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December 2011
旅の終わり
- 2011-12-22 (Thu)
- 総合
ちょうど半年の時間が流れ、昨夜、日本に帰国した。アメリカに着いた時は、今回の旅が果たして無事達成できるか心もとない部分もあった。先進国だからアフリカで体験したような困窮は心配していなかったが、それでもほぼ初めて訪れる都市ばかり。今、何とか帰国できたことをありがたく思う。
旅の始め、スタインベックの項で彼が1962年に書いた紀行 ”Travels With Charley in Search of America” (邦訳『チャーリーとの旅』)を紹介した。作家が58歳の時に生来の旅心を抑え切れず、アメリカという自分の国を「知る」ために旅に出た紀行本だ。
作家は途中、オレゴン州で運転する特別仕立てのキャンピングカーの後部タイヤが過剰積載でパンク、今一つのタイヤも破裂寸前というピンチに陥る。辺りは人家もなく、ただ自動車道だけが果てしなく続く。その日はしかも日曜、雨も降っている。作家はのろのろ運転の末に幸運にも営業している小さなガソリンスタンドに行き着く。
The owner was a giant with a scarred face and an evil white eye. If he were a horse I wouldn’t buy him. (出て来た経営者は顔に傷があり、邪悪な白い目をした大男だった。もし彼が競り市の馬だったなら、私は見向きもしなかっただろう)。大男の店にはスタインベックの車に合うようなタイヤはなかった。彼はスタンドの客に対応する合間を縫って何件もの電話をかけ、見合ったタイヤが置いてある店を探し出してくれる。その店に嫌がる義弟を走らせ、タイヤを取って来させる。作家は感謝の心で思う。That happened on Sunday in Oregon in the rain, and I hope that evil-looking service-station man may live a thousand years and people the earth with his offspring.(これは日曜日、雨のオレゴンでの出来事である。私はあの邪悪に見えるガソリンスタンドの男が一千年も長生きし、地球上に彼の子孫をまき散らしてくれることを願う)
太平洋に面した西海岸のオレゴン州のガソリンスタンドの男の子孫がスタインベックの希望通り、全米に散って住まっていたかどうかは分からない。ただこのブログ欄で書いた通り、私の旅も作家が描いたような「心根」のやさしい、親切な人たちとの出会いに恵まれた。その意味でアメリカにはまだ「古き良き時代」のアメリカが根付いていた。
とはいえ、アメリカが経済苦境にあえいでいることもまた事実。大都市ではかつて目にしたことのないホームレスの人々がいた。旅の最後のロサンゼルスでは中心街の交差点で毛布を引きずって歩き、ごみ箱をあさる一人の白人の若者を見た。ロサンゼルスにあまりに不似合いなホームレスの光景で、シャトルバスに同乗していたイギリスからの観光客の婦人は絶句していた。「ウォール街を占拠せよ」という、持たざる者の政治・経済体制への異議申し立ても2011年のアメリカの忘れ難い光景だ。米社会の1%を占める最富裕層と平均所得者層の収入の格差が40倍近くまで拡大しているとの報道にも接した。日本では考えられない数字だろう。
☆
「アメリカをさるく」はこれが最終回のブログです。ご愛読ありがとうございました。新聞社を退職し、無職となった今はこのブログ欄は「書く」ことのできる貴重なスペースとなっています。帰国後落ち着きましたら、また、何らかの形で「再開」できればと願っています。その時までしばしの間、さようなら。
ロサンゼルス再訪
- 2011-12-19 (Mon)
- 総合
再びロサンゼルス。再会を約束していた人がいた。日系社会の取材時に出会った小山信吉さん(77)。カリフォルニア州の南部一帯で造園業(ガーデナー)に携わる人々で構成する南加庭園業者連盟の顧問をしている人だ。福島県二本松市出身。
ロサンゼルスは全米1の日系人社会を擁している。このブログの初回に近い「日系アメリカ人」の項で書いたように、カリフォルニア州は19世紀末から日本人が移民してきた歴史があり、初期の日系移民は反日感情の差別と闘って現在の日系社会の礎を築いた。ロサンゼルスを中心とする南カリフォルニアには現在約18万人の日系人が住んでいると言われる。ただし、日系3世以降は日本との縁も薄く、日本語を解さない人も少なくないと見られ、どこまでを日系人と規定するかは難しい問題ではあるが。
