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アメリカをさるく
リンカーンも暑い
- 2011-07-18 (Mon)
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九州に大きい台風が向かっているようだ。猛威をふるわないことを祈る。
アメリカは連日、全土で猛暑が続いている。ここリンカーンも暑い。日本の猛暑を上回るかと思う。新聞やテレビでは華氏で表現しているので、ぴんとこないのだが、摂氏に直すと毎日、毎日35度を超す高温だ。日本のようにサウナに入ったような感じではないが、それでも暑い。夜半になっても町中がほてっている。リンカーンはバスの便が絶望的で、車を運転しない私はホテルからダウンタウンまで歩くしかない。時間にして40分ほど。いや、汗びっしょりになる。地下鉄やバスの便がいい大都市ならともかく、アメリカの地方都市に来ると、この国が車社会であることを実感する。そのうちにレンタカーをしなくてはならないだろうかと思うと気が重い。車の通行が日本と反対だし、私はあまり車の運転には自信がない。
本日は日曜。少し、疲れたので、今日は少しホテルにこもり、テレビを見ようかと考えている。全英オープン(ゴルフ)の最終日だし、女子サッカーのワールドカップ決勝もある。私は女子サッカーはこれまで全然興味がなかった。ゲームをテレビでまともに見たこともなかった。しかし、先日、アメリカとブラジルの準々決勝を見て、いや、その息詰まる熱戦に魅了された。テレビのアナウンサーがしきりに、これでアメリカは「セマイ・ファイナル」進出だと強調する。決勝へは「狭い」道のりが待っているのだろうとは考えなかったが、はて、なんで、「セミ・ファイナル」と言わないのだろうと不思議に思って電子辞書で調べると、米国西部ではsemiは「セマイ」とも発音すると書いてある。なるほど。
私がいるリンカーンでは大騒ぎにはなっていないが、テレビや新聞の報道を見る限り、米国チームの活躍は米国内で大きな反響を呼んでいるようだ。「これで米国民がサッカーと恋に落ちないのであったら、もはやこの国でサッカーに望みはない」と書いた新聞もあった。アメリカで人気のあるスポーツはフットボール(アメフト)、バスケットボール、ベースボールだろうか。サッカーは後塵を拝している。
米国で唯一の全国紙「USAツデー」は17日の紙面で”Bend it like the USA women”(女子サッカーの米国代表を範とせよ)と題した論説を掲載していた。論説はサッカーが男子であれ、女子であれ、人気は上記のスポーツに比べ、今一つであることに触れた上で、今回の米国代表の強さと魅力について考察。種目は問わず、男子のスポーツがスタンドプレーや自己中心的なプレーが目立つ一面があるのは否定できないのに対し、米国の女子代表にはそうした醜さはないとして、チームが一丸となった団結力を称賛している。”Watching this team isn’t just entertainment. It’s a lesson in success.”(このチームのゲームを見るのは単なる娯楽ではない。何事であれ、成功するなら、こうあれという教訓を学べる)と。
(写真は上から、毎週土曜の朝にリンカーンのダウンタウンで開かれる朝市。農産物から食品、装飾品まで様々な品を求める多くの人たちで賑わう。コーンの産地だけあって、出来立てのポップコーンは歯応えがあり美味だった)
リンカーンへ
- 2011-07-16 (Sat)
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フレズノを出て、ネブラスカ州の州都リンカーンに来た。日本との時差は16時間から14時間に縮小した。ニューヨークがある東海岸との時差は1時間。
ネブラスカ州と周辺の諸州はグレートプレーンズと呼ばれる大平原地帯だ。大抵の米国民にとってはその上空を一気に飛行機で通過してしまうことが多いので、時に”flyover country”と揶揄される、米国のど真ん中に位置する地方でもある。
フレズノをアムトラックの列車で出たのが13日の午前7時。カリフォルニア州の州都サクラメントからカリフォルニアゼファーと呼ばれる大陸横断の列車に乗り込んだ。レールの点検中の区間もあったため、44時間余の長旅を経て、リンカーンに15日午前7時半ごろ到着。リクライニングシートとは言え、車中泊が2夜、こんなに長く列車に乗ったのは初めてのことだった。不運にもすぐそばに凄いいびきの乗客がいたりして、睡眠不足は否めない旅とはなったが、晴れやかな気持ちでリンカーンのホテルに投宿した。
一つには、シエラネバダ山脈やロッキー山脈の素晴らしい景観を楽しむことができたことがある。もう一つは旅は道連れというか、ラウンジカーと呼ばれる景観を楽しむことのできる場で少なからぬ乗客と気持ちのいいやり取りがあったからだ。
