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英語でさるく 那須省一のブログ

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“I’m not much of a foodie.”

 冬休みが明けたと思っていたら、また祝日やら学校行事やらで休みが続いた。非常勤講師の身としては痛し痒しだ。時間がたっぷりあるからといって、生産的な時間を過ごせるかというと全然そうではない。もっとも私の年齢に達したなら、一日が無事に過ぎていけばそれで良しとすべきかもしれない。それは分かっているが、そうならないのはまだ自分には可能性が残されていると考えているからだろう。
 台所に立つ。せめて自分が食べるものぐらいは自分でこさえたい。苦手なものがある。油料理だ。油をどう処理したらいいのかよく分からないので、天ぷらや粉ものは作ったことがない。本当は作りたいのだ。そう思っているから小麦粉や片栗粉を思いつくたびに買い求め、使用期限切れになったのに気づき、ゴミとして処分する。何度こういうことを繰り返していることか。我ながら情けない!
 就寝時によく眺めるスマホのYouTube画面。最近の定番は私のような独り者でも簡単に作れる料理もの。2,3分でできる超簡単なものから10分程度のものまでさまざま。もちろん、私にとっては簡単なものほど好ましい(the simpler the better)。先夜は板かまぼこを適当に切って、片栗粉をまぶして油で揚げれば、酒(焼酎)の肴に最適とか説いているYouTubeに出くわした。お、これならこの俺でもできそうと思い、三度ぐらい見返して作り方を頭に叩き込んだ(つもりだった)。
 翌日台所に立った。もはや記憶があやふや。どこでどう手順を間違えたのか、気がつくとフライパンの中で片栗粉がぐしゃぐしゃ、これはだまになっていると表現するのだろうか。とにかく、目指した美味いかまぼこを揚げることはできなかった。これなら、普通に切り分け、わさび醤油で食していた方がはるかに良かった!
 こうした料理音痴は小さい時に台所に立つことが皆無だったからだろう。もっとお袋や姉さんたちに基本的な事柄を教わっていたら良かった。今となっては手遅れだが、悔やまれる。まあ、これから少しずつ上達していこう。食通を目指しているわけではないのだから、何とかなるだろう。食通と言えば、最近聴いたNHKラジオの英語講座の一つで「私はグルメというほどではありませんが、外食するのは好きです」という例文が紹介されていた。 “I’m not much of a foodie. But I like to eat out.” 私もそうだ。
 私の耳には「グルメ」の訳語が「フーディ」と聞こえたので、foody という語があるのだろうと推察した。改めて辞書で調べると、foodie という語であることを知った。なるほど。「グルメ」「食通」という意味合いらしい。これから積極的に使っていこう。
 さあ、また明日から仕事が再開する。仕事の前夜は原則、酒(焼酎)を絶つが、今宵はちょっとだけ頂こう。肴は鹿児島・南大隅町のTさんから頂いた食材の一つ、冷凍餃子。冷凍餃子はこれまでも問題なく処理していたが、なぜか、餃子がフライパンにこびりつき、失敗作となった!
 食べることに関してもう一言付記すると、去年から近くにいいレストランがあることが分かった。比較的有名なお店で気になる存在だったのだが、敷居が高そうで足を踏み入れたことはなかった。今は週1のペースでのぞいているが、本当に美味だ!