日系人が西海岸で暮らす大きな力になったのが、実は日本人が他の移民にない能力を秘めていた造園業だ。日系移民の人々は時に米国人の人種差別的な冷遇にも屈せず、黙々と働き続け、やがて、米国人社会の信頼を勝ち得て、ガーデナーは日系人であれば誰でもいいと言われるほどになっていった。1960年代にはその数8000人にも上り、日系人の3人に1人はガーデナーの時代があったという。
「私は1967年に妻と二人の子供を連れてここにやってきましたから、いわゆる『新一世』と呼ばれる世代です。祖母が日系人を対象にしたボーディングハウスを経営していたこともあり、最初はそのお手伝いをしていましたが、ほどなくガーデナーが天職となってしまいました」と小山さんは振り返る。
造園業者の人々は子供たちに教育を受けさせ、自分たちよりより良い暮らしができるようにさせた。小山さんも渡米後に生まれた長女を含め、3人の子供たちはそれぞれ、公認会計士や弁護士として働いている。当然のことながら、後継者不足の問題が浮上。現在、南加庭園業者連盟のメンバーは1300人ほど。平均年齢は実に75歳だという。
「でも、メンバーは元気な人が多いですよ。私も今も週に4日は仕事しています。南カリフォルニアは雨が少なく、ガーデナーにとっては一年中仕事がある天国のような地なんです。先人が残してくれた『信用』を後の世代に伝えていかないと申し訳ないとも思う。その意味で日本から再び若い人たちがやってくれることを願っています。顧客は無限にありますから」と小山さんは語った。
ロサンゼルスはダウンタウンにリトルトーキョーと呼ばれる一角があることも先に紹介した。しかし、現在、邦人や日系人はダウンタウンから離れた西海岸沿いの高級住宅地に住んでいる。そこでは日本食レストランや日系スーパー、日本人(日系)医師の医療機関も数多くある。邦人、日系人向けの賑々しいタウン誌を見ると、ロサンゼルス近郊では日本と大差ない暮らしがエンジョイできるようだ。いい時代だ。造園業に代表される日系社会の辛苦があってこその今だろう。
(写真は、庭園業者連盟の事務局で保険の仕事に携わる友人と語る小山さん=左)
ラスベガス㊦
- 2011-12-16 (Fri)
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私がカジノで好きなのはルーレット。今回の旅もほぼ終わりだから、手元に残った米ドルの現金から少しだけ遊んでみたい。勝とうなんて思っていない(こともないが)。そこそこ遊ばせてもらい、「常識」の範囲内の負け額だったら、ボーリングのような球技の「プレー代」と思えばいい。ロサンゼルスから日本までの帰りの飛行機賃ぐらい勝てたら、御の字だなんて(ほとんど)思っていない。
手元にあるカジノの一覧図には58のカジノが紹介されている。私が泊まっているホテルにもカジノがあるが、それはこの一覧図には掲載されていないから、実際にはもっとあるのだろう。こうしたカジノが24時間夜通し営業しているのだ。まさに不夜城だ。
アフリカのカジノは中国人が席巻している感があったが、ラスベガスはさすがにそういう感じではない。スロットマシンの一つに腰掛け、行き交う人々を眺めているだけであきない。スロットマシンもバラエティーに富んでおり、遊び方を覚えるのも一苦労。
ラスベガスのカジノホテルでのショーは本来、カジノの集客のためにスタートしたのだろう。観光案内をめくっていたら、”Phantom” というオペラがあった。ロンドンの ”Phantom of the Opera” のラスベガス版らしい。「オペラ座の怪人」はロンドン支局勤務時代、何度か観たことがある。公演時間はぐっと短い1時間半。カジノの客が対象ではこれが限度の時間なのだろう。一番安い席を求めたが、それでも80ドルほどした。時間が短い分、ロンドン公演にはない舞台の工夫が凝らされ、見応えがあった。観客はスタンディングオベーションで応えていた。翌日は別のホテルで ”Nunsense” というコメディを観たが、これはこじんまりした劇場で十分楽しめた。
ルーレットの結果は書くこともない。アメリカのルーレット盤はイギリスやアフリカと異なり、0の他に00というのがあり、1から36までのナンバーの配置もロンドンと異なり、私には甚だ勝手が異なる。ディーラーが回す白い球は私が賭けたナンバーの隣に何度も何度も落ちた。中国系らしきメガネをかけた二十代の女性ディーラー。久しぶりに当たった私。彼女は私の顔を見て、”Finally!” とのたまった。くっ屈辱!
