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アメリカをさるく

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スーツケース戻って来て、お願い!

 いや、「おあと」の準備ができていたのか、私は火曜朝現在、結局ワシントンに着き、メトロに乗って、安いホテルがありそうな、いやそんな感じでもない、ビジネス街のカフェに入ってこのブログを書いて(打って)いる。
 オハイオ州のコロンバスという都市にあるグレイハウンドの停車駅で昨夜、ワシントンに行くバスもあることを知って、それなら初志貫徹でワシントンに向かうことにして、追加料金約30ドルを支払った。バスの最下部の荷物積載所に入るスーツケースのタグ(荷札)はフィラデルフィアのままであることから、切符を買った窓口のおばちゃんにタグをワシントンに付け替えてくれるよう頼むと、おばちゃんは「いや、そのままで大丈夫だよ」と言う。そうかなあと思いながらも、彼女の言葉を信じてバスに乗り込んだ。おばちゃんの説明ではバスは一旦フィラデルフィアに着いて、それからワシントンに向かうということだったので、それだったら、自分で荷物を確認できるという安心感もあった。受け取った新しい切符にはフィラデルフィア朝8時半着、ワシントン同11時半着となっていた。
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 バスはシカゴを出た時から文字通り鮨詰め状態。アムトラックや空の便がハリケーンの余波でまだ乱れているからだろうか。深夜もなかなか寝付けず、ほとんど一睡もできないまま、明け方携帯電話の時刻を見ると、朝8時半過ぎになっている。そろそろフィラデルフィアかなと考えていたら、バスが停車、乗客がぞろぞろ降りだした。フィラデルフィア?乗客に尋ねると、いや、ワシントンだよと言う。え、フィラデルフィア経由ではなかったの?思った以上に早く着いたので、狐につままれた感じで下車した。
 まあいいや。早く着いて良かった。取り急ぎ、ホテルを探さなくては、と思いながら、バスの荷物積載所にあるはずの自分のスーツケースを探す。ない!悪い予感がする。やはり、どこかの停車駅で私のスーツケースはフィラデルフィア行きというタグが付いていたので、そちらに仕分けられたのだ。貴重品は網棚に乗せられるキャリーバッグに入れているので、たとえ紛失しても大打撃とはならないはずだが、それでも再び手元に戻ってこなければ文字通り、不便は不便。着の身着のままの旅を余儀なくされる。
 ワシントンのグレイハウンドの窓口で紛失届けを済ませ、とりあえず、フィラデルフィアに回っているはずのスーツケースが無事ワシントンに戻されることを祈る。眠気も吹き飛んでしまった。やはり、自分で不安に思うことは自分できちんと最後までやり遂げないとこういう目に遭う。あのおばちゃんに悪気があったとはもちろん思わないが、それにしても、普通はちゃんとタグを付け替えろというのが常識だろうになあ。愚痴の一つもこぼしたくなる。
 スーツケースが無事に戻ってくれば、かつての同僚が勤務する読売新聞のワシントン支局を訪ね、東海岸での旅の間、これを預かってもらうことにしている。いや、さすがに本や何やらが加わり、段々と重くなる一方で、これを引きずっての旅はさすがにしんどい。
 (写真は、グレイハウンドのバス。おそらくこれが一番安い長距離の移動手段か)