さあ仕事モードへ

 社会人になって最も安上がりの年末年始となったかと思う。どこにも出かけずに外食もせず、財布の中身は全然減らなかった。現役時代からこういう暮らしをしていれば、かなりの財を蓄えていることだろう。という悔いはさておき、三が日も普段はまず手にしない小説を読み、余った時間はYouTubeで暇をつぶした。酒類もほどほどにしたから、そんなに太ったという意識はない。それでもさすがに昨日(4日)は外に出ようと思い至り、久しく歩いていない香椎浜の散策路を歩いた。寒風も吹いておらず、手袋をせずとも、気持ちよく歩くことができた。
 そうこうしているうちにいよいよ明日7日から三学期が始まる。再び中学校と高校の掛け持ちの非常勤講師職だ。高校は3年生の授業はほどなく終了するのでこれまでのような忙しさはないようだ。4月以降の仕事が約束されているわけでもなく、今の仕事がなくなったらさて何をしようかと考え始めてもいる。最終的には韓国か中国に語学研修に出たいと願っているが、お金もかかることだし、実行するとしてもだいぶ先の話になるだろう。韓国はともかく、中国は油断しているとスパイ容疑で拘束される国だ。私はフリーランスの気楽な身だが、現役の頃は読売新聞社に勤務し、国際報道に従事していた。中国での取材経験はないが、何かあったら、普通の観光客のように遇してくれるのか、さすがに気が重い。
 台湾ならば世界最大の親日国(地域)だけにそうした心配は無用だが、台湾で使われている中国語の漢字は繁体字と呼ばれ、我々日本人には荷が重い。数年前に台北の大学で1か月語学留学をさせてもらった時に、この繁体字には悩まされた。NHKラジオの中国語講座では中国本土で広く使われている簡体字がベースとなっているが、簡体字に慣れた身には繁体字を見ると圧倒されてしまう。だから本音を言えば、上海か青島辺りの語学学校に数か月単位でいいから入学し、集中的に中国語を学びたいのだ。
 当面は韓国語を学ぶ方が無難か。リスニング力だけに関して言えば、私は韓国語の方が中国語よりもいいような気がしている。ソウルか釜山で数か月生活し、集中的に韓国語の力を身につけたいという思いがずっとくすぶり続けている。
                 ◇
 毎朝読んで一日をスタートさせているキリスト教の祈祷書(devotional)。元旦の日の項はK夫人の手になる文章が掲載されていた。冒頭に紹介されていたのは詩編46:10の一節。Be still, and know that I am God. (静まって,わたしこそ神であることを知れ)<口語訳,日本聖書G協会>
 私が手にしている祈祷書では上記の詩編が … I amf God となっていた。amf という語があるのだろうかと思った。あるいは I am from God という意味で、amと fromが合体しているとか。色々調べてみたが、どうもこういう語、表現はなく、単なるtypo(誤植)のようだ。それにしても、元日(New Year’s Day)に読む最初の文章(詩編)にタイポがあるとは!2025年が不吉な年とならないことを切に願う。
                  ◇
 松山英樹プロが米ゴルフ開幕戦で優勝した。圧勝だった。見事の一言だ。