ラスベガス滞在は実質2夜。本当はもっといたかったのだが、ロサンゼルスへのバスの便やホテルを既に予約しており、これをまたネットで変更するのは私には大変な苦労を伴う。致し方ない。もっとも、1週間もいたら、たいしてない全財産が吹き飛んでいたことだろう。爆砕いや博才のない私にはラスベガスは危険極まりない都市だ。
グレイハウンドのバスに乗り、約5時間後、ロサンゼルスに着き、6月に投宿したホテルに再びチェックインした。約半年かけて、アメリカをだらだらと時計回りに一回りしたことになる。なんだか、アフリカからずっと旅が続いているような気がしないでもない。
(写真は上から、ラスベガス通りは深夜でもこんな感じ。”Nunsense” の後、出演者は観客と記念撮影に応じるサービスも。豪華なカジノホテルの男子トイレのユーモラスな「壁画」。小用の男子を女性が上からのぞいているイメージだ。いや、私のものはもうちょっとはあるような・・・)
ラスベガス㊤
- 2011-12-15 (Thu)
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一度は行ってみたいと思っていたところだ。私は生来、ギャンブルが嫌いではない。子供のころは、ビー玉やメンコ遊びに熱中した。私の田舎ではビー玉は「なむれん玉」と呼んでいた。メンコ遊びは「ぱっちん」だった。なぜ、そう呼んでいたかは知らない。なむれん玉は当時はやっていた清涼飲料水の「ラムネ」の瓶の中にビー玉のようなものが入っており、おそらく「ラムネ玉」がなまって「なむれん玉」となったのだろう。
私はぱっちんもなむれん玉も得意だった。小学生のころ、近所に住む仲良しの「てっちゃん」とあまりにぱっちん遊びに興じていたものだから、お袋に箱に入った大量のぱっちんを隠されことがある。高校生か大学生ぐらいになって、夏休みに帰省していた時、その箱がどこからか出てきて、役者や漫画のヒーローが描かれたぱっちんを懐かしく手にしたことを覚えている。なむれん玉でやる「天国と地獄」は最も得意にしていた。ゴルフはあの遊びが発展したようなものではないかと時に思ったりしている。
前置きが長くなった。それで、旅の最後にエルパソからネバダ州のラスベガスに足を運んだ。到着したのが夜だったこともあり、ホテル兼カジノの明るいネオンを見て、不夜城に来たことを実感した。おそらくここに来るのはこれが最初で最後だろう。冥土の土産にカジノをのぞこう。この半年近く「禁欲」生活を送ってきた。最後に少しぐらい羽目を外しても罰は当たらないのでは。それに、カジノでは併設している劇場でのショーも有名だ。それも観てみたい。
ラスベガスでカジノが林立している通りはストリップストリート。その通りからそう遠くない、カジノに歩いて行ける距離にあるモーテルのようなホテルに宿を取った。タックスを入れても、一泊31ドル(約2500円)。これまでで泊まったホテルでは最安値だ。
一夜明け、ストリップストリートにある著名なホテル兼カジノに行く。平日の昼間というのに、カジノのフロアは客であふれている。ホテルのフロントにはチェックインする長蛇の列ができている。いやあ、聞いてはいたが、さすがの賑わいだ。フロアを歩く人々の顔からは「世界のギャンブルの中心地」に来た高揚感がうかがえる。
それにしても、堂々たるホテル(カジノ)の数々だ。外観も中の設備も。こういうホテルに泊まってギャンブルに精を出せる人たちが羨ましい。ベルボーイのような老年の男性に近づき、「このホテルは高いのでしょうね。一泊200ドル?いや、もっと上?」と尋ねた。「いや、そんなにしないよ。今なら、一泊49ドルで泊まれる。クリスマスが終わり、年明けには250ドルぐらいに上がるだろうけど。今はそう忙しくないから。客室の稼働率は80%ぐらい」との由。ああ、ショック!49ドルぐらいだったら、今の私にも手が出せた。
