- 2025-03-28 (Fri) 17:42
- 総合
私は木浦が大好きな町になった。正直に書くと、ちょっとうら寂しい感じがする町であり、韓国の他の都市、地区からは若干取り残されているような感覚も抱いたが、それでも機会があればまた再訪したいと思った。この町が日本とゆかりの深いことも何となく知ってはいたが、実際に町を歩いてみてそうした歴史的事実を改めて知らされた。不明を恥じ入るばかりである。
最も印象に残っているのは日本がこの国を植民地にしていた時代に領事館として使われていた建物が国家史跡として保存維持されており、「木浦近代歴史館」として内外の観光客に公開されていることだった。レトロな味わいの各部屋を歩き、そうした歴史の一端を学ぶことができるようになっていた。当時の朝鮮総督府が朝鮮の人々に日本式の名前を名乗るよう義務づけた創氏改名運動なども紹介されていた。日本人が大手を振って闊歩していたと思われる木浦の当時の街並みもパノラマで展示されていた。こうした施設を見学すると、いつも複雑な心境にならざるを得ない。どうして当時の日本人は彼我の間に差異を見いだそうとしたのか、そうした施策がやがて子孫を呪う禍根となると想像できなかったのか?
ところで、駅前にあるこの地の観光案内所の職員Mさんのガイドで上記の歴史館などを見学することができた。1時間以上も割いて丁寧に案内してもらった。こんな親切なスタッフがいる観光案内所は他のどこを探してもないのではないか。
思い出に残る木浦を出て釜山に戻った。明日土曜はいよいよ帰国の途につく。あっという間の二週間だったような気がする。思わぬ出会いの連続の二週間でもあったが、最後まで驚きが用意されていた。本日早朝、木浦を出てKTXで釜山に戻ったのだが、韓国語読みでオソンという駅で乗り換えることになっていた。どういう漢字で書くのかということは分からなかった。私は漠然と南西部の突端にある木浦から東南部の釜山に行くのだから、当然韓国南部を縫うように走るのだろうと勝手に想像していた。
私の観光案内書は何しろ2013年の刊行ということもあってか、地図がお粗末で鉄道路線図は載っていないに等しい。いくら地図を見つめても途中の経過駅が??だった。オソンは乗り換え駅だったので、下車して駅舎内の表示を見て初めて漢字では五松と書くのかということを知った。その五松駅から乗り込んだ電車では私には席はなく、車両と車両の間の通路に立たされた。私の他にも数人同じような乗客がいた。朝8時10分に木浦を発ち、午後零時16分に釜山着。私の脳内では明確な路線図が引けなかったので、釜山駅で観光案内所に行き、どういう路線で来たのか私の観光案内書の大まかな地図を見せながら尋ねた。女性の職員もよく分からないようだった。鉄道担当の職員の席に行き、尋ねてくれていた。戻ってきて宣わく、五松は韓国中部の要衝で、お客さんは木浦から一旦北上し、五松から南下して慶州を経て釜山に来られたようです。私も木浦からの釜山への鉄道路線のことは今日初めて知りました。勉強になりましたとお礼を言われた。
要するに、私は三角形の形で言えば、左辺と右辺を走って木浦から釜山に到着したようだ。最短距離は底辺なのだが、そこを走る路線はないということか。木浦が発展から取り残されている「理由」の一端が分かったような気がした。