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英語でさるく 那須省一のブログ

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書いておかないわけには・・

20251019-1760864302.jpg 大リーグ、ナショナルリーグのチャンピオンを決める優勝決定シリーズ7連戦はドジャースが一気に4連勝して連覇を果たした。最優秀選手(MVP)には4戦目に先発し、7回途中まで無失点10奪三振を奪う好投、打っては先頭打者本塁打を含め3本のホームランを放つ離れ業を見せつけた大谷翔平君が選ばれた。規格外の翔平君の活躍を言葉で形容することは段々難しくなっている。最大の魅力はあの快音とともに外野スタンドの奥深く飛び込む「胸の空くようなホームラン」であることに変わりはないが。
 試合後にパソコンで YouTubeをのぞくと、大リーグ関係者の大谷称賛の声が目白押しだ。これまでは投げる方でも活躍した伝説的大打者のベーブ・ルースの再来かといった声が多かったが、もはや、過去の偉人と比較することすらあまり意味のない次元で前人未踏の偉業を我々に見せつつある印象だ。こちらまで誇らしい気持ちになる。ナリーグ優勝を決めた7戦目は長く語り継がれる伝説の一戦となるのかもしれない。ワールドシリーズで「上書き」されない限り。「上書き」して欲しいが・・・。
 大谷選手がプロ野球で活躍していた頃はパリーグの球団に属していたこともあって声援を送っていた記憶はない。むしろ無関心に近かったかもしれない。だが、大リーグに移ってからは熱烈なファンになった。ここ何年かはパソコンやスマホを使い、彼のプレー、一挙手一投足を熱心にフォローしている。時差の関係で大半の試合を生中継で追うことはできないが、仕事の合間にチェックしている。
 アメリカンリーグの覇者と「世界一」を争うワールドシリーズは日本時間では今週の土曜日朝に開幕する。幸い、土日の二日間は心置きなくテレビで観戦することができる。ワールドシリーズが7戦目までもつれると最終7戦目は日本時間11月2日(日)。いやはや大リーグはいつまでプレーオフの戦いを続けるのか! アメリカ国内だけの野球チームの争いをワールドシリーズと呼ぶことの「尊大さ」はここでは言うまい!
                  ◇
 先にAbemaTVで中国語のドラマを見たことを書いた。麻雀番組を探していてまた、同じドラマに遭遇した。私が見た初回らしき回の一つか二つ先のお話のようで何とか筋立てについていけた。ヒロインが凄い美人というわけではないが、個性的な顔立ちに惹かれる。目的は中国語の学習だから、耳をそばだてて登場人物の会話を聴いていた。
 ヒロインがアルバイト先かどこかの会社に雇われ、出勤初日に先輩社員たちに挨拶する場面。日本のドラマだったら彼女は「皆さん、○○と申します。宜しくお願いします」と頭を下げるシーンが頭に浮かぶ。彼女の口をついて出たのは確か「请多关照」(Qǐng duō guānzhào)というものだった。まさしく日本語にそっくり意味合いの挨拶だ。以前に聴いた中国語講座で中国語では「宜しくお願いします」という類の挨拶はしません。ニーハオで十分ですと教わった。もっとも近年では日本語の挨拶を翻訳したような「请多关照」という表現をする人も増えているというような説明を受けていた。私は「Qǐng duō guānzhào」(正確にカタカナ表記はできないが、敢えて表記すると、「チンドゥオグアンジャオ」)を聴き取ることができただけで嬉しかった。この程度のことで喜んでいても始まらないのだが・・・。