(写真は上が、ラスベガスのストリップストリート。下が、カジノの光景。ロンドンやアフリカのカジノでは写真厳禁だったが、ラスベガスは至近距離からの撮影でなければOKのようだった。三脚を立てて記念撮影している中国人の家族もいた)
エルパソの栄華
- 2011-12-13 (Tue)
- 総合
前回エルパソが人口約60万人の大都市だと書いた。どうもそれよりももう少し大きいようだ。市の公式統計によると、人口782,541人。このうち、663.002人がメキシコなどのヒスパニック系であり、白人は81,652人、黒人が21,713人となっている。実に全人口の85%がヒスパニック系ということになる。
郊外のホテルから毎日バスに乗ってダウンタウンに行き、街の様子を見学した。バスの乗客も当然のことながら圧倒的にヒスパニック系の人々だ。スペイン語が飛び交っている。乗り合わせた青年、ロレンゾ君はエルパソの生まれ。彼は「自分の両親はメキシコ出身。子供の時は何度も行ったことがあるが、今のような危険な状況になってからは一度も行ったことがない。残念な状況だけど、貧しいメキシコの若者にとって、麻薬に手を染めれば、大金が手に入る。貧困が根底にあるから、簡単には片付かない問題です」と語った。
エルパソのダウンタウンを歩いていて、残念だったのは、ゆっくり腰を落ち着けるカフェやパブの類が皆無に近かったことだ。先に書いたように古びたシャッターが下りたり、テナントが逃げ出したようなビルも少なくないので、寂寥感は一層募る。
歩き疲れたころ、一軒の店が目に入った。パブのような感じだ。ドアを開けると、「いらっしゃい」と元気の良い声が飛んできた。小用をしたく、そう告げると、店の裏側にトイレがあると鍵を渡してくれた。店の裏に行くと、表からは分からなかったが、このビルが由緒ある建物であることがすぐに見てとれた。用を足し、店に戻り、カウンターの中にいる若者にこの感想を伝えると、彼は嬉しそうに店の入っているビルの歴史を語り始めた。
キップス君。31歳。彼はこの店をテナントして借りている経営者だった。「このビルはもともとホテルとして1926年に建てられました。1963年にはケネディ大統領が訪れてスピーチしています。今はオフィスビルとなっています。上の階のロビーを案内しましょう。当時の雰囲気がよく分かりますよ」
キップス君の店を出て周辺のビルを見上げる。右手には「プラザホテル」の高いビルが見える。1930年にオープンした当時は「ヒルトンホテル」と呼ばれ、コンラッド・ヒルトン氏が世界大恐慌の真っただ中、建設した最初のヒルトンだ。今は、新しくこのビルを購入した人がマンション兼オフィスビルとして改装していると聞いた。
「僕はエルパソの生まれではありませんが、ここが気に入って商売を始めました。よく思うんですよ。エルパソは例えて言えば、裏のガレージに捨て置かれたまま、誰もその価値に気づかない素晴らしいクラシックカーのようなものだと。エルパソのダウンタウンでは今、かつての賑わいを取り戻す動きもあるので、あなたが5年後に再訪したら、きっと驚くように変貌していますよ」とキップス君は語った。そうなっていればいい。
(写真は上から、ビルのロビーを案内してくれたキップス君。かつては「ヒルトンホテル」の第1号だったビル。メキシコの街の灯が見渡せる丘で出会ったアメリカインディアンの血を引く子供たち。親の了解を得て写真を撮らせてもらったら、この笑顔だった)
エルパソの街
- 2011-12-09 (Fri)
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寒い。とても寒い。真夏には連日摂氏で40度近くになる都市が多いテキサス州のことだから、エルパソも温暖な気候だろうと考えていたが、着いた日から朝夕は凍てつくような寒さだ。標高を調べてみると1140メートルとあるから、寒いはずだ。この国の人はなにかちょっと良いものやいい体験をすると、”Awesome” (すごい) という形容詞を口にするが、エルパソは本当に私にとって「オーサム」だ。
