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英語でさるく 那須省一のブログ

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ポスト真実?

 寒くなってきた。昨夜、ガスストーブを持ち出し、スイッチを入れた。手帳を見ると、昨冬は年明けの1月8日にそうしているから、今年はだいぶひ弱になったようだ。それでも3年前には11月末にストーブを持ち出したこともあるようだから、まあ良しとしよう。
 便利な冷暖房機器に接するたびに、文明の利器の恩恵を受ける現代に生きる幸せを思わざるを得ない。ただし、この先は見えない。未曽有の大地震(津波)発生の可能性が警告される昨今、いつ命の危機にさらされるのか神のみぞ知る時代だ。多少なり不便を強いられても、天変地異のない時代を生きたいと願う気持ちもあるが、人類の営みはもはや坂道をころころと転がりゆく球体のように静止逆行不可避とも思える。
                 ◇
 クリスマスも近づいた。今年も例によって米ジョージア州のヒックス夫人とロンドンの元同僚の子供たちにお菓子の小包を郵便局から送った。郵送料が結構かかるのでこちらで思うほど送ってあげられないのが残念だが、日本のお菓子の味わいは結構喜ばれるので送り甲斐がある。元同僚の子供たちの喜ぶ顔が目に浮かぶ。再訪できるのはいつの日か。
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 今年の漢字に「金」が選ばれたと今朝の朝刊が伝えている。体操の内村航平選手を筆頭にリオ五輪の金メダリストたちはやはり強烈な印象を残したようだ。ジャパン・ニュース紙でも読売本紙を引用し、この漢字がcan be read as “kin” for gold or “kane” for money と報じている。
 ネットで調べると、漢字の「本場」、中国や台湾など漢字圏の国々でも日本にならったのか、同様のことをやっているという。日本と中国のその年を代表する漢字がぴったり重なることはないのだろうか。英国のオックスフォード英語辞典は今年を代表する語を毎年選定しているが、今年はpost-truth だった。その理由として次のように記してある。After much discussion, debate, and research, the Oxford Dictionaries Word of the Year 2016 is post-truth – an adjective defined as ‘relating to or denoting circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than appeals to emotion and personal belief’.
 post-truth とは何と訳すべきだろう。読売新聞では「真実以降」と訳していた記事を見かけた。NHKテレビでは「ポスト真実」となっていた。post-cold war とか post-Apartheid という語句は自然に理解できるかと思うが、post-truth はさすがに一呼吸おきたくなる。上記の説明文からは「世論が客観的事実に基づかず、感情や個人的な思いによって形成される」現代の世相を形容しているのだという。つまり「真実の価値」が低下したのだ。英米で起きたブレグジット(Brexit)やトランプ現象がこれを代表することは言うまでもない。
 アメリカのネット辞書では今年を代表する語として、xenophobia を選んでいた。これは「外国人嫌い」という定訳がある。日本でも問題となっている「ヘイトスピーチ」(hate speech)もこの xenophobia の典型的例。来たる2017年はポジティブな語が脚光を浴びることになって欲しいと切に願う。

