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木曜朝、サリナスのモーテルのようなホテルで目覚める。ここは一泊72ドル(約6000円)。朝食は無料とのことゆえ、棟続きの食堂に行く。無料だけあって、湯気の立つブレックファーストではなく、セルフサービス。各種ジュースにコーヒー、コーンフレーク。パンケーキは自分で簡易焼き器を使って焼き上げる。結構満足した。
国立スタインベックセンター(National Steinbeck Center Museum)に向かう。ホテルから歩いて15分ほどの距離にある。日本は猛暑らしいが、ここはロスよりもさらに涼しい感じだ。ジーンズに半袖のポロシャツだが、薄手の上着が欲しいぐらい。
センターの前に小学生ぐらいの子供たちのグループがいた。彼らにもスタインベックが「理解」できるのかと思い、尋ねると、母親らしき女性が「いや、隣の映画館に子供たちを連れてきたんです」との由。なるほど、まだ彼らには『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)は難しいだろう。
センターの入場料は10ドル95セント(約900円)。スタインベックの生い立ちから彼の主要作品にまつわる資料やビデオなどが展示されていた。どれから見ていいものか迷ってしまう。限られた時間で見れるのはしれている。しかも英語だ。メモするのも一苦労。
彼の代表作は1939年に発表された『怒りの葡萄』。アメリカの中南部の農民たちが1929年の世界大恐慌で破産し、銀行に負っている借金で土地を追われ、西海岸のカリフォルニアに活路を見出そうとする悪戦苦闘の物語だが、人間(資本主義)の強欲さ、それでも負けない農民(庶民)のたくましさが描かれている。
『怒りの葡萄』を読んでいると、身につまされるシーンが何度も出てくる。「主人公」のジョード一家はオクラホマ州の農家。カリフォルニア州の人々からは「オーキー」と呼ばれて蔑視される。日本人が「ジャップ」と蔑視されたようなものだろう。長年住んでいた農場から追い立てられ、日々の暮らしに必要な家財道具をぼろ車に積載し、仕事と食べ物を求めて西に向かう。生きる術はほかにないのだ。カリフォルニア州の人々には彼らは治安を乱し、仕事を奪う厄介者として映った。だから作中、カリフォルニア州の同胞の間では次のような会話が交わされる。こんな会話がかつて現実に交わされたとは信じ難いが。
“Well, you and me got sense. Them goddamn Okies got no sense and no feeling. They ain’t human. A human being wouldn’t live like they do. A human being couldn’t stand it to be so dirty and miserable. They ain’t a hell of a lot better than gorillas.” 「そうだな。俺とお前は常識を持ち合わせている。あいつら汚らわしいオーキーは常識も感情も持ち合わせていないんだ。連中は人間じゃない。人間なら、連中のような暮らしはしない。人間なら、あんなに汚くてみじめな生活を我慢できようはずもない。連中はゴリラとたいして変わらないよ」
(写真は上から、国立スタインベックセンター。『怒りの葡萄』にまつわる展示物。作家の生家は地元のボランティアが営む「非営利」のレストラン「スタインベック・ハウス」になっていた。昼抜きの私が無理して食べた約1300円の野菜たっぷりのランチ)
サリナスへ
- 2011-06-30 (Thu)
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ロサンゼルスで早くも1週間が過ぎた。日本と昼夜逆転したような時差にも体がようやく慣れてきた。そろそろ腰を上げる時が来た。目指すはサンフランシスコ。カリフォルニア州の地図を広げ、さてどうやって行くか考える。カリフォルニア州は日本を少し上回る面積があり、同じ州でも、博多から東京ぐらいの距離はありそうだ。いや、もっとあるかな。まあ、急ぐ旅でもないから、電車で行くことにする。
乗ったのはアムトラック(Amtrak)と呼ばれる全米旅客鉄道公社の電車。あまり期待せず、ロスの鉄道の表玄関ユニオンステーションに向かった。正直に書くと、駅構内でだいぶ戸惑った。自分が乗る電車がどのプラットフォームに着くか直前まで分からなかったからだ。電光掲示板でも案内がない。私のような不安を抱えた乗客は少なからずいたようで、「サンフランシスコ行きの電車はどこに行けばいいのか」と皆同じ質問を駅係員にしていた。
何とか無事に電車に乗り込み、指定の座席にたどり着いた。隣は中国人の若いビジネスマン。北米を旅行中とか。本でも読もうかと思っていたら、隣席に戻ってきた彼が、何やら嬉しそうに話しかけてくる。すぐ先に風景がよく見える車両がある、そこでゆっくりくつろげると言っている。え、本当?
