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アメリカをさるく
スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)⑤
- 2011-09-18 (Sun)
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フィッツジェラルドはこの作品に着手する前も書き終えた後も、かなりの手応えを感じていたようだ。当時住んでいたパリからアメリカの編集者に書き送った手紙には、”I think that at last I’ve done something really my own.” (私はついに真に私自身のものと呼べるものを完成させたと思う)と述べている。
しかし、1925年の刊行直後の書評はあまり芳しくなかった。ある批評家は ”We are quite convinced after reading The Great Gatsby that Mr Fitzgerald is not one of the great American writers of today.” (The Great Gatsbyを読み終えて、フィッツジェラルド氏が今日、アメリカの偉大な作家の一人とは言えないことを私たちは思い知った)とまで酷評したという。そこまで言うか。売れ行きも思わしくなかった。
彼の晩年もあまり静穏なものではなかったようだ。熱情的恋愛で結ばれ、パリで暮らすなど派手な生活を一緒に送った愛妻は精神を病み、最後には施設に収容された。彼は西海岸のハリウッドで映画のシナリオを書く仕事に就き、病妻や一人娘の生活を支えたが、時に酒に溺れる日々もあったという。最後まで創作意欲は衰えなかったものの、1940年、持病のようになっていた心臓発作で死去。皮肉にも死去後、作家と彼の代表作に対する評価は一気に高まっていった。
NY在住でフィッツジェラルド協会の代表でもあるルス・プリゴリ教授は小説を読み解くかぎは、南北戦争を経て第一次大戦後の米社会で起きていた、農業国から工業国への、さらに大資本ビジネスが勃興する激しい変化にあると指摘する。「誰もが成功を求めてNYのある東を目指したのです。主要登場人物が中西部出身である必然性があったのです。語り手のニックは結局、ギャッツビーが敗れ去った華やかさの陰の部分や腐敗に辟易して、一時的にせよ、中西部に戻ることになるわけです」
私がNYに来て公立図書館でたまたま借り出して読んだ ”The Great Gatsby” (1998年版)はプリゴリ教授がIntroductionを書いていた。その中で教授はその序論を “ At the end, despite the powerful image of loss, we share Gatsby’s romantic hope; like him we are beating against the current. Surely that image of the individual pursuing his destiny, however fruitless that pursuit may prove, is the greatness of Gatsby, and perhaps of us all. (最終的に喪失の大きなイメージにもかかわらず、我々はギャッツビーのロマンチックな希望を共有している。彼のように我々も流れに抗して突き進んでいる。疑うことなく、個人が自分自身の運命を追求する姿は、その探求がいかに実りのないものであったとしても、ギャッツビーの偉大さと重なるものであり、それは我々すべての者にとって等しく言えることだ)と締め括っている。
先に紹介したドライサーの “An American Tragedy” も同じ1925年の刊行だ。悲劇をテーマにした名作二つの読後感は極めて異なる。
(写真は、作品にも出てくる33番街のペンステーション)
スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)④
- 2011-09-16 (Fri)
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”The Great Gatsby” の中でギャッツビーは “old sport” という呼びかけを多用している。何と訳せばいいのだろう。この作品は若者に人気のある作品だけに今なお新訳が刊行されているようだ。確か村上春樹氏の新訳本ではあえて日本語に訳することはせず、「オールド・スポート」と記していたような記憶がある。これも一つの訳し方だとは思うが、それでも、「日本語」としては意味をなさない呼びかけであることに変わりはない。
私が使っている電子辞書の英英辞典にはこの表現は「主に男同士で親しい間柄で使う呼びかけ」と紹介されている。「マイフレンド」といった表現では不十分なようだ。私は何となく「お前さん」という表現が頭に浮かんだ。夫婦関係で使われる「お前さん」ではない。ある程度の親しい関係にあり、使う方が多少なりとも年長、優位な立場にある時に使われる「お前さん」だ。例えば、ギャッツビーがニックに向かって次のように言う時は、「お前さん」がぴったりとも思えないでもない。“If you want anything just ask for it, old sport.” (欲しいものは何なりと声をかけてくれ、お前さん)
「お前さん」という呼びかけはそう呼ばれることに相手が不快感を抱くような場合は使えない。”old sport” が「お前さん」と「似ているかな」と思ったのは、恋敵の金持ちの男、トム・ブキャナンがギャッツビーからこう呼ばれて激怒するシーンに出くわした時だ。
“Don’t you call me ‘old sport’!” cried Tom. Gatsby said nothing.(「俺のことを『お前さん』などと呼んでくれるな!」とトムは叫んだ。ギャッツビーは何も答えなかった)
この応酬の前にも、トムとギャッツビーの間で次のようなやり取りがある。
“That’s a great expression of yours, isn’t it?” said Tom sharply.