特に、隣同士となった女性客3人とはすっかり打ち解けて話ができた。アムトラックの電車は指定席はないようで、切符さえあれば、どこにでも座れる。相席を余儀なくされ、車掌の指示で空いていた席に腰を落ち着けたら、右隣の私より少し年上かなと思われる女性が「どちらまで?」。「ネブラスカのリンカーンまで」と答えると、通路をはさんで左の席に座ろうとしていた二十代の女性とその母親が口をそろえて、「あら、リンカーンなんてコーン畑だけで何にもないわよ。なんでリンカーンに行くんですか」。これが口火となり、母娘がユタ州のソルトレークシティで下車するまで、話に花が咲いた。
圧巻はロッキー山脈のGore Canyon(ゴア・キャニオン)と呼ばれる渓谷だった。ラウンジカーではコロラド州から国立公園のボランティアのガイドが乗車して、この路線の歴史や停車駅(町)の魅力などを説明してくれた。「これから皆さんがご覧になる景観はコロラド州へ来る観光客の2%しか目にすることのない貴重なものです」との由。これだけで乗車した価値があるというものだ。列車は段々と傾斜を上がり、最高部の渓谷では優に2700メートルを超える高度を走る。眼下にはこれだけの高さなのに水量豊かなコロラド川。ロッキー山脈を南北に走る分水嶺のcontinental divide(コンティネンタル・ディバイド)を過ぎると、確かにそれまで太平洋側だった川の流れが大西洋側になっていた。
驚いたのは、これだけの高度の山岳にもかかわらず、時に緑豊かな沼地があり、線路沿いには結構人家があったことだ。ごく陳腐な感想になるが、アメリカは広い、自然も暮らしも豊かな国だということを実感した旅だった。
(写真は上から、ロッキー川沿いの雰囲気のいい町。ダイニングカーで夕食。ユタ州の母娘とは仲良しになった。線路沿いまで迫っていたゴア・キャニオンの景観)
ウイリアム・サロイヤン(William Saroyan)⑤
- 2011-07-13 (Wed)
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サロイヤンは1930-40年代にはアメリカでは知らない人はいないような有名な作家だった。当時はSaroyanesqueという表現もあったという。彼の作品が想起させる「子供のような優しさ」「人恋しさ」「無邪気さ」などを意味する形容詞だ。
しかし、第二次大戦後、「彼の作品が醸し出す肯定的側面がその後のアメリカの内向き志向とそりが合わなくなった」(シークレスト氏)のか、人気は段々と衰えていく。彼自身は自分の才能に揺るぎのない自信を抱き続け、かつての栄光をずっと追い続けた。実生活では、同じ女性と二度結婚するが、最終的に離婚。2人の子供の父親ともなるが、晩年は子供たちとも疎遠になり、幸せな老後を送ったとは言えなかったようだ。
同じカリフォルニア出身のスタインベックとも顔見知りではあったようだが、10歳ほど年長のヘミングウエイとの確執が興味深い。第二次大戦で兵役に服し、送られたパリではお互いの取り巻きがホテルで派手な大立ち回りを演じたこともあった。それは、ヘミングウエイが発した次の一言が原因だったと言われる。“Well, for God’s sake, what’s that lousy Armenian son-of-a-bitch doing here” (「ところで、一体全体、なんであの胸糞の悪いアルメニア野郎がここにいるんだ」)
こういう関係になるのは、それなりの原因があるからで、それはサロイヤンがかつて文豪の作品の一つを次のように評したからだ。”Even when Hemingway is a fool, he is at least an accurate fool. He tells you what actually takes place and he doesn’t allow the speed of an occurrence to make his exposition of it hasty. This is a lot.” (ヘミングウエイは愚か者だが、そういう時でも彼は少なくとも正確な愚か者だ。彼は出来事を順序よく伝え、スピードに圧倒されて説明を急ぎ過ぎることもない。なかなか出来ることではない)
サロイヤンはこの論評がヘミングウエイの不興を買ったことを知り、謝罪の手紙を出すが、怒りの治まらないヘミングウエイは次のようにサロイヤンに述べる。