フィラデルフィアへ

 前項で「おあとがよろしいようで」と書いたが、「おあと」の準備は全然できていなかったようだ。例のハリケーンの影響で土曜に出る予定だったシカゴ発ワシントン行きの列車がキャンセルとなったからだ。土日と連続してアムトラックがあるユニオンステーションに足を運んだが、週明けも「めど」が立たないという。
 この辺りがこの国はやはり車社会で、公共交通は二の次だとつくづく思う。シカゴほどの大都会の中心駅にもかかわらず、チケット売り場には列車の発着状況を知らせるスクリーンなどなく、窓口に到達するまで皆目見当がつかない。せめて運行再開のめどぐらいは告げてもらいたいと思うが、「木曜には運行できると聞いている」というぐらいで、あとは何も分からない状況だった。それを考えると、日本のJRや私鉄は素晴らしい。
 週明けには運行再開と思える気がするのだが、土地勘もないし、乗客が殺到して切符をうまくゲットできるか分からないので、仕方なく、先に購入していたアムトラックの土曜の切符(173ドル)は払い戻ししてもらい、少し離れたところにあるグレイハウンドのバス会社に向かう。
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 残念ながら、グレイハウンドもワシントン行きのバスは月曜は運行のめど立たずと言われた。困ったなと思いながら、フィラデルフィアとかも駄目なのと聞くと、フィラデルフィアへは走っていると言うではないか。よし、それなら、ワシントンをやめて、フィラデルフィアに向かおう。月曜朝にシカゴを出てほぼ丸一日後の火曜朝にフィラデルフィアに到着する便を購入した。115ドル。もともとワシントンに数日滞在してフィラデルフィアに入る計画だったので、少し計画が早まっただけとも言えなくもない。ホテルはワシントンの先約のホテルの変更、キャンセルのやり取りで少々疲れたので、現地に着いてから、安いところを探すことにした。
 ところで、東海岸はハリケーンで大きな被害が出ている模様だが、シカゴにいる限り、ずっとすごく快適な日々だった。暑さもようやく和らぎ、朝夕は涼しいぐらいだ。日中は時に公園のベンチに寝そべり、新聞や読書にいそしんだが、「命の洗濯」のような心地さえした。小さなリスがすぐ近くまでやってきて、体を起こし、前足を体の前で構え、まるでエサを欲しがるような可愛い所作を見せる。カメラを向けると逃げていく。
 そういえば、アフリカの旅ではこんなに「無防備」でゆっくりくつろいだことはあったろうかと思ったりする。絶えず、どこかで緊張感を抱いていた。第一、ここでいつも持ち歩いているナップザックや財布などの類は原則、持ち歩くことはなかった。ポケットに入れておく現金の量にもいつも気を遣った。ここではそういうことに今までのところ、ほとんど気を遣わないで済んでいる。もちろん、時々、「悪いやつもいるから、くれぐれも気を付けて」と助言してくれる人はいるが。
 (写真は、オークパークの沿線にある公園で日曜、バスケットボールに興じる黒人の若者たち。俊敏な動きは見ていておやっと思うほどの見事さだ)

「嵐」が来ている

 シカゴを出て、東のワシントンに向かおうとしている。この国の首都だ。ここも初めて足を運ぶ。宿は例によって、ネットで格安ホテルを探し、電話をかけて、なんとか自分の考えている予算で泊まれるところを見つけた。
 実はシカゴに来た直後はホテルに泊まっていたが、この一週間近く、ハンニバルで知り合った大学教授のラリーの家に泊めてもらっていた。「いつでも来てくれ。いつまでいたっていいよ」と言ってくれていた。節約旅行を心掛けている身にはまことにありがたい。彼が住んでいるのはシカゴから少し西に入ったオークタウンという市。CTAという列車がシカゴの中心部まで便良く走っていて、シカゴ郊外という感覚の閑静な住宅街だ。文豪アーネスト・ヘミングウェイが生まれた地として、また建築家フランク・ロイド・ライトが住み、彼がデザインした建築物が数多くあることで知られている。ライトは日本の帝国ホテル新館の設計でも知られる近代建築の巨匠だ。
 (ヘミングウェイについてはやがてフロリダ半島の先にあるキーウエストを訪問するつもりだが、オークパークにある彼の博物館でも作家の人生の一端に触れることができた)
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 ラリーは大学で看護学を教える妻のジュディと彼女の病身の父親トムとの3人暮らし。トムはがんの治療で全米で名の知れた医師だったが、87歳の今はパーキンソン病を患い、車いすでの生活。私とほぼ同世代のラリー夫婦の子供2人は巣立っており、3人で仲良く暮らしている。二人とも働いているので、日中、それに夜間も専門の介護士が家に来て、トムの世話をしていた。ラリーは「トムはユーモアもあり、頭も良く素晴らしい人格者。一緒に生活していていろいろ学べることばかりだよ」と語る。こういう家庭があるのもアメリカらしくていい。
 ところで、ワシントンを含む東海岸は今、大きなハリケーンが襲来しているとテレビやラジオが報じている。何でも今年の第1号とか。アイリーンという名前が付いている。台風が太平洋上をわが故郷宮崎に向かっている時は、パソコン上に「念」を飛ばして、その進路を「妨害」していたが、さすがにここでハリケーンにまで相手する気にはなれない。
 日曜のお昼過ぎにアムトラックでワシントン入りする予定だが、まさにそのころ、ハリケーンが近くに上陸するか通過しているはずだ。大きな被害が出ないといいが。
 今年か去年か忘れたが、福岡で時々投宿しているホテルにチェックインしようとしたら、「嵐が来ているんで、空きがないんです。申し訳ないんですが・・・」と丁重に断られたことがある。「え、そうなの。あれ、知らなったな。大きいのが来てるの?」「今では毎年恒例になっているみたいなんですよ」「いや、それは台風は毎年、来てるだろうけど・・・」「あのお、人気のあるアイドルグループのことなんですけど・・・」「あ、そおう・・・」
おあとがよろしいようで。
 (写真は、オークパークに残っているヘミングウェイの生家。彼はこの家で生まれ、高校時代までをオークパークで過ごしており、すぐ近くにはヘミングウェイ博物館もある)

