- 2017-05-06 (Sat) 10:10
- 総合
雨に降られたゴールデンウィークだった。まあ、寝ては食い、食っては寝るだけの休みだったので文句は言えない。美味い肉や魚を食っていると、たまには焼酎でも、と少しだけ気持ちが揺れたが、すぐに忘れた。
雨が上がった一日、山に筍掘りに出かけた。筍掘りというより、筍切りという方がより適切かもしれない。竹林からそこかしこに大小さまざまな筍が林立しているからだ。ついこの間まで筍シーズンには姉夫婦がせっせと掘り出し、貴重な収入源としていたが、今は「野放し」状態。猪や山鹿のご馳走となっているようだ。甥っ子と目につくところにある筍を8つほど切り取って持ち帰り、姉が適当にさばいたものを大釜で湯がいた。
ところで、山道の本道から竹林へ通じる道の入り口に近いところに鹿の侵入を防ぐ網ネットが張ってあるのだが、甥っ子が「あれ見て!」と言うので、ネットを見やると、何やら角のようなものがぶら下がっている。山鹿が網に角をひっかけ、脱出できずにいるところを狸か狐か野獣に食われ、角だけが残っていたのだった。哀れと言えば哀れだが、これも「食物連鎖」の一つと呼べるのだろう。
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司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』を読み終えた。読み応えのある物語だった。2200年前の中国大陸で覇を競った豪傑たちがあのような会話を交わしたのであろうかと、門外漢としての素朴な疑問を抱くことも少なくなかったが、作家のあのような味付けの肉声があったからこそスムーズに読み進めることができたのだろう。
中国語の初歩の学習者にとって、興味深いシーンもそこかしこにあった。例えば、次のような記述————。
この大陸については、よくわからないことが多い。
「江南」と、のちによばれる揚子江以南の地は、この時代(紀元前二〇〇年代)、北方の中原(黄河流域)の人々からは、異国めいた地域としてみられ、そこにいるひとびと(呉とか越、あるいは楚)は、異民族とみられていたにおいがある。
むろんこのあたりのひとびとも、北方で発明され、発達した漢字を導入し、意思の伝達につかいはじめている。その文字によって、民族詩集もできた。北方の漢民族の『詩経』に対し、『楚辞』である。楚とは、江南の一地域をさす。他の文化も、うけ入れた。たとえば都市を城廓でかこむという中原の方式である。
しかし中原とは異なる点のほうが多い。中原の人は騎馬民族との混血のせいもあるだろうが、長身の者が多い。顔は長い。この南方のひとびとは圧倒的に矮人(ちび)が多く、顔はまるく、二重まぶたで、土俗は————漢民族には考えられないことだが————文身(いれずみ)をした体をもっている。
古代、中原では、江南の連中のことを蛮族とし、「荊蛮」(けいばん)と呼んでいた。荊一字だけでも、その地域をあらわす。
「中原」と「江南」。今の中国ではどのような受け取り方をされているのだろうか。そのあたりがとても知りたいと思った。これはずっと将来の学習課題の一つ。