ピーター島田先生のこと

 先の関西への旅は実に有意義なものとなった。明石でのU先生の庭園そばのマンション内に設けられた書斎での語らいのことは少し書いた。その後、皆と別れて宿探しに四苦八苦したことも書いた。最終的にはカプセルホテルに泊まることができたのだが、実はそこでもここに書きたくないような恥ずかしいことがあった。恥じることはないのだが、やはり恥ずかしい。
 それはまあ、他愛もないことなのだ。カプセルホテルの中はMRIのような狭い個室が縦横に並んでおり、上下2つの小部屋に分かれている。私は上の小部屋を割り当てられた。サウナを堪能した後、自分の部屋に潜り込み、横になろうとした。上の部屋には小さい階段状のものがついており、それを伝って上がり込むようになっていた。簡単に上がれると思っていたら、不摂生で贅肉がつき過ぎた身体を持ち上げることができない。フロントに戻り、下段の部屋に変更してくれと頼んだが、既に満室とか。
 すったもんだの末に、最後は渾身の力を込め、何とか上段の部屋に我が身を持ち上げることができた。足を踏み外しでもしたら、床に転落し、それなりの負傷を負っていたことだろう。紅顔の美少年だった高校生時代には器械体操部に属していた我が身なのに・・・。
                  ◇
 とても嬉しいこともあった。いや、私の2025年はこれが実現しただけでも実りある一年だったと回想できる出来事だった。芦屋市にある「子羊の群れキリスト教会」。私が長年親しんでいるこの教会の牧師さんはピーター島田先生。ピーター先生と久しぶりに面会でき、短い時間だったが、歓談することができたのは、私にとって望外の幸せだった。
 ピーター先生と初めて会ったのは半世紀前、私が20歳の大学生の頃。米ジョージア州に留学し、小さな大学で学んでいた。ピーター先生は当時、フィラデルフィアで在留邦人に布教活動を展開されており、私は先生の自宅に転がり込んで居候させてもらった。先生からしたらいい迷惑だっただろう。幼子二人を抱えた奥様が親切に迎え入れてくださり、二週間ほどお世話になった。ジョージア州からフィラデルフィアはそう近くでない。どうやってたどり着けたのか記憶にない。ディープサウスと呼ばれる南部の州から北部の大都市を訪ねることができる喜びに浸っていたのだろう。
 私はその後、ジョージア州の大学に戻り、ほぼ一年の留学期間を「満了」し、宮崎の母校に戻った。この時の体験が今の自分につながっているのは間違いない。それが良かったのかどうかは自信がない。留学などせずに母校の大学を普通に卒業して教師の道を選択していれば、今とは大きく異なる人生を歩んでいたことだろう。だが、誰しもそうであるように、人生はゲームのようにリセットできない。
 ピーター先生との出会いは私がアメリカに行かなければなかったこと。ピーター先生との出会いがなければ、まがりなりにも毎朝、聖書関連の書を読み、神様に安寧と癒やしを祈る日々を送ってはいないだろう。ピーター先生は私との再会をいたく喜び、私のこれからの人生を祝して頂いた。教会の働き人の方が私たち二人の写真を撮ってくれたが、残念だったのは私のスマホで撮ってもらうことを失念したこと。家宝を逸した心境だ。

明石での再会!

