- 2016-09-25 (Sun) 12:10
- 総合
中国語を学習していて感心するのは、中国の人々はよくまあ漢字だけで微妙な意思疎通まで巧みにこなすのかということだ。我々日本人にはひらがな、カタカナがある。そんなこんなことを考えていて、ふと、確か高校の頃だったかに、漢文とかの授業があったのではなかったかと思い至った。田舎の実家に帰れば、昔は牛小屋だった倉庫に当時の教科書の類はしまってあるような気がするが・・・。
それで無性に漢文を読みたくなった。しかも格調高い名文の漢文を。書店で探すと、まさに打って付けの本があった。『漢詩鑑賞事典』(石川忠久編・講談社学術文庫)。2009年に刊行され、今春に第14冊が出されたばかりのようだ。「はしがき」に次のように書かれている。「漢詩は世界最高の詩歌である。人類の宝と言ってもよい。(中略)唐の初めに完成した詩は、雄大な流れとなり、李白、杜甫を始めとする詩人が雲の如く現れ、(中略)。わが国は、唐の最盛期に遣唐船を往来させてこの高級芸術に取り組んだ。(中略)この高級芸術に接した、わが国の貴族を始めとする知識人たちは、すっかり魅力に取り憑かれ、以後弛まず学んで江戸時代に至るや、(中略)。江戸から明治へと、漢詩はもはや外国の詩歌に非ず、和歌や俳句と並び日本の詩歌の一つとなったが、やがて西洋式学校教育制度の普及と、役に立たないものを切り捨てる富国強兵的思想の抬頭とによって、漢詩文の比重は次第に下がり続けて戦後に至る。戦後の漢字制限、漢文教育の軽視が“漢詩文”に潰滅的打撃を与えたことは周知の通りであろう」
還暦が過ぎた今、上記の文章を読むと、「目から鱗」の思いに至る。それでは漢詩の世界に足を踏み入れよう。隠逸詩人として名高い陶潜(陶淵明)(365-427)。陶潜という名にはピンとくるものはないが、陶淵明なら耳にしたことはある。彼の作品の中には「歳月不待人」(歳月は人を待たず)など、日本語でも「定着」している表現があった。『飲酒』と題した五言古詩の中に「采菊東籬下 悠然見南山」という一節が出てきた。作品の「補説」で、あの夏目漱石が『草枕』の中でこの漢詩を称賛していることが紹介されていた。
本棚から『草枕』を取り出す。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という書き出しの作品だ。冒頭に近いところに次のくだりがあった。「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。(中略)ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。(中略)うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。
英語の先生でもあった漱石の頭の中では漢詩は同じ「東洋」の世界の身近な文学だったことが分かる。私の夢はいつの日か、返り点など頼らずに、中国語ですらっと漢詩が読めるようになることだ。今はとてもそういう日がやって来るとは思えないが。
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