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アメリカをさるく

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エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ③

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 『黒猫』の中で私が好きな部分は作家の人生哲学がうかがえる次のような表現だ。
 Who has not, a hundred times, found himself committing a vile or a silly action, for no other reason than because he knows he should not? (他に理由があるわけではない、やってはいけないことを承知しているからこそ、下劣な、あるいは愚かな行為を何度も何度もやってしまう、そういうことを経験していない人が果たしているものだろうか)
 私も身にしみてそう思う人間の一人である。
 ポーはアメリカ文学の中でどういう位置づけをされているのだろうか。フィラデルフィアの名門大、ペンシルベニア大学で文学を教えるデボラ・バーナム講師に尋ねてみた。
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 「彼はとても重要な作家であることは疑う余地のないことです。第一に、彼はアメリカで作家として生計を立てることを目指した最初の人物です。もちろん、19世紀前半の当時は著作権などといった概念もありませんでしたから、彼の優れた短編はヨーロッパで模倣される時代でした。当然、経済的には楽な仕事ではありませんでしたが」
 「ヘミングウェイなどは米文学はマーク・トウェインに始まると述べていますが」
 「トウェインとポーはアメリカ文学の両極にあり、作風も好対照をなしています。ヘミングウェイがトウェインを評価するのは無理からぬことです。平易な文章のトウェインの作風は、枝葉をそぎ取った淡々とした描写のヘミングウェイが継承し、精巧な描写を重ねたポーの作風はヘンリー・ジェイムズが継承したと私は考えています」
 「今の学生もポーの作品を読んでいますか」
 「私は講義でポーを読ませていますが、学生は彼の作品を喜んで読んでいます。(怪奇な出来事を描いた)ゴシック文学として興味を抱いているようですが。あなたが指摘した、誰もが心の中に抱えている ”perverseness” (道理に逆らった言動)などを描いた彼の作品は、これからも読み継がれていくと確信しています」
 ポーは1849年に旅先のボルティモアで死亡。47年には最愛の妻ヴァージニアに他界され、生きる希望を失い、飲めない酒に溺れた様子も見てとれるが、死亡の場面は不明な部分も多い。そうした点も彼のミステリアスさをあおっているのかもしれない。
 私は①でポーに「恩義」があると書いた。38年前にポーの家を訪れた時のことだ。当時家のドアノブの一つに触れると、文章がよく書けるようになるという言い伝えがあり、私も何度もそのドアノブを触った思い出がある。今回再訪してそのような言い伝えはもはやないことが分かった。ドアノブも新しくなっているのかもしれない。当時は新聞記者になることなど考えていなかったが、曲がりなりにも31年もの間、文章を書いて食ってこられたのもポーのお蔭と思わないでもない。私は心の中で2年前に生誕100年を迎えた作家に感謝の念を捧げた。
 (写真は上が、フィラデルフィア中心部の建国にまつわる史跡で目にした観光客の子供たち相手のイベント。下が、ポーの魅力について語るデボラさん。川端康成の『雪国』が好きだとか)

エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ②

 ポーは「私には難解な作家だ」と書いたが、好きな作品がないわけではない。短編の “The Black Cat” (『黒猫』)はもともと猫が大好きだからというわけではないが、何回か読んだ(気がする)。
 物語の語り手の私は「明日には死ぬことになっている身」であり、自分の心の重荷になっている事柄を明かそうとしている。私にとっては「ホラー」(Horror) 以外の何物でもないが、読者には「奇妙きてれつ」な話として映るかもしれないと警告した上で。
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 From my infancy I was noted for the docility and humanity of my disposition. My tenderness of heart was even so conspicuous as to make me the jest of my companions. (私は小さい時から従順でおとなしい性分だった。その優しさが際立っていたため、同じ年頃の男の子たちからはからかいの対象となっていた)
 このような生い立ちの告白は作家の幼少のそれであろう。そうした性分からペットに目がなく、若くして結婚した妻も語り手と同様、動物好きで、二人は他のペットとともに一匹の黒猫を飼うようになる。大きくて賢く、真っ黒の猫だ。プルートと名付けられた黒猫は私にとても懐くのだが、私がやがて過度の飲酒から常軌を逸する乱暴な言動に出るようになると、プルートでさえ私を避けるようになる。
 ある晩、いつものように泥酔した私は抱き上げようとしたプルートに指をかまれ、怒りの余り、プルートの片目をナイフで切り取る蛮行を犯してしまう。この蛮行に何らの良心の呵責を覚えなくなったころ、今度はプルートの首に縄をかけ、縛り首にしてしまう。悪いことだとは百も承知の上で。
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 その後、私は酒場で見つけたプルートによく似た黒猫を飼うようになるが、この黒猫が懐くにつれ、プルートを想起させずにはおかない黒猫に対し、不快感、やがては憎しみが募っていく。ある日、地下室に降りようとしていた私は黒猫が足にまとわりつき転倒しそうになる。怒りから手にしていた斧で黒猫に一撃を加えようとするが、妻に阻止される。今度はその妻に怒りの矛先を向け、斧で妻を殺害してしまう。
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 犯行後、私は妻の死体を地下室の壁の中に塗り込み、犯行を覆い隠す。犯行後4日目に何人かの警察官がやってきて、地下室を含めた家宅捜索をする。何の異常も認められず、地下室から立ち去ろうとする警察官に向かって私は「勝利」に酔いしれ、「この地下室の壁は強固そのものです」と語りかけ、妻を埋めた部分の壁を手にしていた杖でたたく。
 すると、壁の中から、最初は子供の泣き声のような押し殺した声が、続いて人間のものとは思えない甲高い叫び声が聞こえてくるではないか。茫然自失の私が見守る中、その壁に走り寄った警察官の手により壁が壊されると、そこから現れたのは・・・。
 (写真は上から、ポーが住んでいた家で行われている見学会。ここはポーがおそらく執筆に使っていた部屋。『黒猫』のモデル(?)になったとも言われる地下室。見学者を楽しませるために、おもちゃの黒猫が置かれていたが、十分ドキッとさせられた)

レイバー・デー

 昨日(5日)はアメリカはLabor Day(労働者の日) と称する祝日だった。土日を含めると3連休になり、この国ではこのレイバー・デーで長かった「夏」が終わり、「秋」が始まるらしい。ミッドウエスト(中西部)では夏休み明けの学期はとっくに始まっていたが、ここフィラデルフィアでは学校も今日6日からスタートらしい。
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 この週末は久しぶりにホテルの部屋でのんびり過ごした。疲れている感じではないが、やはり、いつも「移動」している感覚なので目に見えない疲れがあるのかもしれない。読書にいそしむことにした。が、テレビではゴルフや野球、漫画をやっていて、この漫画が実に面白い。いや、時間がいくらあっても、いや、体がいくつあっても足りない。夕刻、ベッドに寝そべって新聞を読んでいると、地元の強豪チーム、フィラデルフィア・フィリーズが同じナショナルリーグ東地区のライバル、アトランタ・ブレーブスと対戦するナイトゲームがあると書いてある。
 フィリーズの球場は今いるホテルからそう遠くはない。タクシーを飛ばせば、わけなく行ける距離だ。「夏」の最後の祝日だし、リーグを代表する強豪チームの対戦だ。切符は残っていないだろうなと思いながら、フィリーズのホーム球場であるCitizens Bank Park に電話を入れてみる。まだ売れ残っているのがあるらしい。急いで球場に駆け付けると、果たせるかな、外野席だが、割といい席(36ドル)が取れた。
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 日本人選手は比較的アメリカンリーグに多いので、ナショナルリーグのことは暗いが、それでもこの日対戦する両チームが好チームなのは承知していた。フィリーズを率いるのは日本でもプレーしたことのあるチャーリー・マニュエル監督。ヤクルトや近鉄時代に「赤鬼」というニックネームで大活躍した選手だ。もうかなりの年齢になっているはずだが、ここではチームの好成績もあって、チャーリーはすごい人気を博している。何の関係もない私もなぜかうれしくなる。
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 試合直前、スタンド内を見て回っていると、長蛇の列ができているコーナーがあった。Crab Fries と呼ばれるフレンチフライを売っているようだ。売店の側で休憩していた店員に「うまいの?」と聞いていたら、「食べたことないのかい。よし、僕がおごってあげよう」と一つただでくれた。いや、そういうつもりで聞いたわけではないが。適度の辛味があって、ビールによくあった。
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 小雨模様の天候にもかかわらず、球場はほぼ満席だった。発表された入場者数は45,267人。見渡す限り、赤が基調のフィリーズのユニフォームのTシャツを着たファンで埋まっている。私もにわかフィリーズファンとなり応援。エースが完封し、9対0で圧勝するゲーム。四番のライアン・ハワードもホームランを放つなど、フィリーズファンには幸せ満喫の一夜となった。私も両隣のファンと何度かハイタッチをすることになった。
 (写真は上から、フィリーズのホーム球場。私の目にはほぼ満席に映った。ただでもらったCrab Fries。フィリーズの圧勝でゲームセット、左隣の女性客2人も大喜びだった)

エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) ①

 1809年にボストンで生まれ、1849年にボルティモアで没しているから、19世紀前半のアメリカを駆け抜けた作家だ。彼に酔心して「江戸川乱歩」と名乗った日本人推理作家を通して、ポーに出会った人もいるかもしれない。正直に言うと、幾つかの短編以外はどうも理解しづらいところがあり、私には難解な作家だ。
 ポーの一般的イメージとしては、「破滅的な生活を送った詩人」あるいは「怪奇な幻想的世界を構築した作家」「推理小説のジャンルを確立した才人」などといったところだろうか。阿片中毒説や人格破綻者といった中傷などから、本国では世紀が変わり、第1次大戦後まで正当に評価されることはなかったが、フランスを中心に海外では熱心な信奉者がいた。
 私は前回記したように、1974年に留学していた時、たまたまフィラデルフィアでポーが住んでいた家を訪れたことがあった。その時の「恩義」があり、今回の文学紀行の題材の一つにした次第だ。
 ポーはともに旅役者のアイルランド系の父親とイングリッシュ系の母親の間に誕生。しかし、父親は生後すぐにいなくなり、母親も彼が2歳の時に死亡したため、彼は養父母の元で育てられる。厳格な養父とは後年そりが合わなくなったようで、特にポーが酒が飲めない体質なのに酒を覚え、ギャンブルに手を出すようになってからは二人の関係は冷え切ってしまう。その後、伯母のクレム夫人の寵愛を受け、ポーは33年、まだ13歳だったクレム夫人の娘でいとこにあたるヴァージニアと結婚する。
 養父の庇護にあった時は大学や士官学校で学んだこともあったが、雑誌の編集の仕事を経て、本格的に作家の道を目指す。ただ、作家としてその名が広く知られるようになってからも貧窮の中での生活を絶えず余儀なくされたようだ。
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 彼が結婚後にフィラデルフィアで住んでいた家の一つが今では国の史跡に指定され、記念館のようになっている。独立宣言にまつわる史跡を見学する観光客で賑わう中心街から7番通りを北に向かって歩く。段々と人通りが少なくなる。歩いている人はほとんど見かけなくなる。夕暮れにはあまり周辺は散策したくないような印象だ。”Edgar Allan Poe National Historic Site” という案内表示が見えてきた。おお、ここだ、ここだった。
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 説明文を読むと、ポーは1843年から44年にかけ、この家でクレム夫人、ヴァージニアの三人で暮らしていた。この家に住んでいた時、彼の代表作の一つと見なされる短編『黒猫』(The Black Cat)や『黄金虫』(The Gold-Bug) が発表された。ポーがここで暮らした日々は彼の短い人生で最も幸せな期間であったのだろう。だが間もなく、病弱のヴァージニアは当時不治の病だった「結核」で寝たきりの生活に追い込まれていく。妻の病気もあり、ポーは控えていた酒に再び手を出すようになり、彼自身が「狂気」と「ひどい正気」 “horrible sanity” の連鎖と呼んだ日々にさいなまれていく。
 (写真は上が、国の史跡になっているフィラデルフィアの一角にあるポーの住居を示した案内表示。下が、その家。来訪者はドアノッカーを一度たたくことになっていた)

