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アメリカをさるく

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セオドア・ドライサー(Theodore Dreiser)①

 シカゴにいるので、シカゴとゆかりの深い作家の作品を考えることにした。というか、それもあって、シカゴに立ち寄ったわけでもあるが。
 ”An American Tragedy”。セオドア・ドライサーが1925年に発表した作品で、「アメリカの悲劇」と邦訳されている。ドライサーは1871年にインディアナ州の貧しい家に生まれ、セントルイスやここシカゴなどを転々として、新聞記者を始め多くの職業を渡り歩く。資本主義のひずみを告発する自然主義の作家として台頭する。1945年死去。手元にある英文のアメリカ文学ガイドブックは、”An American Tragedy”は20世紀初頭の「アメリカン・ドリーム」が内包した危険性を描いた秀作と紹介している。
 The novel is a scathing portrait of the American success myth gone sour, but it is also a universal story about the stresses of urbanization, modernization, and alienation. (この小説は歯車が狂ったアメリカの成功神話を痛烈に描いた物語である。と同時に、都市化、現代化、疎外感がもたらすさまざまなひずみを描写した普遍的な物語でもある)
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 題名だけは知っていた。そういう名の小説があることを。恥を明かせば、いつか原書で読んだことがあるとも思っていた。今回の旅を前に図書館から借り出して読み始めたところ、いやそれは間違いだったことが分かった。第一、これは予期していた以上に長尺な小説だった。手にしたのは「戦闘意欲」をそぐような700頁を超える分厚い本。こんな本を原書で読んだとは思えない。
 この作品は端的に言えば、裕福な生活を夢見る貧しい青年が二股かけた恋に陥り、結果的に浅はかな行為に出て、転落していく物語だ。クライド・グリフィスという名の青年は職場で知り合った、貧しいが愛らしい少女、ロバータと恋に落ちる。それもつかの間、今度は自分たちとは比較にならない富裕な家の出でこれまた美しい少女ソンドラを見初める。ソンドラと相思相愛になった青年は、迷うことなく彼女を選び、最初に心も体も許してくれたつましく生きるロバータを捨てることを決意する。この種のお話自体は古今東西の永遠のテーマだろう。
 正直に述べると、読破するのに難儀した。これだけの長尺のストーリー展開が必要なのかと思わないこともなかった。米文学の傑作に対して甚だ失礼な感想ではあるが。ただ、難儀したのはそれだけの理由からではない。小説の主人公(protagonist)である青年、クライドの生き方というか、性格というか、彼の考え方にあまり好感が持てず、読み進めながら、「おい、お前さんよ。もっと、自主性をもって生きられないのかい?親戚の人などに頼らず、生きたらどうなんだい。自分の出自にそんなにこだわり続けてどうすんだい?」と喝をいれたくなること、しばしばだったからだ。まあ、小説の世界とはいえ、私は人様にそんな説教を垂れるほど立派な人生を歩んでいるわけではないので、大きなお世話だが。
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 (写真は、シカゴの全米1の高さ(442メートル)のウィリス・タワーからの眺め。ガラス張りの屋上部に寝そべり記念撮影、スリルを楽しむ観光客)