20251013-1760322760.jpg いやはや参ってしまった。明石で旧交を温める細やかな祝宴の後、夜露を過ごすべくホテルを探した。国内の旅では予約の類はあまりしたことがない。どこかで適当な宿はすぐに見つかるだろうと思っていた。翌日曜日は芦屋市内にある教会に足を運びたいと考えていたため、とりあえずは芦屋駅まで行き、そこでホテルを探そうかと思っていた。
 さて、その芦屋駅。もともと土地勘がないから、行き当たりばったりで探したが、ホテルそのものが見当たらない。何とか行き着いたホテルで空室があるか尋ねたが、ない。そうか、もっと観光客が行き交う駅周辺を探すべきかと思い、再びJRで賑やかな三宮駅まで行く。目に入ったホテルを手当たり次第に尋ねた。5軒ほどあたっただろうか。どこも満室で取り付く島もない。すでに1時間以上は歩き回っている。汗をかき、疲れも感じ始めていた。
20251013-1760322796.jpg これはホテルは見つからないかもしれない。日曜夕刻に行くことにしていた京都・亀岡の実兄の家に行き、お世話になろうか。いや、もうこれなら、新幹線で急遽福岡に戻ってしまおうか。教会も会うことを約束している人はいないし、兄も分かってくれるだろう。そんなことも考えていた。
 最後に足を運んだホテル。フロントの人に一部屋空いてませんかねと尋ねた。彼はそばの上司らしき女性スタッフと顔を見合わせ、手元のパソコンのキーを打ち始めた。お、「脈ありかな?」と期待が膨らむ。待つことしばし。女性スタッフが数字を書き込んだ紙を見せながら、「あいにく本日は土曜日ですし、今はこの価格でしか、お部屋は提供できません」というようなことを宣った。手元の紙を見やると、オマガ! 50,000とあるではないかいな。とてもじゃないが、ノー産休、いや “No, thank you.”だ。どうも週末、しかも三連休の初日、しかも大阪万博の閉幕が迫っていることもあり、かてて加えて中国の大型連休も重なり、周辺のホテルは軒並み満室状態らしい。分かった、もう諦めた。福岡に戻ろう!
 それで改めて周囲を見回すと、すぐ近くにサウナ・カプセルというネオンサインが目に入った。おお、カプセルホテルという手があったか。まだ若さに満ちあふれていた頃はカプセルホテルは何度か利用した。しかし、閉所恐怖症気味の私はカプセルはどうも苦手で、もう何十年も足が遠のいている。しかし、もうそんなことは言っておられない。フロントを尋ねた。まだ空きがあるという。値段は? カプセルで6,000円! 普段だったら高っ!と思ったことだろうが、頭の中では先ほどの50,000という数字が舞っており、飛びついた。
 サウナですっきりして、二段ベッドの上の個室に何とか身を滑り込ませ、気がついたら寝込んでいた。そして今、ホテルの上階にある食堂で朝食を済ませ、休憩室で無料のコーヒーを頂きながら、この項を打っている。まだ早朝、芦屋の教会に行っても中には入れないだろう。それにしても、神様はちゃんと見守ってくださっておられる、と改めて実感した。
 段取りの悪い私。本来なら、昨日の再会のことを書くべきだったのだろうが、何だかずっと昔のような気がしてきた。食事したのは明石市の魚住地区にある和食店。新鮮な魚が美味かった。食事後には地元のU先生の畑を訪れ、事務所でお茶を頂き、楽しく歓談した。当初の予定では満開のコスモスの美しさを堪能するのが集まりの主目的だったが、猛暑のせいか、そうはならなかった。私たちのお話は満開の「花」が咲いていたが・・・。

