- 2018-05-18 (Fri) 15:09
- 総合
長いこと病んでいたT姉が先週、ついに他界した。私は7人兄姉妹の6番目。亡くなったT姉は上から2番目だった。私とは一回り以上も年が違うこともあり、一緒に遊んだという思い出はないが、下宿からスタートした高校時代は途中から一緒に一軒家に住み、食事の用意から洗濯まで一切を世話してくれた。大恩ある姉だが、果たしてまともに感謝の言葉を伝えたことがあったのだろうか。
難病に取りつかれ、寝たきりとなり、晩年は言葉を交わすことも不可能となった。私は福岡から宮崎の介護施設まで2、3か月に一度は足を運び、寝入っている姉の額や頬をさすった。アメリカやイギリスを旅している時は帰国したらT姉はもう逝っているかもしれないと覚悟していた。よくぞここまで頑張ってくれたと思う。
妹から連絡を受け、宮崎・西都市に戻り、葬儀場でT姉と対面した。通夜の翌日、家族葬で見送った。どこから見つけたのか、祭壇に飾られたT姉の写真が実に良かった。ベッドの上で憔悴した顔を長いこと見ていただけに、T姉が元気な時の顔を忘れかけていた。T姉に弟らしいことをしてあげられたのか。好きだった宝くじはよく買ってあげた。当たることはなかったが。盛岡支局勤務時代に亡きお袋やもう一人の姉夫婦たちと一緒に岩手の旅に招待したこともある。しかし、もっとたくさん喜ぶことをやってあげられただろうに!
火葬場の火葬炉でT姉の遺体を焼くボタンを押した。お骨を拾い、山里の実家に帰り、那須家の墓に骨壺を収めた。その夜は甥のSと一緒にT姉を思い、焼酎を少しだけ飲んだ。元気な頃のT姉は私によく「しょういち、あんまり飲むなね!」と諭していた。私は「わかっちょるがっ!」と応じていた。今から思うと、全然分かっていなかったのだ。遅ればせながら、還暦を過ぎた頃になってようやくT姉が望んだような倹しい暮らしを実践し始めた。今ならT姉もほめてくれるかもしれない。「がんたれ」の弟にこれからできることは、T姉のことを時々は思い出しながら、精一杯、元気に生きることだろう。そう思っている。
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上記の事情でブログをアップする気力も失せていたが、かてて加えて、ここ数日、福岡は夏が到来したかのような暑さでまいってもいる。昨夜はクーラーを入れようかと真剣に考えてしまった。まだ5月の中旬だというのにである。いくらなんでも早過ぎはしないか。
それで去年はいつクーラーを入れたのだろうと手帳を出して見たが、記載がない。ブログをチェックして見ると、7月1日の項に次の記載がある。「7月が到来。一年の半分が過ぎた。いよいよ暑さが本格化する。先にも書いたが、手帳を見ると、去年は7月1日にクーラーのスイッチを入れている。今年もそろそろそうしようかと思っている」。そうか去年は少なくとも7月の声を聞くまでは我慢できていたということだ。
しかし、このままではとても7月まで持ちこたえることはできそうにない。地球温暖化の余波は私の生活にも影響を与えつつあるようだ。先のブログには次の記述もあった。「昼間は窓や玄関ドアを開け放すことで何とかしのげるが、深夜になっても30度を超す余熱が部屋の中に残っていると、さすがに寝苦しい」。深夜になっても部屋の温度計が30度を超えていたら、クーラーを入れよう。クーラーのある部屋と寝室が離れているのが問題だが。