『静かなノモンハン』

 読売新聞の文化欄でとある作家の追悼記事(obituary)を読んだ。伊藤佳一(1917-2016)という名の作家だ。初めて目にする名前だった。先月末、老衰のため99歳で死去。文芸評論家の手になる追悼記事は「この前の戦争と呼ばれるアジア・太平洋戦争で、唯一、評価できるのは、伊藤佳一氏に『静かなノモンハン』という作品を書かせたことではないか、と私は時々考える」と書き出されている。いやはや凄い称賛の記述だ。
 伊藤氏の作品は「戦場小説」と呼ばれ、先の大戦での日本人の敗戦体験を歴史的かつ文化論的に見つめ、「日本人」とは何かを徹底的に問い詰めているという。伊藤氏は戦中派の世代の一人であり、加害者であると同時に被害者でもあった「日本兵」の現実に当事者として肉薄できる「最後の証言者」だったとも。『静かなノモンハン』は村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』では数少ない参考文献に挙げられている作品だとか。
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 ノモンハン。広辞苑で引くと「中国東北部の北西辺、モンゴル国との国境に近いハルハ河畔の地。1939年5月から9月中頃まで、日本の関東軍とソ連・モンゴル軍とが国境紛争で交戦。日本軍が大敗を喫した」と載っている。
 日露戦争で味をしめた日本陸軍が中国大陸での権益を固めるために発足した関東軍。1931年の満州事変以後、関東軍は暴走を加速化させていく。ノモンハンでの日ソ衝突が単に「事件」と呼ばれることにいびつさがよく表れている。『静かなノモンハン』は伊藤氏が事件の生き残りの元兵士3人に取材して、1983年に発表。鈴木上等兵、小野寺衛生伍長、鳥居少尉の3人がそれぞれの記憶に基づいてその体験を独白している。不毛の土地を巡り、軍上層部から捨て石のように扱われ、それでも郷里の父母や人々を思い、国のために命を捧げていく第一線の兵士、下級下士官の苦闘が淡々と紡がれている。
 鳥居少尉の章では、彼の郷里で弟のように可愛がっていた兵士が爆撃を受けて死亡。少尉は兵士の遺体を草地に埋め、その上に背嚢を置く。停戦が成立し、少尉が自軍兵士の遺骨・遺品を収集して回っていたら、無風にもかかわらず、近くで背嚢の蓋がパタパタと音を立ててめくれている。普通ならあり得ないことだ。少尉はすっかり忘れていた。そこはあの郷里の兵士を埋めた場所だったのだ。そうか、お前は俺を呼んでいたのか。悪かった。気づかなかった。今、お前の遺体を掘り返して焼いてやるぞ!
 文庫本には司馬遼太郎氏との対談も収録されていて、これも実に興味深く読んだ。司馬氏もノモンハン事件についてはかなりの期間調べたが、ついに書かなかったことが明らかにされている。彼は次のように語っている。「ぼくは、ノモンハンについて考えてゆくと敗戦までの日本国家そのものまで否定したくなります」と。「日本の高級軍人というのは、軍事そのものがわからなかったですな。彼らにあるのは、官僚としての出世だけだったのでしょうか。だから国際政治がどうであるかもわからない。そんな連中に国家を委ねていたのかということで、もし僕がノモンハンを書くとしたら、血管が破裂すると思う」とも。
 あの悪名高き関東軍の上層部は実に愚かな軍人の集まりだったようだ。それにしても、私は追悼記事でようやく伊藤氏のような作家の存在を知るとは、実に情けない!

記憶力

 また東北地方が激しく揺れた。津波警報まで出た。内憂外患。これから日本に暮らす人々は大変な時代を生き抜かなくてはならない。愚禿凡夫の私にできることは・・・?
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 安倍首相が訪米し、次期米大統領に就任予定のトランプ氏と非公式に会談したことを民進党首脳が「朝貢外交」だと批判した。私はともするとこの朝貢を「ちょうぐ」と頭の中で読んでいる。どうということもない話だが。
 英字紙「ジャパン・ニュース」で、トランプ氏の長女、イバンカ嬢が、彼女の娘、つまりトランプ氏の孫娘があのPPAPを歌っているビデオをインスタグラムに投稿したとか。イバンカ嬢は娘の歌を聞いたら「ずっと耳に残るわよ」(may be stuck in your head all day)と警告していた。ピコ太郎のあの歌は私も嫌いではない。日本の芸人の英語が世界中で「受容」されていること自体が素晴らしいと思う。誰も彼の英語の発音やイントネーションが怪しいなどと言っていない。参考までにイバンカ嬢が警告している「耳にずっと残る」類のリフレインを英語ではearworm と呼ぶらしい。
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 図書館で日本文学の書棚を漁っていて、ふと坂口安吾(1906-55)の単行本を手にした。特段好きな作家というわけではない。『堕落論』とかいう代表作で知られる作家であることは知っているが、その代表作は読んだことがない。昭和期の作家の短篇をまとめた文庫本か何かで二、三の作品は読んだことはある。『桜の森の満開の下』という短編は幻想的な怪異小説で、深山の満開の桜の花の下を通ると、人はなぜか狂気に追いやられるということが述べられていて、妙に印象に残っている。
 図書館で手にした本は坂口安吾の短篇集の『アンゴウ』(鳥有書林)。「シリーズ日本語の醍醐味①」とうたっている。椅子に座り、パラパラと頁を繰った。幾つかの作品を読み、満足してそろそろ本を本棚に戻して帰ろうと思い、最後に末尾にある編者の解説に目を走らせた。編者は表題作の『アンゴウ』と収録作品の一つ『無毛談』をぜひ読んで欲しいと書いている。どんでん返しもあり、読後感がまた格別と推奨している。「安吾がいかに小説づくりが巧みで、しかも心やさしい作家だったかがよくわかるだろう。文章も読みやすい。人をいとおしむ気持ちが端々ににじみ出て、切なくなる」と。これら二つを読了する前に本棚に返すところだった。再び腰を落ち着けて読書。
 『無毛談』はなるほど面白かった。自分自身の禿げの話から入り、お手伝いさんの下半身の話まで見事な起承転結。表題作の『アンゴウ』は最初の数行を読み始めて気がついた。お、これは前に読んだことがある。結末も何となく覚えている。先の大戦から帰還した男が妻の不貞を疑る物語で、結末は男の疑念などかなたに吹き飛んでしまう親子の情愛が描かれていたような・・・。改めて再読した。間違いなかった。
 編者の解説の言葉に偽りはなかった。『桜の・・』とは全く異質の読後感だった。しかし、『アンゴウ』を最初に読んだのはそう昔ではない。それなのに、すっかり読んでいたことを失念するとは。嗚呼、情けなや!