ノーベル文学賞

20251011-1760152463.jpg 中国語の独学は全然進展していない。公民館講座の受講を辞めて久しいし、NHKラジオの初級講座を毎朝、聴いている程度の学習に過ぎない。韓国語も似たようなものだが、韓国語はネイティブ講師の面白い講座をYouTubeでほぼ毎週定期的に聴いているので、遅遅とした歩みではあろうが、ちょっとずつは身につけあるかと願っている。
 残念なのは中国語に関してはこれもNHKラジオの初級講座以外には習慣にしているものはない。ネットすなわちYouTubeで面白いものがあればとずっと漁っているが、どうもそういうものは見当たらない。数日前のこと、いつものように麻雀番組をAbemaTVで見ようとスクロールしていたら、現代の中国ドラマのようなものが目に入った。ちょっとのぞいてみたら面白かった。吹き替えではなく、字幕付きだから、中国語の勉強にもなる。残念なのは何回か見ると、その後は有料となっている。無料だったらなあ!
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 今村夏子氏の小説『むらさきのスカートの女』の英訳本 “The Woman in the Purple Skirt”をオンライン英語教室で読んできていたが、今月末でようやく読み終える。受講生(2人)も楽しんでくれたような印象だ。
 来月からは短編の名手の米作家オー・ヘンリーにちなんだ “The Best Short Stories 2025: The O. Henry Prize Winners” の受賞作品の数々を読もうかと考えている。アマゾンで既に本は入手しており、これからゆっくり読んでいこう。
 11日からの3連休。関西方面に旅する。今度は神戸ではなく明石を目指し、明石在住のU先生の庭園の見学が主目的。5月の連休時に集まった方々と再会する。美味い酒が飲めそうだ。私はこのところずっとノンアルだけを飲み、「断酒」の日々を続けているが、この日ばかりは本物の酒か焼酎を頂こう。楽しみだ。
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 小説と言えば、2025年のノーベル文学賞が発表された。受賞したのはハンガリーの作家クラスナホルカイ・ラースロー氏(71)。読売新聞を引用させてもらおう。スウェーデン・アカデミーは「週末的な恐怖の中で説得力に満ち、先見性のある作品は芸術の力を再確認させる」と評価したという。デビュー作の『サタンタンゴ』は共産主義崩壊直前のハンガリーの田舎にある放棄された集団農場で暮らす貧困層の住民たちを力強く示唆に富んだ言葉で描いたと紹介されている。
 へえ、ハンガリーの作家が受賞かと思ったものの、その名を耳にしたことはないし、ハンガリーの国の位置を正確に頭の中で思い浮かべることさえ難しい。ネット購読しているケニアの新聞「デイリーネーション」をいつものようにちらっと通し読みしていたら、ネーション紙もこの受賞を報じていた。その見出しがふるっていた。“Writer who uses looooong sentences wins Nobel Prize for Literature” 彼の作品の一つ “Herscht 07769“ は400頁を超える大作だが、なんと一文で書かれているとか。この文章が長々と続くのが彼のスタイルだとか。辛抱強い読み方を余儀なくされるのだろう。英訳本を読んでみたいような、いや、そこまでして読みたくはないような。英米の作家からは味わえない作品世界が広がっているのだろう。

“keep up appearances”

 国内外で大きな動きが起きている。変わりがないのはウクライナが舞台となったロシアの侵略戦争だ。プーチン露大統領が心変わりしない限り、ウクライナの人々の窮状は続く。ウクライナが攻勢を強め、ロシアの被害が拡大すれば、プーチン氏が核兵器を使う可能性だって否定できない。出口が一向に見えない。
 新聞社の国際部に籍を置いていた身であれば、本来ならイスラエルとイスラム主義組織ハマスの和平交渉について書くべきなのだろうが、中東情勢は直接取材した経験が乏しい。従ってネタニヤフ・イスラエル首相が何を考えているのかとんと分からない。今の惨状は明らかにイスラエルの一般市民を襲撃したハマスの残忍なテロが引き金となったことは間違いないだろうが、ユダヤ人とパレスチナ人との確執は門外漢には容易に口をはさみ難いことも事実。ガザ地区を着の身着のままで追われ、飢餓の危機にさらされているパレスチナ住民には一日も早く安寧の日々が戻ることを願わざるを得ない。
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 土曜日の午後、外ではもの凄い雨が降っている。私が住んでいる沈滞の安マンションは出水の心配をする必要はないが、他の周辺地区はどうだろうとちょっと心配になる。NHKテレビの自民党総裁選の開票作業の報道を横目にこの項を打っている。総裁選はどうやら高市早苗氏と小泉進次郎氏の決選投票になったようだ。テレビで二人が決選投票を前に行った最後の演説に耳を傾けたが、正直、心を打つ内容ではなかった。どちらが新総裁、続いて新首相に選出されても何だかなあと思わざるを得ない。どちらが選ばれるにせよ、今の日本国民の民度に相応しい人物なのだろう!(高市氏が結局勝利した)
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 英BBCのホームページを見ていたら、ある女優の訃報が目に入った。見出しはKeeping Up Appearances star Patricia Routledge dies at 96 (「キーピング・アップ・アピアランシィズ」のスター俳優パトリシア・ラウトレッジ氏が96歳で死去)とある。
 私が新聞社のロンドン支局に勤務していた1990年代、見出しにうたわれたこのドラマが大好きでよく見ていた。英国の庶民の上流志向をユーモラスかつ皮肉たっぷりに描いた喜劇で、彼女の計算された何気ない仕草に何度笑わされたことか。実力に裏打ちされた名演だった。このドラマに出ていた役者の大半は鬼籍に入っているのだろう。そうか、彼女もついに逝かれたか。
  “keep up appearances” は英語でよく見られる表現で「世間体をよくする、見栄を張る」という意味が辞書に載っている。彼女が演じたのはロンドンの郊外の住宅に住む主婦、ハヤシンス・バケット(Hyacinth Bucket)。私の印象に残っているのは彼女、すなわちバケットさんが自宅にかかってきた電話に出る時など、自分の名前をBucketとは言わず、Bouquet(ブーケイ)と発音し、あたかもフランス名のような気取った印象を漂わせていたことだ。BBCの記事は次のように記述。She pronounced “bouquet” – a comic creation who lampooned the extremes of English pretension and snobbery. そう、イングランド人の上流崇拝、俗物性をユーモラスに描き、健全な笑いをもたらしてくれるいいドラマだった。