2024年にお別れ

20241229-1735453836.jpg 年賀状を書かなくなってどれぐらいか。親しい知己には身辺雑記を書いた駄文のメールをパソコンから送っているが、一年前のメールには大意、次のように書いた。――2023年は帯状疱疹罹患に始まり、それは今も完治せず、踏んだり蹴ったりの一年でした。世の中を眺めると、我々は聖書が説く「終わりの時代」に生きているのでしょうか。暦の月が二度変われば私も古希。人生がこんなに「短篇」であるとは思いませんでした。あとは淡々と引き際を見つけるだけでしょうか。2024年もかくして煩悶の中、怠惰と不作為のまま過ぎゆくことになるのかもしれません。――
 このメールに少し手を入れ、再送しても違和感はないことだろう。2025年の到来は嫌な予感しかない。人類は確実に破局に向かっているように見えると書いたら大げさか。寺社を見れば手を合わせたくもなるクリスチャンの端くれとして救いの願いは捨てたくないが。
 とあるYouTubeでアメリカの著名な経済学者であるリチャード・ウルフ氏(Richard Wolff)が2025年の世界を展望しているのを見た。彼はまもなく再登場するトランプ新政権下の国際経済に警告している。アメリカはかつての大英帝国が衰微していったように衰退の道を歩んでいる帝国であると断じている。アメリカの地位を脅かしているのは中国。中国がロシアやインド、ブラジル、南アと構成しているBRICSには新規参入を希望する国々が相次いでおり、欧米や日本など西側が無視できない勢力に成長している由。そうした現実を無視することは愚かで無謀と批判している。ウクライナ戦争が勃発した時にロシアの凋落を予測する声もあったが、BRICSを後ろ盾にしたロシアは衰える気配が見えないとも指摘している。やがて到来するのは世界大恐慌?
                  ◇
 暇があるので普段は読めない本を書店で購入して読んでいる。思えば、外国語の独学に時間をとられ、いわゆる小説の類の読書量はめっきり減っている。いや正確にはYouTubeを楽しむ時間が増えたのでと書くべきかもしれない。実際、テレビはNHKのニュースとスポーツ番組以外はほとんど見ていない。YouTubeは面白そうな番組が目白押し。正直一日中、見ていられるかもしれない。阿呆みたいだから途中でやめるが。
 そういう次第で手にしたのは地元福岡出身の作家、松本清張の代表作『点と線』。彼は著名な作家だからもちろんその名は知っていたし、作品もいくつかは聞いたことがある。だが、何と言うのだろう、「食わず嫌い」的に表現するなら「読まず嫌い」だったのだろう。たまたま足を運んだ書店でこの文庫本が目に入ったので買い求めた。短篇とでも呼びたくなるような長編小説なのですぐに読み終えた。面白かった。裏表紙に「推理小説界に“社会派ミステリー”の新風を吹き込み、史上空前の推理小説ブームをまきおこした名作」とうたってあったが、なるほどと納得した。
 作中に国鉄鹿児島本線の香椎駅とか西鉄香椎駅、香椎海岸などといった馴染みの駅名や地名が出てくる。駅名は今も残っているが、小説の舞台の昭和30年代当時とはだいぶ趣を異にしているのだろう。そういえば、時々利用する西鉄香椎駅前に作家を顕彰した記念碑が立っていることを思い出した。

再び有馬の時節

20241220-1734702058.jpg 金曜日。普段なら嗚呼、やっと週末だと心がちょっと弾む。この日は高校の今年最後の出勤日だった。とはいっても授業はない。出勤簿にチェックを入れ、年明けからの新学期の授業予定を確認すればそれで終わり。心穏やかな出勤日となった。
 明日からは長い冬休みとなる。いや、欧米のバカンスに比べればそうでもないか。年が明ければほどなく授業が再開される。今冬は何の予定もない。昨年の今頃は正月早々のソウル旅行のことをあれこれ考えていた。そうしたら、正月に能登半島が揺れて、少し後ろめたい気持ちで福岡空港に向かった。高い航空券は支払い済みだし、ドタキャンも痛い。
 今冬は若干台湾行きが脳裏をかすめた。しかし、ネットで格安チケットを検索してその気は失せた。安くても5万円から6万円台。コロナ禍前のそう遠くない昔、往復28,000円程度のチケットで旅していたことを考えると、手を出す気にはなれない。せめて4万円台にまで下がってくれないものか。かくいう次第で海外は諦めた。それに正月ぐらいは両親の眠る田舎に戻り、お墓に手を合わせたいという気持ちもある。これまでは快く付き合ってくれた甥っ子が体調不良で運転が厳しく帰郷は無理。仕方ない。宮崎まで戻り、レンタカーで郷里まで走るか。車のハンドルは久しく握っていない。腰痛が出なければいいのだが・・・。
 とりあえず、仕事納めとして、最近時々のぞき始めたレストランで一人祝杯!
                  ◇
 競馬界の一年の終わりを告げる有馬記念。何度も書いているが、予想だけしてテレビを見る。実際にはテレビではなく、JRA(日本中央競馬会)がレースの生中継を切り取って流してくれるのでその部分だけをパソコンで見る。今年の有馬記念は一番人気にレジェンドと称されているベテラン武豊騎手が乗るドウデュース。すでにGIを5勝しており、実績は十分。この馬を外して連複や連単を買うのは無謀かもしれない。
 まあ、私は今では馬券は買わないで予想だけをして楽しむ派なので無謀も何も関係ない。でも予想するからには当てたい。たとえ実際に夢のような馬券が的中し、実際に電話投票していたら、うん十万円、うん百万円の大万馬券が懐に転がり込んでいたとしても嗚呼惜しかった、本当に馬券を買っていれば良かった!などとは思わない。実際そうしたケースは過去に何回か経験している。悔しくも何ともない。私の理屈はこうだ。現実に私がその馬券を電話投票で購入していたなら、神様がきっと「介入」して当たり馬券とはなっていなかっただろう!
 まあ、たわごとはこのぐらいにして、私の予想馬券は三連単としよう。1着馬はJP、2着馬は上記のDD、3着馬までは絞り込めないから、手広く流す。出費は100円で流せば、1,400円。1,000円で流せば14,000円で済む。うまく行けば、結構な万馬券となる可能性を秘めている。とここまで打ち(書き)、念のため出走頭数を確認しようとスマホをチェックすると、なんとドウデュースが「歩様異常」のため出走取り消しというニュースが報じられている。馬券師たちは予想を組み直さなくてはならない。私は単にレースを楽しむだけにする。JPが先頭でゴールインすれば、それで十分だ。おそらくそうはならないだろうが・・・。