行ってみると、確かに素晴らしい空間の車両だった。通路をはさんで側面が大きなガラス窓になっており、窓に向いた椅子がある。なるほど、これなら車窓を流れる風景を心行くまで楽しめる。しかも無料。日本の長距離列車でこんな贅沢な車両を私は知らない。さらに良かったのは、隣にやって来たアメリカ人の乗客と知り合い、打ち解けた話ができたことだ。座禅(Zen meditation)に詳しい60歳代のこの人は日本人の友人もいて日米の文化についていろいろ話をすることができた。
ロスを出てほどなく、砂漠地帯のような乾燥地帯に出た。「南カリフォルニアは昔は砂漠だったんですよ。植生も昔はなかったものが多くあります。あそこに見えるユーカリの木々はオーストラリアから持ってきたんですよ」と説明してくれた。「私はロスで生まれ育ったが、今はロスに住みたいとは思わない。ロスの生活は忙しすぎる。今住んでいるところはのどかなところです。機会があったらぜひ訪ねて来てください」
車中のアナウンスを聞いていて、サンフランシスコへの途中駅にサリナスがあることを知った。ジョン・スタインベックの生地だ。一旦サンフランシスコに行き、そこからサリナスに向かうつもりだった、急遽計画を変更、サリナスで途中下車することにした。
ロスを出たのが午前11時前で、サリナスで下車したのは午後7時ごろだが、時間を感じさせない快適な旅だった。ロス同様、サリナスも午後8時過ぎまで明るい。明日木曜から数日ここでノーベル文学賞も受賞した作家の足跡の一端をたどり、その代表作『怒りの葡萄』について考えることにしよう。
(写真は上から、車窓の風景を心行くまで楽しめた車両。車窓から見えた乾いた大地。途中から海岸沿いを走り、太平洋の浜辺がすぐ近くに見えた)
日系アメリカ人
- 2011-06-28 (Tue)
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ロサンゼルスにいるからにはやはり、日系アメリカ人が米本土に根ざす足場となった先人の歴史にも敬意の念を示さないといけないだろう。リトルトーキョーの一角に「全米日系人博物館」(Japanese American National Museum)がある。
米本土の地を踏んだ最初の日本人としては、最初に頭に浮かぶのはジョン万次郎だろうか。英語か社会の教科書でこの名前が出てきたような記憶がある。作家吉村昭氏のノンフィクション「アメリカ彦蔵」で描かれた浜田彦蔵もジョン万次郎に近い世代だ。二人ともに江戸時代、乗っていた船が難破してアメリカの地を踏むことになる。
全米日系博物館は明治維新期以来、日本人が移民としてアメリカを訪れた苦難の歴史を紹介している。1869年(明治2年)には維新の新政府に反発し、福島の会津若松からオランダ系米人に率いられ、約40人の武士や町人がカリフォルニア州に「若松コロニー」を創設するためやって来たことも初めて知った。米本土ではこれが最初の日本からの移民という。
カリフォルニア州はその後、ハワイの日系移民も加わり、1910年代には日系農民は35,000人を数えたという。彼らがいわゆる「一世」と称される人々だ。しかし州政府の日系に対する差別は段々と厳しくなり、1913年に排日土地所有禁止法案が成立し、一世の人々は土地を所有することができなくなり、「二世」の名義で土地を持つようになった。1941年12月の真珠湾攻撃により日米が開戦し、屈辱の強制収容が幕を開ける。
博物館の資料では、日系の人々が当時すでにアメリカを「祖国」と思い、アメリカに対する「忠誠心」は揺るぎのないものであるという米政府の内部調査報告にもかかわらず、米当局はカリフォルニア州を中心とする西海岸に居住していた約12万人の日系人を「敵性外国人」として約10か所の環境劣悪な強制収容所に送り込んだ。同じ「敵性外国人」のドイツ系やイタリア系からは程遠い措置だった。
博物館の資料を見ていると、当時のカリフォルニア州では日系のみならず、中国系、朝鮮系住民に対する強烈な差別がはびこっていたことが理解できる。もちろん、こうした外国人に対する蔑視、差別意識は日本を含め、どの国も歴史の過程で経験したものであり、アメリカ人だけのものでないのだが、複雑な心境にならざるを得ない。
展示資料に見入っていたら、第二次大戦時に「二世」兵士で構成される「第442連隊」の一員だったという日系のお年寄りが「日本の方ですか」と声をかけてきた。話をうかがっていると、そばに小柄な青年が近づいてきた。老人は「私の孫です。四世になります。私は91歳になり、車の運転が心配だからと、家の者が私の外出には孫に運転させているんです」と語った。この青年は日本語は解さないというので、英語で話した。30歳になるという青年は仕事を探している真っ最中で、私がこれから数か月、この国で文学の気ままな旅をするのだと告げると、”Oh, that’s cool.”と関心を示してくれた。