麻雀

 米大統領選でpopular votes と呼ばれる候補者の得票数の最終集計はまだ確定していない。一部報道によると、electoral collegeと呼ばれる選挙人争いではドナルド・トランプ氏に敗れたヒラリー・クリントン氏が得票数ではトランプ氏を最終的には2百万票近く上回ることになるかもしれないという。得票数では上回っても大統領選では敗退するケースは過去にもあるが、この矛盾的な選挙人制度を廃止して明快な得票数による大統領選に変えようという声も出ているとか。皮肉なことに今回の大統領選で選挙人制度の改革を叫んでいたのがトランプ氏で、その彼がこの制度の「恩恵」を受けて当選することになるとは・・・。
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 中国語を学習していて、あ、この語知っているぞと思うことがしばしば。例えば数の数え方。イー・アル・サン・スー・・・。2(二)はアルだが、場合によってリャンとも言う。思い起こせば、この数え方は学生時代にとある遊技(game)で親しんでいた。「麻雀」だ。
 当時は先輩や仲間を通して2はリャンと呼ぶことを教わり、「リャンワン」「リャンソウ」「リャンピン」などと呼んでいた。深く考えることもなく。四万は「スーワン」、五万は「ウーワン」七万は「チーワン」などと。今から考えるともったいない話だ。あの頃から中国語に興味を覚え、コツコツ学習していたら、今頃は中国語の大家となっていたかもしれない。少なくとも英語と同様の力ぐらいはつけていたことだろう。返す返すもったいない。
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 実は麻雀は今も楽しんでいる。賭け事としてではない。テレビで見る娯楽としてだ。ケーブルテレビで麻雀がよく放送されるチャンネルがあり、退屈な時は時々視聴している。家族を路頭に迷わせる類の賭け事ではなく、気晴らし程度の「健全」な賭け事を楽しむ人のことを英語では recreational gambler と呼ぶらしいが、私の場合はrecreational gambler よりさらに「健全度」がアップする recreational watcher だ。
 学生時代は本当によく麻雀をした。今では懐かしい思い出だ。風邪をひいて熱を出して安下宿で寝込んでいても、友達が自転車で誘いに来れば、喜んで出かけていた。それも徹夜麻雀。博才がないのかよく爆砕した。情けないことに、ひと月の苦労した家庭教師のアルバイト代を一晩で吐き出したこともある。そう悔しく思った記憶は残っていない。十分楽しかったからだろうか。いや、単にアホだったに過ぎない。
 つい先日、深夜の麻雀番組を見ていたら、大御所の女優がゲスト解説者として出演していて、「麻雀ほど面白い遊戯はないと思う」と嬉しそうに語っていた。彼女は麻雀大好きで知られる。彼女の打牌をテレビで見たことがあるが、たいした腕前ではないようだった。それはそれとして、確かに麻雀は面白い遊技ではある。事実、自分が実際に打牌していなくとも、テレビで「観戦」しているだけで十分楽しめる。
 一つだけ不思議なのは麻雀番組を見るようになって、この世界にもプロの人たちが多数存在していることだ。プロ雀士と呼ばれている。個人的見解だが、将棋や囲碁と異なり、運の要素がどでかい麻雀ではプロという存在はあり得ないのではとも思う。