“What is?”
“All this ‘old sport’ business. Where’d you pick that up?”
「それはあんたのすげー表現だな。思うに」とトムはとげとげしい口調で言った。
「え、何がだい?」
「さっきからあんたが口にしている『お前さん』って物言いだよ。いったいどこで覚えてきたんだい?」
この旅を始めてからも多くの場所でアメリカの人たちに、この表現について尋ねてみた。誰もが認めるのは、意味は分かるが、もう誰も今はこんな表現などしないということだった。さらに、もし誰かがこういう呼びかけ仲間内でしているのを耳にしたなら、「あいつ、なんだか気取った物言いをしているな。偉そうに」と思うかもしれないということだった。
ギャッツビーがあえてこの呼びかけに固執したのは、当時のイングランドの上流階級のような物言いをすることで、自分の貧しい出自を「薄め」、周囲に「成金」と思われたくないという思惑があったからではないか。
私の現時点での結論は “old sport” は「貴公」と訳すべしだ。
(写真は、NYのセントラルパーク。大都市の真ん中でもこのような静寂感が)
スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)③
- 2011-09-15 (Thu)
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語り手のニックに親しみを覚えるシーンがある。次のような記述のところだ。
I took dinner usually at the Yale Club—for some reason it was the gloomiest event of my day—and then I went up-stairs to the library and studied investments and securities for a conscientious hour. There were a few rioters around, but they never came into the library. So it was a good place to work. After that, if the night was mellow, I strolled down Madison Avenue past the old Murray Hill Hotel, and over 33d Street to the Pennsylvania Station.
I began to like New York, the racy, adventurous feel of it at night, and the satisfaction that the constant flicker of men and women and machines gives to the restless eye. I liked to walk up Fifth Avenue and pick put women from the crowd and imagine that in a few minutes I was going to enter into their lives, and no one would ever know or disapprove. Sometimes, in my mind, I followed them to their apartments on the corners of hidden streets, and they turned and smiled back at me before they faded through a door into warm darkness……
(私はいつもは、エールクラブで夕食を取った。ともかくも、これは一日のうちで最も陰鬱なひと時だった。食事を済ませると、上階の図書室に上がり、投資や有価証券について1時間ほど入念に勉強した。下の階では大騒ぎする者たちもいたが、図書室までやって来ることはなかった。学習するには適した場所だった。その後は気分の良い夜であれば、私はマディソンアベニューを古びたマレーヒルホテルを見やりながら歩き、33番通りにあるペンステーションまで散歩した。
私はニューヨークが好きになりつつあった。夜のきわどい心が躍るような感触、男と女や自動車や列車が絶えずせわしなく行き交うのを目にする時の満足感。私は5番街を歩き、群衆の中から好みの女性を選び、彼女たちの生活に入っていく自分の姿を想像したものだ。誰にも知られることなく、とがめられることもない。時には心の中で、人目につかない通りの角にある彼女たちのアパートまでつけて行く自分を思い浮かべたりした。彼女たちは振り向き、私に微笑みを投げながら、ドアを開け、柔らかい暗闇の中に消えていく)