“Listen, Mr. Saroyan, maybe I’m a little drunk but this is all right.…You are bright. So don’t get sore. But you’re not that bright. You don’t know what you’re up against. You’ve only got one new trick and that is that you’re an Armenian….And we’ve seen them come and go. Good ones too. Better ones than you, Mr. Saroyan. We’ve seen them go a long way and we’ve seen them not come back...” (いいかい、サロイヤン君、多分私は少し酒に酔っているかもしれない。でも、そんなことはどうでもいい。君は頭がいい。だから、気分を害さないで聞きなさい。だが、君はそれほど頭脳明晰でもない。君は自分がどういう敵に向かっているのか分かっていないのだ。君が手にしている強みは一つだけ、アルメニア人であるということだけだ。そんな連中はいやというほど見てきた。中には優れたやつもいた。君より優秀なやつだ。サロイヤン君。私たちはそうした連中がやれるだけのことをやって、そして消えて行ったのを見てきているんだよ)
(写真は、サロイヤンが眠るフレズノの墓。遺灰の半分はアルメニアに葬られている)
ウイリアム・サロイヤン(William Saroyan)④
- 2011-07-13 (Wed)
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アルメニア正教の教会で東洋人の風貌の私が珍しいのか、一人の男性が声をかけてきた。サロイヤンのことを話すと、「今時間ありますか。ちょっとドライブに行きましょう」とダウンタウンに残る「サロイヤン・ヒストリック・サイト」のいくつかを案内してくれた。
ヴァロジャン・デアシモニアン氏。フレズノでアルメニアにまつわる文化遺産の保存啓発に奔走している人物だった。実はロサンゼルスにいる時、フレズノのサロイヤン協会の会長とメールの交換を始め、彼に会うことを楽しみにしていたのだが、この会長が私の到着3日前の今月4日に急死されていた。私にとってヴァロジャンさんは「渡りに船」の人物だった。
「ここにサロイヤンが生まれた家がありました。道路網の拡大で家は取り壊され、今は跡形もありません」「この角に立ってサロイヤン少年は新聞売り子をしていました。時に友達を出し抜いて新聞を売っていたようです」「サロイヤンが成長期を過ごしたこの家は当時のままに残っています。今、記念館のように残せないか家主と交渉しているところです」などと実に手際よく案内してくれた。
「サロイヤンはフレズノを世界地図の中に示してくれた人。私がアルメニア系だからというわけではありません。フレズノに住む私たちはもっと彼の魅力、彼が生きた時代のアメリカを内外にアピールしていく責務があると思います」
ヴァロジャンさんらアルメニア系市民が中心となって、2001年には没後20年の展示会をフレズノで催した。2008年には生誕100年の記念行事を盛大に繰り広げたという。ヴァロジャンさんが今、中心となって取り組んでいるのが、サロイヤンの常設展示を手がけるサロイヤン・ミュージアムの開設だ。
「サロイヤンに関する資料の多くはスタンフォード大学(カリフォルニア州)に移っているんです。本来なら、ここフレズノにあっていいのですが。フレズノに以前は民間のメトロポリタン・ミュージアムという施設がありました。そこである程度のサロイヤンの展示ルームはあったのですが、ミュージアムは昨年赤字で閉鎖されました。サロイヤンの資料は梱包されて、何と倉庫で眠っているのです。梱包で19個に上るほどの大量の資料です。私たちはこれを取り戻し、常設展示にもっていきたい」とヴァロジャンさんは話す。
ヴァロジャンさんたちが白羽の矢を立てたのが、フレズノ郊外のショッピングセンターに近いカリフォルニア大学が所有する地下1階、地上2階建ての建物。大小さまざま多くの会議室があり、アートギャラリーとしては最適の空間だ。フレズノを訪れた人が気軽に足を運べ、サロイヤンの時代の雰囲気に触れることのできる場を作りたいとヴァロジャンさんは語る。
(写真は上から、サロイヤン少年が新聞を売っていたことを示す街角の表示の前に立つヴァロジャンさん。サロイヤンが少年時代を過ごした家。サロイヤン・ミュージアムが開設される予定の建物。玄関の案内表示の空欄にその名が刻まれる日が来るか)
ウイリアム・サロイヤン(William Saroyan)③
- 2011-07-13 (Wed)
