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アメリカをさるく

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ウイリアム・サロイヤン(William Saroyan)①

 サロイヤンは日本でどれだけ「知名度」があるのだろうか。私自身は今回の旅を企図するまで名前さえ知らなかった。学生時代の恩師の一人からその名を聞かされて、図書館に走り、急いでその代表作”The Human Comedy”(邦訳『人間劇場』)を読んだ。アメリカでも著名な作家としてその名を広く知られているわけではないようだ。カリフォルニアに着いてからも、いや、生地のフレズノに来ても、「サロイヤン、いや知らないね。読んだこともない」と幾度となく聞かされた。
 サリナスではスタインベックセンターがあったが、フレズノではそうした施設はない。とりあえず、地元のフレズノ・カウンティ図書館に足を運ぶ。ここにサロイヤンに詳しい館員がいると聞いていたからだ。ビル・シークレスト氏。
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 「サロイヤンは1930年代、40年代にはビッグネームでした。当時はハリウッドでも彼の作品が同時に3作かかっていることがあったほど。それが、第二次大戦後、段々と人々の受けが良くなくなり、人気が衰えていきました。81年に死去した後はさっぱりといった状況と言えますね。あなたのように私のところにサロイヤンのことを聞きにくる人も年に2人か3人ほどですね。驚きでしょ。あれほどの作品を残しているのにね」とシークレスト氏は嘆いた。
 サロイヤンは1908年、カリフォルニアのセントラルバレーに位置するフレズノにアルメニア出身の移民の家庭の末子として誕生する。父親が若死にしたため、一時は孤児院に入れられるなど孤独な幼年時代を送る。再び母親の元に引き取られるが、第8学年を終了する前に学校を退学し、新聞配達や電報会社の配達員の仕事に従事する。この時の経験が代表作『人間喜劇』に生かされる。
 物語は1940年代初め、第二次大戦の真っただ中、カリフォルニア州の架空の町イサカが舞台となっている。アルメニア系移民のマコーレイ一家の父親はすでに病没、物静かで洞察力に富んだ母親の庇護のもと4人の子供たちが暮らしている。長男のマーカスは出征しており、電報配達で一家を経済的に支えているのは弱冠14歳の二男のホーマー。彼には姉のベスとまだ4歳の幼子の弟ユリシーズがいる。この一家がつましくしかし前向きに生きる姿が淡々かつ力強い筆致で描かれている。
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 私が読んだ原書の扉閉じには以下の紹介文が書かれていた。”This novel about the home front conveys the gentle modesty and simple virtues of ordinary human beings. It is both a commonplace story and a very great achievement.” (銃後の家族を描いたこの小説は普通の人間の穏やかな慎み深さや質素な美徳が書かれている。これはどこにでもある物語であり、同時にとても素晴らしい偉業のお話でもある)
 (写真は、フレズノ・カウンティ図書館でサロイヤンにまつわる本が並べられた書棚を示すシークレスト氏。わずか二段のコーナーだった。毎日早朝から夜半まで嫌になるほど暑い。日中は楽に摂氏37度以上はありそうだ。街頭の売店で冷たいものを買い、渇きを癒した)