私も連日、NYの五番街を中心に歩き回っている。まだ、肩をむき出しにしたサマーウエアで闊歩する肉付きの良い若い女性は少なくない。時に、ニックのような「妄想」に身をゆだねたくなる時がないこともない。いや、訂正。ほとんどない。
上記の文章に出てくるエールクラブはアイビー・リーグの一つ、エール大学の卒業生が集うクラブで、今も同じ場所にある。先夜、知人に連れていってもらったが、ジーンズにスニーカーといういつもの装いだったため、ドレスコードに触れ、お引き取りを願われれてしまった。黒っぽいジーンズでスニーカーも黒だから、ぎりぎりセーフかと期待していたが、さすがに見破られてしまった。
(写真は、伝統と格式を重んじるNY市のエール・クラブの正面玄関)
スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)②
- 2011-09-14 (Wed)
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ギャッツビーがニックに近づいたのは、単にご近所になったからだけではない。彼がずっと恋焦がれていた恋人、デイジーと近しい関係にあったことを知ったからだ。ギャッツビーはこの昔の恋人と再会できるよう取り計らってくれることをニックに懇願する。
そして、彼の望む通り、二人の仲は復活する。この時すでに、デイジーにはトムという傲岸不遜な夫がいたのだが。だが、夢が長続きすることはなかった。物語の終盤では文字通り、悲劇が待っている。ギャッツビーは富も愛もそして命までも失ってしまう。最愛のデイジーがギャッツビーの元に再び駆け寄ることはなかった。
語り手のニックが小説の最後にギャッツビーの短い人生、悲劇を思うシーンは以前に読んだ時には気にも留めていなかったが、再読して改めて考えさせられた。次の場面だ。
That’s my Middle West – not the wheat or the prairies or the lost Swede towns, but the thrilling returning trains of my youth, and the street lamps and sleigh bells in the frosty dark and the shadows of holly wreaths thrown by lighted windows on the snow. I am part of that,…..I see now that this has been a story of the West, after all – Tom and Gatsby, Daisy and Jordan and I, were all Westerners, and perhaps we possessed some deficiency in common which made us subtly unadaptable to Eastern life.
(これが僕にとっての中西部だ。小麦やプレーリーでも消滅したスウェーデン人の開拓町でもない。若い時分に胸をときめかせながら、よその町から戻ってきた列車の旅であり、霜の降りた暗い通りに立つ街灯であり、聞こえてくるそりのベルであり、雪の積もった窓辺に見えるクリスマスの花輪の影であった。・・・僕は今はこれがつまるところ、西部の物語だったということが理解できる。トムもギャッツビーも、デイジーもジョーダンも僕も皆西部の人間だった。そしておそらく、我々は皆何か足りないものがあって、だから、東部での暮らしにどこかしらなじめなかったのだということが理解できる)
これまであまり米国の地域的差異は意識してこなかった。この作品でも語り手のキャラウェイが中西部のどこかの都市の出身であることは理解していた。トムもしかり。デイジーはケンタッキー州のルーイビル。ギャッツビーは作家と同じミネソタ州の出身だった。
彼らにとってニューヨークは「異国」だったのだろうか。そういえば、今回の旅、珍しい客人として歓待された中西部では、私がやがてNYに行く予定と伝えると、ほぼ誰もが「気をつけなさい。東海岸の人たちは抜け目ないから。言葉も早口で理解に苦しむかもしれない」と「忠告」してくれた。日本とアメリカのそれぞれの土地柄を同じように比較できないだろうが、ニューヨークを東京に置き換えれば、日本の地方出身者が上京して暮らしていこうとする時にとらわれる思いに似てはいないだろうかと思った次第だ。宮崎出身で大学までずっと宮崎だった私は少なくとも就職で上京する際、何とも言えない複雑な思いを抱いたことを昨日のように覚えている。今も少し残っているような気がする。
(写真は、NY中心部の公園でピンポンに興じる人たち。実に居心地のいい公園だ)
スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald)①
- 2011-09-13 (Tue)
