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アメリカをさるく
トルーマン・カポーティ (Truman Capote)⑤
- 2011-08-04 (Thu)
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“In Cold Blood”で印象に残っているシーンがある。文字通り、大団円の最終パラグラフだ。私にとっては、この部分だけでも、この小説に出合って良かったと思った。
最終章ではペリーとリチャードの二人が、1959年12月の逮捕以来、5年余の曲折を経て、1965年4月にようやく絞首刑に処される様子が描かれる。捜査の陣頭指揮に当たってきたアル・デューイ刑事も絞首刑を見守る。デューイ刑事は小説の中で事件の捜査に全力を注ぐ姿が描かれており、作家が彼に好感を持っていたことがうかがえる。
デューイ刑事は「ちんぴら」に過ぎないリチャードの処刑には特段の感情は起きない。しかし、続いて行われたペリーの処刑には複雑な思いを抱く。ペリーは傷つき、追われる動物が醸し出すオーラのようなものを持っていたからだ。
そのペリーは首に縄が巻かれる直前に次のような最後の言葉を口にする。「自分がやったことを(今ここで)謝罪するのは意味のないことだろう。適切でもない。でも、俺は謝りたい。俺は謝罪する」(”It would be meaningless to apologize for what I did. Even inappropriate. But I do. I apologize.”)。デューイ刑事には期待していた「一件落着」の高揚感や解放感はない。彼はその時、1年ほどまえにクラター一家が眠るガーデンシティの霊園を訪れた時の光景を思い出していた。
父親の墓参りが目的で訪れていたデューイ刑事はここで、事件の被害者の少女、ナンシーの無二の親友のスーザン(スー)に4年ぶりに再会する。彼女はナンシーの墓参りに来ていたのだ。4年前は少女だと思っていた彼女も今や大学に通う美しい娘に成長していた。立ち話の後、約束があるからと慌ただしく霊園を去る彼女に彼は優しく声をかける。
“And nice to have seen you, Sue. Good luck,” he called after her as she disappeared down the path, a pretty girl in a hurry, her smooth hair swinging, shining—just such a young woman as Nancy might have been. Then, starting home, he walked toward the trees, and under them, leaving behind him the big sky, the whisper of wind voices in the wind-bent wheat.(「スー、また会えて良かった。元気でね」と彼は立ち去って行く彼女に声をかけた。彼女はきれいな髪の毛を風になびかせ、きらめかせながら、急いで駆けて行く。ナンシーが生きていれば、まさに彼女のように成長していたことだろう。ほどなく、彼も木々の下を自宅に向かった。背後には空が大きく広がり、風に揺すられた小麦が波打ってささやき合っている)
この時の情景が目に浮かぶようだ。まるで一点の絵画を見ているような感覚に陥る。ちなみにこの霊園はValley View Cemeteryと呼ばれ、その昔ガーデンシティの開拓者の人々が乾いた土地に水を運び、木々を植え、大切に育んできたもので、ここに住む人たち誰もが誇りに思っている墓地だ。8月の陽光を浴び、緑が爽やかに映った。
(写真は上が、クラター一家が眠る墓。下が、ガーデンシティの市民プール。アメフトの競技場の大きさを誇る。久しぶりに泳いだついでに監視員のお嬢さんをパチリ)
トルーマン・カポーティ (Truman Capote) ④
- 2011-08-03 (Wed)
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シャロンさんはガーデンシティで生まれ育った。クラター一家とは面識はなかったが、1959年に隣町のホルカムで起きた事件はよく覚えている。「だって、この辺りは当時、平和そのものだったのですから。家を出る時、誰もドアに鍵などかけなかった。事件後はみんなが鍵をかけるようになった。今日に至るまでそうです」と語る。
