- 2011-11-13 (Sun) 09:32
- 総合
ウィリアムズが愛したフレンチクオーターを歩いていて、フォークナーハウスブックスという書店にぶつかった。ウィリアム・フォークナーがかつて住んでいた家を書店にしているのだという。この町は南部の作家を引きつける魅力があるようだ。
バーボンストリートなど大音量の音楽があふれる通りを過ぎて、静けささえ漂うフレンチクオーターの一角にウィリアムズが住んでいた家があった。正面の壁にあるプレートによると、1962年に購入し、滞在先のニューヨークのホテルで死去する1983年まで住んでいた家で、「私はこの家の美しい大きな真鍮製のベッドで眠るように死んでいきたい」と述べた彼自身の言葉が紹介されている。
生前の劇作家の知己であり、米南部の文学に詳しいニューオーリンズ大の名誉教授のケネス・ホルディッチさんをフレンチクオーターの自宅に訪ね、話をうかがった。
「ウィリアムズにとって南部出身であることは重要な要素だったのでしょうか」
「その通りです。彼自身、南部に生まれていなかったら、作家になっていなかっただろうと語っています。テネシーはフォークナーのように南部の歴史にこだわることはありませんでしたし、ニューヨークやイタリアで多くの時間を過ごしています。しかし、創作する時にはいつもミシシッピのことが彼の頭にありました」
「彼がゲイであることは劇作家としての成長に影響を与えたのでしょうか」
「彼が大切にしたのは社会的に疎外されている人々を描くことでした。彼がゲイであることは当然、社会的に疎外されている人々を思い、理解することを促したことでしょう。彼は自分が黒人ではないかと思うと語ったことがあります。それはもちろん、彼が虐げられた人々に対する同情をいつも禁じえなかったので、そういう思いを抱いたのです」
「彼は長年のパートナーだった男性が死去した後は精神的に落ち込み、晩年は薬や酒におぼれたという印象もありますが」
「1961年に彼が愛していたパートナーが病気で死亡したことは、彼にとって大きな打撃だったことは間違いありません。その後は彼が付き合った中には暴力的な薬物依存症の男もいて、あまりほめられたものではありませんでした。ただ、彼が薬を乱用したのは、彼はいわゆる、実際には病気でもないのにそうだと思い込む、ヒポコンデリー(hypochondria 心気症)を患っていたのです。そのことを理解する必要があります」
「彼はどういう人でしたか」
「私は彼の晩年の6年ほどしか知りません。もっと早い時期に知り合っていればと思いますが。彼が機嫌のいい時は話も面白く、楽しい時を過ごせる人でした。ただ、感情的に移り気なところもある人で、自分の劇が不評な時には落胆を隠せない、そういう人でした」
(写真は上から、劇作家が住んでいたフレンチクオーターの家。彼のニューオーリンズへの愛着を示した言葉を刻んだ壁のプレート。ウィリアムズについて語るホルディッチさん。エルヴィス・プレスリーと同郷で中学校の2学年下にプレスリーがいたという)