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以前にも書いたことがあるが、一度読んだ本は大事な要素はもちろん、粗筋など大半の部分は承知していると思いがちだ。何かの折に再読してみて、「おや、こんな記述があったのか」などと意外に思いながら、読み進むこともままある。アメリカ文学の傑作の一つと目されているこの本、”The Great Gatsby” (邦訳『偉大なるギャッツビー』)は私にとってそういう一冊だった。
この作品は1925年の出版で、1920年代のアメリカ社会のムードを反映していると評されている。第一次大戦が終了して、アメリカが世界に冠たる先進的民主経済国家として自信に満ちていた時代だ。私が読んだ本の背表紙には “The Great Gatsby is a consummate summary of the ‘roaring twenties’ and a devastating expose of the ‘Jazz Age’.(グレートギャッビーは「狂騒の20年代」を余すところなく描き出し、また、「ジャズの時代」を完膚なきまでに暴露している)との紹介文が掲載されていた。”roaring twenties”は私の電子辞書には”the years from 1920 to 1929, considered as a time when people were confident and cheerful”と説明されている。アメリカという国がそして国民が「自信と活気」に満ちていた時代だったのだろう。
冒頭に近い次の一節などは、今読めば、少しく手が止まる部分だ。え、あのニューヨークのマンハッタンにある五番街がそういう牧歌的な雰囲気だったのかと。
We drove over to Fifth Avenue, warm and soft, almost pastoral, on the summer Sunday afternoon. I wouldn’t have been surprised to see a great flock of white sheep turn the corner.(我々はその夏の日曜日の午後、五番街に車で向かった。牧歌的といってもよさそうなほど、日差しが暖かくかつ柔らかだった。通りの角を曲がったところで、白い羊の大群に遭遇しても僕は驚かなかったことだろう)
今は「白い羊の大群」ではなく、デジカメを手にした「観光客の大群」が徘徊している。
物語の語り手であるニック・キャラウエイは主人公のジェイ・ギャッツビーの豪邸の隣に越してきた縁もあり、彼が豪邸で催したパーティーに招かれる。ギャッツビーはその巨万の富の出所が誰にも不思議がられ、やれ、「人を殺した経歴がある」だの「(第一次)戦争中はドイツ軍のスパイだった」だの、ネガティブな謎に包まれた人物だ。目の前にいるギャッツビーが本人だとは気付かずに、ニックは「いや、自分は隣に越してきたんだが、まだ、ホストに会ったことがないんだ。彼のお抱え運転手に招待状を届けられたから足を運んだんだけどね」と出会ったばかりの男に話しかける。その男は言われた言葉が理解できないかのような顔をして、「私がそのギャッツビーだよ」と答える。ニックの当惑は当然だ。取材で電話をかけた相手に話が通せず「失礼ですが、どちら様ですか」と尋ねたりすることがあった私にはこの当惑感はよく分かる。関係ない話だが。
(写真は、NY五番街の賑わい。ここでNYは東西に分かれる。「ウエストサイド物語」はこの西側の物語。何を食ってもうまい私はなぜかウエストサイズ物語になりつつある)
ニューヨーク雑感
- 2011-09-12 (Mon)
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9・11の10周年は懸念されたNYでのテロもなく、無事に過ぎようとしている。金土日と市内を歩き、だいぶ町の様子が分かってきた。ただ、私は昔から悲劇的な「方向音痴」。町に慣れるのに人一倍時間がかかる。ビルに入って階段を上がり、少し右左しただけで、すでに自分がどこから入ってきたか分からなくなる。もとより、東西南北の感覚がない。地下鉄や列車に乗っていて常に感じるのは、どうも自分が目指している方向とは逆の方向に向かっているのではないかという思いだ。人生もそうかもしれない。
それはそれとして、NYに滞在して数日。以下に気づいたことを少し。
ミッドウエストでは秋の気配を感じる日々で、朝夕は涼しい感じだったが、ここはまだ日中は蒸す感じだ。汗ばむこともある。日本と似ていると言えようか。
この週末は当然のことながら、行く先々で、9・11の10周年の追悼イベントに出くわした。地元の高級紙、ニューヨークタイムズ(10日)を読むと、にぎにぎしい公式追悼イベントは敬遠し、この週末は郊外に出かけ、家族や近しい人たちだけで9・11日を迎えたいというニューヨーカーも多いとか。