嗚呼八王子支局!

 新聞記者として新入社員時代を過ごしたのは東京・八王子支局。当時の後輩記者(彼はまだ現役)からEメールが送られてきた。写真が添付されていた。八王子支局で一緒に勤務した仲間が先日十数人集まった飲み会の記念写真だ。東京のどこか、中華料理店とおぼしき宴会場。全員還暦過ぎの好好爺が円卓を囲んで微笑んでいる。何人かはすぐに分かったが、分からない人も。はてこの御仁は誰だろう。じっと見つめていると面影が往事に重なり、記憶の糸がつながった。おお、あの人か。総じて言えることは皆、年相応の中高年になっていたことだ。懐かしくもあり、寂しさも禁じ得なかった。
 私は京都から実兄一家が来福していて、残念ながら上京することはできなかった。添付されていた写真を眺めていてしばし感慨に打たれた。駆け抜けていった歳月の長さに改めて思いを致さざるを得ない。あれから半世紀近く経過しているのか。
 私は大学で留年を重ね、卒業した時には25歳になっていた。優秀な学生だったら大学院を卒業していた年齢だ。お袋に泣かれ、教授連にあきれられ、ようやっと卒業した。教育学部だったのでそのまま中学か高校の教師になっていれば、また違った人生を歩んでいたことだろう。英語が好きだったので英語力を活かそうと選んだのが新聞記者の仕事。田舎の地方大学出だったので、編集局幹部が都内にある支局に送り出してくれたものと思われる。
 支局勤務は5年。当時は平均的な年数だった。それから東京・大手町の本社に異動となり、最終的に希望する国際部(当時は外報部)に配属された。国も社会も私も夢と希望に満ちていた時代か。あれから45年――ほぼ半世紀。それだけの歳月が流れているとは信じ難い気もするが、支局の仲間の写真を眺めていると納得せざるを得ない・・・。
 大学時代の同窓生とは没交渉。同窓は5,6人はいたと思うが、私は怠惰な留年生であり、しかも一人だけ教職の道を選ばなかったのでそれも致し方ない。同窓生とは大学以来一度も会っていない。皮肉なのは彼らが長年の教師生活に別れを告げる頃、私はようやく教壇に立ち始めていること。私は昔からスロースターターだった。そんな私でも心に秘めていることがないではないが、はてさて今の暮らしをいつまで続けられるのだろう・・・。
                  ◇
 ロンドンに住む旧知の友人一家にクリスマスプレゼントを郵送したことは過日、ここに記した。送料はともに6000円。送り状に不備があり、返送されて、再び、同じ送料を払い、再送したことがあり、それがトラウマになっている。今回もパソコンで送り状を打ち込むのに苦労した。アナログ人間の私はこういう作業がどうも苦手だ。今度も同じ憂き目に遭うことになるのではないかと危惧しながら、送り状を作成した。
 自宅に戻ると、郵便受けに郵便局からそうした通知が舞い込んでいるのではないかと不安な日々を過ごしている。幸い、まだそのような通知は届いていない。何とか、無事先方に届いて欲しいと願っている。一番むごいのは何とかやり過ごしたかとほっとしている時に、送り状に不備あり、きちんと書き直して再送されたしとの連絡が入ることだ。再送する気力は失せてしまう。プレゼントを受け取れない子供たちの落胆がよく分かる。再びそうなればまたパソコンに向かうことになるだけだが、身から出た錆とはいえ・・・。

