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『項羽と劉邦』

  • 2017-05-04 (Thu) 08:34
  • 総合

 ゴールデンウィーク。例によって宮崎の田舎に戻っている。九州自動車道が混みそうとかテレビで言っているので、右回り、JR日豊線で帰ろうかと考えたが、小倉経由で(確か)6時間前後かかる。迷った末に、いつものように新幹線で新八代駅まで下り、そこから高速バスに乗って宮崎駅まで行くことにした。問題は新八代から先の九州自動車道の混み具合。
 少々の渋滞は覚悟していた。ところが、バスは比較的スイスイと走行。定刻から15分ほどの遅れで、博多駅を新幹線で出て3時間20分後に宮崎駅に到着した。博多―新八代間の新幹線も自由席に座ることができた。新八代からの高速バスも満席ではなかった。メディアでこの時期に賑々しく報じられる行楽地の雑踏からは程遠かった。私のような利用客にはありがたいことだが、しかし、これが宮崎の現状を如実に物語ってもいるのでもあろう。ゴールデンウィークの真っ只中でも楽に帰省できて複雑な心境になる。
                  ◇
 長姉の家で体力的にも結構きつい山仕事を最後に手伝ったのはいつだったか。姉夫婦が体調を崩してからはそういうこともなくなった。これも寂しいことだが、人間はどんなことにも慣れるものらしい。今はこうした気楽な帰省が普通になった。
 のどかな山中で読破しようと思っているのが司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』。中国語を学習している関係で、中国史に残る英傑の物語なども少しは読んでおこうと、図書館から文庫本を借り受け、上中下の下巻までこぎつけている。中国の史実に即した物語にはこれまであまり興味がなかった。「項羽」と「劉邦」といった人物名や、「四面楚歌」とかいった故事も彼ら二人の戦いに由来することぐらいはぼんやりと知っている程度だった。
 合戦の様子、登場人物の心理の描写などに引き込まれながら面白く読んでいる。そしてふと思った。あれ、これいつの時代の物語だったかな。これはまだ紀元前の物語だ。時代は紀元前200年頃で、日本は稲作文化が芽生える弥生時代の頃のお話。『項羽と劉邦』には二人の他にも幾多の歴史上の人物が登場する。翻って、日本で弥生時代の歴史上の人物を我々は何人知っているのだろうか。私は一人として知らない。いや、考えたことさえない。
 日本で文字、書き言葉が誕生するのは中国から漢字が伝わる奈良時代以降という。弥生時代はそれよりはるか以前の時代だ。『項羽と劉邦』(下巻)に以下のくだりがある。
 武の極は個人に帰せられる。刀槍(とうそう)を舞わし、相手と一騎打ちすることだが、項羽はこれを劉邦にもとめようとし、口述して側近の者に帛(きぬ)に書かせ、矢に結んで漢城へ射こんだ。「戦乱のために天下が飢え、たれもが匈々として安らがないのは、要するにわれら二人がいるためである」と、項羽がいう。どちらかが死ねば世は安らぐ。によって余人をまじえず、一騎打ちによって勝負をつけようではないか、と項羽はいうのである。 「如何」 最後に、劉邦の返事をもとめている。劉邦はごくそっけなく、「私は、智恵でたたかいたい」とのみ返事を書き送った。項羽の申し出が素朴すぎるために、これ以外に返事の仕様もなかった。
 このようなやり取りが紀元前3世紀頃の中国大陸であったことも驚異的だが、そうした史実が残されていることにも愕然とする思いだ。

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