事件後50年以上の時間が経過している。当事者、関係者はほとんどがこの世を去っている。事件の当事者でただ一人の生存者と言えるかもしれない人物に会えることを期待していた。カポーティの作品でも幾度もその名前が出てくるフィニ郡検事(当時)のドゥエイン・ウエストさん。作品では犯人2人を訴追する「野心にあふれたかっぷくのいい28歳の青年、見ようによっては40歳、時には50歳にも思える男性」(an ambitious, portly young man of twenty-eight who looks forty and sometimes fifty”として描かれている。
ガーデンシティに到着する前からウエストさんとは何度か電話で接触を試みたが、私の携帯番号が正しく伝わらなかったようで連絡はなかった。最終的にガーデンシティのホテルの部屋から彼に電話をし、私の希望を伝えることはできたが、おおよそ次のようなやり取りで実際に会うことはかなわなかった。
「ぜひ、お目にかかって話をうかがいたいのですが」
「私は(あの事件に関することでは)話をしたいとは思っていません。カポーティ氏からは著作出版後、サイン入りの本が送られてきました。彼は有能なセールスマンということです。お金を沢山稼いだことでしょう。だが、私にはあの本に社会的価値があるとは思わない。私は間もなく80歳ですが、まだまだやりたいことがあって、申し訳ないが、このことで時間をさく余裕はありません。あなたのこれからの旅が実りあることをお祈りします」
幸い、カポーティがガーデンシティで親しく行き来していた女性には会うことができた。ご主人がクラター家の財産管理の弁護士で、自身は地元の新聞社に勤務していたドロレス・ホープさん(86)。ご主人がなくなった今は一人暮らしだが、1男5女の子供たちが交互に世話をしているようだった。私が訪ねた時は一番下の娘さんが来訪していた。
「彼のことはよく覚えていますよ。頭のとてもいい方でした。彼の幼馴染のハーパー・リー(『アラバマ物語』の著者)が一緒で、彼女がいたからここでの取材がスムーズにはかどったのだと思います。二人を家に招いてクリスマスに食事をしたことがあるのですが、彼が一人で話し続け、夫を含め我々三人はずっと聞き役でした。彼がゲイであることが気にならなかったですかって。私は気にしませんでしたよ。彼の小説が名作であることは誰も否定できないと思いますよ。ただ、彼はあの作品の後は精根尽き果てたかのようになって、作家としての創造力が失せてしまった。私はそんな印象を抱いています」とドロレスさんは懐かしそうに振り返った。
(写真は、カポーティとの思い出を語るドロレスさん。娘のメガンさんは作家がホープ家を訪れていた当時は生まれていなかったが、両親から当時の話はよく聞かされていた)
トルーマン・カポーティ (Truman Capote) ③
- 2011-08-03 (Wed)
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ペリーはなぜ、無抵抗の4人を殺害したのか。特に最初に手をかけたクラター氏はのどをナイフでかき切り、苦悶する氏を銃撃するという残忍さだった。①で記した映画では、ペリーが獄中で作家に対し、クラター氏の目に「恐怖」を見て、気が付いたら殺していたと告白していたような気がする。相手のおびえを見て、自分の中にある残忍さに火がついたかのような。
今回原作を再読してみたが、そのような記述はなかった。それに近い部分は次の場面だ。まず、ペリーは以下のように告白している。”I didn’t want to harm the man. I thought he was a very nice gentleman. Soft-spoken. I thought so right up to the moment I cut his throat.”(俺はあの男を傷つけるような考えはなかった。とても好感のもてる紳士だと思ったからだ。言葉遣いも柔らかだった。あの男ののどをかき切る寸前までそう思っていた)。そして、ペリーに面会に来た軍隊勤務時代のただ一人の「友人」に向かっては次のように語っている。カポーティが後でこの「友人」から聞き出した言葉だろう。”They [the Clutters] never hurt me. Like other people. Like people have all my life. Maybe it’s just that the Clutters were the ones who had to pay for it.”(クラター家の人たちが俺をひどい目に合わせたわけではないんだ。他の連中のように。他の連中は俺の人生でずっとそうだった。多分、連中の罪を被ることになったのが、あの一家の運命だったのかもしれない)
クラター家にとっては不条理極まりない過酷な巡りあわせだ。ペリーが抱き続けてきた「自分の境遇」や「世の中」への不満、鬱積が、彼とは何の関係もない自分たちに突然、憤怒のごとく浴びせられたのだから。