推測に過ぎないが・・

 ギャンブルから足を洗って久しい(と思っている)。パチンコ店には散策途中に尿意を催した時にトイレを使わせてもらうために入店しているが、台の前に座ることはない。台の機種の特徴も忘れてしまった。競馬は記憶、かつ推理のゲームだから、これまでの蓄積を捨て去るのは忍びなく、自分なりにフォローしている。未練があるわけではない。いつぞや書いたことがあると思うが、御年80歳に達し、その時点で健康であり、自由に使える小銭が手元に残っていれば、再び手を染めてもいいかなと考えている。
 そういう次第で馬券勝負に見切りをつけて何年も経つが、パソコンで中央競馬会(JRA)の実況中継を無料で楽しめるご時世ゆえ、週末はメインレースを中心に予想だけはしている。予想だけで馬券を買うことは絶対にしない。競馬新聞やスポーツ新聞の類はもう何年も読んでいない。第一パソコンを使っての馬券の買い方はすっかり忘れてしまった。馬券は買わなくとも、予想するだけで競馬の醍醐味は十分味わえる。
 土曜日の朝、雑事をこなしながら、パソコンで競馬の実況中継を聴いていたら、若い女性アナの実況の声が聞こえた。おや、珍しい、競馬の実況を女性アナが担当しているとは! 勝利した2歳牝馬の馬名を叫んでいる。ヴィンブルレー。私の耳には英語表記の Vin Brule を忠実に口にしているように聞こえた。よく分からない。私を含めた多くの日本人が普段言っているように、ビンブルレーと発声していたのかもしれない。しかし、私の耳にはヴィンブルレーと聞こえた。女性アナの実況は新鮮で耳に心地よく聞こえた。おそらく英語にも堪能で、日本語にはない、下唇を軽くかんで発声するヴの音も自然に口をついて出ているのではないかと推測した。あくまで推測に過ぎない・・。
                  ◇
 またクリスマスのシーズンがやって来た。毎朝読んでいるdevotional (祈祷書)にはクリスマスにまつわる楽しい思い出話があふれている。クリスチャンの端くれを自認している身だが、私はクリスマスだからと気分が高揚することはない。それどころか、気分がふさぐ。こう書いたら神様の罰が当たりそうだ。許してくださいませ! 
 海外に住む友人にプレゼントを購入して郵送するのが一苦労だ。子供がいる友人には日本のお菓子を贈れば大喜びされる。それが分かっているから、箱一杯にお菓子を買い込み、郵便局に向かう。大雑把に言うと、6000円前後のお菓子や小間物を購入し、送料もほぼ同じ程度の料金。何だかなあと思わざるを得ない。送り状をパソコンで打ち込み、それを箱に張り付ける必要がある。昔は手書きで窓口で局員とあれこれやり取りすることもできたが、今は一人でこなさないといけない。アナログ人間の私には頭が痛い!
                  ◇
 私はこれまで腰痛と無縁の人生だった。丈夫な身体に生んでくれた母親に感謝したい。とつい二三年前まで思っていたが、近年、椅子やソファーから立ち上がろうとするとき、ヒヤッとすることが増えた。ぎっくり腰と言うものなのだろうか。たいていは鈍痛のような軽いものだが、鋭い痛みが走ることもある。不思議なのは一旦立ち上がると、痛みは消え、動き回ることに何の支障も感じないことだ。よく分からない・・・。