シカゴ着

 ミズーリー州のハンニバルを出て、東隣イリノイ州のシカゴに来ている。シカゴは旅の予定に入っていたわけではないが、よくよく考えると、ニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ全米第3位の都市である。近くまで来たのだから、のぞいてみることにした。
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 ハンニバルからミシシッピ川を渡り、イリノイ州のクインシーに。ここからアムトラックでシカゴに到着。いや、ここは大都会だ。ハンニバルはlaid-back(のんびりした)田舎だったから、余計にその感がある。人口約3百万人とか。シカゴ川をはさんでskyscraper(超高層ビル)を見上げる。東京や大阪も超高層ビルがあるが、ここは単に高いというだけでなく、横への広がりもある感じだ。初めて田舎から出てきた人には、daunting(怖じ気づく)という印象さえ与えるのではと思った。
 橋の上からシカゴ川を見ると、観光客を乗せた大小さまざまな遊覧船が盛んに行き来する。川沿いのレストランはお客であふれている。ここに佇む限り、世界が、この国が深刻な不況にあえいでいるとは思えない。
 初めてのシカゴ。右も左も分からない。とりあえず、「木」の前に「森」を見なくては。観光案内で「シカゴ歴史博物館」があることを知り、バスに乗って博物館に向かう。主要駅のあるダウンタウンから少し離れた博物館まで2ドル25セント(約190円)。
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 シカゴが町として発展したのは1830年以降のことだという。ここも本来はアメリカインディアンが住んでいたが、フランス続いてアメリカが進出し、ミシガン湖やシカゴ川などを活用した水運の拠点として、鉄道が開かれると鉄路の拠点として発展する。1830年には掘立小屋が散在するわずか人口100人程度の集落だったのが、30年後の1860年には人口10万人の町となっている。そして今は300万人。ここほどアメリカの拡大、発展を象徴する都市はないのではないか、そんな風に思えた。
 シカゴと言えば、アル・カポネとシアーズ・タワーではないか。シアーズ・タワーを探したが、超高層ビルが多くて、どれがどれか分からない。道行く人に聞いても、即座には分からない。ようやく、二本の尖塔が突っ立っているビルがそれと分かった。今はウィリス・タワーと呼ぶらしい。1973年の建設。「世界一」という呼称は他に譲ったが、「屋上442メートル」で、全米一高いビルであることに変わりはないようだ。
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 シカゴも他の都市と同様、多くの試練に遭遇していることが博物館の展示から分かった。1871年には町の大半が焼失する大火に見舞われるが、これが結果的にシカゴの都市計画を躍進させる契機ともなる。シカゴに名立たる建築物が多いのはこのためか。人種問題もしかりだ。1919年と1968年には多くの死傷者が出た人種衝突も起きていることを知った。
 (写真は上から、シカゴのダウンタウン。その威容に見とれてしまう。このビルは、高さはともかく、その「横幅」に圧倒された。ミレニアムパーク内にある通称、「ザ・ビーン」(豆)と呼ばれるユニークな建築物。側壁が鏡になっており、観光客の人気スポットとなっていた)

CDで聴くマーク・トウェイン

 ハンニバルの居心地がいいので、研究会が終了した後も数日、居残ることにした。
 前にも書いたが、今回の研究会はハンニバルのトウェイン博物館が初めて主催した集まりで、今後4年ごとに開催する方針。ニューヨークのエルマイラ大学にあるトウェイン研究所ではずっと以前から4年ごとにこの種の研究会を開催しており、2013年は彼らの研究会が催される。この調子で行くと、作家の生誕200年に当たる2035年はハンニバルの順番となる。博物館館長のヘンリーさんに「私は2035年には81歳となる。まだ元気矍鑠(かくしゃく)としているだろう。4年後はともかく、24年後には再訪するようにするから、その時は招待してください」と軽口をたたいたら、受けた。
 ヘンリーさんと談笑していたら、博物館総括責任者のシンディー・ラベルさんがやってきて、「ショウ、遠くから来てくれてありがとう。これをあげましょう。まだ出回っていないものです」と二枚のCDを差し出した。”Mark Twain: Words & Music” のCDだ。おお、これは、研究会の中でも話題になっていたトウェインの生涯を作家の表現と音楽でたどったCDではないか。博物館の制作で、完成するのは9月末と聞いていた。ハンニバルの思い出に購入したいと思っていた。何というラッキー。
 早速ホテルに戻り、パソコンに入れて聴いてみる。素晴らしい演奏と歌だ。さらに凄いのは、4人の語り手の中に、トウェインの役割を担うクリント・イーストウッドが入っていることだ。トウェインとハリウッドの名監督(名優)とはイメージが一致しないが、渋みのある語りは見事にはまっている。リヴィ夫人と3人の娘に囲まれた至福の日々、やがて、長女のスージー、続いて、最愛のリヴィ夫人を失い、失意のどん底に落ちる件(くだり)の語りでは、”She was my life. She was the most beautiful spirit and the highest, noblest, ever be known. And she is dead. I wish I were with Livy.” (妻は私の命だった。彼女はこの世に生きた最も美しく、最上、最高の気質の人だった。彼女はもうこの世にいない。私も妻と一緒に死にたい気分だ)という吐露はぐっと胸に迫る。リヴィ夫人の写真を見ると、確かに気品のある美しい女性だったことが見てとれる。
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 ところで、私がここ数日、泊まっているホテルはLula Belle’s (ルラベルズ)という名のB&Bで、1917年から50年代にかけてはこの一帯では有名なbordello (売春宿) だったとか。当時のままの建物で雰囲気も残っている。研究会で親しくなった、私より年長で大柄な快男子の研究者、ケントからは別れ際に「君は独身なんだから、夜になったら特別のルームサービスを頼めばいい」と冷やかされた。
 最初の夜、未明、ダブルベッドが揺れるので目が覚めた。「はて、ルームサービスは頼んだ覚えはないが」。すぐ近くに貨物列車専用の鉄道が通っており、列車の通過でホテル全体が揺れていたのだった。
 (写真は、B&BのLula Belle’s の前で。右がケント。左は車で送ってくれたティム)
 (注:マーク・トウェイン博物館の研究会のことをもっと知りたい方は以下がサイトです。http://blog.marktwainmuseum.org/)

