- 2018-04-30 (Mon) 07:38
- 総合
世間はゴールデンウィークの真っ只中。退職後の海外のさるく旅を終えてからはこの時期、毎年のように宮崎の郷里の山里に帰省していた。頼みとしてきた高齢の長姉が施設に入った今となってはそれも果たせぬこととなってしまった。残念だが、致し方ない。
先週、元上司のK氏の告別式で上京したことは前項で書いた。元同僚のH君夫妻らと昼飯を食べながら歓談していて、H君が「そう言えば、福岡で僕らが勤務していた時、Kさんの自宅に招かれ、那須さんは酔ってはしゃいでいましたね」というような趣旨のことを言った。え、そんなに酔っ払ってはいなかったよ、僕は、と否定したものの、確かに酔った記憶は残っている。帰りのタクシーの中で部屋のカギを紛失してしまい、結局その晩はホテルで寝たことも。ただ、あの晩H君夫妻もK氏の家で一緒だったことまでは覚えていない。
それで当時の手帳を机の奥の引き出しから引っ張り出した。当時はこのブログは立ち上げておらず、記憶の悪さを補ってくれるのはたまに走り書きを残している手帳しかない。H君が話題に上げたのは、福岡の有名な夏の花火大会の折りのものだった。K氏の高級マンションからは花火がよく眺められた。あれは2008年だったか、2009年か? パラパラと手帳をめくっていると、2009年8月1日(土曜)にその折りのメモ書きがあった。「花火大会(K氏宅)19時」と記していて、その後に「酔っ払う。おそらくタクシーの中で部屋の鍵忘れる。ホテルに泊まり、翌日、社でスペアキーを取り、部屋に」と記している。だが、K氏邸でのささやかな宴のメンバーまでは記していなかった。
上記の花火大会には浴衣を着て出かけ、会場となった公園の人混みをかき分けて歩き、K氏邸に向かった。それにしても、日曜日とは言え、酩酊の翌朝、会社に浴衣を着て出社したものと思われる。本人はそれなりに真面目に生きていたつもりだったろうが、なんと自堕落な日々よ。さりとて人生はリセットできない。今さらながら微かな胸の痛みを感じるときには、アメリカで愛唱されている讃美歌、「アメイジング・グレイス」(Amazing Grace)の一節を思わず口ずさむ。
Amazing Grace, How sweet the sound/That saved a wretch like me/I once was lost, but now am found/Was blind but now I see
私が今は堕落者(wretch)ではなく、物事の道理が見えて(see)いると胸を張るつもりは毛頭ない。そう願っているだけのことかもしれない。
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中国語は文章を見れば、意味合いがなんとなく理解できるものが少なくないように感じる。例えば、次のような文章。「没想到小李这个人挺幽默的。」これは、「李さんがこんなにユーモアのある人だとは思いもしなかった」というような意味合いの文章だ。ポイントは「挺幽默」という語句。「挺」は「けっこう、なかなか」という副詞で、「幽默」は「ユーモアがある」という意味の形容詞。辞書を引くと「幽」は「深淵」「静謐」の意味。「默」は「黙る」の意。実際の中国語の発音では「イオウモー」というような感じだ。原意にこだわらず、英語のhumor の発音を意識した「外来語」だと推察できる。「音訳」と呼びたいような。
中国をいつか旅して、「你真幽默!」(あなたは本当に面白い!)と言われたいものだ。