男子三日会わざれば・・・を願う

 これも軽い虚脱状態と呼べるのかもしれない。海の向こうで信じ難いことが起きた。米大統領選。あろうことか傲岸不遜のドナルド・トランプ氏が新大統領に選ばれてしまったのだ。よその国の出来事である。それも民主的な選挙を経てのことだから、こちとらがやいのやいのと言う資格は微塵もないのは承知している。がそれにしてもだ。
 思わず、ニュージャージー州に住む恩師に「弔電」のメールを送ってしまった。冗談が過ぎるかと思ったが、文面はただ一言。”Please accept my condolences.”(お悔やみ申し上げます)。恩師からは11月8日がinfamy(恥辱)の日として歴史に刻まれるかもしれないと深く危惧するメールが届いた。文面からはアメリカの同胞が下した選択を憂える気持ちがよく伝わってきた。恩師にとっても相当のショックだったようだ。
 非常勤講師をしている大学で同僚のアメリカ人講師に同じ言葉を告げると、彼は私の皮肉を理解して、日本の葬式で「お悔やみ申し上げます」と言われたら、普通どのように応じるのだと逆に質問され、こちらが答えに窮してしまった。
 それはともかく、今回の大統領選はトランプ氏が勝利したというより、ヒラリー・クリントン氏が敗北した選挙戦だったという気がしてならない。経歴・資質から見たら、ヒラリー氏ほど「準備万端」の候補者はいなかったことだろう。それでも敗北した。巷間言われているように、米社会の中間層・貧困層にずっと巣食っていた富裕なエリート層やエスタブリッシュメントに対する反感が反ヒラリー票へと一挙に噴き出した感がある。
 獲得した州ごとの選挙人の数からみると、290対228とトランプ氏が圧勝したように見えるが、popular votes と呼ばれる全体の獲得票数ではヒラリー氏がわずかといえトランプ氏を上回っている。ヒラリー氏はそこにわずかな慰めを見いだすことはできるだろうが、いやそれにしても彼女が敗退するとは・・・。
 さて、年明け以降、日本の最大の同盟国、アメリカはどうなっていくのだろうか。どう変遷していくのだろう。新大統領が選挙戦中にまき散らした暴言をそっくり実行に移していくことだけは勘弁してもらいたい。不思議なのはあれほど傍若無人な振る舞いを見せていたトランプ氏が当選後は一転、ロープロファイル(low-profile:低姿勢)の言動を示していることだ。ひょっとして彼は自分が新大統領に選ばれるとははなから思っていなかったのでは、とさえ思えてしまう。今になって初めて自分の肩にかかった責任の重大さに気づいたのでは・・・。むしろそうであって欲しいと願う。何事もその道の専門家の良識ある意見に耳を傾けていけば、世界を迷路に導くことはないだろう。むしろ、歴史に名を残す大統領となるかもしれない。いや、これはあまりにも楽天的過ぎるか。
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 らっきょう酢の魅力にはまって一年近くなる。飽きっぽい私には珍しく、ほぼ毎日、野菜のらっきょう酢漬けをありがたく食している。本日は大家さんからまた少し野菜を頂いた。その中に水菜があった。ふとらっきょう酢に漬けてみたらどうだろうと思い、水洗いした水菜を適当に切って、らっきょう酢に漬け、冷蔵庫に。数時間して取り出して食べてみると、信じられないほど甘くて美味。改めて、らっきょう酢、恐るべし!

Pleasure to learn

 大リーグもワールドシリーズを残すだけであり、日本人選手も出場していないから、興味はほとんど失せている。プロ野球は日本ハムファイターズが優勝して閉幕。一応テレビ観戦は怠らなかったが、あまりにあっけない結末となった。広島カープファンには後味の悪い幕切れとなったことだろう。
 久しぶりにスカッとしたのは海の向う、アメリカのゴルフツアーの大会だった。松山英樹プロが圧勝で米ツアー3勝目を飾った。海の向うといっても、大会はお隣の中国・上海で行われていた。2日目から首位に立った松山選手は最終日も果敢なプレーで他を寄せ付けなかった。これからの活躍が楽しみだ。2位タイに終わったダニエル・バーガー選手(米)の次の賛辞が松山選手のプレーの素晴らしさを雄弁に物語っている。“Hideki played just unbelievable and it was a pleasure to watch. You can learn a lot from watching Hideki play.”(ヒデキは信じられないほど良かったよ。彼のプレーは見ていて楽しかった。彼のプレーを見ているだけで凄く勉強になる)。このブログでかつて手厳しいことを書いたような記憶もあるが、それはそれ、許してもらおう。
20161101-1477999001.jpg 嬉しかったのは彼が中国で勝利したことだ。中国のゴルフ好きな人々、特にこれからゴルフを楽しみたいと思っている若い世代に強烈な印象を残してくれたのではないかと密かに期待している。卓球の愛ちゃんや体操の内村航平君もそうだが、日中の埋めがたい溝を埋めていくのにスポーツの場で彼らのような若いスター選手の活躍が果たす貢献も少なくないのではとも思う。松山選手の優勝を伝えている米ゴルフツアーのホームページに掲載されていた写真に、彼がこの大会を裏方として支えたのであろうと思われる上海の若者たちと一緒に笑顔で収まっているのを見てその感を強くした。
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 中国語。最近は韓国語よりもこちらの方の学習に費やしている時間が多いかもしれない。といっても、NHKのラジオ講座に毎朝毎夜、辛抱強く付き合っている程度の勉強に過ぎないが、それでも「刺激」は十分だ。ただ、発音を覚えたつもりでもそれが全然脳内に残らないのが残念でならない。ただ勉強自体は実に面白い。
 基本独学ではあるが、中国語に関しては、少し離れた、といっても歩いて行ける距離にある私立高校の一般市民対象の中国語講座にも通っている。不定期に開講されており、全16回の半ばを過ぎた。受講生は高齢者を中心に6人前後で少ない。この講座で中国人の講師の生の発音にじっと耳を傾け、自分の発音の至らなさに気づかされている。ありがたや。
 興味深いのはNHKのラジオ講座の中で中国人の先生が教室で学生に「山中さん、あなたは・・・?」と尋ねるシーンで、中国語では「山中(Shānzhōng)、・・・」と、我々の感覚では呼び捨てになっていることだ。講師の説明によると、中国語では名字を敬称なしで呼んでも特段の無礼には当たらないとか。下の名前、つまりファーストネームなら分かるが、名字の呼び捨てでも構わないとはどうも合点がいかない。
 この辺りの事情は段々と理解を深めていければと願っているが、それでもやはり、漢字でつながっている言語だからと「予断」を持っていては足をすくわれそうだ。