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アルメニアは1991年に当時のソ連の解体により独立した。正直に言うと、私も頭の中ではその場所がおぼつかない。世界地図を見ると、グルジアやトルコなどに囲まれている小国であることが分かる。国際社会では、オスマントルコ帝国に支配されていた時代に帝国の圧政に苦しみ、第一次大戦中の1915年から1917年にかけ、150万人のアルメニア人が殺害されたと言われるホロコースト(大虐殺)の犠牲者となったことで知られる悲劇の民族だ。アメリカ政府は友好国トルコへの配慮から、依然、この大虐殺の事実認定を拒絶し続けている。
アメリカにアルメニア移民が多いのはこうした歴史ゆえのことだ。さて、そのフレズノはサロイヤンが少年時代、さらには晩年に暮らしたころとはだいぶ趣が異なるようだ。多くのアルメニア人はダウンタウンから豊かな郊外に移り住んでいる。夜間になると、ダウンタウンからは人がいなくなり、殺伐感さえ漂う。気ままに歩ける雰囲気ではない。
とはいえ、ダウンタウンにはアルメニア系の人々が集う教会が今も健在であり、日曜礼拝をのぞいてみた。教会入口で来訪の趣旨を伝えると、「ウエルカム」と歓迎してくれた。アルメニア正教は詠唱するように祈るものらしい。パイプオルガンの演奏で司祭が詠唱し、聖歌隊のような人々が続く。教会やフレズノの歴史を英語で記したパンフレットには末尾にサロイヤンのことも記してある。サロイヤンへの誇りがしのばれる。
アルメニア人移民がフレズノに初めてやって来たのは、1881年のこと。上記の大虐殺などを経て、その数は急速に増え、今ではフレズノの人口50万人のうち、1割、5万人がアルメニア系と見られている。
ここで『人間喜劇』でもう一つ印象に残っているシーンを紹介したい。ホーマーがクラスメートの家柄も頭脳も優秀なクラスメートとハードル競争に挑む。体育教師のバイフィールドは家の裕福さで生徒を差別する劣悪な教師で、ホーマーの擁護に出たイタリア系の生徒のジョー(ジョセフ)を”wop” (イタ公)と言って罵る。その場に居合わせた良識ある歴史のベテラン女性教師のヒックス女史が体育教師を諌める。暴言を謝りなさいと。ジョーやイタリア系移民社会に対しての謝罪ではない。アメリカという国に対して!
“Joseph!” Miss Hicks said. “You must allow Mr. Byfield to apologize. He is not apologizing to you or to your people. He is apologizing to our own country. You must give him the privilege of once again trying to be an American.”
移民で成り立つアメリカならではのエピソードだろう。フレズノでも勤労意欲の旺盛なアルメニア系移民はその数が増え、経済力をつけるにつれ、地元の人々の冷たい視線を浴びた。「犬とアルメニア人はお断り」という張り紙を張り出す商店主もいたという。それは西海岸で同様に蔑視されることの多かった日系移民の姿と重なる。
(写真は上から、アルメニア教会。1914年に建設された古い教会だ。お祈りを二階席から撮影。礼拝が終わり、歓談するアルメニア系市民)
ウイリアム・サロイヤン(William Saroyan)②
- 2011-07-12 (Tue)
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『人間喜劇』は移民社会のアメリカ二十世紀半ばにまだ内包していた未来への希望、幸福への期待が伝わってくる小説だ。それとともに、人生が常に「死」と隣り合わせであることも綴られている。でも、それは決して「絶望」ではない。この本を読み終えた時、東日本大震災の発生直後だった。そういうこともあってか、次のシーンが心に残っている。
敬愛する兄のマーカスの戦死の報に打ちひしがれるホーマーを職場の「上司」が慰める。 “But try to remember that a good man can never die. You will see him many times. You will see him in the streets….The person of a man may leave—or be taken away—but the best part of a good man stays. It stays forever. Love is immortal and makes all things immortal…..”(善良な人は決して死にはしないことを覚えておくのだ。君はこれからもお兄さんを何度も見かけることだろう。通りで目にすることだろう。・・・人の体はこの世からなくなるかもしれない。取り上げられるかもしれない。しかし、いい人の最良の部分は残るのだ。永久に残るのだ。愛は不滅であり、すべての事柄を不朽にするのだ)
他にも、印象に残っているシーンがいくつかある。