雨・・white noise

20241207-1733533622.jpg 夕刊の社会面で小さく報じられていたその記事の見出しを見て驚いた。記事を読んでみてさらに驚いた。「自宅で男性6割 座って排尿」という見出し。え、男の6割が今や便器に腰を下ろして小用を足す時代なのか!と思った次第だ。かくいう私も自宅ではそうしているが、まさか大多数がそうだとは思わなかった。
 日本排尿機能学会というところが昨年調査して判明したという。年代別では20歳代が69%で最も高く、50歳代は54%と年代が上がるほど低下しているとか。座って排尿する派が多いのは、尿が飛び散ってトイレを汚さないようにする衛生面の配慮があるのだろうと報じていた。私が驚いたのは記事中に「温水洗浄便座」の記述が全くなかったこと。洗浄便座が普及したからこその変化だろう。それには言及して欲しいと思った次第だ。それにしても、子供の頃、未来の日本では男も便器に腰を下ろして小用を足すようになっていると知ったら、まさか!?といぶかったに違いない。
                  ◇
 大リーグ中継や野球の試合がなくなったらテレビを見る時間が激減した。それは嬉しいことなのだが、その分パソコンでYouTubeを眺めることがますます増えている。最近よく見るようになったのは雨の降る光景。
 インドネシアの緑豊かな農村で大雨が降っている。日本ではまず見られないような大雨だ。もっとも最近の日本では地球温暖化の影響か、かつてなかったような大雨が降り始めていることも事実。それを考えると複雑な心境にはなるが、パソコンの画面に流れる雨は風情にあふれる。ストレスを癒やし、安眠を誘う自然の恵みだ。どこかで読んだが、雨の降る音はwhite noise と呼ばれるものらしい。私の電子辞書には「白色雑音」(広い周波数領域にわたる電気ノイズ)と載っている。ネット情報だと「集中力を高める効果や安眠をもたらす効果があると言われている」とか。YouTubeでは世界各地の雨の情景を撮ったものが流れているが、やはり農村や田園地帯のものが目と耳を癒やしてくれるようだ。私も田舎で過ごした少年時代が思い起こされ、見入って(聴き入って)しまう。
                  ◇
 魔が差したのだろう。先日、踏切近くにさしかかったところ、警報機が鳴り出した。床屋に向かう途中だった。急ぐ必要はさらさらなかった。1,2分待てばいいだけの話だが、気がついたら、降り始めた遮断機の下をかいくぐろうとしていた。遮断機の棒が思ったよりも低い。くぐり抜けたと思ったところでバランスを崩し、向こう側の歩道にこけてしまった。いや、正確にはこけそうになったので、左手をついてこけるのを防いだ。だが、とき既に遅し。頭部が道路のコンクリにがつん。左手の手のひらも痛い。左足の膝も打ち付けたようで痛い。人通りの少ない踏切なので、恥ずかしい光景を目撃した人は少なかったと思う。
 眼鏡はフレームが壊れて、レンズも外れ、使い物にならない。新しい眼鏡を買えということかと思いながらも、帰宅後に引き出しを漁ると、昔使っていた眼鏡がいくつか出てきた。その内の一つをかけてみる。よく見える。いつ頃かけていたのか覚えていない。10年以上前? 私の視力は衰えていないことの証左? まさか!?

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