懐かしきフィラデルフィア

 ワシントンを出て、ペンシルベニア州のフィラデルフィアに入った。トーマス・ジェファーソンやベンジャミン・フランクリンらによって、1776年、この国の独立宣言が署名された地として知られている。アメリカはここから生まれた。英国から独立を果たすまではフィラデルフィアこそアメリカを代表する都市、当時はロンドンに次ぐ大都会であり、独立後も1790年から1800年まではここが首都とされていた。
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 実はフィラデルフィアは1974年の冬、留学していたジョージア州から一度だけ足を運んだことがある。37年ぶりの再訪だ。今回の旅でぜひ、訪れたいところがあった。当時、貧乏学生の私を快く受け入れてくれた日本人宣教師、ピーターさん夫妻の家だ。ご夫妻は既に帰国されており、もはやその家に知っている人が住んでいるわけではないが。
 記憶も定かではないが、その家で新年をはさんだ2週間程度お世話になった。クリスチャンでもない私はただ単に日本人というだけで、その家を訪ね、食事から何から面倒を見ていただいた。私は世間知らずの20歳の学生。今から考えると、よく見ず知らずの人の家にお世話になったものだと思う。ずっと南部ジョージア州の小さな町での暮らしだったから、北部の州の大都市の空気が吸いたかったことだけは覚えている。
 ピーターさんの奥様の久子さんは確か、2人目の赤ちゃんが生まれたばかり。上のまだ幼児の男の子と時々一緒に遊んだような、いや、彼が遊んでくれたような。夕方になると、この子が最上階(3階)の部屋をあてがってもらっていた私に “Nasu-saan, the dinner is ready” といつも澄んだ大きな声で呼んでくれたことを覚えている。
 久子さんとは私が大阪勤務の時に再会した。ピーターさんは今では芦屋(兵庫県)を拠点に「子羊の群れキリスト教会」という布教活動を世界中で展開されている。今回の旅の前にも久子さんとは芦屋で会い、旅の無事を祈っていただいた。
 久子さんと私は偶然だが、誕生日が同じ2月5日。ジョージア州の大学に戻って間もなくその年の誕生日に彼女からバースデイカードが届いた。封を開けると、50ドル紙幣が1枚入っていた。「今のあなたにはこれが一番ありがたく思うことでしょう」との添え書きも。事実その通りだった。山間部の農家の出身で、親父がなくなり、長兄が跡を継ぎ、その長兄に無理言って、1年間留学させてもらっていた身。お金がなくて侘しい思いをしたことはないが、可能な限り「質素」な留学生活を送っていたことは間違いない。カードに包まれていた50ドル紙幣が輝いて見えた。
 さて、そのフィラデルフィア。さすがに何も覚えていない。もともと駆け足で訪ねた地である。ここはエドガー・アラン・ポーが一時期住んで代表作が出版された地でもある。彼の住居が国の史跡となっており、私もかつて足を運んだことがある。少しだけ、ポーの文学について書いてみたい。
  (グレイハウンドバスの停車駅はチャイナタウンに隣接していた。あなうれし。最初に目に入ったお店に飛び込み、チャーハンとスープをかき込んだ。味はぎりぎり及第点)

スミソニアン博物館

 首都ワシントンは思ったよりのびのびした印象の都市だった。一つには、シカゴで見かけた超高層ビルが皆無だったことに起因しているのかもしれない。何でも、昔から法令により、中心部のモールの一角に立つThe Capitolと呼ばれる国会議事堂より高いビルは建築できないようになっているとか。
 それもあって、都市全体の見通しがよく、緑や公園も多く、何だか、ほっとした気分にさせられる感じなのだ。このあたりの都市計画はさすがと言うべきだろうか。
 数日間の滞在だったから、欲張らずにかなりの時間をスミソニアン博物館の中の一つ、国立自然博物館 (National Museum of Natural History) で過ごした。ここ一つだけをじっくり見学するだけでも二三日必要かと思うほどの中身の濃さだった。私が特に興味深く見たのは、Race と題した特別展示だった。
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 すでに何度も書いたと思うが、私は人種(レイス)、民族(ネーション)、部族(トライブ)、エスニシティーと呼ばれるものにずっと関心を抱いている。人はなぜ、肌の色が異なるだけで違和感を覚えるのか、不信感を抱くのか。アメリカに関して言えば、白人はなぜ、黒人やアメリカインディアン、アジア系の人々を差別してきたのか。
 特別展では、人は皆、同じ祖先を持つとの観点から、人種的差異にこだわることの無意味さ、愚かしさを指摘する一方、歴史的には目に見える人種的差異から奴隷制度が生まれ、民族迫害が至るところで起きたことを紹介していた。さまざまな肌の色のアメリカ人が自分の人生を振り返るビデオ映像のコーナーで見た白人男性の回想が印象に残った。1951年南部ミシシッピ州生まれのこの男性は自分が6歳の時に何気なく体験し、それが自分のその後の人生を「規定」したエピソードを語っていた。以下がその概略だ。
 暑い夏の日、クリスチャンで教養豊かで心優しい近所の婦人の家で、黒人の庭師と話をしていた。ジョーという名の70歳代の庭師だった。婦人が近づいてきて、何を話しているのと尋ねた。当時、私たち子供は目上の人には男性ならMr、女性なら Mrsと名前の前に付けることを躾けられていたので、私は “I was talking with Mr Joe….” と説明し始めたら、優しさの塊のような婦人は顔をしかめて私に、”Joe is not a Mr. Joe is a n―.” という今ではタブーのNワードを使って、黒人にMrの敬称を付けて呼ぶことをたしなめた。私は6歳のこの時、自分たち白人は黒人より優れていて、彼らより優位な立場を享受するのは理の当然なのだと認識した。そしてその認識のまま、何の罪悪感もなく大人となった。1988年、キング牧師暗殺20周年の特集番組をテレビで見ていて、60年代にキング牧師や黒人の人権活動家を罵っていた白人の群衆が映し出された。彼らは私の父であり、伯父であり、そして私自身だった。私は自分が「加担」してきた罪に初めて気づかされた。 
 私の側では黒人の女性が一人、頷きながらこのビデオに見入っていた。
 (写真は、ワシントン中心部の公園にあるキング牧師の像。今夏完成したばかり。多くの観光客で賑わっていた。首都の新たな観光名所の一つとなることは間違いないようだ)