フレズノへ

 フレズノに向かう。ウイリアム・サロイヤンという作家の生地だ。同じカリフォルニア州だが、内陸部に位置するため、暑いらしい。皆から「すごく暑いよ」と警告された。ただ、湿気はないらしい。日本の猛暑に慣れた身には「お茶の子さいさい」だろう。
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 例によって、車窓からアメリカを眺めるため、アムトラックの列車に乗る。サンフランシスコのフェリービルディングと呼ばれるバス乗り場までは宿のご夫婦が送ってくれた。エメリービルと呼ばれる対岸の駅まではバスで行くからだ。この日もサンフランシスコは気持ちのいい天候だ。岸壁に近いカフェレストランはランチをする人で賑わっている。ジョギングしている人もいる。
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 エメリービルでフレズノ行きの列車に乗る。どうもまだよく分からないのだが、このアムトラックの列車は切符さえあれば、どこに座ってもいいようだ。バスも含めて32ドル(約2700円)の切符は予約していていた。スーツケースを荷物棚に乗せ、車掌らしき人に改めて尋ねると、どこに座ってもいいとのたまう。ただ、車両は二階建てであり、一階席は体の不自由な人とか高齢者のためだから、二階席が望ましいとのこと。喜んで二階席に行く。残念ながら、今回は眺望の素晴らしヴューイングカーはなかった。
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 エメリービルを出たのが「定刻」10分遅れの午後1時25分ごろ。フレズノに到着したのが、「定刻」6分前の午後5時10分。バスで出たサンフランシスコからフレズノまで300キロ以上はあると思われる区間が32ドルで済むのだから「安い」と言えよう。今回も二人掛けの席にゆったり一人で座り、車窓の景色を楽しむことができた。
 そして、フレズノ。プラットホームに降り立った途端、口をついて出た言葉は「あ、暑い」。確かに湿気はそうないが、それでも暑い。ホテルは駅からはそう遠くないことは聞いていたが、荷物があるから、タクシーを探す。きょろきょろしていると、自転車に乗った男性が自転車を止め、声をかけて来る。
 “Excuse me, sir. But if you don’t mind, I have something to ask….”
 “What?”
 “I have just got out of a jail. And I’ve been.…”
 “Oh, sorry. I’ve just arrived here. Don’t know anything yet….”
ざっと上記のようなやり取りがあった。これ以上、男性の話を聞いていると、「刑務所から出てきたばかりでお金に困っている。少し恵んでもらえないだろうか」という展開になるのは目に見えている。断ると、男性は再び自転車にまたがり、あっけなく立ち去った。
やっと見つけたタクシーに乗り込む。おお、冷房が効いている。「運転手さん、やっぱ、ここだとエアコン要るよね」「あたぼうよ。エアコンなかったら、商売になんねえぜ、お客さん」。彼が江戸っ子だったら、こんな調子だろうという言葉が返ってきた。
 (写真は上から、フェリービルディングの大通りに面したカフェ。アムトラックの列車。こんな海岸沿いぴったりの線路を走ることも)

サンフランシスコ

 サリナスを去り、今、サンフランシスコにいる。聞いていた通り、風情のあるいい町だ。ダウンタウンは私のような観光客がたくさんいて、デジカメを手に名物のケーブルカーや通りの写真を撮っている。私も喜んで仲間に加わる。
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 町のいたるところにSushi(寿司)とかTeriyaki(照り焼き)とかいったレストランの案内表示が見える。外国の旅ではできるだけ日本食レストランには足を向けないようにしているが、時に気持ちがぐらつく。回転寿司の店があった。ああ、もう駄目!ふらふらと店内に。少しつまんだところであまり旨いとは言えないなと思うが、すでに遅し。胃袋がある程度一杯になり、お勘定。ビールの小瓶1本含めて25ドル(約2100円)。「消化不良」の気分で店を出る。ハンバーガーにでもすれば良かった!
 縁があって投宿したのは、日本人女性がやっている「すずめのおやど」という小さな気持ちのいいイン。日本人泊り客の人が「明日は松井とイチローが出る試合がある」と話しているのを小耳にはさみ、「おお、それなら、観戦に行かないわけにはいかない」と思う。
 サンフランシスコから地下鉄で隣のオークランドへ。オークランド・アスレチックスが同じアメリカン・リーグ西地区に属するシアトル・マリナーズを迎えての一戦。早めに球場に足を運んだら、何とチケット売り場一番乗りだった。例によって一番安いチケットを欲しいと告げたら、売り場の若者が30ドル(約2500円)も出せばいい席があるよと言うではないか。「じゃ、それ頂戴」。
 球場に入って驚いた。一塁側の内野に近い外野最前席!ピッチャーの投球練習がすぐ目の前で見れる!高校野球を含めてもこんな「特等席」に座ったことはない。ヤッホー!
 松井、イチローとあって、日本からの観光客も多かった。試合開始前、練習を見ていて、球場整理員の私より年配かなという男性と話が弾んだ。「マツイはいい選手だ。人柄もいい。ここでも人気があるよ」「それはうれしい。私もどちらかというと、今日はマツイを応援に来た」などと。私が「日本ではファールボールは係員が回収に来る」と言うと、彼は「それはお気の毒。いい思い出になるのに」と応じた。
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 試合途中のこと。声をかけられたので、振り向く。先ほどの球場整理員が可愛い少女を連れて立っている。「この子がファールボールを拾った。あなたにあげると言っている」「え、いや、そんなこと、いいですよ。でも、なぜ?」「この子はよくここに来るんだ。あなたの話をしたら、拾ったボールをあげたい、と言ってるから」「あ、でも、悪いなあ。それじゃ、ありがたく頂くかな。ちょっと待って。バッグに日本から持ってきたキャンディーがある。開封したけど、まだだいぶ残っている。これ、お礼。食べてね」といった会話をしてボールをもらった。ハナという名前の少女だった。日系のハーフだったかもしれない。
 サンフランシスコはいい町だ。上記のエピソードは隣のオークランドだが。
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 (写真は上から、サンフランシスコの町。涼しく散策も快適。少女が私にくれたボール。隣に座った日系の親子5人の観客。可愛い子供たち3人は食べるのに夢中だった)