エルパソのダウンタウンを歩いていると、冷え込んでいるせいかどうか分からないが、あまり歩いている地元の人を見かけない。かつては多くの人で賑わったに違いない歴史的な通りを歩いていて、ここでもこの旅でたびたび感じた「伝統的なダウンタウンの衰退」を思った。シャッターが下りたままの店、テナントが去って久しいビル。本来ならこの都市の一等地の地区だ。
エルパソは田舎町ではない。人口約60万人の大都市だ。市の観光局のような役所を訪ね、ガイドブックをもらい、歴史的な建物を見て回った。1881年に建設され、元国立銀行だった二階建てのビルは今は衣料品の店になっていた。外観はさすがに当時の雰囲気を残している。写真を撮っていると、中年の白人男性が近づいてきて、「このビルの歴史をご存知ですか。もったいない話でしょ」と話しかけてきた。どうして空き家のビルが多いのですかと尋ねてみた。「テナント料金が高すぎるからですよ。それに、郊外に大きなショッピングモールが沢山あることもダウンタウンがすたれている一因ではあります」
ダウンタウンの中心街を外れ、エルパソ通りをメキシコ側に向かって歩くと、様相が一変した。通りに面した店は賑わっているのだ。メキシコから国境を越えてきたメキシコ人の買い物客で賑わっている。客の相手をしているお店の人の顔を見ていると、中国系か韓国系か分からないが、明らかにアジアの同胞の顔付きをしている。
スタントン通りを下り、メキシコとの国境となっているリオ・グランデ川にかかるスタントン橋の検問所まで来て写真を撮っていると、係官が飛んで来て、写真撮影は禁止と告げられた。
スタントン通りを引き返して歩いていると、今度は空き地にできたマーケットに遭遇した。衣料品から家電製品、玩具などさまざまな品が並んでいる。古着の衣料品売り場で「2x1」との張り紙が見えた。「二つの品で1ドル」ということらしい。
歩いていたら、お腹が空いた。昼飯は抜きにしているが、今日は例外にしよう。簡易食堂に入って、チキンサンドにチップス、ダイエットコークを注文。食べ終えた後、テーブルを拭いていたメキシコ系のおばちゃんに「コーヒーはない?」と尋ねると、「ない。あたしのコーヒーで良かったらあげるよ」と言って、奥に引っ込んで、お湯が入ったカップにインスタントコーヒーの小さな袋を持ってきてくれた。
(写真は上から、エルパソの空き家が目立つダウンタウン中心街。寒くて公園のハトも動かない。メキシコからと思われる買い物客で賑わうお店)
エルパソへ
- 2011-12-07 (Wed)
- 総合
ヒューストンに5日間ほど滞在し、今、同じテキサス州のエルパソという都市に向かっている。例によって、アムトラックという列車に乗っている。広大なテキサス州の東の端から西の端への移動だ。何度も書いているが、節約旅行ゆえ、一泊分のホテル代が浮いて、それで切符自体は78.20ドル(約6500円)。ほぼ20時間列車に乗り続けてこの値段だから、安いと言えば安い。
ヒューストンから乗り込んだ列車は空いており、乗客もまばら。近くの乗客のいびきに悩まされることもなかった。それでイスの背を倒し、ヨガのような姿勢をいくつも試し、眠ろうと努力してみた。残念ながらほとんど眠れなかった。ただ、一夜明け、カフェがある車両でホットドッグにコーヒーでエネルギーを補給し、朝日の当たるテキサスの原野を見やりながら、パソコンに向かってこの原稿を書いている今、不思議と疲れは感じない。
ヒューストンで目にした人々は圧倒的にヒスパニック(メキシコ)系の人たちだった。これから行くエルパソはメキシコと国境を接しており、さらにヒスパニック色の濃い都市だろう。メキシコ側の国境の都市では麻薬が絡んだギャングによる残忍な殺人事件が頻発している。つい最近も、ダウンタウンに放置されていた車の中から29人の男女の遺体が見つかった事件が報じられていた。