マーク・トウェイン(Mark Twain)⑤

 地元ハンニバルではトウェインはどう受けとめられているのだろうか。人口約1万7000人の小さな町だ。トウェインの「故郷」を見たくて訪れる観光客がハンニバルと周辺部で落とすお金は決して小さくはないだろう。事実、私がここに滞在した1週間余の間に、中高年層の夫婦や祖父母に連れられてやってきた孫の子供たちの姿を数多く見かけた。
 しかしながら、ハンニバルも主要な通り沿いに空きビルが結構目立つ。地域経済がここでも苦境にあるのは容易に察することができる。ハンニバルで判事をしているロバート・クレイトンさんは「トウェインのおかげで観光業はある程度潤っていますが、ここにはこれといった基幹産業がない。歴史的にこの一帯を支えてきた水運も今はありません。雇用の場が増えないことには町のこれ以上の発展は望めません」と語った。
 今回のトウェイン研究会を主催した博物館の館長、ヘンリー・スイーツさんは「博物館の来館者は年間5万から6万人で推移しています。これに、彼の作品に出てくる洞窟見学とかリバーボートの遊覧客を含めると、年間20万人から25万人がトウェインがらみでハンニバルを訪れていると私たちは見ています」と語る。「観光客の上位五か国はカナダ、英国、オーストラリア、ドイツ、それに日本です。世界中の読者から慕われるのは、やはり、彼の作品が人間の内面を描き、親しみやすいからだと思います。誰もが思い当たる内面の巧みな描写、それが時代を超えてアピールするのだと思います」
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 研究会のフィールドワークの一つで、作家が生まれた地であり、ハンニバルに転居後も伯父の農家があった関係で足繁く通っていたフロリダをヘンリーさんの案内で訪ねた時のことも忘れがたい。伯父の家は消失していたが、その家が立っていた場所に復元する作業が進められていた。復元作業の中心人物は70歳になる元教師で考古学者のキャレン・ハントさん。5年ほど前から、私費を投じて、農家があった土地を購入し、土に埋もれた農家の建築材などを発掘している。作業が順調に進めば、来年の夏にはトウェインが「アンクル・ダニエル」(黒人奴隷)の語る話が楽しみで訪れていた当時の農家が復元されているはずだ。
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 フロリダは作家が誕生した当時は100人程度の住民がいたが、現在は一人も住んでいない。私には緑豊かで落ち着いた暮らしができる絶好の土地に見えたが、仕事の場がないから、住民は転居していったのだろうか。②で紹介した、作家の生家が移転保存されている「トウェイン記念堂」では作家の生涯を20分ほどのビデオで紹介していた。ビデオの最終部ではトウェインの晩年に撮影された珍しい動画が流され、概ね、次のような言葉で締め括っていた。
 「マーク・トウェインはほとんどの作家がなしえなかったことをなしえてこの世を去った。彼はimmortality(不朽の名声)を手にしたのだ」
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 (写真は上から、フロリダのトウェインの伯父の農家跡で進められている復元作業。中央の女性がキャレンさん。「外観」はほぼ完成。作家の生家が本来なら立っていた地。左端で説明しているのが、博物館館長で今回の研究会を仕切ったヘンリーさん)