私はそうした不条理だけでなく、作家の頭の中には次のような思いもあったのではないかと考えている。人が凶悪犯罪に走るのはその人の生来の性質とかいうのではなく、生い立ちやさらにはその時の心理状況に左右される。普通の人と罪人を分ける線は極薄なもの。
博物館の受付窓口で来訪の趣旨を説明し、「誰か当時の様子を詳しく知っている人はいませんかね」と尋ねていたら、「さあ、それは難しいかもしれません。それにもう50年以上前の事件ですし。第一、ここの人たちはカポーティの小説に不快な思いを抱いているんですよ。今もって」と受付にいたシャロン・ブランガートさんが身を乗り出してきた。「でも、日本から来たのだったら、手ぶらで帰途に就かせるわけにはいきませんわね。ちょっと待っていてください。私がいろいろ車で案内してあげましょう」
案内の前に、私は博物館の一角に設けられていた今年の「来訪者一覧世界地図」にピン(印)を付けさせられた。「ほら、見て下さい。日本の上にはまだピンがないでしょう。日本からはあなたが今年最初の来訪者ということです」との由。「カンザス州は世界に自慢できる自然の美、伝統工芸があるんですよ。ぜひ、日本の方々にPRしてください」
いや、実に親切なご婦人だった。71歳とはとても思えない若々しさ。彼女の車で一家が眠るガーデンシティ市内の墓地や少し離れたホルカムに今もほぼ事件当時のまま残る一家の家を案内してもらった。
(写真は上から、博物館で来訪者の出身地を示す世界地図の前に立つシャロンさん。ホルカムの旧クラター家。家を買い取った現在の居住者はバケーションで留守だった)
トルーマン・カポーティ (Truman Capote) ②
- 2011-08-02 (Tue)
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カンザス州は日本ではあまり馴染みがないが、アメリカの文字通り中央部に位置する州で、人口は約280万人。アメリカの人口は3億人突破というニュースを旅だった前後に聞いた記憶があるから、全人口の100の1を占めるに過ぎない州だ。
合衆国に加わったのは1861年。ガーデンシティはその後に開拓者により開かれた。人口は約3万人。畜産と農業が主産業で、食肉処理に従事するメキシコからの移民が急増しており、この内65%はヒスパニック系と見られている。黒人の姿はあまり目にしない。
町の歴史を展示しているミュージアムに足を運んだ。正式名称はガーデンシティが属する「フィニ郡歴史博物館」。資料室で事件が起きた当時の新聞をマイクロフィルムから読ませてもらった。(前回の項で示した新聞記事はここで入手)。事件の衝撃の大きさは記事の見出し、内容から伝わってくる。クラター一家と犯人の若者二人、リチャード・ヒコックとペリー・スミスは全く面識がなく、首謀者のリチャードは他の犯罪で服役中に囚人の一人から、「昔農作業を手伝ったことのあるクラター氏は羽振りが良かった」という話を耳にして、この強盗を思いつく。そして、囚人仲間だったペリーを誘う。
警察は当初、クラター家に恨みを持つ者、従ってホルカムかその周辺に住む者の怨恨による殺人事件と見る。クラター氏が自宅に現金を置かないことは地元では広く知られており、また、夫人の高価な装飾品などが盗まれていなかったからだ。しかし、クラター一家は質実に暮らす模範的な一家で、人の恨みを買うような人々ではなかった。当時の報道では、”The Clutters were the last people you would ever murder.”(クラター一家は殺されるような人たちではありえなかった)とその人柄の良さが称賛されている。
「動機不明の殺人事件」として捜査は難航するが、リチャードに話をした上記の囚人が事件を知り、報奨金欲しさも手伝い、当局に情報を提供。捜査は一気に解決に向けて動き出し、「完全犯罪」と思い込んでいた二人は逃走先のラスベガスで逮捕される。
犯人のリチャードは当時28歳。ペリーは31歳。『冷血』を読む限り、リチャードには「人間的深み」が感じられないが、ペリーは少し異なる印象だ。捜査や裁判を通し、次のようなことが分かる。ペリーの母親はアメリカインディアンであり、酒に溺れ、身持ちが悪く、父親と離婚。彼は満足に小学校にも行かせてもらえず、途中で引き取られた孤児院では修道女から手酷い虐待を受け、心に深い痛手を負う。また、彼は当初、事件への関与に消極的だったこと、ナンシーをレイプしようとしたリチャードを阻止したこと、にもかかわらず、最後にはペリーが一人で4人を殺害したことも判明する。
しかし、捜査でも裁判でも、ペリーがなぜ、無抵抗の4人を惨殺したのか、という理由は明らかにならない。カポーティがこの事件を5年余にわたり、事件の当事者、関係者の克明な取材を続けたのも、この「なぜ」の解明に尽きるといっていいだろう。
(写真は、1960年1月、犯人逮捕を報じる当時の新聞記事。左には当時のケネディ上院議員の米大統領出馬宣言の記事も見える)