(写真は上が、リトルトーキョーにある全米日系人博物館。下が、ロス散策にも便利な路線バス。自転車もバス前方に乗せることができるのには感心した)
メジャー・リーグ
- 2011-06-26 (Sun)
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初回にバスケットゲームの観戦を書いて、3回目はメジャー・リーグ(MLB)と呼ばれる大リーグのことを書こうとしている。「名作の故郷を訪ねて」ではなくて、「米スポーツの本場を訪ねて」ではないかと言われそうだ。
そういう批判は承知の上で、今回は大リーグのことを。金曜日の夜、テレビのチャンネルをカチカチしていたら、地元ドジャースのゲームを中継していた。対戦相手は同じロスを地元とするエンジェルス。アナウンサーが「明日土曜のデーゲームはヒロキ・クロダが登板する」と言うではないか。黒田博樹投手が地元で投げるゲームを生で見ることができるのは間違いなくこれが最初で最後だろう。万難を排して行かなくては。
私はスポーツ観戦、その中でも特に野球が大好きだ。大リーグもしかり。デスクワークが主となった新聞社勤務時代には毎朝、パソコンでMLBのホームページをチェックし、日本人選手が属するチームのゲームをほぼリアルタイムで追っていた。日本にいる時は好きな選手ではなかったが、イチロー選手の活躍を願い、彼が活躍すると、そのゲームのサマリーを楽しみながら読んだ。日本語の新聞やテレビでは伝わらない部分だ。
アメリカでは野球が一つの文化になっていると思う。英語表現の中に野球から生まれた語彙も少なくない。clutch hitter (クラッチヒッター)と言えば、ここぞという時に適時打を放つ好打者のことだが、職場や仲間内で頼りになる人もこう呼ばれている。
前置きが長くなった。絶好の好天に恵まれたドジャー・スタジアム。切符売り場で一番安い席を求めたら、最上段3階の席を売ってくれた。15ドル(約1250円)。駐車場をぐるっと回って、階段を随分登らされてようやく最上段へ。素晴らしい見晴らしだった。土曜日だし、ビールを飲んでも罰は当たらないだろう。売店で生ビール(8ドル)を注文したら、なかなか出てこない。「頂戴」とせがんだら、おばちゃんは「ちょっと待って、今、国歌を歌っているから」と言い、はるか下のグラウンドで女性歌手が歌っていた国歌に合わせ、しばし口ずさんでいた。
7回にもあの”God Bless America”の斉唱が行われたが、観客は一斉に立ち上がり、老若男女、風にそよぐ星条旗を見やりながら、大きな声で歌っていた。いつも思うのだが、何の気負いもなく、国歌やそれに準じた歌を元気よく歌える彼らの幸せ、純朴さ・・・。
肝心のゲームの方は黒田投手の力投を相手投手が上回る好投を見せ、ドジャースは敗れ、黒田投手は敗戦投手となった。残念。ただ、5回を投げ切り、相手チームに与えた点は2点であり、ぎりぎり、quality startであったと言えるだろう。大リーグでは先発投手が6回前後を3点以下で抑えれば、こう呼ぶようだ。最近ではプロ野球の解説でも「今日の○○投手はクオリティ・スタートでした」と表現し始めている。
アメリカの野球は文化だということまで書きたかったのだが、それはまたこの次。
(写真は上が、ドジャー・スタジアム。何度でも行きたくなる美しい球場だった。下が、ゲームが終わり、満足した表情で球場を後にするファン)
リトルトーキョー
- 2011-06-25 (Sat)
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日本は早くも猛暑のようだが、ここロサンゼルスは心地よい日々が続いている。日中の日差しは強くはあるが、空気が乾いているからか、そう蒸すことはない。
ホテルからダウンタウンの中心部に何度か歩いたが、どうも、心が弾むという感じではない。着いたばかりでよく分からない部分があるが、ロンドンのようにウインドー・ショッピングを楽しむという街並みではない。
通りをはさんでヒスパニック系の男性二人が激しく罵り合う場面にも出くわした。仲違いの原因など知る由もないが、ここで紹介するのもはばかられる、いわゆるフォー・レター・ワード(卑猥な言葉)を双方とも小気味よく連発して罵り合っていた。お互いによく手を出さないものだなと逆に感心させられた。
そう言えば、カリフォルニア州は中南米出身のヒスパニック系の住民の増加が目覚ましく、やがて米国全体でも彼らが黒人を上回り、最大のマイノリティー(少数派)になるという新聞記事をずっと昔に読んだ記憶がある。もうそうなっているのかもしれない。
ダウンタウンの外れにリトルトーキョーがある。ホテルのフロントで聞いたら、路線バスに乗れば35セントで行けるとのこと。日本円なら、約30円の安さだ。