ジョン・スタインベック(John Steinbeck)⑤

 今、アメリカを旅する途にあるが、実はこれを企図するきっかけになったのはスタインベックのもう一冊の作品を読んだことによる。”Travels With Charley in Search of America” (1962)という紀行本。『チャーリーとの旅』という翻訳本もあるようだ。
 福岡市の書店で偶然手にして一気に読んだ。冒頭の文章を読むと、作家58歳の時に生来の旅心を抑え切れず、旅に出ることにしたと述べられている。彼は汽笛を聞いただけでそわそわする性分だったという。作家は述べている。We do not take a trip; a trip takes us.(我々が旅をするわけではない。旅が我々を連れていくのだ)。至言だと思う。
 作家は更にこうも記している。「私は長年、世界各地を旅してきた。アメリカではニューヨークに住み、時にシカゴやサンフランシスコに足を運んでいる。しかし、パリがフランスの、ロンドンがイングランドのすべてでないように、ニューヨークがアメリカを代表しているわけではない。このように考えると、私は私自身の国のことを知らないことに思い至った。私はアメリカ人の作家であり、アメリカについて書いてきたが、実のところ、記憶に基づいて仕事をしてきたのであり、記憶というものは良くて欠陥があり、歪んだ蓄積に他ならない」(For many years I have traveled in many parts of the world. In America I live in New York, or dip into Chicago or San Francisco. But New York is no more America than Paris is France or London is England. Thus I discovered that I did not know my own country. I, an American writer, writing about America, was working from memory, and the memory is at best a faulty, warpy reservoir.)null
  かくして、スタインベックはニューヨークから特別仕立てのキャンピングカーを自ら運転して約4か月のアメリカの旅に出る。お供は愛犬のフレンチプードルのチャーリーだけ。
 私の印象に残るのは、かつての奴隷制度により、この国の白人社会がずっと抱え続けている”inherited guilt”(宿罪)について彼が考察する部分だ。黒人が皆無に近かったサリナスで生まれた作家は、特段、黒人社会との密接な関係を持たずに育つ。だから、彼はアメリカの「原罪」(original sin)がもたらす「苦悩」(agony)を「心から感情を伴って理解すること」(real and emotional understanding)ができないと「告白」している。
 旅の最終段階で彼はニューオーリンズに立ち寄り、白人の醜悪な人種差別の示威行動に出くわす。白人の子供たちが通う学校に通い始めた黒人の子供たちに、一部の白人の母親たちが毎朝夕、学校の門へ押し寄せ、侮蔑の言葉を浴びせる。その瞬間、旅情は吹き飛んでしまう。その後、車に乗せた白人の青年が口にする黒人蔑視の考えに辟易して、彼は青年を追い出す。追い出された青年がスタインベックに対し、”Nigger-lover, nigger-lover, nigger-lover”と口汚く罵るシーンは目に浮かぶようである。
 さて、私の旅は始まったばかりである。果たしてこの先、どうなるのやら。
 (写真は、国立スタインベックセンターに展示されている、作家が旅したキャンピングカー。セルバンテスの名作『ドン・キホーテ』から作家は「ロシナンテ」と命名した)