トルーマン・カポーティ (Truman Capote) ①
- 2011-08-02 (Tue)
- 総合
私のこの旅は「行き当たりばったり」の旅だ。日本を出る前に、再読を含め、10人ぐらいの作家の代表作を読んだ。これに、旅の道すがら、新しく読んだり、再読したりして、10人ぐらい加えれば、「アメリカ文学紀行」となるかなとぐらいに考えている。そうなるか今もって分からない。
リンカーン(ネブラスカ)にいる時にふと思った。トルーマン・カポーティの力作の舞台が確か中西部の田舎町だったような記憶がある。英語では”In Cold Blood”。翻訳では『冷血』と訳されている小説だ。ネットで調べると、近くのカンザス州だった。それで一旦カンザスシティ(ミズーリー州)に出て、そこからアムトラックの列車でカンザス州の現地に向かうことにした。約9時間の深夜便で早朝に目指すガーデンシティに到着した。
カポーティが1965年に『冷血』を著すきっかけとなったのは、1959年にカンザス州ホルカムで起きた一家4人の惨殺事件。ホルカムの人里離れた富裕な農場に住む農園主のクラター一家に深夜「流れ者」の若者二人が押し入る。二人がクラター家に押し入った理由はお金目当ての盗みだった。しかし、目論んでいた金庫がなく、二人は一家の主人を起こし、金庫のありかを聞くが、クラター氏は現金を持たない主義で、金庫はもとより、現金も普段から手元には置かなかった。
お金がないことに二人は激怒し、病弱のクラター夫人、美しく気立ての良い娘ナンシー、その弟ケニオンを含め4人を殺害する。自分たちの犯行の「生き証人」は始めから皆殺しにすることに決めていたのだ。
数年前のことだと思うが、カポーティの『冷血』取材(執筆)の舞台裏を描いた映画を観た。原作同様に面白かった。今回、事件(作品)の舞台となった地を訪れるのを機に原作を再読してみた。日本語であれ英語であれ、「遅読」の私には、リンカーンの古本屋で3ドル(約250円)で入手した”In Cold Blood”を読了するのは少し骨が折れたが、400頁に満たない中編で分かりやすい英文だったので助かった。
作品自体はカポーティが事件を起こした二人の犯人はもちろんのこと、捜査に当たった刑事、検察官、裁判関係者、被害者の友人、町の人々などに5年余の期間、直接話を聞いて仕上げた。カポーティは作品を「ノンフィクション・ノベル」と呼び、これにより新しいジャンルの小説が誕生したとも言われる。
さあ、現地ではどんな話が聞けるのだろう。いや、難しいかもしれない。ほぼ50年前のことだから、事件のことを知っている人は少ないだろうし、知っていても、思い出したくない、話したくないというのが普通の感情だろう。ホルカムの町役場にリンカーンから何回か電話を入れたが、やはり、思わしい返答は得られなかった。
とりあえず、ホルカムに近く、二人の犯人が裁かれ、死刑判決を受けたガーデンシティから当たってみよう。
(写真は上から、ガーデンシティの街並み。40度の暑さもあり、誰も歩いていない。事件を報じる当時の現地の新聞記事)
アメリカンジャズ・ミュージアム
- 2011-07-31 (Sun)
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リンカーンからカンザスシティに来て、最初に感じたことはここが都会であること、それに黒人の人々が比較的に多いことだ。
黒人の人々がかつて闊歩していた地区を訪れた。通りの名を取って、”18th&Vine Historic Jazz District”と呼ばれている地区だ。日本語だと「18番&ヴァイン街ジャズ名所地区」とでも表現するのだろうか。ここに「アメリカンジャズ・ミュージアム」がある。「ニグロリーグ」と呼ばれた黒人野球の歴史を紹介したミュージアムも隣接されている。
カンザスシティは東西南北の交通の要衝であったことから、南部の黒人を吸収して成長した都市だ。国勢調査によると、白人は1910年に224,812人(89%)だったのが、2000年に267,931人(61%)。黒人はその間、23,556人(8%)から137,879人(31%)に急増。「18番&ヴァイン街」の一帯は黒人が住み、働き、憩う地だった。それはもちろん、奴隷制度以来の人種差別の歴史と無縁ではない。カンザスシティでは1960年までこの一帯でしか黒人は居住も商売も許されなかったからだ。黒人はここにいる限り、自分が「二級市民」であることを忘れ、自己主張できた。