秋は新学期!

 ブログのアップにだいぶ時間が経過した。(この例えが合っているかはともかく)水は低きに流れるがごとく、人間楽をしようと思えばいくらでも安きに流れるもののようだ。記事を書く仕事を辞めて久しいが、私は今も結構頻繁に原稿書きに追われる夢を見る。新聞記者時代の名残であることは間違いない。目覚めてほっとする自分がいる。あ、俺もう記事など書かなくていいのだ。そもそも新聞記者ではもうない。組織に属していない身の気楽さをありがたく思う一瞬だ。はかない一瞬の喜びでしかないのだが。
 中国語と韓国語の独学で大いにお世話になっているNHKのラジオ語学講座。7月頃から聞き始め、正直、どちらもついていくのが青息吐息だったのだが、10月の声を聞いて思わぬ変化があった。全然知らなかったのだが、9月でワンクールが終わって新しい講座が開講したのだ。これが実に手取り足取りといった感じの基礎から教えてくれる。韓国語は比較的に基礎を習得していたので復習の感覚で臨める。中国語は声調、発音の基礎から学べて助かっている。しかも前週の放送をパソコンで聞けるサービスもあることを最近知った。いい時代だ。それでも中国語の声調は実に難解そのもの。何度覚えたつもりでも、テキストを伏せるときれいに記憶が消えている。実に難儀だ。
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 少し前に紹介した “The O. Henry Prize Stories” (The Best Stories of the Year 2015) を読み終えた。これは凄いと感じる作品はなかったかのように思う。これなら志賀直哉の『小僧の神様』でも読み返していた方がはるかに心地良かったかもしれない。とはいえ、英語の勉強にとっては参考になる表現にいくつか出くわした。例えば、次の表現。But she knew better than to say that. この文章が出てくる状況はざっと以下の具合だ。老年の域に達している男が俺はいつだって人生を楽しんでいると豪語する。付き合っている女はあなたにとっては気楽なものでしょうよ。だって、お金に全然不自由していないあなたは家政婦に自宅を任せているし、仕事では秘書だって雇っている。でもそう言うと、男の気分を害するのは必定なので口をつぐむ。それで上記の文章が出てくるという次第だ。
 だから、訳文としては「彼女はそれを口に出して言うほど馬鹿ではなかった」ということになる。こういう慣用表現は辞書には載っていないだろうなあと思いながら、愛用している電子辞書を引くと、know better than ~ で「~するほどばかではない」という訳し方が載っている。なかなか優れものの電子辞書だ。
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 毎秋お世話になっている福岡市の健診ドックの結果が出た。肝機能を含め概ね良好だったが、「血液中の脂質」(LDLコレステロール)が問題となっていた。改めて見ると腹囲もやはり恥ずかしい。これは本人が一番自覚している。焼酎などアルコール類を一切断って1年と10か月。それで安心していたら、またぞろ体重が増えてきていたからだ。プールで定期的に軽く泳ぐ程度ではだめなようだ。いつも座っている(sedentary)生活を続けていると、こうなることは分かっていた。もう一つ規則正しい運動の日課を加えた方がよさそうだ。うーん、何をすべ!?

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