マーク・トウェイン(Mark Twain)④

 今回のハンニバルでのトウェイン研究会で楽しみにしていたことがあった。昨秋、カリフォルニア大学出版会より刊行された『マーク・トウェイン自伝』の編集責任者であるロバート・ハースト博士の基調報告だ。作家の晩年の様子が聞けないものかと。
 私の頭にあったのは、作家の命により死後6年後の1916年まで発表が差し控えられた”The Mysterious Stranger”(邦訳『不思議な少年』)という短編だった。1590年のオーストリアを舞台に、サタン(Satan)と名乗る少年が「僕」を含めた子供たちと繰り広げる幻想的な物語で、最後の場面で、サタンは語り手の「僕」にこう言い残して消え去る。”there is no God, no universe, no human race, no earthly life, no heaven, no hell. It is all a dream—a grotesque and foolish dream. Nothing exists but you. And you are but a thought—a vagrant thought, a useless thought, a homeless thought, wandering forlorn among the empty eternities!” (神様なんていない。宇宙も人類もこの世も天国も地獄も存在しない。すべて夢。醜くて馬鹿げた夢。君の他には何も存在しないんだ。でも、君だって、自分がいると思っているに過ぎない。君は実際は助けてくれる者もなく、何もできず、ただあてもなく、果てしなく何もない中でわびしくさまよい続けているだけなんだよ!)
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 ハースト博士は2日前に70歳になったとは思えぬ若々しさで、彼にとっては文字通りライフワークとなったトウェインの「素顔」を掘り起こす作業の一端を語った。『自伝』に収められている回顧録は死後100年は公表しないようにと作家が命じたと伝えられる。
 博士の元には今も、新たに見つかった作家の手紙が週に平均3通は報告されているという。『自伝』は予想以上の好評を博し、かなり厚手の高価な本であるのに既に50万部が売れた。「私たちは1万部ぐらいの販売を見込んでいました。次巻はいつ出るのだという問い合わせも殺到しています」と博士は語った。次巻は2013年の刊行予定で、2015年の第3巻で完了する運びとか。
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 基調報告の前に、会場の片隅でくつろぐハースト博士を見つけたので、いくつか質問をさせてもらった。
 「あなたは40年以上にわたって、トウェインと向き合っている。大変なご苦労ですね」
 「退屈に思う日は一日たりともありませんね。彼は天才だったのですから。日々新しい発見があります。彼は後の世代の私たちが目にすることを念頭に、手紙を含めすべての資料を残すようにしていたのです。プライベートな手紙は焼却する作家が多いのに異例と言えるでしょう」
 「最愛の妻や娘たちに先立たれた作家の晩年は厭世的、悲観的に陥りがちで、私には我々が知っているユーモアにあふれた作家とは若干様相が異なるような雰囲気が漂ったという印象があるのですが」
 「『自伝』が明らかにする作家の晩年は一般の人が考えている作家のイメージと著しく乖離したものとはならないと思いますよ」
 (写真は上が、檀上のハースト博士。下が、ハンニバルのミシシッピ川の遊覧船。観光客だけでなく、遊覧船からの景観と食事を楽しみに来た地元の人たちもいた)

マーク・トウェイン(Mark Twain)③

 マーク・トウェインは日本でも幅広い愛読者を抱える作家であり、ここで私が彼の魅力を改めて説明することもないかと思うが、ハンニバルのトウェイン博物館で改めて思ったことを述べたい。
 『ハックルベリー・フィンの冒険』は1885年の発表直後から「青少年の読む本としてはふさわしくない」として物議をかもし、北部の図書館では「スラム街の読み物」と排斥された。1957年には全米黒人地位向上協会が、奴隷制度時代の象徴的表現である “nigger” という表現が211回も使われていると槍玉に挙げた。隔世の感ありだ。
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 参考までに、niggerは確かに今では人前で口にすることなど想像できない表現だ。当時は普通に「黒人」を差す表現としては、negroとかdarkyという表現が使用されていたようだ。この二つの言葉ももちろん今では侮蔑的として、歴史的な文脈以外では目にしない。
 『ハックルベリー』には次のようなドキッとするやり取りも織り込まれている。当時の南部及び南部に近いミッドウエストの地域では普通に聞かれた会話だったのだろう。ハック少年とトム・ソーヤーの親類の婦人との会話だ。ハックは自分が乗った船で起きた(と偽った)爆発事故を話題にする。
 “We blowed out a cylinder-head.” 「シリンダーが爆発したんだ」
 “Good gracious! Anybody hurt?” 「なんとまあ!誰かけがでもしたのかい」
 “No’m. Killed a nigger.” 「いや、大丈夫だった。黒んぼが一人死んだけど」
 “Well, it’s lucky; because sometimes people do get hurt.” 「そうかい。それは運が良かった。人がけがすることはあるもんだからね」
 今はこういう会話が交わされる現代の物語は考えられない。黒人の死が人間の死として見なされない南北戦争以前の時代のこの国の偽善性が見事に活写されている。ハックが黒人奴隷ジムとの間に芽生えた友情から、彼の逃亡を手助けすることを決意する場面が感動的だ。教会の教えに背き、ジムが自由になるのに手を貸すことが地獄に落ちることを意味するなら、”All right, then, I’ll go to hell.” と。
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 奴隷は当時、所有者の所有物と見なされていた。だから、たとえ所有者が奴隷を殺したとしても、殺人罪など適用されることはなかった。トウェインは1897年に発表した旅行記の中で、ハンニバルで彼が10歳の少年のころ目撃した「殺人事件」を概ね次のように回想している。「ある黒人奴隷を所有していた男の人がその奴隷の動きが鈍いと怒り、鉄の塊で頭を打ち付け、その奴隷はほどなく息絶えた。私は痛ましく、間違った行為のように思ったが、なぜと問われても、その時の私は幼すぎて、うまく説明することはできなかっただろう。村の皆がこの殺人行為を快く思っていなかったが、誰もとりたてて話題にしなかった」
 (写真は上が、博物館で毎日来館者を対象に行われている、作家のそっくりさんのパフォーマンス。下が、地元の子供が扮する「トム・ソーヤー」の登場人物と記念撮影)