しかし、人種差別の施策が終焉を迎え、黒人がどこに住もうがどこで商売をしようが自由な時代になると、「18番&ヴァイン街」の一帯はその存在意義が薄れ、活気を失っていく。その象徴がかつては200軒以上のバーが林立し、一晩中、その音色が通りを彩ったジャズ音楽だ。私は前回の項で、カンザスシティがジャズの「誕生」の地であると書いた。何人かの人がそう言っているのを耳にしたからだ。正確な表現ではなかったようだ。話を聞かせてくれたアメリカンジャズ・ミュージアムで働くカレン・アンダーソンさんが次のように訂正してくれた。”Jazz was born in New Orleans, but grew up in Kansas City.”(ジャズはニューオーリンズで誕生し、カンザスシティで育った)。なるほど。
ミュージアムがオープンしたのは1997年。年間20万人以上の来場者があるという。ルイ・アームストロングやデューク・エリントン、エラ・フィッツジェラルドらのミュージシャンの演奏、歌が当時の録音でたどれるようになっている。私はしばし時間を忘れて彼らの演奏に聞き惚れることができた。ジャズには黒人がアフリカ大陸から持ってきた「思いや感情」が残っているのではないか。
20年以上前のこと。アパルトヘイト(人種隔離政策)下の南アフリカのシビーンと呼ばれていた非合法の酒場で目にした光景を私は思い出していた。各テーブルを隙間のないほど埋めた男女の若者が好きな音楽がかかると、それぞれ立って、体をくねらせて、それぞれ独特のリズム感で気持ちよさそうに踊っていた。周囲の若者は黙ったまま、踊る数人の仲間を見守る。そして代わり番こに「行儀よく」踊っていく。そうした奇妙な光景だ。
(写真は上から、アメリカンジャズ・ミュージアム。中は写真撮影禁止。外の通りは「空き家」が目立ち寂れた印象。今、かつての賑わいを取り戻す動きも起きていた。ミュージアムから遠いダウンタウンの無料ロックコンサート会場はそれなりの賑わいだった)
カンザスシティ着
- 2011-07-29 (Fri)
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居心地のいいネブラスカ州のリンカーンから南隣のミズーリー州にあるカンザスシティに来た。リンカーンですっかりお世話になった消防士のブライアンの車で連れてきてもらった。約4時間のドライブだった。彼には一銭の謝礼もあげていない。あげようとしても、おそらく彼は受け取らなかっただろう。お礼は彼がいつか日本を訪れる時に倍にしてお返しするつもりだ。ただ感謝するのみ。
そして、今度はカンザスシティでは、消防士仲間の彼の友人、ジェイソンが待っていてくれた。これでは日本に戻ったら、消防署に足を向けて寝ることができなくなるのではないか。3人でお昼を食べて、ブライアンに別れを告げて、今度はジェイソンが「ショウ、ホテルにチェックインする前に、さっとカンザスシティを案内しよう。そうだ。シティーホールの屋上からだと市内が一望できる」とシティーホールに乗り付けてくれた。
私は南部ジョージアにはるか昔いたことがあるから、「サザン・ホスピタリティー」という表現は知っていた。ネブラスカ州やミズーリー州の「ミッドウエスト・ホスピタリティー」は知らなかった。
カンザスシティが紛らわしいのは、西隣のカンザス州にミズーリー川をはさんで同じ名前のカンザスシティがあることだ。前者は英語の短縮表記ではKCMO、後者はKCKと呼んで区別するらしい。町の規模はKCMOがはるかに大きく、想像するようなライバル関係はなく、むしろ、両者が一体となって発展を目指す動きもあるらしい。
一通り、市内を駆け足で見て、ホテルにチェックインする。カリフォルニア州でも泊まった比較的安い価格で泊めてくれるチェーンのホテルだ。フロントの青年が「こんにちは」と声をかけてきた。「え、いや、なんであんた、日本語しゃべれるの?」と頭が混乱してしまう。「僕は立命館で学んだんです。大分県の」と言うではないか。ウズベキスタン出身の青年だった。
「よく、知っているよ。別府にあるAPUだね。立命館アジア太平洋大学。新聞社勤務の時、取材でよくAPUには行ったよ。いや、奇遇だね」と応じた。
カンザスシティは今回の旅では「中継地点」で、ここから日曜夜にカンザス州にあるガーデンシティというところに向かうつもりだ。トルーマン・カポーティの著作、”In Cold Blood”(邦訳『冷血』)の舞台となった地に近い町だ。その前に少し時間の余裕があるから、明日からカンザスシティを散策して何か、ブログの材料を探してみよう。ジェイソンの話だと、カンザスシティはジャズの発祥の地とか、かつての黒人選手だけの野球、ニグロ・リーグのミュージアムがあるとか、いろいろ、興味深いものがこの町にはあるようだ。
いや、それにしても、ここも暑い。摂氏だと軽く37度を上回る猛暑だ。まあ、アメリカの文字通りheartland(中心部)にある州だから致し方ないか。
(写真は上が、シティーホールの最上階からカンザスシティの中心部を眺める。上に見えるのがミズーリー川。下が、反対側の眺め。ここは都会だ)
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