- 2020-03-09 (Mon) 10:37
- 総合
漢詩。最近ちょっと気になることがあって、中国語に精通している新聞社時代の後輩に尋ねると、『漢詩鑑賞事典』(石川忠久編)という本を推奨してくれた。書店に電話すると、今は在庫がないとの由。図書館に聞くと、他館に在庫があるので、数日待たれしとのこと。そして手にした講談社の学術文庫。読んで気に入ったら書店で改めて注文しようと思った。
図書館で一時間ほど読んで、自宅に戻り、再度読み進めた。どうも私の学力ではスイスイと読み進めるというわけにはいかない。それでふと思った。この本、どうも前にも手にしたような気がする・・。ひょっとしたら、自分の本棚にもあったりして・・。本棚をあさると、何とこの本が出てきた。はさんである領収書を見ると、2016年9月に購入している。あちゃ~。やはりそうだったのか。すっかり忘れていた。だとしたら、ブログでも何か言及しているはずだと、その頃のブログをチェックしてみると、確かにあった。
それで無性に漢文を読みたくなった。しかも格調高い名文の漢文を。書店で探すと、まさに打って付けの本があった。『漢詩鑑賞事典』(石川忠久編・講談社学術文庫)。2009年に刊行され、今春に第14冊が出されたばかりのようだ。「はしがき」に次のように書かれている。「漢詩は世界最高の詩歌である。人類の宝と言ってもよい。(中略)唐の初めに完成した詩は、雄大な流れとなり、李白、杜甫を始めとする詩人が雲の如く現れ、(中略)。わが国は、唐の最盛期に遣唐船を往来させてこの高級芸術に取り組んだ。(中略)この高級芸術に接した、わが国の貴族を始めとする知識人たちは、すっかり魅力に取り憑かれ、以後弛まず学んで江戸時代に至るや、(中略)。江戸から明治へと、漢詩はもはや外国の詩歌に非ず、和歌や俳句と並び日本の詩歌の一つとなったが、やがて西洋式学校教育制度の普及と、役に立たないものを切り捨てる富国強兵的思想の抬頭とによって、漢詩文の比重は次第に下がり続けて戦後に至る。戦後の漢字制限、漢文教育の軽視が“漢詩文”に潰滅的打撃を与えたことは周知の通りであろう」
嗚呼、その後に読み進めることを放棄していたのだろう。だから、明確な読後感が残っていなかったのだ。あれからだいぶ時間は経過しているから、再度チャレンジしてみようかとは思うが、自分で購入しておきながら、その記憶がきれいにとんでいたとは。まだsenile(もうろくした)とは思いたくないが・・。
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コロナウイルスの余波を受け、公民館で受けている中国語講座が今月は3回連続で休講することとなった。毎週1回の講座は中国出身の講師の生きた中国語が聞け、凄く参考になっていただけに残念。それで、講座の教科書に付いているCDを暇な折に聞いている。大抵の日本人の中国語学習者にとっての悩みは中国語は文章(簡体字)を見ればおおよその意味は推測はつくが、耳から聴くとちんぷんかんぷんということか。おそらく中国語では、「我看得懂,不过听不懂」(見て分かるが、聞いては分からない)と表現するのだろう。
今月は上記のCDを精力的に聞くことにしよう。人気プロゴルファーがひと頃よく宣伝していたスピードラーニング英語ならぬスピードラーニング中国語だ。美しい中国語の音声が左の耳から右の耳に心地好く駆け抜けて行く。意味の理解はともかくとして・・。