内戦下でない国で、これだけの数の市民がギャングウォーで殺戮されている国はないのではないかと思う。ヒューストンで泊まっていた安宿は長距離トラックの運転手が多く、彼らは私がエルパソに向かっていると知ると、「おお、絶対に国境を超えるなよ」と忠告してくれた。もちろん、超えるつもりは毛頭ない。ただ、国境の街(都市)がどんな雰囲気なのか知りたいと思っている。
余談になるが、トラック運転手の人たちと雑談していて思ったことがある。この広大な国は鉄道が敷かれて東海岸と西海外が結ばれ、現在の発展の礎が築かれたのであるが、その鉄道は石油の発見でガソリンを燃焼させて走る車が普及して「衰退」することになる。貨物輸送の鉄道網の「不備」を補っているのが長距離トラックではないか。
「いや、楽な生活ではないよ。年収はざっと6万ドル程度。今大学で学んでいる息子にはさせたくないね。トラック運転手の魅力?自由かな。広大な土地を走っている時の爽快感はいいものがあるよ。70歳代の同僚も多いよ。体が続く限り走っていられるのもいい」
「自分は1マイルにつき50セントの報酬。だいたい1日600マイル(約965キロ)走るから300ドルの収入だね。一人で運転しているよ。前に相棒がいたこともあったけど、一人の方が気楽だからね。94歳でもまだ現役の運転手がいるよ」
(写真は上から、ヒューストンの週末。公園の近くで出会ったヒスパニック系の市民。お祭りに参加するので伝統的衣装をまとっていた。エルパソへの列車の車中から眺めた果てしのない光景。標高が高くなると、雪が降ったのか寒々とした印象も。そこで一句「目覚むたび テキサスは丘 雪も見ゆ」。午後からは少し晴れやかな光景に変わっていった)
ヒューストン着
- 2011-12-02 (Fri)
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ラグレインジを出て、アトランタで一泊、アムトラックの列車に乗り、ニューオーリンズで一泊、昨日遅く、テキサス州のヒューストンに着いた。テキサス州はもちろん初めて。今回の旅でテキサス州出身の人と会う度、テキサスがいかに素晴らしいかと何度も聞かされていた。テキサスは他の州と異なり、独立国だったが、条約を結んで合衆国の一員となったこと。よって、今でもアメリカ国旗とテキサス州旗は同じ高さで掲揚されているとの由。地元の人々はそうした歴史にことのほか誇りを持っているとも聞いた。
テキサス州がこの国ではアラスカ州に次いで大きいことぐらいは承知していた。改めて調べてみると、面積約67万平方キロとあるから、日本の1.7倍の広さだ。ヒューストンはそのテキサス州で最大の都市。例によって、ダウンタウンから少し離れた郊外の安ホテルに投宿。本日、だいたいの見当をつけてダウンタウンに向け、路線バスに乗り込んだ。偶然だろうが、白人乗客は皆無に近い。ヒスパニック系の乗客が目立つ。上を見ると、英語の他、5か国の案内文が掲載されている。最初にスペイン語があり、続いて、ベトナム語、中国語、ウルドゥー語、フランス語。この都市がバラエティーに富んだ人々で構成されていることが一目瞭然だ。
隣に座った黒人女性に何気なく、私が行きたい場所のことを尋ねると、彼女は近くの他の乗客に向かって、その場所について聞いてくれた。誰かがスペイン語で話すと、それを英語に通訳して、一気にバスの中が賑やかになった。この辺りはさすが、テキサスと言うべきだろうか。
ダウンタウンに着いたはいいが、右も左も分からない。それでこれも例によって、シティーホール(市役所)にあるはずのビジターセンターに足を運ぶ。いや、ここにも親切な係員がいて、こちらの訪問の意図を知ると、次から次に資料を出して説明してくれる。ニューヨークやロサンゼルスなどではとても期待できない親切さだ。ヒューストンは決して田舎町ではない。メトロと呼ばれる周辺部を含むと520万人、ヒューストン市だけだと290万人で全米第4位の大都市でもある。経済の柱は石油産業であり、東京を含む国際線63、国内線110の路線を抱える空港もある。