セオドア・ドライサー(Theodore Dreiser)⑤

 ”An American Tragedy ” は20世紀初頭のアメリカの貧富の差が背景にある作品だが、米国民の貧富の差は今日に至っても歴然としているようだ。いや、その差は拡大しているとの新聞報道をつい最近見かけた。その記事は、この国の会社役員給与と社員平均給与の格差がこの30年の間に42対1から300対1に拡大したと憂えていた。
 また、日本同様、若者にとって仕事を見つけることが大変な状況がこのところずっと続いている。高校や大学を卒業したら、両親の元を去り、社会人となり独立するという図式が当てはまらなくなっているようだ。大学卒業後、親元に戻り、一緒に生活しながら、仕事の口を探す傾向が定着しつつあると聞いた。日本だったら、そう珍しくないが、この国では一昔前には考えられなかったことだと思う。
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 閑話休題、”An American Tragedy ” は石川達三の著書『青春の蹉跌』に似ているとどこかで読んだような記憶がある。彼は私が昔好きだった作家だ。学生時代に読んだ記憶があるが、もう大方忘れている。再読してみた。年齢を重ねて同じ作品に接すると、時として若い時には感じなかったことに気づいたり、新たな発見があったりするものだ。読書の魅力の一つだろう。『青春の蹉跌』もそうだった。興味深く再読することができた。
 この作品の主人公、江藤賢一郎は「立身出世は自分に当然約束されているもののように思っている」大学生であり、母一人子一人の貧しい暮らしからの脱却を夢見て、学問、それも専攻する法律分野だけの学問に励み、見事に難関の司法試験に合格する。それまでの学費を支援してきた後ろ盾の裕福な伯父には気位の高いお嬢様の娘の康子がおり、賢一郎の母親や伯父はこの娘との結婚を望む。ここまでは前途洋洋だったが、賢一郎には抗しがたい肉体の欲求から手を出した家庭教師時代の教え子の少女がいて、この少女が妊娠する。
 少女は家庭的な不幸もあって、賢一郎に必死に結婚を迫る。康子との内祝言を控え、自分が描いてきた「立身出世」の夢が崩壊することを恐れた賢一郎は転落への道を歩んでしまう。人間としての情を感じない賢一郎の性格や生き方に終始、憂鬱な気持ちで読んでいった。クライドに対して感じたのと酷似した憂鬱さだ。こちらの方は最高学府で学んでいるのだから、より「罪」が深いかもしれない。
 40年以上前の1968年に書かれた『青春の蹉跌』の底流にある青年期のエゴイズムは ”An American Tragedy ” 同様、普遍的なものなのだろう。
 余談になるが、私は新聞記者に成り立てのころ、東京・田園調布に住む石川達三邸を(文化部記者の助言でマスクメロン2個を手土産に)訪ね、自分が手がけていた連載企画の関連で取材したことがある。今は亡き大作家は私が恐る恐る口にした拙い質問に慈父のように穏やかに答えてくれた。あの時のことを懐かしく思い出す。
 (写真は、シカゴの中心部の昼下がり。ここで「不況」を感じることは難しい)