スーツケース見つかった!

 先にスーツケースが紛失したことを書いた。「貴重品はキャリーバッグに入れているので、たとえ紛失しても大打撃とはならないはずだ」とも。
 しかし、あれからスーツケースに入っているものを思い出していたら、とても憂鬱になった。出発前に両替していたドルの大金とかクレジットカード、パスポートといった死活的に重要なものはスーツケースではなく、旅の途上でも手元に置けるキャリーバッグに入れていたので、その点では心配はなかった。
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 それでも、次のような品々が頭に思い浮かんできた。まだ一度も「お世話」になっていないが、郷里の友人(先輩)がプレゼントしてくれた解熱剤と整腸剤。行き付けの理髪店からいただき、アフリカの旅以来重宝している電池バリカン。坊主頭の私は3週間もほっとくと、ホームレスのような風貌になる。書籍も20冊程度入れてあった。
 衣服。真冬になる前には帰国するつもりだったから、秋が深まるころまでは過ごせるジャンバー、ズボンにもろもろのポロシャツ、下着、靴下。歯間ブラシ。はさみ。おお、そうだ。長兄からもらっていた郷里の銀鏡神社の夜神楽のCD。これは日本の伝統芸能に関心のあるアメリカの人に見せたいと持参したもので、私にとって絶対になくしたくないものだ。
 昨日は憂鬱な気分でグレイハウンド会社からの電話連絡を待ったが、連絡は来なかった。仕方ないので、初めてのワシントンの見学に出かけたが、気分は一日晴れなかった。
 一夜明けて、早朝、バス会社に何度目か思い出せない電話を入れてみる。見つかった。良かった!今日見つからなければ、下着と靴下、ポロシャツを買うつもりだった。
 それで、改めて思った。この国の不思議な現実を。旅先では一番心配なのは貴重品の盗難だ。この2か月、アムトラックと呼ばれる鉄道とグレイハウンドというバスを利用して移動している。アムトラックではスーツケースのような大きな荷物は座席から離れた荷物保管所のようなコンパートメントに置かれる。しかし、タグ(荷札)は付けてくれない。長距離の旅では時には2昼夜も手元から離れているわけだから、さすがに心配になる。途中駅で他人が持ち去らないだろうか。最初のころは心配で時々、保管所まで行ってスーツケースがあることを確認していた。
 バスでは網棚に置けない大きな荷物は先述したように最下部の荷物積載所に置く。これはタグを付けるから、少しは安心する。今回もタグがあったから、無事見つかった。
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 心配性の私はやはり、少しの時間でも手荷物を自分の目が届かない場所に置いておくのはできれば避けたい。だから、なくなったらその先の旅がアウトになる貴重品は常に手元に置けるキャリーバッグに入れておくようにしている。今回の一時紛失はともかく、幸い、今回の旅で私はこれまで盗難の被害に遭っていないことを考えると、この国では上記のようなやり方でも問題がないということか。何と表現していいのか言葉に詰まる。
 (ワシントンはホワイトハウスやスミソニアン博物館など観光名所ばかり。写真上は、ホワイトハウスの前で記念撮影するスペインの観光客。下は、夕暮れ、中心部のモールと呼ばれる公園でソフトボールに興じる人々。奥に見えるのはワシントンモニュメント)

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