ジョン・スタインベック(John Steinbeck)④

 『怒りの葡萄』の舞台になったのは、サリナスバレーを始めとしたカリフォルニア州の肥沃な農業地帯だ。今ここを地元の人々は”salad bowl of the world”(世界のサラダボール)と自慢する。「西海岸」とか「アメリカ」ではなく、「世界」と表現するところが、さすが米国と言えようか。
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 そうした農場で汗を流して働いているのは、南の隣国、メキシコからやって来た人々だ。不法移民も多い。雇う白人農園主も当局も承知の上だ。先に、サリナスの人口約15万人のうち73%がヒスパニック系で、大半はメキシコからの移民と見られると書いたが、ヒスパニックコミュニティーのスーパーに行くと、メキシコに来た感覚に陥る。
 必然的に彼らは地元の白人社会からは複雑な目で見られている。一つには、犯罪、麻薬の問題があるからだ。のどかなオールドタウンのダウンタウンにいる限り分からないが、サリナスはアメリカでも有数のメキシコ系ギャングの巣窟となっている。対立するギャングの銃撃事件が絶えず、高校も事件の舞台になっている。私が滞在したわずか数日の間にも、メキシコ系の22歳の若者が未明に銃撃され死亡、地元新聞は「ギャング抗争に起因する事件」と報じていた。
 ヒスパニックコミュニティーでも若者グループのギャング抗争には心を痛めている。教師歴33年で最近退職し、サリナスのヒスパニックコミュニティーの指導的立場にあるフランシスコ・エストラダさん(56)に話を聞く機会があった。エストラダさんは「圧倒的大多数のメキシコ系アメリカ人は明日の暮らしが良くなるよう祈って、一生懸命働いている。ごく少数の不埒な連中が事件を起こし、残念にも我々のイメージを悪くしているのです」と語った。
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 ギャングに加わる若者の問題は、エストラダさんによると「アイデンティティーの喪失」だという。「私は5歳の時、両親に連れられて来た。2部屋の小さな家に13人が住んでいた。貧しかったが、家の中にrestroom(トイレ)がある暮らしが信じられなかった。私はスペイン語が話せるという理由で、同じようなメキシコ系の子供たちから狙われた。父親は自分がメキシコ人であるということに大いなる誇りを抱いていた。私もその誇りを受け継いだ。犯罪に走る若者は自分たちが誰であるか知らない、メキシコの言葉も文化も知らない。だから、メキシコ出身であることにプライドも持てないのです」
 サリナスがあるのはモンテレイ郡。エストラダさんはこの秋に選挙が行われるモンテレイ郡の教育委員会に立候補する予定だ。「地域住民の95%がヒスパニック系であっても、その地域のヒスパニック系の委員はゼロというのが実情です。私は教育委員となって、ヒスパニック系社会のためにこれまで培った教師としての経験を生かしたい」
 (写真は上が、サリナスで見られる広大な農場。メキシコ系の人々がセロリを収穫していたので写真を撮らせてもらった。ヒスパニック系社会の地位向上に貢献したいと意欲を語るエストラダさん。子供が3人に孫が1人)

ジョン・スタインベック(John Steinbeck)③

 スタインベックの作品は『怒りの葡萄』を始め、多くが日本語に翻訳されているようだ。国立スタインベックセンターの地下の資料室にも日本語の翻訳本が多数保管してあった。
 資料室で資料の整理、記録の仕事をボランティアで手がけていたハーブ・ベレンスさん(83)に話を聞いた。訪れた日は奥さんのロビーさんも隣で録音テープの文書化の作業に当たっていた。私の素朴な質問に「私は専門の学者ではありません。そこのところはご理解ください」と笑顔をたたえながら答えてくれた。
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 「スタインベックはアメリカ文学の中でどのような位置にいるのでしょうか?」
 「東海岸ではそうは読まれていないようです。批評家の中には彼が『怒りの葡萄』以外に手ごたえのある作品を残していないとか、regional(リージョナル、地方の)な作家であるとかと言って軽んじる向きもあるようです。でも、彼が20世紀の偉大な米作家の一人であることは疑う余地のないことです」
 「彼の作品は現在のアメリカでどんな意義があるのでしょうか」
 「ここには多くの読者から問い合わせのイーメールが届いており、彼の作品が今も共感を得ていることは間違いありません。『怒りの葡萄』が描いた1930年代の経済状況と現在の不況が似ており、彼の作品がより身近に感じられているという指摘もあります」
 私が『怒りの葡萄』で引かれたのは、作中主要人物のMaと呼ばれる母親だ。一家の柱はPaと呼ばれる父親なのだが、飢餓に見舞われた非常事態では、Maが大黒柱となり、一家離散の危機に瀕した一家の崩壊を封じ込める。実に「生活感」あふれるたくましい女性だ。避難した先で仕事も食べ物もなく、先が見えない疲労困憊の父親が嘆く。「どうやら俺たちの人生は終わったみてえだな」と。(“Seems like our life’s over an’ done.”) 
 これに対し、Maは微笑みすら浮かべてそんな弱気を一蹴する。「いや、そんなこたないよ。まったくない。お前さん、女には分かるんだよ。これも男との違いの一つだよ。いいかい、よくお聞き。男は役立たずだよ。男はおぎゃあと生まれてそして、老いてくたばる。それこそ役立たずだ。農園を手に入れて、それを手放す。それも役立たずだ。女は違う。あたいたちは延々と続くんだよ。せせらぎのように、渦巻きのように、滝のように。そいでもってあたいたちは川になるんだよ。いつまでも流れが絶えない。女はそんなふうに物事を考えるんだよ。あたいたちは死に絶えなんかしないよ。人はずっと生きていくんだよ。多少変化はするかもしれない、多分ね、でも、ずっと続いていくんだよ」
 “No, it ain’t,” Ma smiled. “It ain’t, Pa. An’ that’s one more thing a woman knows. I noticed that. Man, he lives in jerks–baby born an’ a man dies, an’ that’s a jerk—gets a farm an’ loses his farm, an’ that’s a jerk. Woman, it’s all one flow, like a stream, little eddies, little waterfalls, but the river, it goes right on. Woman looks at it like that. We ain’t gonna die out. People is goin’ on—changin’ a little, maybe, but goin’ right on.” 
 (写真は、センターで資料整理の合間、応対してくれたハーブさん、ロビーさん夫妻)