ドジャース、ナ西地区優勝!

 ふと気がつくと9月も残り数日、10月がすぐそこに来ている。はて、先日、新年を迎えたばかりではなかったか。時間が経つのが早過ぎる。1年があっという間に過ぎるのであれば、10年もああっという間なのだろうか。私の世代のように残された時間が気にかかる年齢になると、心細く感じるのは致し方ないことか。
 などと落ち込んでいる余裕はない。毎週月曜から金曜まで仕事(授業)があると、文字通り老体に鞭を打って早起きし、職場に向かい、夕刻に帰宅すると、疲労困憊。ときにはシャワーを浴びることさえ億劫に感じる。大学で同じ非常勤講師として教壇に立っていた時は時間的余裕があったのだろう、週末は結構自由な時間が取れ、好きな競馬に現(うつつ)を抜かしていた。当時は今と違い、競馬は文字通り賭け事であり、大枚を賭けていた。悔いるしかないが、悔いてばかりいても仕方がない。私が仮に(可能ならば)100歳まで生きたとして、そうした阿呆みたいな遊興に人より早くお金を費やしたのであって、十分遊んだのだから、これからは心穏やかに生きるのみ。
 ある意味、私の場合は人より長生きしたい理由ともなる。長生きして競馬やパチンコ、麻雀などの賭け事から足を洗った清く正しい時間をできうる限り多く持てば、長生きした分、一年単位で見た遊興費が少なくなる勘定。自分が受けた親切な行為のお礼を無関係の人に施す行為を英語で “pay it forward”(恩送り)と呼んでいた小説を読んだことがあるが、私の場合はさしずめ “play it forward” とでも呼びたい。「先に遊興し、後の人生は質素に送ることで、費やしたコストをできるだけ「低減」したいという苦肉の策だ。亡きお袋がこの項を読んだら嘆くことしきりだろう。おっかさん、許してたもれ!
                  ◇
 やはり、一言は記しておきたい。海の向こうの大リーグ。ナショナルリーグ西地区で大谷翔平君と山本由伸君が所属するドジャースが何とか優勝(地区4連覇)を遂げた。何とかと書くのは終盤戦はリリーフ陣の崩壊で信じ難い逆転負けが相次いでいたからだ。山本投手は何度勝ち星を失ったことか。12勝8敗で終わったのが、痛すぎる。それでも山本投手に対する評価はうなぎ上り。彼の投球術、ボールの質の高さに対する賛美の声はチーム内外から聞こえた。あと2試合を残して54本のホームランを放ち、3年連続4度目のMVP受賞が確実視されている翔平君にはもはや形容する言葉が見当たらない。
 上記の通り、大リーグは残り2試合を消化すれば、すぐにプレーオフに突入する。ドジャースは西地区で優勝したものの、成績は東、中地区の優勝チームには劣るため、ワイルドカードで勝ち残ったチームと対戦し、先に2勝を上げねばならない。アメリカンリーグの代表チームとワールドシリーズでまみえるにはその後も連日厳しい戦いが控えている。両リーグ全30チームの頂点に立つのは並大抵のことではないことがよく分かる。
 翻って日本のプロ野球は大団円に疑問符がつく。セパそれぞれ6チームしかないのに、勝率5割に満たない3位のチームがリーグ優勝する可能性のあるプレーオフ制度。今シーズンはセリーグで巨人が負け越してもプレーオフに進めそうだ。日本一となることも可能。この制度はもう廃止した方がいいだろう。プロ野球に対する興味が失せて久しい。

