- 2015-11-15 (Sun) 11:51
- 総合
パリでまた痛ましいテロが起きた。パリ市民ら120人を超える人々が犠牲になった。負傷者の中にはかなりの数の重傷者が含まれているといい、死者数は今後もっと増えるかもしれない。残酷無益なテロというほかはない。前回の項で18世紀に書かれたジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』(Gulliver’s Travels)のことについて書いた。
あの荒唐無稽の物語で作中人物が作家の分身とも言える、旅人のガリバーに語る皮肉たっぷりの人類評を再び記しておきたい。人類は「自然の摂理でこの地球上をのたくり廻っている最も恐るべき、また最も忌わしい害虫の一種である」(the most pernicious race of little odious vermin that nature ever suffered to crawl upon the surface of the earth)————。
イスラム過激派の連中がキリスト教の欧米諸国をテロの標的にする時、彼らはその恨みを11-13世紀の十字軍(the Crusades)にまで遡る。宗教を「人質」にした愚行としか思えないが、彼らに非を悟らせる宗教指導者が現われる日は来ないのだろうか?
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韓国のドラマ。昨晩、また一つ最終話を見終えた。邦訳では「青い鳥の家」と題された全50話のドラマだった。私は途中から見始めたのだが、これも実に面白かった。もちろん、韓国語を学ぶために見ていたのだが、ドラマ自体が面白く、すっかりはまってしまった。なぜ、韓国のテレビドラマはこうも面白いのだろうか。日本のテレビは見る気もしないのに。
以下、韓国ドラマを見ていて気づいたことを少し。まず母親と祖母が実に元気いい。特に「オンマ」(엄마)と呼ばれる母親の存在感が圧倒的だ。「ハルモニ」(할머니)と呼ばれる祖母も今の日本では考えられほど溌剌としている。大家族だった頃の日本もかつては祖母がああだったようなおぼろげな記憶がある。
字幕があるから韓国語ドラマが楽しめるのだが、それで父親と成人した息子の会話などで例えば、息子が父親に向って語りかける場面があって、日本語字幕は「来たのか?」と出ている。しかし、韓国語は「왔어요?」(ワッソヨ?)であり、「来たのですか?」という丁寧な表現だ。「왔어?」だったら、「来たのか?」でも問題ない。私は独学中だから怪しい部分はあるが、最後の「요」(ヨ)があるかないかで大きな違いがあるようだ。この「요」がないと日本語でいう「ため口」になるらしい。友達同士だったら自然な会話だが、目上の人に使う表現ではないようだ。長幼の区別が厳しく、両親であってもきちんと丁寧な言葉を求められる韓国では息子といえども、父親や母親には普通「요」抜きの言葉は発しないのでは。
それで思い出すのは、日本のドラマだ。例えば、「渡鬼」ではえなりかずき扮する息子が近藤春奈、いや角野卓造扮する父親に向い、「おやじ、そうじゃないだろ。俺の好きなようにさせてくれよ」などと、かなりぞんざいなセリフを発していた。息子が父親に向い、「来たのか?」という字幕は現代日本ではそう違和感を覚えないが、韓国ではありえないでは、などと考え込んでしまう。私など亡き父親に向い「来たのか?」などとは口が裂けても言えなかった。地元の言葉でそれなりの敬意を払い、「来たとや?」と口にしていた。
韓国語ドラマの魅力————。出てくる女優さんが、脇役であれ、皆美人さんというか魅力的な人が多い。これも今の日本のテレビでは到底味わえない世界だ。チョアヨ!
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