マーク・トウェイン(Mark Twain)②

 マーク・トウェインの本名はサミュエル・クレメンズ。彼がハンニバルで少年時代を過ごした家には、当時のハンニバルの様子が紹介されている。人口は1830年にはわずか30人で、クレメンズ一家がフロリダから越してきた1939年には約1000人に増えていたと述べられている。10年足らずのうちに急増しているが、当時はほとんどが顔馴染のコミュニティーだったのだろう。(現在の人口は約1万7000人程度)。19世紀半ばのアメリカは90%以上の国民がこのような小さな町村に居住していたという。
 ミズーリー州はミッドウエストの州であり、1861年に勃発した南北戦争では南部支持派と北部支持派が激しく争い、北部支持派が優勢に立った。しかし、黒人奴隷を保持していた白人もおり、富裕とは言えないクレメンズ一家も黒人奴隷がいた。暮らしが厳しくなると、その奴隷を売りさばいたが、その後も時に、奴隷をレンタルで雇ったりしていた。
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 彼の代表作『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)を読んで、心打たれるのは少年ハックと逃亡奴隷ジムとの友情だ。当時は教会の教えでも、逃亡奴隷に手を貸すことは罪悪と見なされていた。煩悶の末、ハックはジムとの友情を優先し、ジムを助けることを決意する。
 私はかねてからトウェイン専門家に尋ねたいと思っていたことがあった。作家の家は奴隷を代々所有し、作家は奴隷所有が認められた州で育った。トウェインは南北戦争勃発直後には南部の独立派に心情的に肩入れし、北軍に抗しようとするが、すぐに「見切り」をつけ、西部に仕事を得た兄に従い、カリフォルニアに向かう。これが結果的にトウェインを南北戦争の泥沼に引きずりこむことなく、後に作家として大成する契機となった。彼にとっても、現代に生きる我々にとっても、幸運な展開となったのではないか。歴史の歯車が一つ食い違えば、戦場で屍となった可能性があったのだから。
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 ニューヨークのエルマイラ大学にあるマーク・トウェイン研究所の所長、バーバラ・スネデカ博士は「そうですね。私もそう思います。(マーク・トウェインにとっては)大変幸運な展開になったと思います。彼がその当時奴隷制度に明確に敵対する意思表示をしていないことを指摘する批評家もいますが、彼は奴隷を所有することがごく当たり前の家庭に生まれ、育ったのです。黒人奴隷との触れ合いがごく自然な環境で育ったのです。そのことで彼を批判するのは見当違いでしょう」と語る。
 彼はハンニバルに越してからも、南西に約65キロ離れたフロリダにある伯父の家に足繁く通った。ここにはダニエルという名の中年の話し上手な黒人奴隷がいて、トウェインは彼の話に魅了される。この黒人奴隷が『ハックルベリー』で逃亡奴隷のジムのモデルとなる。作家としての「下地」がこの時代に育まれていったのだろう。
 (写真は上が、マーク・トウェインの生家。フロリダの「マーク・トウェイン記念堂」の中に保存展示されている。生家の中の様子。当時の質素な暮らしぶりがうかがえる。猫の縫いぐるみがかわいい)

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