- 2011-10-17 (Mon) 07:02
- 総合
ニューヨークを離れ、間もなくディープサウスとも呼ばれる米国の深南部に向かう。その前にいくつか訪れたい場所があるので、再び首都ワシントンで途中下車した。
足を運びたかったのはバージニア州にあるジェームズタウンという歴史的な場所だ。1607年にイングランドから3隻の船に乗った少年を含む104人の男たちがここに入り、米国でイングランドの初の恒久的入植地を築いた。ピューリタン(清教徒)たちがメイフラワー号でマサチューセッツ州に入植する1620年より13年も早い。
ジェームズタウンの名前は当時イングランドを治めていたジェームズ国王に由来する。ジェームズタウンの跡地に立つ「見学者センター」で10ドル支払い、跡地を歩く観光ツアーに加わる。ガイドの男性は「ジェームズ国王が新大陸の入植を決意したのは、プライド、プロフィット、フィアの三つの要因からです」と流暢に説明する。17世紀初頭、世界はカトリック教のスペインが席巻していた。プロテスタントの英国国教会の信者を増やしたいというプライド(自尊心)。当時イングランドは経済不況で食えない国民が多く、新世界に富と働き口を求めたプロフィット(権益)。手をこまねいていればスペインが新大陸もすべて支配下に置くのではというフィア(恐れ)。
プロフィットに関しては、入植者たちが頭に描いていたのはゴールド(金)だったが、ゴールドは得られなかった。その代わり、金になるタバコの栽培に適していることが判明。収益を上げるためにはタバコ農園で働く多くの労働力が必要になり、アフリカから黒人を奴隷として強制的に連行。新大陸と奴隷貿易を結びつけたと言う意味でも、現在のアメリカという国の「道筋」をつけた入植地だった。見学センターで最初に見た15分程度のビデオは確か ”America’ Birthplace” という副題が付いていたが、むべなるかなだ。
とはいえ、大西洋の荒波を乗り越えて入植したジェームズタウンは食糧難に病気、先住民のアメリカインディアンとの衝突もあり、栄養失調や病気から死亡する入植者が続出した。特に1609年から翌年の厳冬期には食糧が底をつき、入植者300人のうち、冬を越すことができたのはわずか60人だけだったという。ジェームズタウンはその後、入植者の内乱や火災もあり、近くのウイリアムズバーグに町の機能を移転する。跡地には1907年に建てられた「入植300年記念塔」や、入植地のリーダーとして名を馳せた傲岸不遜の軍人で探検家のジョン・スミスの銅像も立っている。
私が訪れた日、うららかな日だった。日本なら小春日和というには早すぎるか。こちらではインディアンサマーとでも呼ぶのだろうか。入植当時の壮絶さを想像することは難しかった。紅葉も見られ始めており、句心のない私も帰りの電車の中で句作に取り組んだ。
紅葉も 今米国の 生誕地
(写真は上から、ジョン・スミスの銅像。記念撮影しているのはノースカロライナ州からやって来た高校生のグループ。ジェームズタウンは大西洋にそそぐジェームズ川の河岸に築かれた。その跡地を訪ねる観光客。真ん中に見えるのが入植300年の記念塔)
- Newer: ゲティスバーグ
- Older: ジェイムズ・ボールドウィン (James Baldwin) ⑤