街に捨てられたごみが多い。地下鉄の線路わきや通路とかにごみが散乱している。汚いとまでは言わないが、もう少し何とかならないか。その地下鉄は便利は便利なのだが、日本の地下鉄と異なり、路線図やプラットホームの案内があまり分かりやすいものではなく、私のような「お上りさん」には戸惑うことしきり。何度も反対側の電車に乗ってしまった。
最初に乗った地下鉄の車内の片面全体に、ユニクロが10月中旬にNYに超大型店を開店するとの広告が張り出されていて、目を見張った。
泊まっている宿(ホステル)のインターネット事情が芳しくないので、街角のカフェでネットにアクセスしてメールを確認したり、ブログをアップしているが、NYの中心部でもネットのアクセスができるお店は少数派。そういうカフェを探して30分ぐらい歩くことはしょっちゅう。とてもニューヨーカーが自慢する「世界の中心」にいるとは思えない。
NYは邦人の数も半端ではないようだ。居住者だけで6万人以上とか。当然、日本の飲食店と大差ないうまい居酒屋やレストランがある(ようだ)。紀伊国屋の大きな書店もあった。「週刊文春」を立ち読みした後、「週刊新潮」の最新号(9月15日号)を購入する。日本では340円だが、ここでは8ドル(約660円)だから、2倍の値段か。
地元の人に聞くと、治安はいいようだ。観光客であふれ返っている中心部は特にそうだ。私のホステルは観光ルートから離れた、少し寂れた感じの住宅街にあり、いろいろな肌の色の人たちが住んでいるが、夜中にうろうろしていても大丈夫な感じだ。9・11がNYの人々の「連帯感」を育んでいるのかもしれない。
(写真は上から、マンハッタンの真ん中にあるブライアント・パーク。テロでなくなった2753人を追悼する意味で、2753人分のイスが並べられていた。その側では、9・11をどう考えるか、通りがかりの人を対象にした「聞き取り調査」が行われていた)
ニューヨーク着
- 2011-09-10 (Sat)
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フィラデルフィアからアムトラックの列車で北上すること約1時間半、ニューヨーク(NY)に到着した。
行方不明から戻ってきたスーツケースを結局、読売新聞社のNY支局に預かってもらうことにした。これでしばらく身軽に旅ができる。かつての同僚のNY支局長にいろいろ地元事情を説明してもらい、当面の宿に向かう。さすがにNYはホテルが手が出ないほど高い。フィラデルフィアのホテルと同じ系列のホテルを当たってみたが、一晩300ドル(約25,000円)を超す値段だ。こんなホテルに泊まっていたら、懐が干上がってしまう。
それで、若者が泊まるホステルをネットで探したが、それでも一泊70ドル程度。4人が二段ベッドに寝る相部屋で、バストイレは10人以上の同宿者と交代で使う。私がもう少し若ければ何でもないかと思うが、この歳になって20歳代の若者との「共同生活」もなんだかなあと思わないでもないが、懐事情を考えると我慢するしかない。
下らない前置きが長くなった。NYはさすがにNYだ。海外からの観光客で活気にあふれている。この日曜日があの9・11から10周年だ。物々しい警備といった感じではないが、通りには警察官の姿が目立つように感じた。地元の新聞やFMラジオでは11日に「テロの恐れ」とのニュースも流れていた。3人の男がそれぞれ車爆弾を使ったテロをNYで画策している、そういう可能性があるとの報道だった。
NYでは何人かの作家の作品を取り上げたいと考えているが、とにかく、9・11の「グラウンド・ゼロ」に足を運ばなくては。到着翌日の9日、地下鉄を乗り継いで「世界貿易センター」(WTC)のツインタワーが立っていた地点を訪れた。ここもカメラを手にした観光客であふれ返っていた。
「グラウンド・ゼロ」の道をはさんだ向かい側に、セントポール教会が立っていた。ここにも多くの観光客が出入りしているのが見えた。展示物を見ていて分かった。ここは9・11でWTCのビルが崩壊した時、奇跡的に大きな被害を免れたこと。被災者の救出活動が始まると、この教会がそうした献身的活動の前線基地となったことが。観光客の多くは犠牲者を追悼するリボンにメッセージをしたためていた。
ほどなく、教会内で追悼コンサートが始まった。NYの若者グループだ。ピアノの演奏でさまざまなジャンルの歌を披露してくれた。40人ぐらいはいたであろうか。10年前には小学生ぐらいだったのだろう。彼らの顔を見ていて、ふと思った。白人、黒人、アメリカインディアン、ヒスパニック系、アラブ系、日系、中国系、韓国系と、実に多様な顔付きの若者たち。こうした場で彼らに「出自」を尋ねるのは適切ではないだろう。彼らは皆「アメリカ人」なのだ。そしてそれを誇りに思っていることも容易に見てとれた。
(写真は上から、観光客で賑わうNYのタイムズスクエア。「グラウンド・ゼロ」の地点では、新しいビルの工事が進んでいた。セントポール教会で催されていた若者グループのコンサート。木立ちに囲まれた教会の霊園は涼やかで気持ちも癒される感じだった)
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