セオドア・ドライサー(Theodore Dreiser)④

 ドライサーがシカゴで短期間とはいえ、住んでいたことを承知していた。何らかの「足跡」が残されていないものだろうかと探し回ったが、無駄足に終わった。
 ミシガン湖を望む中心部のミシガン・アベニュー沿いに、The Fine Arts Building という古いビルがあり、そこの一室で、1900年代初期にボヘミアン的雰囲気のアーチストたちが毎週定期的に集う、”The Little Room” と呼ばれる一室があったらしいことを知った。雑誌の編集の仕事をしていたドライサーも当時、常連だったとか。このビルを訪ねてみたものの、部屋のかつての名前を示すプレートがあるぐらいで、さすがに当時の様子を伝えるものは残っていなかった。ただ、ビルは1885年に建設され、今もアート関係のオフィスとして機能しており、10階の最上階天井に設けられた二つの古めかしい天窓(skylight)やホールの壁に掲げられている絵画などに、それらしい雰囲気を漂わせていた。
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 そもそも、ドライサーと聞いて、今のアメリカで特に若い世代ですぐに「ああ、あの作家ね」と反応する人にぶつかることは珍しいのではなかろうか。私はそんな印象を抱いている。The Fine Arts Buildingの隣にあるルーズベルト大学でアメリカ文学を教えるプリシッラ・パーキンス准教授にこの疑問をぶつけてみた。
 「確かにそういう傾向ですね。彼の代表作の”An American Tragedy ” はかなりの長編です。wordy (冗漫)とも言える。学生たちが読むのは一苦労ですね。第一、例えば大学で教える側が躊躇(ちゅうちょ)するかもしれません。結果的に学生たちが読むことが少なくなる悪循環に陥っているのでしょう」
 ”An American Tragedy ” が現代のアメリカで読まれる意義はないのでしょうか。
 「小説の意義は現代のアメリカにとっても衰えていないと思います。多くの若者が社会の階段を上ろうとして感じる失望感などは今も共通するものがあるでしょう。ただ、現代のアメリカだったら、起きえない展開が作品中に見られることも事実です。ロバートが妊娠したことでクライドは振り回されますが、(未婚女性の妊娠が珍しくない)今はちょっと想像しにくい展開かもしれませんね。クライドがお嬢様のソンドラと結婚することで出世を目論むくだりもそうですね。第一、今はソンドラのような女性だったら、ドライサーが描いたような”a social butterfly (派手で社交好きな人)ではなく、大学でさらにキャリアアップを目指すようになっていたのでは」
 それにしても、クライドには魅力のない主人公ですね。
 「ドライサーは当時隆盛だった、現実をありのままに描き出す自然主義の作家であり、この作品にもそれが顕著に示されています。ドライサーは個人的な主人公としてのクライドではなく、彼のような人物を生み出す、彼の時代の社会的、経済的、文化的な環境に関心があったのであり、それを描いているのです。結果的にクライドが深みのない人物像となっているだけです」
 (写真は、The Fine Arts Buildingの最上階。シカゴの「歴史」を感じる雰囲気が漂う)

セオドア・ドライサー(Theodore Dreiser)③

 クライドは結果的にこの行為が「完全犯罪」となることを願い、ソンドラの元に走るが、「犯行」はすぐに露呈し、彼は逮捕され、伯父が雇ってくれた敏腕弁護士の詭弁に近い巧みな弁護も及ばず、死刑判決を受け、電気椅子に送られる。収監されたクライドは「俺は確かにロバータの溺死を目論んだ。しかし、実際に手を下したわけではない。ボートが転覆したのは偶然だった。溺れる彼女に救いの手を差しださなかったのは事実だ。しかし、俺はあの時、頭が混乱の極みにあったのだ」などと、罪の意識から逃れようとする。
 収監されたクライドが母親に祈りを託された牧師から罪を悔い改めるよう求められた後、次のように思う場面がある。
 But then again, there was the fact or truth of those very strong impulses and desires within himself that were so very, very hard to overcome. He had thought of those, too, and then of the fact that many other people like his mother, his uncle, his cousin, and this minister here, did not seem to be troubled by them. And yet also he was given to imagining at times that perhaps it was because of superior mental and moral courage in the face of passions and desire, equivalent to his own, which led these others to do so much better. (自分の中にある非常に強烈な衝動、欲望。確かに、これらのものを克服することは彼にとって、この上なく困難であることは事実であったし、真実でもあった。彼は過去にこのことに思いをはせたことがあった。なぜ、彼の母親や伯父、いとこ、そして今ここで相手をしてくれている牧師など、他の多くの人たちはそうした衝動、欲望に悩まされることがないのであろうかと。そのうえでなお彼は時にこうも想像してみたりした。自分が抱いたような情熱や欲望に駆られた時であっても、他の人たちは自分よりも優れた精神的かつ道徳的勇気を持ち合わせているから、自分のような愚かしいことはしないで済むのだろうと)
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 この青年、クライドの生き方に好感が持てないと①で嘆いた。好感が持てる人はおそらくいないだろう。だが、上記のシーンに至った時、私は彼に対し、少なからぬ同情の念を禁じ得なかった。私の人生も「衝動」と「欲望」に振り回されてきて、現在に至っているのではないか。私にはクライドの転落を批判する資格などないのではないか。いかん、この辺りでやめておこう。
 この小説は実際に米国で1906年にニューヨーク州で起きた事件がモデルになっているという。工場で働く青年が妊娠した恋人を殺害した事件で、青年は1908年に殺人罪で処刑された。ドライサーは1920年に執筆を開始し、中断時期を経て、1923年には事件現場や事件を裁いた裁判所にまで足を運んで取材を重ねたという。
 (写真は、シカゴはCTAと呼ばれる列車が市内を縦横に走っており便利。ホームも板張りで不思議な温もりを感じる。混み合うこともなく、のんびりした雰囲気がいい)

