- 2015-05-28 (Thu) 11:29
- 総合
このところ、古文の日本文学に凝っている。井原西鶴(1642-1693)の『好色一代男』を読み終えたばかり。「その生涯でたわむれし女三千七百四十二人、少人のもてあそび七百二十五人・・・」という物語が面白くないわけがない。
私はもちろん、作家名も作品名も日本人であるからには知ってはいたが、これまで特段の興味はなかった。それが最近、いささか読書欲をかきたてられた。一つには大学の授業で英語の歴史を教える役回りとなり、英語の成り立ちに関する本を幾冊か読んだことがあるかもしれない。チョーサー(Chaucer, 1340?-1400)やシェイクスピア(Shakespeare, 1564-1616)の作品を久しぶりに手にして、翻って古(いにしえ)の我が日本文学は、と思いを馳せていた。
ふと考えると、日本の古典文学はあまり読んでこなかった。中学や高校でさわりの部分くらいは読んだ(と誤解している)ことに起因しているのだろうか。改めて考えると、ほとんど語ることがないくらい「寂しい」いや「恥ずかしい」状況だ。少し前に樋口一葉の『たけくらべ』『にごりえ』を「初めて」読んで感銘を受けたことを書いたが、今度はさらに関心の先を平安や江戸の昔にさかのぼっている。
井原西鶴の『好色一代男』は江戸時代前期の1682年の刊行。「浮世草子」と呼ばれる遊里や庶民の暮らしを描いた町人文学の走りとなった作品だという。私が手にしたのは1984年に初版が出た作家吉行淳之介による翻訳の『好色一代男』(中公文庫)だ。時に西鶴の原文が紹介してあるが、なるほど、私には識者の訳文でないと到底読みこなせないかと思う。その点、芥川賞作家のこなれた現代語訳はすらすらと読み進めることができた。
読破した今、少しく思うことをここに記しておきたい。このブログは私にとって「美貌録」いや「備忘録」のようなものだ。
『好色一代男』の原文の冒頭に以下のような文章があるという。「浮世の事を外になして。色道ふたつに。寝ても覚ても。夢助と。かえ名よばれて」。翻訳文は「憂き世のことはもう結構と、寝ても覚めても女色男色そればかり、『夢介』と遊里で異名をとった男がいた」。
私はこの「色道ふたつ」が「女色男色」とは思いもしなかった。広辞苑をひくと、確かに「色道」とは「女色と衆道。いろごと」と記されている。なんだこの衆道(しゅどう)とは? さらに「衆道」をひく。すると「(若衆道の略)男色の道。かげま」などと説明されている。一事が万事。この文庫本を読み終えるまでに何度広辞苑をひいたことか。そして、当たり前のことであろうが、日本語に女色、男色にまつわる数多い語があることを思い知った。
『日本古典にみる性と愛』(新潮選書、1975年刊)で作家の中村真一郎は述べている。「戦国時代に渡来したキリシタンの宣教師たちを最も驚かせたのが、同性愛の社会的流布現象であった。そして、同性愛の家庭への侵入によって、必然的に夫婦関係がポリガミックになっている状態であった。この現象は江戸時代になると、男性の売笑施設が発達するまでに至った。こうした過去の驚くべき性習慣を、近代の私たちは忘れ、そしてホモやゲイを第二次大戦後に、アメリカから新たにコカ・コーラと共に移入された新風俗だと信じている」
さあ、次は同じく艶っぽさで名高い『伊勢物語』に挑戦だ!