無限の時空を生きた旅人

20250907-1757216105.jpg 購読紙に同郷の歌人、若山牧水(1885-1928年)にまつわる記事が出ていた。今年が生誕140年に当り、50年ぶりとなる全歌集が角川文化振興財団によって刊行された。編者は牧水研究の第一人者で歌人の伊藤一彦さん(81)(宮崎市在住)。従来の全歌集が絶版となり入手が難しく、字句の誤りもあったことから、伊藤さんの提案で実現にこぎ着けたという。その後新しく発見された5首も含まれているとか。
 記事中に、牧水の子息で故人の若山旅人さんのことも言及されていた。それで思い出した。私は八王子支局に勤務していた駆け出しの記者時代に父親と同じ歌人の道を歩んでいた旅人さんにインタビューして記事にしたことを。はて、隣接の立川市に住んでいた旅人さんに取材した目的はなんだったのだろう。情けない。明確には思い出せない。残念なのは私は記者時代、特にかけだしの頃に書いた記事は手元に残していない。だから、旅人さんの記事も残っていない。ネットの今なら書いた記事をさくっとフォルダーに入れて保管できるだろうし、その他、色々と手はあるのだろう。いかんせん、当時はそういうことは不可能。きちんと記事をはさみで切り取り、スクラックブックに張り付けておくしかなかった。ものぐさの私にはできないことだった。自業自得。
 牧水にまつわるエッセイはこのブログで以前に書いていたことも思い出した。過去のブログを検索してみると、2014年10月に書いていることが分かった。大意、次のように書いている。――「食欲の秋」は酒(焼酎)の美味い秋でもある。郷土の歌人、若山牧水は詠んでいる。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」。牧水の歌で私が好きなもう一つの歌は「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」という一首だ。この歌に「啓発」され、私は随分昔に「寂しさに耐え抜いてこそ優しさか 我一人旅したくなけれど」という駄作をこねたことを覚えている――
 今回の記事を興味深く読んだ。伊藤さんは牧水を世間に流布している「旅や酒の歌人」としてではなく「『あくがれ』の歌人」として解説している。「あくがれ」は現代の「憧れる」の元となった古語で、今在るところから別の彼方へ向かおうとする心の動きを表すのだという。次の歌が紹介されていた。<けふもまたこころの鉦を打ち鳴し打ち鳴しつつあくがれて行く> 伊藤さんは「あくがれを持ち続ける生き方は無限の時空を生きる旅人であることを意識し、何を求めて生きるかを牧水が常に考えていたということだ」と指摘している。そしてまた、あくがれの先に牧水が求めたものは自然との調和であり、他者とのつながりや共同性だったと。
 「無限の時空を生きる旅人」であったという牧水。この夏九州の湯の里を旅しながら意識していた山頭火もしかり。後世に名を残す歌人、俳人は無限の時空を生きていたのであろうか。愚禿凡夫の私などとは吸っていた空気が異なっていたのか。私にも「あくがれ」はある。彼方など果たして存在するのか、するとしたら、ぜひその風景をこの目で見てみたい。それまでは生き長らえるしかない。働き続けるしかない。凡人にとっては有限の時空であっても最終点にたどり着くのは容易ではない。あるのかどうか分からないが、心の中の鉦を探し当て、鳴らし続けて行こう!

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