- 2013-07-29 (Mon) 15:49
- 総合
電子辞書に搭載されている「日本文学百選」。海外の旅でも結構重宝したが、今も暇つぶしにはありがたい存在だ。元々、英語の辞書として購入したのだが、広辞苑や百科事典の機能もついている優れものだ。以前にも書いたことがあるが、海外の旅の道すがら、ブログをアップしたが、多機能の付いたこの電子辞書なくしてはとてもああいう「芸当」はできなかっただろう。
「日本文学百選」には「遠藤周作」は収録されていない。収録されているのは古い時代の作家ばかりのようだ。スクロールしていて「菊池寛」にぶつかった。ずっと以前、中高生のころか、国語の教科書でどこかで『恩讐の彼方に』という作品を読んだような記憶がある。いや、勘違いかもしれない。電子辞書にはこの作品のほかに、『真珠夫人』という長編が収録されていた。読んだことのない作品だ。タイトルはどこかで目にしたような気もするが。
「魅惑的」なタイトルにひかれて、読んでみた。各章に題が記されていて、第一章は「奇禍」と題されている。登場人物の一人の妻の描写の場面で「顔全体に現はれてゐる処女らしい含羞性」というくだりでは「含羞性」に「シャイネス」というルビが振られている。さすが京都帝大の英文科で学び、英語に明るかったことがうかがえる。この他にも随所で英語のルビが付いていた。この作品が大正九年(1920年)に大阪毎日新聞と東京日日新聞に新聞小説として連載された当時は斬新な手法だったのだろうと推察される。
私はこの時期の作家群像としては菊池寛より一世代前の夏目漱石の作品を愛読していた。特段菊池寛の作品に関心があったわけではない。遅ればせながら、『真珠夫人』に出合って良かったと思った。第一、面白かった。金の力で自分の人生を狂わされた美貌のヒロイン、瑠璃子嬢が裕福な未亡人となり、その金の力で前途有為な若者たちを翻弄する。新聞小説が隆盛の時代に、読者の熱狂的な支持を得たのも容易に想像できる。
当時の、いやおそらく今の社会規範から見ても、疑問視されるであろう、瑠璃子嬢の生き方をなじる作中人物に対し、彼女は次のように語る。「妾(わたくし)、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと云ふことを、男性に思ひ知らしてやりたいと思ひますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思ひますの。妾(わたくし)一身を賭して男性の暴虐と我儘とを懲してやりたいと思ひますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みを懐いてゐる女性の生きた死骸のために復讐をしてやりたいと思ひますの・・・」。私はこの異議申し立てに返す言葉を持たない。
菊池寛の作品をもっと読みたいと思って、近くの図書館に出かけ、菊池寛全集の何冊かを借り出して今読んでいる。文藝春秋社を創立し、文壇の大御所と呼ばれた作家の人となりが行間からあふれているような短編が特に読みやすい。『無名作家の日記』とか『葬式に行かぬ訳』とか。博打におぼれて一代で祖先伝来の身上を潰した庄屋の祖父の話の『勝負事』は笑ってしまった。いつか私もギャンブルにまつわる小品を書いてみたいと思っているが、私などがそうした「枯淡の境地」に到達するのはこの身を焼かれる直前のことだろう。いや、それとて、望むべくもないことかもしれない。
Comments:2
- Kazuhiro Takaoka 2013-09-10 (Tue) 12:47
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菊池寛に「我が競馬哲学」という文があります。「情報信ずべし、しかも亦信ずべからず」「馬券は尚禅機の如し、容易に悟りがたし」「競馬ファンが建てた蔵はなし」あたりが、今でも時々、引用されます。日本中央競馬会のホームページでも紹介されています。「馬券買いは道楽也。散財也、真に金を儲けんとせば正道の家業を励むに如かず」なんて文章が、一般市民からいかに金を巻き上げようか、ということばかり考えている競馬会のサイトにあることに違和感を覚えます。
- 那須 2013-09-17 (Tue) 17:07
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Takaoka さん お久しぶりです。菊池寛と競馬のかかわりは知りませんでした。数年前に「文豪もこよなく愛した競馬」と称して、朝日新聞に日本中央競馬会(JRA)の巨大な広告が出ていて、夏目漱石とヘミングウェイが競馬を「こよなく愛した」と「PR]していました。私の知る限り、両文豪が競馬を愛した具体的エピソードなどなく、広告が示した彼らの文章も実に他愛ないものでした。牽強付会の広告です。競馬が日本に「文化」として定着するのはまだまだ遠いと感じました。大兄のコメントを読んでそんなことを思い出しました。(小生、この一週間、携帯もつながらない田舎の山里で農作業に汗を流し、さきほど帰福しました。よって「返信」が遅れました。お詫びいたします)