さあ、わずかな時間だが、テキサスのユニークさに触れてみることができるかどうか。幸い、ヒューストンはメキシコ湾に近い最南部の都市であり、アトランタや北部の都市に比べれば格段に温暖な気候だ。街中ではまだ半ズボンで歩いている男性も見かけた。
(写真は上が、ヒューストンの高層ビル。下は、便利な路面電車も走っていた)
「がんたれの繰り言」について。高校時代の恩師から、自分は親しみを込めて「がんたれ」という表現を使っていたとの指摘を受けた。確かに、そういう使い方も可能であり、「男はつらいよ」でおいちゃんがおいの寅さんが何かへまをやらかすと、「バカだねえ、寅は!」と愛情を込めて嘆いていたが、あの「バカだねえ」の感覚だ。
米大統領選に思う
- 2011-12-01 (Thu)
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今回の「アメリカさるき」は2012年の米大統領選を前に政権奪回を目指す共和党陣営の激しい選挙戦を目にする旅でもあった。新聞やテレビで連日、そうした選挙戦の一端に触れてきた。
民主党は現職のオバマ大統領が再選を目指しているから「静か」だが、複数の候補者がしのぎを削る共和党の争いは賑やかである。取材する立場にないので細かなところは分からないが、つい先日まで、最終的には前マサチューセッツ州知事のミット・ロムニー氏とテキサス州知事のリック・ペリー氏の争いに落ち着くだろうと見られていた。
ところが、ここに来て、もう過去の人と目されていた元下院議長のニュート・ギングリッチ氏の人気が急上昇、上記の二人を脅かすほどの支持を集め始めている。ギングリッチ氏は確かにクリントン政権時代にそのタカ派の手腕で名を馳せたものの、これまで共和党の有力候補と見なされることはなかったように思う。
まあ、それにしても、大統領選の候補者になるのは大変なことである。メディアの執拗な取材攻勢もそうだが、いろいろな方面から「火の手」が飛んでくる。今その矢面に立っているのは、ピザレストラン経営から身を立てた黒人実業家のハーマン・ケイン氏。ケイン氏からセクシュアル・ハラスメントを受けたと3人の女性から告発され、「事実無根。証拠はどこにある?」と何とか切り抜けたと思われていたが、今度はケイン氏と過去13年間、不倫関係にあったと告発し、テレビ局の取材を受けた女性が登場する展開に。
ケイン氏はCNNの生番組で「その女性は長年の友人。経済的支援をしたことはあるが、一切の性的関係はない。全くの誹謗中傷」と真っ向から否定した。しかし、番組が終了した直後、同氏の選対事務局サイドから、「ケイン氏のプライベートな生活は選挙戦とは無関係」と苦しい弁明の声明が流されるなど、ケイン氏はかつてない窮地に立たされている。
一時、支持率調査で先頭を走る勢いのあったペリー氏も候補者のテレビ討論会で、「私は大統領になったら、三つの連邦省庁を廃止する。一つ目は商務、二つ目は教育、三つ目はええと、ええと・・・」と三つ目の省庁を最後まで思い出せない信じられない失態を演じるなど、頼りなさを露呈しつつある。
本日(30日)の新聞を読んでいたら、ペリー氏がニューハンプシャー州の大学で29日に開いた集会で、来秋の大統領選までに21歳になる学生に対しては自分に投票するよう求めたが、21歳未満の学生に対しては「一生懸命勉学に励むよう」とだけ述べたという記事が目に入った。AP通信の記事は次のように締め括られていた。
It turns out Perry didn’t know or had forgotten the voting age in America is 18. The flub caused whispers in the crowd. (ペリー氏はアメリカでは18歳になれば投票できるということは知らなかったか忘れていたことが判明した。聴衆の間では彼のへまにさざ波が広がった)
いやはや、アメリカは「奥」が深いところではある。