リトルトーキョーはなるほど、日本食レストランやカフェ、日本の商品を並べた土産物店が軒を連ねており、胃袋に関する限り、日本が恋しくなることはないのでないかと思われた。朝食を食べ損ねていたので一軒の店に入り、下ろしそばを食した。6ドル70セント(約560円)。及第点。(後日他店で食べたキムチラーメンは9ポンド60セント=約800円で、麺が茹で過ぎで今一つだったが、他のお客はうまそうに食べていたので、ここの人々の好みに合っているのかもしれない)
リトルトーキョーの一角の小さな広場で佇む年配の日本人らしき人々の姿を見かけた。近づいていくと、向こうから「ご旅行ですか」と丁寧に声をかけていただいた。「二世の方ですか」と尋ねると、「いや、二世ではありません。でも、渡米してからもう40年になりますから、ここが終の棲家のようなものですが」と語る。
「それじゃ、ここは暮らしやすいんですね」
「そうね。そういうことになるかな。まあ、気候に関しては、ロスほどいいところはアメリカ中を探したってないでしょうね。冬の寒さはしれてるし、真夏だって、クーラーが欲しいと思うのはあってもせいぜい一週間程度です」とのこと。日本に帰ることは考えていないという。「だって、帰ったって、私らは浦島太郎でしょ」
「ここに来ると、みんなに会える。みんないい年だから、しばらく顔が見えないと、亡くなったということなんですよ」とも。70歳代半ばと思われるこの方は私とのおしゃべりの前には一人で、広場の壁に軟球を投げグラブにおさめる懐かしい一人キャッチボールに興じていた。きっと昔は野球少年だったのだろう。
(写真は、日系だけでなく、多くのアメリカ人、観光客の憩いの場のリトルトーキョー)
ロス到着
- 2011-06-23 (Thu)
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成田空港を飛び立ち、約9時間、目指すロサンゼルス空港に到着した。飛行中大きく揺れることもなく、まずは平穏な旅立ちとなった。空港での入国審査は長蛇の列で順番がやって来るのに1時間ほどかかったが、係官とのやり取りで向こう半年間の滞在許可を得た。
空港の外に出て、予約したホテルに連れて行ってくれるシャトルバスへ。ホテルのセールスマネージャー女史からメールで「タクシーだと60ドル、シャトルバスだと17ドル」と教えられていたので、迷うことなくシャトルバスを選択した。
チェックインしたのはダウンタウンにあるホテル。ホテル名にヒストリックという形容詞が付いており、確かに真新しいホテルでないことは着いてすぐに分かった。税込で一泊57ドル(約4700円)。ダウンタウンといっても、近くに感じのいいカフェがあるわけではなく、あまり歩いている人も見かけない。
初めての都市に来て、最初にするのは、自分がその町のどの辺り、どんなところにいるのか認識することだ。それで、時差もあり、飛行機の中でほとんど眠れなかったこともあり、疲労感がないわけではないが、ホテルの周囲を散策した。
平日火曜日の午後5時過ぎ。日本なら仕事が終わって、町が忙しくなる時だ。どうも、そんな感じではない。本当のダウンタウンは別のところにあるのだろう。歩いているうちに、ホテルやコンベンションセンターのビルが立つ一角に出た。バスケットチームのものらしきTシャツを着た人たちが多い。聞くと、今夜は地元の女子プロチームのゲームがあるのだという。バスケットはあまり興味がないが、これも何かの縁、7ドル50セント(約620円)払ってステイプルズ・センターと呼ばれる屋内競技場へ。
いや、これがなかなか楽しかった。客席の上部は空席もあり、決して大入りというわけではないが、地元のロサンゼルス・スパークスへの熱狂的な声援が送られる。素人目にも各選手のレベルの高さが分かる。3ポイントシュートも面白いほど決まる。タイムアウトではコートの真上にあるテレビ画面でスタンドのファンが大きく映し出され、そのたびに歓声が沸き起こり、カメラに捉えられたファンは狂喜乱舞のダンスでさらに歓声がヒートアップする。バスケットだからか黒人の観客が多い印象を受けた。
隣に陣取った中年の黒人女性はスパークスが守勢に回ると、しきりに大声で「キーパッ」と叫ぶ。タイムアウトの時に、何と叫んでいるのか尋ねると、「ディフエンス」(defense)と言っているのだと説明してくれた。「守れ!」と叫んでいるのだ。私の耳には以後も「キーパッ」としか聞こえなかったが。客席で食べたハンバーガー、チップスにコークもまずまずだった。締めて11ドル25セント(約930円)。
(成田空港での両替では1ドル=82.89円だったので、この旅ではこれからは1ドル=83円で計算します)
(写真は、飛び込んだ女子プロバスケットのゲーム。レベルの高いプレーを満喫した)
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