マーカスはイサカの故郷で隣に住むマリーと結婚を誓い合っており、後ろ髪を引かれる思いで戦場に赴く。マーカスは兵士としての訓練期間中、トビーという名の孤児院で育った若者と親しくなる。家族の愛、故郷の情を知らないトビーはマーカスとの友情が深まるにつれ、マーカスの家族を自分の家族、イサカを自分の故郷として愛しく思うようになる。マーカスはトビーのそうした思いを理解して語る。「僕の家は貧しい。ずっとそうだった。僕の父は偉大な人だった。成功を収めた人ではなかったが。僕らが必要としている以上のお金を稼いでくることはなかった。一度もね」
“We’re poor, always have been—my father was a great man. He was not a successful man. He didn’t make any more money than what we needed—ever.” さらにマーカスは続ける。「父はありふれた、普通の、日常の仕事をやってきた。もし君が通りで僕の父を見かけとしても、気にもとめないだろう。父は見かけもやることもごく普通の人だった。しかし、たとえそうであっても、父は偉大な人だった。僕の父親はそういう人だった。僕は父が偉大であることを知っていた。父が唯一気にかけていたこと、それは自分の家族のことだった・・・」
“He did plain, ordinary, everyday work. If you saw him in the street you would think he was nobody. He looked like anybody else and acted like anybody else—but even so he was a great man. He was my father and I know he was great. The only thing he cared about was his family—“ 父親のことをこのように表現できる息子は素晴らしいと思う。息子にそう思われる父親も素晴らしい。独身の私はこういう表現に出合うと複雑な心境になる。
(写真は、フレズノのダウンタウンの公園にあるサロイヤンの顕彰碑)
アメリカ番外①
- 2011-07-11 (Mon)
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旅の楽しみは「食」でもあろうか。私は「食」へのこだわりはない。日本にいるなら、朝に納豆と味噌汁が食べられたら、それで一日満足だ。アメリカも健康志向を反映してか、日本食を標榜するレストランが多いのには改めて驚いている。
特段面白くもないかと思うが、これまでにデジカメに収め、かつ胃袋にも納めた「食べ物」を紹介する。(写真の順番に説明文を書いています。1ドル=83円で計算)
①ドジャース・スタジアムで食べた名物のドジャー・ドッグ(415円)。オニオンやピクルス、ケッチャプなどは自分で入れるらしい。それを忘れてこのまま食べたが、まあまあうまかった。
②サリナス郊外のヒスパニックコミュニティーにあったスーパーで食べたタコス(415円)。本場もかくあらんというぐらい実にうまかった。
③サリナスの観光名所ともなっているレストランで朝食。”fruit crepes”(フルーツ・クレープ?)と記されていた。地元産のイチゴ、パインアップル、バナナにヨーグルトやその他の何かがかけられ、イングリッシュ・マフィンが添えられていた。ウエイターに「ヘルシーなブレックファーストが欲しい」と頼んだら、これを持ってきた。申し分のない充足感だった。750円。
④これは今、写真を見ていても、どこで何を注文したらこれが出てきたのか思い出せない。時系列で写真を見ているので、つい最近のことなのだが。思い出せないということはあまりうまくなかったのだろう。
⑤これはよく覚えている。サンフランシスコのダウンタウンにあるバーガーキングで食べたチキンサンドイッチ。7月4日の建国記念日を祝い、昔の味を格安で提供とテレビのCMでやっていたので食べに行った。サンド自体は86円。フライとコークを入れて締めて450円。あまりうまくなかったような記憶がある。
⑥サンフランシスコのレストランで食べたブレックファースト。一言。うまくなかった。というより味がしなかった。「チリペッパーソースがないか」と尋ねたら、「そんなものはない。タバスコとケチャプならある」というので、ケチャップとタバスコを大量にかけて食べたが、「無駄な抵抗」だった。910円ぐらい払ったような記憶がある。
⑦フレズノのアルメニアレストランで食べたカバブ(?)。チキンに牛、羊肉のコンビネーションだった。これはまあまあいけた。野菜サラダを肴にビールの小瓶2本を飲んで、締めて1660円だった。
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