セオドア・ドライサー(Theodore Dreiser)②

 ”An American Tragedy” の最初の舞台はミズーリー州のカンザスシティ。貧しい街頭説教師の家に生まれたクライドは少年時代から自らも街頭説教の一員として街頭に立たされ、讃美歌を歌わされる。彼はそういう暮らしが嫌でたまらず、華やかな都会に出て豊かな暮らしを手に入れることを夢見る。全く付き合いのない自分の伯父がニューヨーク州のライカーガスで大きな衣服工場を経営、裕福な社会階層にあることを知る。シカゴのホテルで働いている時、偶然にその伯父と出会い、やがて彼の工場で勤務するようになる。
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 次の描写は、貧農の出の美少女、ロバータが豊かな生活を夢見て、クライドが勤務するライカーガスの工場で働くようになり、自分の境遇を思う場面だ。
 For there was a local taboo in regard to factory girls aspiring toward or allowing themselves to become interested in their official superiors. Religious, moral and reserved girls didn’t do it. And again, as she soon discovered, the line of demarcation and stratification between the rich and the poor in Lycurgus was as sharp as though cut by a knife or divided by a high wall.(工場で働く少女たちが職場の上司に憧れを抱いたり、興味を覚えたりするのは、この地域ではタブーだった。宗教を重んじ、貞節を大切にするよう育てられ、控え目に振る舞うことを求めらてきた彼女たちがそうした行動に出ることはなかった。ロバータはまたほどなく、ライカーガスでの貧富の差は明確に区分けされ、階層化されており、それはまるでナイフで鋭利に切り裂かれたか、高い壁で遮られたかのように歴然としていることに気づくのだった)
 クライドはお金はなくとも、経営者の甥であることや見てくれの良さから、ライカーガスの社交界で出入りすることが許されるようになり、やがて、自由奔放に生きる資産家のお嬢様で女性としての魅力にもあふれたソンドラと出会い、熱情的な恋に落ちる。クライドはソンドラが象徴する富と権力に酔いしれ、ロバータを捨てることを決意する。しかし、この時すでにロバータはクライドの子を宿していた。
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 ソンドラもやがてクライドに惹かれていく。彼女の母親はクライドの出自を疑問視、その交際に不快感を隠せないが、ソンドラはクライドとの結婚を意識するまでになる。ロバータが重荷になったクライドは身重の彼女を人気のない山中の湖のボート遊びに誘い、溺死での殺害を企てる。優柔不断の塊のようなクライドは直前に犯行を思いとどまるが、彼の苦悶の表情を見たロバータは思わず、クライドに寄り添おうとして動き、それを阻止しようとしたクライドの行動があだとなり、ボートは転覆、ロバータは水中に落ちる。泳ぎの得意なクライドは金槌(かなづち)のロバータを助けようと思えばできたであろうが、助けることなく、ロバータは溺死する。
 (写真は上が、午後5時過ぎのシカゴの中心部。仕事を終え、帰宅を急ぐ人で結構混雑していた。下は、その近くの広場で見かけた巨大なマリリン・モンロー像。今夏お目見えした展示期間限定のアートとか。多くの観光客が彼女の「足元」で記念撮影に興じていた)

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