- 2011-11-14 (Mon) 00:35
- 総合
“A Streetcar Named Desire” を読み終えた時は気が滅入った。救いがない結末。爽快感は皆無だ。人間の業(ごう)の性愛、暴力、見栄・・・。これを実際に劇場で観れば、また異なった感慨を抱くのだろうか。
上記の代表作は劇場で観たことはないが、ウィリアムズのもう一つの戯曲 “The Glass Menagerie”(邦訳『ガラスの動物園』)は二度ほど観たことがある。一度はロンドンで、さらに東京で邦訳劇として。これも暗い、陰鬱な劇だった。“Streetcar” と異なり、性的なシーンや暴力的な描写はなく、亭主に逃げられた母親のアマンダ夫人は二人の子供たちに経済的成功を願い、悲しくなるまでの徒労に走る。24歳の息子トムは靴工場に働き、一家の暮らしを支えているのだが、夜になると映画館に向かい、まだ見ぬ世界を夢見る若者だった。彼は父親のように一日も早く家を出ることを考え、そして実際に逃げ出す。25歳の娘ローラは足が不自由でそのことをずっと気にしており、とても内気な性格で友達もできず、高校も途中で退学する。彼女の唯一の楽しみは小さなガラス細工を集めて楽しむ、母親が「ガラスの動物園」と呼ぶコレクションだった。
実際に作品を読んでも、劇の中でも、ローラと呼ばれるこの優しい娘に対しては同情の念を禁じえなかったが、それより、やはり、「現実」を直視せずに、多くの奉公人にかしずかれて育った昔の裕福な暮らしが忘れられず、娘の心中を理解することなく、かつての豊かな暮らしを一方的に彼女に託すアマンダ夫人の虚栄心、愚かさが痛かった。劇作家が自分自身の母親と精神を病んだ姉をモデルに書いた自伝的要素の強い作品だ。ウィリアムズ自身、劇作家として世間に認知される前に靴工場で働き、その単調な仕事に辟易しており、トムにも当時の自分自身の姿が投影されているのだろう。現実の劇作家は終生自分の姉の行く末を心にかけ、自分の死後も彼女が苦労なく生きることができるよう手を打っていた。
話は横道にそれるが、この戯曲の中で、アマンダ夫人がトムにローラの結婚相手となるような育ちのいい有望な若者を職場から探して連れて来るよう懇願し、トムが職場で親しくなった同僚を連れて来ると告げるシーンがある。その同僚がそばかすだらけで鼻もそんなに高くないと言うと、アマンダ夫人は「でも、ひどくぶさいくな容貌というわけではないんだろう?」と尋ねる。原作では“He’s not right-down homely, though?” となっている。
英米でニュアンス、場合によっては意味合いが全く異なる言葉があるが、このhomelyもその典型的一例だろう。私が使っているOxford Advanced Learner’s Dictionary によると、英国英語では①アットホームな②気取らない③気さくな、といずれもポジティブな表現と記され、最後に米国英語では、④容貌に秀でていない(not attractive) という意味合いのネガティブな表現となると説明されている。このアメリカをさるく旅でも何人かにhomelyという言葉の意味合いを尋ねたが、全員が④と答えた。この国では少なくとも人物描写に関しては使わない方がベターなようだ。
(写真は、ニューオーリンズのフレンチクオーター。至るところに音楽があった)
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