ジョン・スタインベック(John Steinbeck)②

 『怒りの葡萄』が如実に示したのは、世界大恐慌が米国のダストボール(dust bowl)と呼ばれたオクラホマやアーカンソー、カンザス州など中南部の砂嵐の甚大な被害を受けた乾燥平原地帯に住む農民にもたらした苦悩だ。それとともに、彼らが最後の望みを託してやってきたカリフォルニア州がもはや「約束の地」(a Promised Land)ではないこと、そうした神話は崩壊したものであることを示したとも言えるだろう。
 小説が当時のカリフォルニア住民の同胞に対する冷酷な仕打ちを描いているゆえ、スタインベックはカリフォルニアの多くの人々から疎まれ、小説自体も発禁処分を受けたり、州内の多くの図書館の前で焼かれるなどしたという。しかし、スタインベックが1962年にはノーベル文学賞を受賞するなどの名声を得たことや、68年の死去後、時代が推移したこともあり、評価は徐々に好転。サリナスの主要観光名所の一つとなっている国立スタインベックセンターがそれを象徴する。私が泊まっているホテルの前はジョン・ストリートという通りだが、これも作家のファースト・ネームを冠しているのだろう。
 カリフォルニア州は日本を含めたアジアや中南米から多くの移民を吸収し、成長してきた。サリナスもしかりだ。国立スタインベックセンターに展示されている資料の中に、作家が少年時代を振り返った次の一節がある。
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 “I remember Salinas best when it had a population of between four and five thousand. Then you could walk down Main Street and speak to everyone you met.”(私の一番いいサリナスの思い出は、町の人口が4千人から5千人の間だったころのことだ。そのころはメインストリートを歩けば、言葉を掛け合わない人など誰もいなかったものだ)
 現在のサリナスではそうはいかないだろう。スタインベック図書館に立ち寄り、サリナスの人口を尋ねたところ、昨年の国勢調査の数字を教えてくれた。それによると、サリナスの人口は現在約15万人。このうちの73%がヒスパニック系という。メキシコからの移民が多いことがこの数字からも分かる。町を歩いていてもヒスパニック系の人々を数多く見かけた。黒人は3%に満たない結果が出ており、ロサンゼルスの通りに比べれば黒人の姿を見かけることは格段に少なかった。
 町自体は高層のビルは皆無に近く、二三階建ての建物ばかりで平面的な印象の町だ。とても15万人の都市とは思えない。郊外に住宅街が広がっているからだ。オールド・タウンとも称されるサリナスのダウンタウンを歩いたが、道行く人は少なかった。
 少年スタインベックが闊歩した上記のメインストリートでカフェを営むジム・ライリーさんは「サリナスは郊外に大きなモールがあって、大多数の住民はほとんどこのダウンタウンにはやってこない。私の両親は生前のスタインベックをよく知っているが、彼が育った時はこのメインストリートが町のすべてとも言える存在だった」と説明してくれた。今、メインストリートをかつての賑わいに戻すべく商店街の有志で打開策を協議しているところだという。
 (写真は、サリナスのダウンタウンのメインストリート。いつも閑散としていた)

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